明智隧道 前編

所在地 栃木県日光市細尾町
探索日 2008. 5.11
公開日 2008. 8.19

隔離廃道

 奥の手


2008/5/11 13:38

国道120号「第2いろは坂」の明智平〜中禅寺湖間にある旧道の探索は、壁にぶち当たった。
出入り口を完璧に塞ぐ、文字通りの壁に。

そこで、私は壁の裏側へ直接乗り込むことにした。

そのためのルートを見出すべく、現国道の明智第二トンネルを戻った。
相変わらず濃霧は晴れない。




戻ってきたのはここ。

前回その封鎖を確かめた、「明智トンネル」の東口である。

ここが、私と「閉ざされた廃道」との、物理的な最接近ポイントである。
当然ここからアプローチするのが得策だと考えたのだ。




周辺地形はこのようになっている。
先ほどの白雲トンネルは長さが400m近くあるので、これを乗り越えることは難しいだろう。しかも、華厳渓谷に落ち込む絶壁が想定されるとなればなおさらだ。
明智トンネルの場合は230mほどで、しかも尾根の鞍部を越えているので進むべきルートが明瞭だという期待があった。
なお、300mほど戻れば明智平の展望用ロープウェイを利用することも出来たが、大人片道390円という料金が鼻についた。
単純に遠回りでもあるしね。



再びこの場所へ。

もちろん、チャリを路肩に隠してくることも忘れなかった。

「ねぇママ。 なんであのお兄さん、道ばたのカベを登っているの?」などと車窓の坊やに疑念を抱かせたりして、前途ある若人に早すぎるオブローディング属性を植え付けるリスクは低い方が望ましく、この悪天候は好都合だったと思われる。





13:42

上の写真の位置から、さらにもう2m坑門をよじ登り(ジタバタしている私は、余り見られたくな姿だったろう)、初めて尾根越えへの挑戦権を得る。

見上げた斜面は、地形図に描かれた等高線の密度に対して非常に忠実だった。
さすがは「地形図」だ。
道は不正確でも、地形の表現に間違いはない…

って、そんなことに感心するほど、斜面はキツキツだった。

ちょっと、ロープウェイに心が動いた。


…。


心拍数が余り大きくならないように注意しつつ、数メートル置きに休みながら登った。
尾根までの高低差は、ちょうど50mである。
笹が隙間無く地面を埋める斜面は、最初が一番きつく、尾根に近づくにつれ徐々に緩やかになっていく。
濡れた笹は滑るかとも思ったが、幸いそれほどでもなかった。
むしろ、常に頑丈な手掛かりが得られて、時間さえかければどこでも登っていける感じがあった。




もっとも、私の足は既にヘロヘロである。


それに、この行程は往復を強いられるだろうという予感が、心に重かった。

それが当然の事であるかのように、この上りには何者の足跡も無かった。




13:51

登りはじめて約10分。

馬の鞍を絵に描いたような鞍部に辿り着いた。
海抜は1360m。
この旅での最高到達高度であった。

尾根には、地形図にも描かれている登山道が通っていた。
何とも寂しげな、細い細い路が。

しかも、この道と私の関わりは薄い。

たったの一歩で横断して終わった。




勾配は下りに転じる。

この下り。
右の方に行きすぎなければ、どこを下っても旧道の法面に出会えるだろう。
しかし、出来れば最も無駄の少ない、明智トンネルの西口へ直接下りたい。
視界の極めて不自由ななか、私は下り始めにのみ慎重さを持った。

尾根上には、今朝方降ったという雪が、花びらのように残っていた。
2008年最後に触れた雪だったと思う。




北側斜面には、さっきまであんなに密生していた笹が無かった。
落ち葉に隠された地面には、岩が転がっている。
下の見えない下降の場面。
背徳の心境にもどこか似た焦燥感が、常に私を脅かした。

高低差50mがリミット。
万が一下りすぎれば、華厳渓谷を底とする300mの絶壁地帯へ迷い込むことになる。
僅かな距離だが、視界が最悪という条件に、思わずGPSを欲する弱気が出た。





 道路管理者のウラをかけ!


出た!

 どんぴしゃだ!

眼下に最初に見えてきた人工物は、赤茶けた雪崩防止柵だった。
そして、直後にはその向こう側に、トンネルの上部が見え始めたのだ。
ズバリ坑門の真上に接近していた。




坑口の上部へ降り立つ。

地面の下には明智トンネルが眠っているのだ。
果たして開口してくれているだろうか。
それが気がかりだったが、私には何となく「上回った」という自信があった。



つまり、道路管理者の発想の上を行く探索行為を行えば、自ずと「発見」という結果は着いてくるのだという…

それは、オブローダーとしての経験則だった。


道無き斜面をのり越えて、まったく独創的にここへ辿り着いた来た私に与えられるべき「褒美」は…

このカベを回り込めば、そこに…





さ あ!





・・・。

・・・う。

そんなバカなー!!








14:01


よもや。

よもやこんな事態になっているとは、想像しなかった。


二つの塞がれた隧道に閉じこめられた廃道というシチュエーションの体験数はごく少ないが、隧道の片方を廃橋に置き換えれば、よくあるパターンだ。
そして、そんなときに得てして道路管理者は手間を惜しむ。
すなわち、人通りに面した側だけを塞ぎ、それでヨシとすることが多い。

それなのに…。

これは、「日光恐るべし」と言うべきなのか…。


どうやら私の負けだな…。 明智君。



私が恐る恐る下ってきたのは、塞がれた坑門の上に連なるこの急斜面だ。戻らねばならぬのもこの斜面…。

それにしても、上手い具合に坑門へとピンポイントに下って来れたことは、本当に幸いだった。

もし、ここ以外のどこか法面に突き当たったとしたら、尾根まで引き返す羽目になっていたかも知れない。
この高いコンクリート吹きつけのカベは、長く続いていた。





隧道は非常に残念な結果に終わったが、

いま私の前には、新たにひらかれた道がある。


気を取り直して行ってみよう。

この隔離された廃道を。





 隔離廃道 


14:02 【現在地点】

呼吸の止まった道が、白い世界へ延びていた。

亡者のようなシルエットは、植えられた木立。


こんな場所でさえ、廃道化に伴う緑化工事の例外ではなかったのだ。

いつになく手が込んでいる…。




だが、さすがに緑化がどのように進んでいるかの調査までは手が回っていないのかも知れない。
或いは、知っていても放置されているのか。

ここがどのように過酷な自然環境であるのか、それは想像の域を出ないが、植えられた木々の5割は既に枯れ果て、2割はこのように痩せ細っていた。

人は結構自然を大切にするが、このような場所に植えるという見殺しは、全く平気で行うらしい。

…皮肉っぽくてごめん。 でも、この景色を見ていい気分の人はいないだろう。
廃道なら廃道らしく、シャン(シュン?)としていて欲しいものだ。




100mほど歩いただろうか。

こんな状況だからいつもよりも距離感覚が悪いが、ともかくひとしきり歩くと、目の前に大きな橋の跡が現れた。

ただ橋台が残されているのみだ。

親柱も、ガードレールも、ただ一枚の標識も、デリニエータの一本さえも落ちていない。

道の名残は、その土台だけだった。




失われた橋に一喜一憂することはなかった。

というのも、橋で道が途絶える直前。
向かって左の山際に続く、さらに古い道の跡と思われる道床を見つけたのだ。






どこまでも手落ちは無かった。

完璧であった。

旧道の旧道という、本来ならば険しくも美味しい筈の場面にも、ただ“二丁目公園”が続いていた。
細長く、淡々と。

とはいっても、旧旧道の存在自体は、嬉しい発見であった。
その旧旧道が意外に広く、2車線をギリギリ確保しうる程度の幅であったことも、意外だった。




主を失い、風化するには長すぎる時を、ただ立ち尽くす橋台。
哀れで、虚しい。


白い谷からは、微かに風が上がってきていた。
その空気の流れには、遠い渓声の一欠片が乗っていた。

もしいま晴れていたならば、どんな眺めを得たであろう。
華厳渓谷を見晴らし、白雲の瀑布や鵲橋を俯瞰する事が出来たのだろうか。

私にとっては無価値に等しいこの廃道(廃道というよりも道路跡地である)にも、晴れてさえいれば幾ばくかの感動があったかも知れないのに… 無念である。




亡霊の二丁目公園は続く。

霧の粒子が目に見える。
その流れが、ときおり襤褸のように怪しく乱れるのが、不思議であった。

いたって淡泊に進行する、道路跡地歩き。




 ん?


また雪か?




これは、ヤシオツヅジ…か。

少し心が和む。








 あーあ…。





 ダメだった。

結局、最後に現れた「白雲トンネル」の東口も、全く完璧に塞がれ尽くしていた。

一応抜け目なく裏側(坑門の裏側)なんかもチェックしたが、開口部は無し。

果たして、壁の向こうには400m近い闇があるのか、それとも内部まで完全に充填されているのか、それは分からないが、ともかく1994年まで国道120号として使われていた「奥日光の表玄関」は、数億人の記憶の中にある過去を偲ぶことさえ難しい状況になってしまっていた。

これほどまで完璧な廃道の処置が行われているのは、この場所が国定公園内でも最も保護レベルの高い、「特別保護地域」内か、その近傍であるためだと思われる。
ここは日光国立公園の内部であり、しかも、500mも離れていない華厳滝が特別保護地域に指定されているのだ。




オブローダーにとって、メジャーな観光地や国立公園は、鬼門なのかもれない…。



 撤退だ。




来た道を戻っていると、霧の向こうに何か動く影が…。

さっきは影も形もなかったサルがいた。
しかも、一匹ではなく群である。少なくとも10頭くらいはいた。
私は、全く気付かぬうちに、すっかり囲まれていた。

彼らは人慣れしているらしく、逃げる素振りは全然見せない。


どうだね。
廃道は居心地いいかね。 明智君。





14:35

現道へ戻った。

山越往復はズッシリと足に堪えた。
成果が思うようなものでなかっただけに、なおさらだった。
当初の計画は完遂したが、気持ちの中にモヤモヤが残ってしまった。

(⇒この気持ちのまま、「鵲橋のレポート」へ続く)





 実は戦前からあった、2本のトンネル


いささか“底の浅い”探索になってしまった反省から、レポートを書く段になってそれを補強すべく、少しばかりこの道の歴史を調べてみた。
すると、思いのほか深いものがあった。

まず、今回の2本のトンネルを含む約1kmの旧道が、どうして廃止されたのかという点だ。
現道と旧道を比較した場合の距離の短縮は本当に僅かで、時間にして車ならば1分も違わないだろう。
また、旧道のトンネルは車のすれ違いも苦しいほどに狭いとか、そんなこともどうやら無さそうであった。





広報にっこう 平成6年5月1日版 より

日光市の広報誌「広報にっこう」の平成6年5月1日版に、現道である「明智平バイパス」の開通式が行われた記事が紹介されている。
以下に一部引用しよう。

三月三十日、奥日光の国道一二〇号「第二いろは坂」で県が平成元年度から工事を進めていた、明智平バイパスの開通式が行われ、この日の午後二時から一般使用が開始されました。
このバイパスは明智平と中宮祠間の全長千八百mで工事が行われ、道路の幅は九mです。トンネル部分は、明智第一トンネルが長さ四二,一m、明智第二トンネルが長さ九二六mで、いずれも幅七.五m、高さ四.五m。総事業費は約四十億円です。
今までの明智トンネル、白雲トンネルは、天井が低く二階建てバスなどの大型の観光バスが通行できなかったため、交通渋滞の原因ともなっていました。

通行できないならば渋滞しようもないような気もするが、ともかく現道の高さ制限4.5mは、2階建てバスの通行を踏まえたものであったのだ。
ナルホド、これは日光の表玄関らしい理由だと思う。

(ちなみに、なぜか上の写真でくす玉から出て来た垂れ幕の表記が、国道一二三号になっている。これは、宇都宮〜水戸間の国道番号である。)




現国道については、これでスッキリした。

次に、旧道はいつからあったのかという疑問だ。
「第2いろは坂」の開通は昭和41年であるから、当然その時だと思っていたのだが、実はもっとずっと昔からあったことを、次の地形図は証明している。




これは、昭和8年版の地形図である。

2本のトンネルが、ハッキリと描かれている。(赤い矢印)

これはもうトンネルではなく、明らかに「明智隧道」「白雲隧道」であったろう。

当然まだ「第2いろは坂」は影も形もない。
華厳渓谷の北岸にある、もうなにか気の狂ったような九十九折りが、現在もほとんど形の変わらない「第1いろは坂」である。

この地図が描き出しているものは、かつて「いろは坂」を凌ぎ、奥日光入りのメーンルートとなっていた道の姿である。
すなわち、日光駅から馬返までを「日光電気軌道」が結び、馬返から明智平をケーブルカーである「日光登山鉄道」がリレーする。
そして、明智平から中宮祠の間を担っていたのが、この旧道を走っていた日光登山鉄道の専用バスであった。
3種の乗り物で表日光と奥日光の華麗なリレーワークが行われていたのだ。




明智平のお土産屋に飾ってあった昭和初期のものと思われる絵葉書より
「明智平ケーブル驛より男体山の展望」

この絵葉書写真に写っているボンネットバス。これが旧道の2本のトンネルを往復していた。

昭和9年の「汽車時刻表」によれば、この専用バスはケーブルカーの発着毎に運転され、明智平〜中宮祠の2.2kmを5分で結んでいた。ケーブルカーの運転は、平日が20分刻み、休日は10分刻みという頻発運転であった。

日光登山鉄道の歴史を、「日光市史(下)」から簡単に拾ってみた。
同社は昭和2年の設立であるが、大正15年に、馬返〜中宮祠間3,33kmの鉄道敷設免許状が与えられている。
このうち、馬返〜明智平を電気鋼索鉄道(ケーブルカー)として建設し、残る明智平〜中宮祠は軌間1067mmの電気鉄道として建設する予定であった。
昭和4年に工事着手となったが、恐慌の影響から思うように工事は進まず、当初の開業予定である同7年までの完成は絶望的となった昭和6年、一部計画の変更を決定した。
明智平〜中宮祠間の工事中であった線路敷きを、自社の自動車専用道路へと転用したのである。
この計画変更を経て、昭和7年8月28日にケーブルカーは開通した。

戦中に日光電気軌道と日光登山鉄道はともに東武鉄道資本に合併され、、「東武鉄道日光軌道線」「東武鉄道明智平ケーブル」となった。
資料はないが、おそらく東武系のバスが占有的に自動車道を走っていたのだろう。
その後、昭和41年の「第2いろは坂」開通を前にバス専用道路は廃止され、おそらくトンネル拡幅などの改良を受けた末に、国道120号の一部になったものと思われる。


旧道は、始め鉄道として建設されていたのだ。
そして、その開通は昭和7年という古さだった。




廃止区間内で先ほど歩いた、橋を迂回する部分。


あの路盤には、鉄道として工事されていた最初の記憶が残っていたかも知れない。





この何の面白みもない封鎖トンネルも、よく働いた。


本当によく。