鳥ヶ島の廃道 後編

公開日 2014.06.25
探索日 2013.04.01

ヨッキれん史上、 最小の廃道? 


これほど登ってきた。

しかしようやく島の中腹である。本来この島には無かっただろう平らな場所が、このすぐ上に設けられている。
それが、島の3分の1周ほどを取り囲む、石垣のある道である。遠目にはっきり見えた道へ、まもなく辿りつく。



島の地表にはこの高さに至るまで、一木一草も生えていない。そもそも、土が全くない事が原因である。
だが、石垣や道がある高さよりも上には、密生した灌木の森がある。道はそうした境界の高さに設けられている。

遂に、憧れの石垣に手をかける位置まで来た私だが、思いがけない発見に、早速驚きの声を上げることになった。

「うぉっ! ナニコレ?!」



石垣に刻み込まれた、膨大な数の文字。文字。文字!

その光景は異様なものであり、例えばピラミッドの壁画のような、異文化の宗教的光景を連想させた。

だが、そこに刻まれている文字の大半が日本語で解することが出来るものである事、そしてほとんどが人名である事に思い至り、一気に肩の力が抜けた。
率直に言って、少し萎えた。ガチの強行上陸、ガチの廃道探索の気分が削がれた(笑)。
でも、そんなのは私の一時の心の動きでしか無く、改めて考えればやはりこれは、この島の特異な歴史一部に違いないことに気付くのである。

確証が得られたわけではないが、これらの筆跡も筆致も異なる膨大な人名(の多く)を刻んだのは、島のワルガキなんかではなくて、島を訪れた観光客であったろうと思うのだ。
例えば、「S48ウエダ」の文字が見える。また「39.11.17」や「1967.8.10」などもある。いずれもタイムスタンプと思われ、それも昭和40年代に集中している。
昭和40年代の新島に何があったか。帰宅後に「新島村史」を調べたところ、昭和42年 観光ブームで民宿が大当たり。来島者は七〜八月で三万5〇〇〇人を超す という記述を見つけた。僅か二ヶ月で島民の何倍もの人が島を練り歩いたことになる。そして、その多くが海を目指したはず。

なお、文字が刻まれているのは全て抗火石の石垣で、それ以外の石垣(奥の谷積みの石垣など)は岩質が異なるらしく全く見られなかった。

“TAKE”が、今にもおっこちゃいそう!!



数え切れない過去の上陸者たちの名前を脇目に、最後の階段に足をかける。

この上はいよいよ、道であろう。

さあ、着いたぞ。



8:14

案外、広かった。

海辺から唯一の階段で登り着いた場所には、明らかに建物の痕跡があった。
10m×20mほどの広がりのコンクリートの基礎があり、その一部はまだ建っていた。
しかしその部分には入口も窓もなく、上側は確認していないが、水タンクのようなものと推測された。

まだ何ともいえないが、この雰囲気はどうも観光用の何かってわけじゃ無さそう。
巨大な石垣や、その突端に見えていた“謎の柱”の存在と合わせても、この島にはもっと長い歴史がありそうだ。

とりあえず、道はこの建物跡の両側に続いている。
奥が“謎の柱”のある方なので、そっちを後回しに、まずは手前方向を詰めてみよう。





はい、こっちは終わり。

あまりにも呆気ないが、とにかく狭い島なので仕方がない。
道が続いていたと言うよりは、建物の跡があったのと同じ敷地の延長だったと言うべきか。
数十歩歩いたところで海側の路肩が跡絶え、その先には道と呼べるものは無かった。

しかし、この突端からの眺めはなかなか面白かったので、続いてご覧頂こう。




作られた廃墟、乙。

望遠で覗いているので分かりづらいが、見えているのはこの島にあるものではない。
そして、このローマ神殿風廃墟は明らかに観光用のモニュメントである。
そうと分かっていても、草木のない白い岩山に飄々と佇む姿は美しく、胸に迫るものがあった。
思えば完全に島の策略に嵌っている感もあるが、基本的には何も問題も無い。

それはいいが、私の島滞在のタイムリミットが、目に見える形で迫っていた。
こんな体験は初めて。新鮮で面白いが、早くこの島の謎を解き明かして港へ向かう必要がある。



建物跡に戻って来た。今度は奥へ進んでみよう。
おそらくこっちが廃道としてのメインだ。 わくわく。



キター!!!

うおぉおおお!! マジで道路だし!

これには興奮。

こんな一周500mもないような無人の小島に、これほどダイナミックな道路が作られていようとは、いったい誰が予想できただろうか。

数キロ離れた場所からもはっきり見えていた島の石垣の上には、こんな本格的な幅員を有する道路が、存在していたのである!!

ただ、当然のことながらこの道路は長くない。つうか、とても短い。
それと、実は一本ではなかった。
道は建物跡から離れるにつれて、その中央に有意な落差を設け始め、やがて(といっても数メートルである)上下2段の道に転じたのである。



これは道が完全に2段になった後に、上段から下段を見ている。

陸の色が全て同じなので距離感が掴みづらいが、段差は2m程度でさほどのものではない。
そして、それぞれの道幅は2m程度であり、規格としては車馬の通行も可能だが、現実的にはこの道に車輪の付いた乗り物が行き来したことはないと思われる。
車道としては、あまりにも短く、そして隔絶され過ぎている。

なお、下段の道の眺めは、こんな感じ

それにしても海が美しい。
この美しい海で何が行われていたのか。
謎の答えに迫るのが、とても楽しみである。




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8:16

道の終点に到着!!

これ以上どこかへ通じている事を疑う余地は無さそうだ。

なにせ、もうこの先には陸がないのだから。

ちなみに、上陸してから3分が経過していた。いろいろ撮影しながら来ても、たった3分である。
盛りだくさんではあるが、それでも極めて小さな島であることに違いはなく、孤立した廃道としては日本有数の短さであろう。

上下2段の道は、いずれもここが終点で、正面の海の向こうには、重なり合うふたつの島影が見えた。
そして、突端に三角形の標識らしきものが立っている。これだけは島にある他のものよりも新しそうな感じ。正体にも心当たりがあった。これは航路標識で、白色三角標識板というような名前だったかと思う。
指し示す意味は、標識の面前に海底ケーブルのようなものが埋設されているから投錨するなだったかな。

記憶を少し手繰る。
これと同じ三角形を、少し前にも見ているぞ。 そうだ、ここにも見えていた。

うん、分かったぽい。

この島は――。




上段の道の終点から、崩れた部分を伝ってすぐ下にある、下段の道の終点へ。

最後まで上下段の道は綺麗に並走していて、同じ地点で終わっていた。

まるでこの終点部分だけ、爆撃でも受けたかのように壊れていたが、原因は不明である。
海面からは15mくらいもあって、さすがに波濤の影響とは…。一番可能性が高いのは、地震?
でも、それにしてはなんか水が関与したような壊れ方だし…。本当に爆撃?
もしもこれが波の影響だとしたら、新島の海は怖すぎる…。果たして。




で、これこれ。

これを忘れるわけにはいかない。

石垣道の終着点に待ち受けていた、コンクリートの“謎柱”。

遠目に見た時から小さなものでないとは分かっていたが、近付いてみると、その海上への突出ぶりに、

…変な気持ちになった。

(え? おいおい。 いいよ、 そんなことしたって何にもならないだろ?)



だから〜…。


でも、あるんだよな。そういうことって。

この突端に立ってみたいと、この時は心底思った。

無論、実現の可能性が十分あると思ったからでもあって。




しかし高いぞ。

風に煽られて落ちたりしたら、海まで落ちても落ちなくても、ただでは済まなさそうだぞ。



そうそう… そこを通って。

最後は…




ここを慎重に伝えば……。




あと、もう少し………。



完全なる自己満足の世界、ここに極まれり。笑

しかし、まあ一応は探索上の意味もないわけではなくて、この柱の正体に迫る発見が期待されたわけであるが、

…ぶっちゃけよく分からない。

島の突端に建つ高さ15mほどの塔の頂上は、80cm四方程度の平らな台になっていて、その中央にさらに木製の柱が立っていた形跡がある。
木性の柱には補強のためなのか、金属製の環状のものが付属していたようであるが、いずれも風化が激しく原形を完全に失っていた。
この具体的な形状から一連の構造物の正体に辿りつくことは、出来なかった。

ただ、先ほど言いかけてスルーしたが、この島やその沿海が海底ケーブルに埋設地であることは断言して良く、それはおそらく新島→鳥ヶ島→式根島と通じるものであろう事が、これらの島の位置関係からも十分に推測しうるのであった。






この柱の上は、怖いところです。




でも間近に、それでいていくらか客観的に、鳥ヶ島の廃道を眺める事が出来る唯一の場所でもあった。

この石垣には、作り出した人の本気が感じられる。
技術もさることながら、相当に力の入った意義のある事業であったことが窺える。
コンクリートの柱と、これらの石垣、道、そして先ほどの建物跡などは、一連の同じ時代のものと感じられた。

しかし、それらが三角形の標識で存在が明示された海底ケーブルの類と関係するようには、思えなかった。




近く新島の石山と、


遠く式根島を望見す、

そんな小さな小さな鳥ヶ島。

この島の過去を、私は知りたい。



帰り道の…
おまけ動画1
おまけ動画2





鳥ヶ島の廃道、いかがだっただろうか?

こんな小さな島には不釣り合いなほど立派な石垣や道がとかく印象的だったが、無論これだけ特徴的な光景があるからには、納得の行く理由があるはずだ。
それが、ほとんど例外のない土木の世界の掟である(大勢が命をかけるものに、無意味なものはないという)。

その解明に取りかかる前に、今回目にした鳥ヶ島の廃道や、関連すると思われる遺構の位置関係を整理しておこう。
左図の通りで、鳥ヶ島の東から南にかけて、海抜15mほどの高度に道が存在する。
部分的に上下2段になってはいるが、別々の場所へ通じているワケではないので、まあ一つの道と考えて良いだろうと思う。
(この構造の理由は解明できていない)




そして肝心の鳥ヶ島の廃墟・廃道の正体であるが、当サイトではお馴染み「新島村史」にその答えを求めることにした。

昭和五一(中略) 新島から式根島へ海底送水が始まる。(一日八○○t送水)「新島村史」年表より

昭和六一年八月からは、新島から式根島への全日送電が開始されている。「新島村史」p699より

残念ながら詳細な敷設場所までは書かれていないが、新島から式根島へ向けて、水道と電気の両方が海底ケーブルにより融通されていることは確かである。
位置的に見ても鳥ヶ島は式根島との距離が近く、かつ新島の中心部である本村と式根島を結ぶ直線上に位置しているので、このあたりにケーブルが存在するのは間違いないだろう。


だが、これが廃墟・廃道の正体であるとは思えなかった。
鳥ヶ島には、別の用途があったはず。 さらに村史をつぶさに調べていくと、遂に「鳥ヶ島」という地名を含む重要な記述に行き当たった。
現場では明かすことが出来なかった、謎の答えが。



石 積 場
 中河原海岸の一部をコーガ石の石積場として利用したことがある。その年代は向山のコーガ石の採掘が企業化され、採石場から海岸まで、運搬設備が造られた大正五年から昭和六年まで利用していた。
 昭和七年からは向山山上から鳥ヶ島までケーブルが引かれ輸送施設が整備され、それまでのトロ運搬は漸々に利用されなくなって行った。
 戦後は港湾施設が整備され、中河原海岸での石積場機能は廃止され、港への中継石置場に変更されたのである。(以下略) 「新島村史」p1120より

これだ!!

間違い。あのコンクリート製の柱のてっぺんには、循環する主索を切り返すための滑車が設置されていたのではないだろうか。
図らずして、私が鳥ヶ島を見初めたあの場所(採石場跡)こそが、鳥ヶ島を今の形へと作り替えた原因であったとは!!
偶然の妙に震えた。



村史にはこれ以上、鳥ヶ島と、そこを終点にしていた索道についての記述は無い。
そこで更に裏付けを得るべく、昭和27年版の地形図を調べてみると、ばっちり索道が描かれていた!

当時の地形図の図式で使われている用語に倣えば、「架空索道」という記号である。
それが向山(石山とも)と呼ばれる辺りから、間々下浦(中河原海岸ともいうようだ)の方へ張られており、終点が鳥ヶ島となっている。(島には独立針葉樹の記号が見られる。今はそんなに目立つ針葉樹は生えていない)

先ほどの村史の記述 「戦後は港湾施設が整備され、中河原海岸での石積場機能は廃止され、港への中継石置場に変更された」 の通り、この当時は中河原海岸にて索道より降ろされた抗火石は、現在の新島港がある場所に新設されたばかりの埠頭から積み出されていたのだろう。戦前は中河原海岸から直接船積みしていたらしいが、いずれにしても索道がこの役目を担っていたのである。

なお、この地形図には石山の採石場を一周する、まるでお伽列車のような「特殊鉄道」の記号も見られる。
これが採石場内外で使われていた手押しのトロで、索道が整備される以前は、インクラインとトロの2段構えで中河原海岸へ降ろされていたという。今回、その遺構は捜索していない。(ただ、石山内部は相当地形が変わっていて、軌道の痕跡は無かった)



残念ながら、私の調べは今のところここまでである。
鳥ヶ島にあった索道施設はおろか、この石材運搬索道の写真自体見つける事が出来ていない。

【追記】 写真は見つかりました!! 撮影時期は不明ですが。 →【東北芸術工科大学東北文化研究センターアーカイブス】

廃止の時期も定かではないし、中河原海岸の石積場の跡の現状や、索道、トロ道などの遺構が他に存在するのかどうかについても、まだ現地踏査をしていない。
だが、鳥ヶ島に興味を惹かれなければ、まるごとこれらの事象を見過ごしていた可能性が大である。

石山〜鳥ヶ島間の索道は、地図上の計測でも直線延長1000mを下ることはなく、高低差200mを行き交うさまは、かなり壮観なものであったはず。
そうでなくとも新島にとって抗火石採石は長らく基幹産業であったのであり、記録はまだまだ豊富に存在するはずである。
今後、また新島に行く事もあるだろうから、引き続き調査をしたいと思う。