発見された隧道こそ、房総にはとてもありふれたものである素掘隧道1本に過ぎなかったが、個人的にはオブローディングの醍醐味を大いに満喫できた、お気に入りの探索となった。
また、町史の記述だけではよく分からなかった明治以降の2度にわたるルートの変遷を、すっきりとした形で地図に落とし込むことができたのも、大きな収穫といえるだろう。
ここでは本稿の仕上げとして、冒頭の机上調査編の内容について現地調査からの補足を行うとともに、“残された大きな謎”についても探ってみたい。
旧道は川辺を通り泉谷から現在の道に出て、立鳥鴇谷へぬけていた@が、明治16(1883)年泉谷の先にトンネルをほり、権現森の南に出るものに改めA、同19年現在の道になりB、昭和49年道幅を広げ、舗装完成し、すばらしい道路となったのである。
上記は、今回の探索のきっかけとなった『長柄町史』にある記述だ。さらりと書いてあるが、明治16年と明治19年にそれぞれ道筋が変更されたことが読み取れる。
現地探索で隧道の位置や前後の道の位置が概ね判明したことにより、概ね右図のような3世代のルート変遷であったと結論づけることができた。
次の図は、立体地図上に3世代のルートを表現したものだ。
これを見ると、新道に込められた改築の意図が理解しやすいのではないか。
隧道を用いた第1期新道は、明治初期から各地の峠道で盛んに行われた、車道化を狙った大規模な改築だった。
まず最高地点の位置を変えることで上るべき標高が20mほど下げられているし、途中の尾根を隧道で躱すことで、その尾根をよじ登るために必要だった急坂(【ここ】や【ここ】)を全て回避すると同時に、斜面をトラバース気味に安定した勾配で克服することができている。かといって、明治の新道が陥りがちな過剰な迂回にも陥っておらず、線形的にはなかなか理想的と思える新道ではないだろうか。
だが、現実には開通から数年で、ほとんど別ルートである第2期新道が登場しており、その原因こそ、探索後に残された“針ヶ谷坂の改修史上最大の謎”といえる。
この第2期新道は現在使われている県道とほぼ同じルートであり、第1期新道が隧道で回避していた尾根の上を通路とすることで、さらに緩やかな勾配になっている。わずかに距離は伸びているが、1割程度であるから、車道時代に適した新道といえるだろう。
前述した通り、従来あった古道や、わずか数年前に完成したはずの第1期新道をほとんど再利用せずに整備されている点に大きな特徴がある。
○総工費 1736円40銭5厘
その内訳 ○1480円82銭8厘 (延長521間4尺1寸(約938m)の坂道を切下げ、トンネルと排水溝をつくる。人足5231.15人、1人25銭。石工432.6人、1人40銭の賃金である)
○25円57銭7厘 (略…杉丸太や木柵などの構築費)
○230円 (略…土地買上代)
これは現在の道路より東側の泉谷を通り、トンネルをぬけて権現森の東中腹を通って長柄山に至るもので、トンネルは現存し、子供達が「こうもり」をとりにいったりしていた。一部は農道として利用している。
上記も机上調査編の冒頭で引用した町史の記述だが、探索を終えた今ならば、この赤字で強調した部分が、まさにその通りであったと納得できる。
上図やその前の地図で赤線で示した道の長さは、大体この記述と一致しており、“坂道を切り下げ”という表現も、常に古道の下に新道があることから、その通りであるといえる。
この町史の記述は間違いなく、今回探索した第1期新道について述べたものであったと断定できる。
「こうして隧道がつくられたが、落盤のためすぐに通れなくなり、新たな新道が急いで整備された」。
そんな記述が町史に1行でもあれば、読者としてすんなり腑に落ちるのだが、そうした内容はない。
そして、明治36年の地形図に忽然と現われている太い県道の道(=第2期新道)は、どのような経緯で整備されたのかが不明である。
むしろこの道こそ、明治から現代に至るまで長く長く地域の交通を支えてきた重要な功労者だと思えるが、町史に書くべき記録が残されていないのだろうか。
上記も針ヶ谷坂に関する町史の記述だが、この「明治19年10月に県道に指定され、翌20年5月までに完成した道」が、果たして第1期新道と第2期新道のどちらを指しているのかは、最初に引用した「同(明治)19年現在の道になり」という記述を信じるならば、後者ということになる。しかし、他の根拠となるような記述はない。
町史に掲載されている安川柳渓撰文の『修道碑文』(碑文、この碑の実物は不明)によると、大多喜街道(房総中往還)の針ヶ谷坂・棒坂・矢貫坂(位置図)における大規模な新道工事は、明治16年12月には全て完成したとあるので、針ヶ谷坂でそれ以降も大規模な工事が行われていたことを窺わせる記述は、全て第2期の新道を指している可能性がある(私はその可能性が高いと思う)。
なお、机上調査編では引用しなかったが、先の引用箇所には続きがある。
『長柄町史』より引用。
「初五郎は、半沢和七の最後の子で、長沢家をついだ。明治21年12月9日、工事中屋根のような大岩が頭上におち、四体はこなごなになった。年は22歳であった。」と。裏書をみると、付近の有識者17人の名前が刻まれ、工事の犠牲者を懇に弔った人情の厚さがうかがえる。
昭和58年に発行された町史には写真付きで記述があるこの慰霊碑。明治新道の重要な遺物であり、今回の探索でも探したのだが、結局未発見に終わった。補修されて、どこか落ち着ける境内にでも安置されていることを願っているが、見つけた人がいたら教えて欲しい。
さて、肝心の内容についてだが、上記引用文中には明らかに年を誤記しているとみられる場所がある。太字にした2箇所の年のどちらかが正しくないはずだ。このままだと事故の前に慰霊碑を建てたことになってしまう。おそらく後者は明治20年の誤りだろう。
いずれにせよ、明治21年頃まで工事が行われていたことは確からしい。
それが、第1期新道の補修工事がまだ続いていたことを示しているのか、早くも第2期新道の工事が進められていたのかは確定しないが、後者のような気がする。
また、工事中に死亡者が出るほどの大きな落盤事故があったことや、今回の探索でも隧道西口付近で大規模な土砂崩れ現場に遭遇していることは、隧道を用いていた第1期新道が短命に終わったことと無関係ではないように思う。
長く活躍した古道も第2期新道も、斜面崩壊を回避しやすい尾根筋を通る箇所が多い。これは偶然だろうか。
明治24年3月28日に正岡子規が針ヶ谷坂を越えている 2022/7/15追記
こちらのレポートの机上調査で出会った正岡子規の紀行『隠蓑日記』の作中に、彼が明治24(1891)年3月28日に針ヶ谷坂を北(長柄山)から南(針ヶ谷)へ通り抜けた際の記述があることが分かった。
当レポートで“散々悩んで”いるように、針ヶ谷坂においては、隧道を持つ第1期新道(明治16年完成)が極めて短命であったらしく、明治19年に現在の県道とほぼ同じ第2期新道へ切り替えられたとみられるのであるが、なにぶん古い話であるため、今日残っている記録に一致しない部分があって、本当にわずか3年程度で第1期新道が廃止されていたのか謎が残っていたのである。
もし、子規が隧道を通ったと書いていれば、明治24年の時点ではまだ第2期新道が完成していなかったと判断できるだろう。
それではさっそく当該部分の記述を、『隠蓑日記』の解説書である『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』(著者関宏夫)にある書き下し文(原文は漢文)で見てみよう。
二十八日。長柄山を発す。菜畦(さいけい)の阿(すみ)に屎(し)す。冷露、尻を侵す。女子蒔を負い、洞穴に憩う。屋制(おくせい)稍(やや)異なり、仏舎に似て、梁棰(りょうすい)の端に青粉(せいふん)を塗る。雨師(うし)来たり侵す。蓑子(さし)もて之を防ぐ。
3月28日の出発地点は現在の長柄町の長柄山追分の大黒屋という宿で、「屋制やや異なり、仏舎に似て、梁棰の端に青粉を塗る(垂木の端が青く塗られている)」と観察したり、雨が降ってきたので雨具の蓑を被って凌いだのは、長南(現在の長南町長南)であった。
その間のどこかで、「女子蒔を負い、洞穴に憩う。」のを見たと言っている。
さて、この『隠蓑日記』には完成稿とは異なる草稿があり、これも『かくれみの街道をゆく』に録されている。少し違いがあるので見てみよう。
二十八日。七時出立、暁霧アリ 且曇天、菜畦矢ヲ放ツ。九時半路傍ノ穴中ニ入リテ発句書きつく
(俳句略)
長南ニテ小雨 蓑ヲ買フ……
草稿でも、長柄山を出発してから長南までの区間に「路傍の穴」が登場するが、そこへ入って休んだのは子規本人である点が完成稿と異なる(雨宿りでもしようと思って入ったところで、持ち歩いている句帳に気付いて、一句を認めたものらしい)。
なお、7:00に長柄山を出て、9:30に「路傍の穴」に着いたとあるが、時速4kmで歩行したとすれば、長柄山から8km以上は進んでいるはずで、約3kmの位置にある針ヶ谷坂などとうに通り過ぎている感じがする。
現在の地図でこの区間(長柄山〜長南)を観察すると、彼が針ヶ谷坂を通ったことは確かだが、そこから長南までも結構な距離があるので、洞穴を見た場所はたぶん針ヶ谷坂ではないのだろう。雨が降り出したという長南の近くであった可能性が高い。
しかし、針ヶ谷坂を通過した彼が、隧道を通り抜けたとは書いていないのは注目に値する。彼はこの旅の中で、天津新道や木の根峠では「トンネル」を通ったことを、草稿の中ではっきり記しているから。
というわけで、決定的な記述ではないものの、正岡子規が明治24年に開通した当時は、すでに隧道のない第2期新道が開通していた可能性が高い。
彼はこの道に入る前に菜の花畑で用を足し、霧に煙る新たな針ヶ谷坂を黙々と歩いたのだった。
余談だが、彼が長南で雨に降られてたまたま手にしたこの蓑は、生涯にわたって心の拠り所とするものになった。蓑を肩にうちかけたとき、房総行脚がただの行脚にとどまらず、旅のたましいがのりうつったように思われ、ほんとうの旅人となったような気がしたことを、随筆『松蘿玉液』に記している。子規庵にを訪れた訪問客の誰もが目にとめる、子規を語るうえでは欠かせない蓑となった。長南は当時、蓑と笠が特産品であった。
もうそろそろキリが無い。今回はこのくらいにしておこう。
先の修道碑に書かれている内容を挙げて、この道がいかに活躍を嘱望された偉大な道であったかも褒め称えたいし、また何かの役に立つかと思って4代の航空写真アニメーションgifも作ったが、もう書きすぎだろう。説明は略する。
…とにかく、ヨッキれんは好きなのだ。
徒花がすきっ!
開通したか、未成道なのか、その微妙なくらいの儚い存在が、大好きすぎるっ!
明治16年に県や郡のお墨付きで着工し、延べ5000人を超える人足が汗を流したという大規模な新道が、何かよく分からぬうちに終わっていた。
地図にも描かれずに、ただコウモリまみれの穴だけを残して消えていた。
子供の頃から廃隧道だったとする古老の言葉は、重い。
明治生まれの人間がどこにもいないこの現代において、明治に生まれ、その明治の数年で消えたらしい道の正しい足跡を追うことの難しさ。
探索者の、想像する楽しさと、苦さと。
すべてここにある。好きだ…。