隧道レポート 針ヶ谷坂の明治隧道捜索 中編

所在地 千葉県長柄町
探索日 2018.2.25
公開日 2018.3.12

古道に挑戦! 隧道発見なるか?!


2018/2/25 15:24 

さて、針ヶ谷坂での明治隧道探しは、峠の頂上を折り返して後半戦へ。
これまでほとんど収穫を得られていない隧道の手掛かりを求め、地理院地図には記載がなくなった“古道”へ足を踏み入れることにした。

これから歩く道は、私が普段好んで探索する廃道よりも古く、江戸時代以前から明治初期まで街道として活躍していた道だと思う。これは房総街道や大多喜街道とも呼ばれた大多喜藩の参勤交代路であり、上総地方の米を江戸に送るための重要な輸送路でもあったらしい。

これはもともと乗りものが通るような道ではなかったと思われることと、この入口の不法投棄と竹藪に支配された姿、さらには既に見ている出口の【激藪状況】考慮して、自転車はここに置いて、徒歩で進むことにする。
出口までの距離は推定400mほどとさしたるものではない。行って戻ってこようと思う。




地形は全体的に緩やかで、かつ猛烈な竹藪のため見通しが利かないため、ぼんやりしていると進行方向さえ見失いそうだった。
仄かな地面の凹凸に古い道の名残を辿りながら、ほぼまっすぐ東へ向った。

見ての通り、この道はもう全く使われていないようだ。
不届き者は奥まで入らないようで、すぐに目障りなゴミは見えなくなったが、手入れのされていない竹藪特有の薄暗い圧迫感には辟易した。


なぬ!

古道らしからぬものが出てきた。
コンクリート作りの建物だ。
とても小さく、窓もない。住居とかではなく小屋だろうが、とても頑丈そうだ。

恐る恐る、一箇所だけある扉もない入口から中を覗いてみると――


中にはカラスウリみたいな色をしたでっかい筒状の装置が居座っていた。
そんなに昔のものではなさそうな感じだが、何かの貯蔵タンクか?

こいつの正体は帰宅後に判明した。
写真の右上外にケーブルが伸びているが、この先に小さな制御ボックスが取り付けられていて、そこに銘板があった。
その銘板には川本製作所という社名が書かれていた。
川本製作所はポンプを製造している会社なので、この機械もポンプの可能性が大だろう。
地下水を汲み上げて、カラスウリ色のタンクに貯めていたのではなかろうか。

しかし、この竹林になぜポンプ?
謎は深まったが、隧道に繋がる手掛かりとはいえなさそうだ。スルーする。



ぐっふぁー! きっちー!!

ポンプ小屋までは、まだマシな状態だったのだと思い知らされた。
全方位に猛烈な竹藪が展開中! まさに天然のバリケード状態!
山上には珍しいな平坦な地形が、進行の上では逆に徒になっている。
迂回することも難しいと思ったので、覚悟を決めて突入した。

地面にはまるで道など見えないが、頼るべきは旧地形図に描かれていた道の姿。
地形に逆らわず東へ進んでいけば、この苦しみの竹藪の出口に至ると信じたい。
実際、東方向にはV字型に空が切れ込んで見える場所があり、そこを目指して進んだ。


地形のスケールは決して大きくないので、閉口するほど辛い場面は、そう長く続かなかった。
竹藪を突っ切ると林相が変化し、下草のうるさいスギ林になった。
見通しも幾分マシになり、ここが尾根のてっぺんであることを思い出させるような空の見え方をしている。
つい忘れそうになるが、この辺りは針ヶ谷坂の古い頂上であり、間もなく麓への下りが始まろうとしているはず。

問題は、肝心の古道をちゃんと辿れているかということだったが、現状は道らしいものを見失ったままである。
だが、先ほどから前方に見えている(写真中央やや左)ひときわ立派な枝振りを誇示する巨木には、ある種の予感めいたものがあった。
その根元へと辿り着いてみると――


15:35 《現在地》

巨木の下に、浅い掘り割りとなった明瞭な道形を発見!

探索開始から約50分、初めて私の興奮度を示すボルテージ・メーターに顕著な針の振れが起こった気がする。
これは忘れられた道の秘部に、こっそり遭遇したときの興奮だ。

それにしても、寄って見るとますます豪壮な大樹である。
浅い切り通しの片側を、まるで天然の石垣とばかりに、たった一株の根が支えている。
周囲にこれほど大きな木が多くはない状況からしても、往来盛んな時代から峠の守り木、ご神木のような扱いを受けていた可能性を感じる。
地蔵のひとつやふたつを洞(うろ)に呑み込んでいるかも知れない。
少なくとも、旅人にとって良い目印にはなっていたはずだ。

人の目から遠ざかって忘れ去られようとも、盛んに枝葉を広げる孤高な強さに、共感と興奮を覚えた。



どうやら巨木の地点こそが、本当の針ヶ谷坂古道の頂上だったようだ。
そこから先は今までと打って変わって、テーブルの縁から転げ落ちるように下り始めた。
地形が急峻になると道跡が鮮明になるというのは、極端に崩れやすい地形以外ではよくあることで、ここもそうだった。
鮮明な道形が下草の多い中にもはっきりと残っていて、嬉しくなる。


下り始めると間もなく、すり鉢の底のような地形に入っていく。
水は流れていないが、沢である。
勾配はかなり急で、最後まで自動車はもちろん、車両交通全般を受け入れなかった可能性は大だ。
まあ、エンジンの付いた二輪車くらいならば通れるだろうが、おそらくそういう車が発明された頃には、とっくに旧道となっていた世代の道である。
なんといっても、さっきまで通っていた現在の県道が、明治36年の地形図には既に描かれているのだから。

ところで、なぜ地形が急な場所ほど古い道形が残っていることが多いのだろう。

その答えのひとつは、獣たちがそこを通り道にすることが多いからだ。
人が利用しなくなった道は獣たちの格好の通路となるが、彼らも地形が急であればあるほど、その中にある平場を好むようである。
この道形にも獣(イノシシ)が激しくぬたを打った跡があった。
跡とは言っても、おそらく今日もやってきている。少なくとも数日前の雨以降の足跡が無数に付いていた。

急峻な地形に道形が残りやすい理由は、そうした地形は植物の生長に不向きであることや、予め路盤が堅牢につくられていることが多いなど、他にもある。

つまらなく苦痛だった古道の前半から一転し、興味深い道形に出会えたと喜んだ私だったが、ここでさらなる喜びの遭遇が!




15:40 《現在地》

うおおぉー!(興奮)

やるじゃないの、古道!

この掘り割りの急坂は、地形のスケールが大きくて格好がいい!
面白みのないスギ林の中だったら印象はまた違っていただろうが、
ここはかつて房総の森の多くがこのようであったろうと思える、大樹の雑木林だ。

この山側は、さきほど県道を通行した際には予見しなかった激しい切り立ち方を見せている。
このような地形の緩急があるならば……、隧道の存在に対する実感が初めて湧いた。
まだその在処は見当も付かないが、あっても不思議ではない険しさを見た!



この道は最後まで現代の土木技術を容れなかったのだろうか。正直それは分からない。長い年月の間には、山仕事などのために機械が入ったようなことがあるかもしれないからだ。
しかし現状の景色としては、極めて古道然とした良好な道路遺構に見える。

道幅が意外に広く、江戸時代において房総一の権力者であった歴代大多喜藩主が数年毎に行列を率いて江戸と行き来した道だということにも真実味がある。
しかも、広幅員でありながら相当に急傾斜であることが近代以降の車道と一線を画しており、古道としての信憑性に寄与している。

チェンジ後の画像は、再び『長柄町史』からの引用である。
この町史は侮りがたく、こんな場所まで踏み込んで撮影していた。おそらくこの場所で撮影したものとみて間違いないだろう。
町史が刊行された昭和58年頃の景色は今よりも藪が薄く、ある程度通行する人がいたのかもしれない。
その調子で隧道の写真も掲載してくれていたら、もう少し捜索はスムースに行ったかも知れないが…。



下ってきた掘り割り道を振り返って撮影。

もはや完全に人の往来は途絶えているようで、巨大な倒木が道を塞いでいる箇所もあった。
そのため、下りなのになかなか大変だった。しかし印象深い良い道だ。出会えて良かったと思う。



15:46 《現在地》

一時は廃道探索の醍醐味に酔いしれた私だったが、聞き慣れた車の音や景色と一緒に現実へ引き戻された。
気付けば約400m続いた古道区間の終わりへと差し掛かっている。
あと30mばかり直進すれば、往路でスルーした【激藪の分岐地点】だと思う。

終わってみれば結局、古道区間でも隧道の手掛かりは得られなかったという重い現実が残った。

権現森を盟主とするこの界隈の地形に、隧道がありそうな険しさを垣間見るまでは行ったが、具体的な遭遇には至らず。
古道をベースとして明治の道路改良が行われたとすれば、古道から隧道のある明治道が分岐しているという状況を期待していたが、それがないまま最後まで来てしまった。
もう一連の針ヶ谷坂の古道に未探索の部分はないはずだ。

いや…ちょっと待て。



あるぞ! ここが分岐地点だ!

県道合流の直前地点で左を向くと、そこに県道に背を向ける2本の道があった。
1本は上っており、1本は下っている。
一気に2本発見とは、嬉しいやら困ったやらだ!

上っていく道はかなり鮮明で、今まで下ってきた古道以上にはっきりしている。
対して下っていく道はかなり薄いが、あると思う。

さて、どちらへ行こうか?

時間的に悉皆踏破は無理かも知れないので、ここは隧道発見という目的に達する答えを一発で正解したいところ。(もちろん、両方不正解の可能性もあったが、今はこれしか手掛かりがないのだ)



改めて現在地と分岐の位置関係を見てみる。(→)
ちなみに、古い地形図だと現在地はここだ。

そして、現時点での私の大胆な予想を述べてみる。

ズバリ、ここから下へ降りていく道が、現在地の東側にある小さな尾根を越える地点に、隧道はあるのでないか?

そして隧道を抜けた道は、そのまま「泉谷」地区の最も奥にあたる谷を下って、「前編」で見送った【泉谷の分岐】にるのではないか。

はっきり言って雑な推理だとは思う。
なにせ、ここまでの過程でたまたま見つけた二つの行き先不明の道を、ただ結びつけただけだ。
だが、地形から隧道の擬定地を場所を絞り込むなら、やはり尾根というのは外せないように思う。

この薄っぺらな自説に縋(すが)り、私はこれより歴代地図に一度も描かれたことがない、目の前の道へ挑む。
さてさてお立会い。
首尾良くいったら、拍手を頂戴!




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