国道の勾配は三十分一の既定なれども、是亦(これまた)実際の道路は急勾配のもの多数にして、殆んど既定に合するもの無しと称するも過言に非ざるなり。此の処に最も急勾配を有するものを記すれば、横浜より横須賀鎮守府に至る路線には二分一、又横浜より箱根に至る路線、小田原町より長尾峠に至る路線、松山より八幡浜に至る路線には共に三分一(略)処あり。
「明治工業史 土木編」より
私にとっての「明治国道」といえば、『清水国道(明治国道8号)』や『万世大路(明治国道39号)』などに代表されるような、たおやかな山道のイメージが強い。
皆様の多くもそうだろうと思う。
それは、我々のような一部のオブローダーが意識誘導を行ってきた成果ではもちろんなくて、前掲した『明治工業史 土木編』にもあるとおり、「国道の勾配は1/30の既定」だったのであるから、むしろ現在は廃道となって見る影もない「万世大路」や「清水国道」こそが“真っ当な明治国道”だったといえるのだ。
しかしこの規定は、道路に関しては総じて緊縮政策を取りつづけた明治政府の元では実情に即しがたかったと見え、同書は続けて「殆ど規定に合するもの無し」と嘆いている。そして、その最も規定から遠い急勾配を持つ国道として、「横浜より横須賀鎮守府に至る路線」(明治国道45号)を挙げているのである。
明治の道路を、廃道の一ジャンルとして高く評価している私にとって、これはぜひとも確かめたい「灯台もと暗し」の物件であったわけで、さっそく現地へ行ってみたらば…。
階段じゃねーか!
そこにあったのは、見事な階段であった。
これを見た私の気持ちは、ちょっと複雑だった。
今回は、そう言うところから始まる。
2009/1/3 12:16 《現在地》
すごく…階段です…。
階段国道だ!
そうやって煽るのは簡単だ。
なにせ、こんにち「階段国道」といえば、大変有名な観光名所にもなった物件がある。
そして、いまここにも、紛れない「元・階段国道」が現れたのだ。
だが率直に言って、私的にはあまりこれは興奮しなかった。
それは、「1/2勾配」を素直に期待していたからだ。
なにか、「新しい道路風景」があるのではないかと。
そりゃ、まともな自動車道ではないにしても、もう少し車道っぽいものを、…期待してしまった。
だがもし階段を許すならば、そりゃもう1/2勾配(≒26.6°)はさしたる急勾配とは言えないだろう…。
たとえば、20年くらい前の道路台帳なんかを見ると、ある「自動車通行不能区間」だった国道(もう解消された)には、80%(≒39°)なんていう勾配を記しているものがある。
もちろんそんなところに車道があったわけは無いのだが、ともかく道路勾配としての100%(=45°)だってありうると思うのだ。
まあ、そうは言っても、この探索(レポートも)が無価値とは言えないはずだ。
この道が大正の頃まで厳然たる国道(しかも今日の国道16号の前身だ)だったことは確かであり、それがいまどんな姿に変わっているかというレポは有意義だ。
そう信じて、先へいくことにする。
気持ちが前向きになったところでもう一つだけ付け加えると、当初は「1/2勾配」という言葉のインパクトに打ち負けて疑問を感じることはなかったが、こうして眼前にそれか、それに近い勾配を迎えると、むしろこれが当時の国道中で最も急な勾配だったというのも、意外といえば意外な感じはしないだろうか。
よく江戸時代の風土記や道中記には、「胸突き八丁」などといってその急勾配をアピールしている箇所が、それこそ全国津々浦々にあった。
明治国道にも、それこそ這って登るような道があってもなんら不思議はないと思うし、当初そう言う道は絶対にあったはずだが、「工業史」が誤りでない限り、大正までにはそういう箇所が全国から一掃されていたようなのだ。
つまり、30分の1(≒1.9%)などという、日本の風土においては非現実的とも言えるような緩勾配への準拠は難しかったが、それでも“階段にする必要はない”くらいの状況まで全国の国道とされる道が整備されていたというおは、むしろ意外なことであった。
もっとも、明治国道というのは最終段階においても全国でたかだか51路線しかないくらいであって、「清水国道」や「万世大路」のように、脊梁の嶮しい山間部へと入り込むようなものは比較的少なかったのも、事実であるのだが…。
…ということで、もうこの探索における主だった「考察」は、すでに語り尽くしてしまった。
あとは気の抜けたミリンダよろしく低刺激のレポートになろうかと思うが、探索者自身のテンションを反映するものでもあるから、なにとぞお許し頂きたい。
左の写真は、この階段の登り口にある大正10年の道標石である。
前回紹介した現国道との分岐地点にあったものと同サイズで、書いてある内容も目的地「安針塚」への距離が異なるだけで、あとは一緒である。
ただ、前の道標にはなかった特徴として、一面には指さしのイラストとともに、英字がしたためられている。
WILLIAM ADAMS TOMB 1/3M
つまりは、ウィリアムアダムス(日本名:三浦安針)の墓まで0.33マイル(約530m)というのである。
今でこそ、国際的な観光地において外人向けの案内板も珍しくはないが、大正時代のそれは珍品だ。
浦賀や横浜といった当時一級の国際色をもった土地に隣接した横須賀ならではの、貴重な遺物である。
それにしても、ついさっき道すがら海軍の要塞地域を示す標柱を見たばかりだが、よくぞ戦時中に「敵性語うんぬん」と削り取られてしまわなかったものである。(海軍は陸軍ほど英語を排斥しなかったとも言われているが、その関係もあるのかも)
さてこの階段。
(←)初めのうちは、確かに階段にするよりないくらい急であったのだが…
登りはじめて100mほどで(→)
緩やかになってきた。
このくらいなら、稀に車道でも見る気がする。
しかし、執拗に小さな段差が挟まれているゆえ、チャリを押し続ける必要がある。
そして、後背の風景は一挙に谷間を脱する。
写真は振り返って撮影。
左がいま取り付いている峰で、右が“逸見の谷戸”だ。
向こうに見える尾根との背比べには、そろそろ勝ろうという感じだ。
直前に行き違ったご老人と散歩犬の後姿が写っている。
この階段道で出会った、ただ一人と一匹だった。
普段の山村探索であれば、声を掛けないことはまずあり得ぬ接近であったが、都会だと急に人見知りをするのは、私の良くないところである。
更に登っていくと階段という段差は途絶え、一軒の門戸を過ぎる。
傍らには、シートを掛けられたスクーター。
すなわち、これより先は、“車道”である。
個人的には、楽しさをより感じられる期待が高まった気がした。
車道になりはしたが、四輪の自動車が通ることはないだろう。
というか、もし入ってきてしまうと、かなり大変なことになる。
途中にまったく広くなっている場所がないから、いざ階段に行き当たっても、転回が不可能なのだ。
こんなところ(←)を、オールバックで戻ることになる。
だから車両交通といっても、坂道の途中に住まう少数人のバイクと自転車だけと言って良いだろう。
やや掘り割りになった道は、かつて勾配を緩和しようとした名残であろうか。
階段はなくなっても、相当に急な坂道が続いているが、その途中に横から幅の広い石段がぶつかってきた。
地図にはない分岐であり、突如現れた立派な石段の行き先に、俄然興味を感じた。
チャリを側溝の中へ駐め、ちょっと寄り道してみる。
この石段、全部でこれだけしかない(←)。
でも、何だか実際に登ってみると、随分とうらぶれている。
廃墟にありそうな階段なのだ。
草が茂っているわけでもないから、一応は管理されているのだと思うが…。
そんな怪しい階段の行き着く先は、30m四方くらいのやや広い平地になっていた。
おそらく堂宇があろうという思惑は外れ、平場の中央あたりにぽつねんと傾いた碑(いしぶみ)が立っていた。
モルタルを化粧張りにしたらしいそれは傷みが激しく、信心を惹起するにはいささか安っぽい気がした。
表面の文字は…
ミリンダ細田氏は、神仏の加護を乞うとき必ず次のように念じるという。
「なにもかも、すべてがうまくいきますように。」
こんな現金な、願い事の検索さえも神仏に任せようというような不届きが宿願するかは疑わしいが、彼の願いに通じるものをこの碑に感じてしまったのは、私の不信心ゆえだろう。ちょっとググってみても、この「七難即滅 七福即生」というのは、由緒ある願いのようだから。
この周辺は、坂道の中でもっとも景色の良いところであった。
谷戸を見下ろし、海を望む高丘には、蕾(つぼみ)の梅がたくさん植わっていた。
首都圏といわれている中にも、こういう眺めが時折隠れていて、そのたび救われる。
階段にさしかかってから、のんびりあるいて7〜8分。
前方に尾根道の迎えを受けた。
この階段を含む一連の登り坂は、長さ250mほどで、高低差は50mくらいあった。
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12:25 《現在地》
こんな丁字路に行き当たった。
私は左から来たのだが、明治国道はここから正面の道へと続いていたようである。
手前から奥への道も相当に狭いが、一応は自動車も通る道で、地図を見る限りは横須賀駅の辺りへ尾根伝いに下って行けそうである。
また、この写真では窺い知れないのだが、右の高い柵に囲まれたところは、「本町中山有料道路」の「塚山トンネル」南口の直上である。
手前の道へ少し入ると、眼下に同有料道路の料金所が見下ろされる。【写真】
それだけじゃなく、ちょっとだけ路肩の茂みに登ると、東京湾がかなり広々と見渡された。
しかも、蜃気楼か何かのように海上を横切るのは、東京湾アクアラインである。
こういうふうにアクアラインを陸上から眺められる場所があるのは知らなかったので、かなり嬉しかった。
先へ行く前に、この尾根の通りから階段区間への入口が、どんなふうに案内されているかをチェックしておこう。
目に付いたのは、一枚の立て札だ。
(道の反対側にも立て札が写っているが、これは歩行者向けの道しるべで、階段区間を指していた。)
車輌の通り抜けは出来ません
至ってまっとうな表示であるが、嫌に目立たない。
もし四輪の車でこれを見過ごして立ち入ると、前述したとおり、大変なのに…。
さて、尾根道だ。
勾配はだいぶ落ち着いたが、依然として登り坂が続いている。
そして、道もご覧のとおり狭い。
しかし、公園に来る人なのか、或いはこの先にも民家があるものなのか、さっそく一台の乗用車とすれ違った。
自転車でもすれ違いには気を使うほどだから、そのことに注意を促す、横須賀市特注と思しき珍しい標識が掲げてあった。
この先
安針塚 塚山公園
公園内は道路が狭く
無余地です
公園内は
全域駐車禁止
「無余地」とかって、自動車教習所で“無余地駐車の禁止”とか習ったような気がするが、普段あまり聞く言葉ではない。
さらに直感的で分かり易い標識が、すぐ隣にもう一枚!
これは…
怖い。
少年の顔が、全ての不具合を物語っている感じがする。
こんな標識に、掘り割りの中の狭過ぎる道をリアルに描く暇があるなら、この掘り割りをもう少し拡げてみてはどうかなどと思ってしまうが、思うようにはならないのだろう。
ここは、これでも大都会の一隅なのだ。
土地は、きっと私の知る田舎のどこよりも入手しがたいはず。
そして間もなく、道は塚山公園の敷地内へ入ったらしい。
さっそく駐車場が左に現れたのだが、そこはどういう訳か封鎖されていた。
大して広い駐車場ではないのだが、この場所の他には、附近にまったく車を停める場所はないのである。
どうやら、塚山公園は車では来てはいけない公園であるらしい。
それにしても、この絵もなんかシュールだ。
左の駐車場への道は人並みに広いくせに、明治のそのままかと思われるような本道は、軽トラサイズといっても良いくらいだ。
たしかに、人と車さえ満足にすれ違えない。
まるで庭園路同然のこの道が、明治時代には国道45号として、全国道路網の頂点の一角を占めていたのである。
「横浜より横須賀鎮守府に至る路線」といえば、こんな道を想像する人は今日まずいないだろう。
なぜこの道が国道に指定されたのか。
他にもっとマシな道がなかったのかと思うのは必然だが、なかったというのが、偽らざる答えだったようだ。
そもそも、横浜と横須賀の間には、明治22年という全国でも相当に早い時期に、軍部の強い要請によって国鉄横須賀線が開業しているのだ。
この辺りの事情が、敢えて国道の整備の急がれなかった理由であったろうと思う。
そして、十三峠と呼ばれた稜線へ上り詰める直前に、安針塚がある。
明治国道はここを左だが、安針塚へは直進の階段か、右のスロープ道を行くことになる。
今回の探索まで、まったく三浦安針もウィリアムアダムスも知らなかったが、折角来たし、立ち寄ってみた。
「観光地のアプローチ道路だけ」ではなく、観光物件自体にも触れた、私にとってはむしろ珍しい事例である。
(←)これが、近世から戦前の頃までは、横須賀の代表的な名所として東西に名の知れた、安針塚である。
現在も立派な国指定の史跡である。
案内看板の説明文を、以下に一部抜粋して転記するが、個人的な感想としてはしぶい。渋すぎる。
こういう「○○郡誌」とかに載っていそうな観光地が、私は大好きである。
三浦安針は、本名ウイリアム・アダムスという英国人で、オランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内人でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、慶長5年(1600)に安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。
安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長10年(1605)には三浦郡逸見村に250石を与えられました。(中略)
安針は元和6年(1620)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。(後略)
横須賀市教育委員会