隧道レポート 針ヶ谷坂の明治隧道捜索 後編

所在地 千葉県長柄町
探索日 2018.2.25
公開日 2018.3.13

盲点


2018/2/25 15:46 《現在地》 

まるで狙い澄ましたかのように、古道探索の最後の場所、ここで成果がなければいよいよ手詰まりというところで現れた、地図にない2本の脇道。
そのうちの麓へ下って行く方へ狙いを定めた私は、夕暮れ迫るなかでの突入と相成った。

最初から路上の藪はかなり濃い。
使われなくなった時間の長さを感じさせるが、むしろそのことが目指す道への期待感に繋がった。
なにせ事前の机上調査通りならば、目指す道は明治20年頃までに建設されたが、明治36年の地形図には描かれなかった、古くに廃絶した短命な道だった可能性が高いのだ。

また、道幅は狭く、両側が崖になっている。
これまで以上の地形の険しさを感じる。
探し求める隧道は近いのか?!



ぬおお。 この険しさは、想定以上だ。

緑が多いせいで写真からは感じづらいかも知れないが、この右側はまるで石切場かと思うほどに切り立った岩場になっている。
河川の力も借りずここまで斜面が鋭くなったのは不思議な気もするが、落差が10mくらいあり、その下はすり鉢状の谷になっている。谷底は竹林だ。その十分に育った竹の先くらいの高さに私はいる。そのことからも崖の高いことが分かるだろう。
この谷が下り着く先は泉谷の田畑や集落であるが、ここから直接下ることはできそうにない。

竹林である谷底に対して、私がいる斜面上はスギ林だ。
自然のスギ林ではなく植林されたものであろうが、道はこの有様で、現在手入れされている様子はない。



15:54 《現在地》

そしていよいよ…というほどの距離も時間も経ていないが、数分前に突如として“隧道擬定地”の期待を向けられた“小尾根”が目の前に迫った。

「考えが甘いよ。」

…そんな自身への叱責と諦めの空気が、薄暮れのなかで重くのし掛かってくるような場所だった…。
さすがにこんな行き当たりばったりの思いつきで、広いフィールドの中にひとつしかない目当ての隧道を見つけるというのは無理があったかもしれない。どうもいつものような勘が働かない。対象が古すぎるのか。

隧道の在処として期待していた小尾根に近づくと、道形らしいものは極端に狭まり、ただの獣道程度に成り下がってしまった。
それは四つ足好みのする急さで小尾根を越えていたが、周囲には隧道があったような痕跡が見当たらないばかりか、そもそも隧道を期待するには、直前の道形との比高が小さ過ぎる(=土被りが小さ過ぎる)とも思った。



間もなく時刻は16時になろうとしている。明るさ的に探索可能リミットは17時半までだろう。マジで時間切れという最悪のオチも見えてきている。
今いる地点が隧道の在処ではなさそうだということは理解したが、次にどこを探すべきかは悩ましい。一度頭を冷やしてよく考えよう。

今のところ、付近に行き先不明の道は二つある。
一つは、麓の【泉谷集落の外れにあった分岐】の右の道で、もう一つは【直前に通り過ぎた分岐】を左に上っていく道だ。

ただし前者については、今いる場所に道があって、それと続いていることを前提とした説なので、現状は可能性が減った。
消去法的に、後者か。もしその場合、チェンジ後の画像に書き加えたような推定ルートが考えられ、隧道の擬定地が新たに想定ができないわけではない。
しかし、もしそれが正解ならば、私は既に行った古道の探索で分岐を見逃していることになる。
正直、そんな分岐があったら気付いていたと思うのだ。

今や自身の探索勘に対する自信は、相当揺らざるを得ない状況に陥っていたが、それでも古道の途中に見逃しはなかったはずだと判断した。
つまり、“上っていく道”も本件とは関わりがないと考えた。


だがそうなると…… どこを探せば良いのか分からない…。


こういうとき、どうするべきか?


古老に、頼るしかあるまい!

聞くなら最初から聞けよと言われそうだが、自分ひとりで探してみて駄目だったから人に頼る。これは何も間違ってはいない。

これから急いで最寄り集落の泉谷へ下って、古老捜しを始めよう。
自転車を峠に置いてきてしまっているが、取りに戻る時間は惜しいので、歩いてこのまま集落へ向う。
そしていまいる尾根の上には、獣道かもしれないが鮮明な踏み跡があるので、これに従って前方の「B谷」(もちろん仮称)へと降りてみよう。
期待薄とはいえ、来た道を戻るよりは新たな発見が得られる可能性はあるし、地図だと「B谷」の奥まで水田が描かれているので農道も来ていると思う。これが最速ルートだと判断した。

さっそく、行動開始!
大きな杉の木が林立している「B谷」の底へ、ひとり分の狭い踏み跡を頼りに下る。




この「B谷」は、泉谷の源頭である掌状に分枝した谷の中で一番大きなもので、その周囲の斜面は先ほど見下ろしつつ通過した「A谷」同様、かなり鋭く切り立っていた。
切り立つ岩場とその下に広がるなだらかな林床の組み合わせは、両者の境界部分に半埋没の隧道が口を開けているのではないかという期待を持たせるものがあり、視線を強く引き寄せられたが、樹木が多く見通しは利かない。
そもそも道形がないところに坑口だけあるとも思えないわけで、無為な捜索からは決別し潔く助言を求めるべく、里へと下る歩みを急いだ。

チェンジ後の画像は、「B谷」の底から振り返った、直前までいた小尾根だ。




16:08 《現在地》

スギ林を突き抜けると、干上がった溜池跡のような場所に出た。
地理院地図ではこの辺りから水田の記号があるが、耕作を放棄されてからだいぶ経っているように見える。
枯れススキの原っぱをがさごそと掻き分けながら、生きた田畑と畦道の早急な出現を願った。

チェンジ後の画像はそれから3分後、願い叶った場面である。
獣よけの電気牧柵を跨いで、野の獣から人へ戻った。
さっそく古老に遭遇したいが、あいにく冬田に人影はない。
集落へ急ごう。



16:12 《現在地》

それは期待していたよりも早くに訪れた!
「B谷」の奥から始まる畦道を辿ること約150m。「A谷」から出てきた同じような畦道との合流地点に出た。その脇には地理院地図には描かれていない大きな建物。壁に「日吉第1水稲営農組合」と大きな文字が書かれており、倉庫か作業所であるらしい。そして、その前庭には私が探し求めていた種類の人影が二人! 私は迷うことなく声をかけた。

「お邪魔します! 古い道を調べているのですが、この近くに昔使われていた隧道はありませんか?

夕暮れ時のちん入にも関わらず、にこにこ顔で話して下さったのは、聞き取りをした順番に、概ね次のような内容のことであった。 刮目せよ!



古老かく語りき(1) 隧道の有無について

あったよ。 だけど、埋められたよ。


やっぱりあったか! 町史は間違っていなかった!

が、それに続いて、埋められてしまったという無情なコメントが…! 覚悟していた部分はあったが、残念!


古老かく語りき(2) 隧道が埋められた事情

2〜30年前、県道の下に工業用水道を掘る工事をしたときに、その隧道のせいで陥没するような事故があった。
そのため隧道は土嚢で埋め戻され、水路が完成した。

!!! このあとに必ずや聞こうと思っていた隧道の在処にも関わる、極めて重大な証言が零れ出た。

古老は、県道の下に工業用水道があると言ったが、これには心当たりがある。
レポートでは省略していたが、針ヶ谷坂の県道に点々と「房総臨海」と書かれたマンホールが存在していることに私は気付いていた。多分それだけならば気に留めなかったのだろうが、一緒に「房総臨海地区工業用水道」と書かれた看板があるせいで、ただのマンホールではないと思ったのだ。

帰宅後に「房総臨海地区工業用水道」を検索してみると、千葉県公式サイトに情報があり、昭和61(1986)年4月に給水を開始していることが分かった。年代的にも古老の証言と符合する。

県道の下で水路工事をしたときに、隧道にぶつかって陥没がおきた。
つまり、探し求める隧道の在処は――


古老かく語りき(3) 隧道の在処

隧道へは、ここから“左”の道を進み、少し先の小屋の手前から右に入る昔の道の跡があるから、それを進んでいくと、ある。

隧道は、今の県道の下にある。

盲点突かれた〜!

果たしてこの場所を予想できた読者はいただろうか?

悔しいが、私は全くノーチェックだった。

まさか、現県道が通じている尾根が隧道の在処だったとは!!

既に私は一度、その直上を通過していたのである。灯台もと暗しだが、そんなことを言われても気付くわけがないだろう!
しかし、この現県道の下に工業用水道が埋設されていて、その建設工事中に隧道にぶち当たったという証言がある以上、在処については間違いない。

現県道が通じている尾根は、権現森から南へ長く長く伸びている。
なるほど、現県道がなく古道だけがあった光景を想像してみれば、この尾根を隧道で貫くことで泉谷から針ヶ谷坂頂上まで全体的に緩やかな道をと考えるのは、明治初期の新道工事として決して突飛なものではない気がする。
地形を冷静に観察すればそういう気にもなるが、立派すぎる現県道の存在は、この尾根を隧道擬定地として見ることから遠ざける効果があったのだ。
それに現県道は明治36年の地形図にあまりにしっかりと描かれているため、それをくぐる旧道を想像し得なかったこともある。


惜しくも土嚢で埋められてしまったという隧道であるが、坑口の痕跡くらいはあるかも知れない。
暗くなる前に早く見に行きたい!
が、これだけは古老に聞いておかねば。(↓)


古老かく語りき(4) 隧道のおもひで

子供の頃(60年くらい前?)には、隧道はうっちゃて(うち捨てられて)いて、しかも途中で崩れていて通り抜けられなかった。いつまで使われていたのかは知らない。
隧道の内部には水が溜っていて、コウモリが沢山いた。 子供の頃、よくそのコウモリを捕りに行った。隧道の入口でたき火をして煙を隧道内に充満させるとコウモリが逃げ出してくるので、それを捕まえた(何かに使うわけでなく、悪戯で)。

なんと、町史にあったコウモリのエピソードが再発掘された。
まさかこの人が町史を書いた張本人というわけではないと思うので(聞かなかったが)、かつての長柄町では有名なコウモリスポットだったのだろうか?
そうでなくても、この地区の子供達には有名な探検スポットだった可能性は高そうだ。

それにしても、古老が子供だった時代には、既に年季の入った廃隧道だったようだ。
事前調査でも、この隧道は明治に生まれ、明治の間に廃止された可能性があると考えており、早すぎる廃止の理由は気になっていたが、もともと崩れやすい地質だったのかも知れない。


「ありがとうございます! 今から見に行ってきます!!」



針ヶ谷坂隧道(仮称)への最終アプローチ


2018/2/25 16:16 《現在地》 

道は【示された】隧道へは、ここから“左”の道を進み、少し先の小屋の手前から右に入る昔の道の跡があるから、それを進んでいくと、ある。 by 古老

古老の証言を忘れないよう、念入りに反芻しながら歩き出す。
隧道跡へ近づくには、まずは泉谷の奥に位置するこの分岐を左へ行くのだそうだ。
目の前にあるこの道が、明治の道ということなのだろう。
何の変哲もない畦道だし、実際に農道として使われているようだ。

この段階で、50mばかり先の山側に小屋の一部が見えている。
古老に教わった次の“ポイント”があそこである。



シャッターのある小屋が近づいてきた。
道はこのまま続いているが、古老曰く、この小屋の手前右側に昔の道の跡があるという。

なるほど、廃道探索者でなければ見逃してしまうかも知れないが、確かにある。それらしい平場が!
今の道とは斜面によって途絶しており、おそらく旧道路盤を掘り下げる形で今の道が造られたのだろう。

ここにも古老の証言が活きたと思った。
証言なしでここへ来たとしても、この右の道に気付いたかどうかは五分五分以下だろう。ゲームみたいに今はフラグが立っているから、この右側の道を見つけることができたと思う。


あとはこの道を最後まで辿れば良いのだろうか?
特に古老はこの先について言わなかったから、迷うような場所はないと思いたい。

足元には、明瞭に道の跡だと感じられる薄藪の平場が続いており、その行く手には谷の行き止まりが見えている。
この中央から左に伸びる尾根の頂上を県道は縦走している。目指す隧道は、あの尾根を貫いていたらしい。
お目当ての場所は、もうかなり近いところまで来ているのだと思う。




16:20 《現在地》

谷の奥に近づくと、段々になった田畑も耕作されていない状況になり、それに従って路上の藪も濃くなってきた。
一段下にあった畦道も既に途絶えたようで、これより先へ行く道はこれしかなくなった。

前方には凝り固まったように深い竹藪が待ち受けている。
隧道は、あの竹藪の中に文字通り“秘蔵”されているのだろう。
これまで広く知られてこなかったというからには、それなりの隠され方をしているのだと想像する。
そもそも、あの町史の記述に気付かなければ絶対にこの隧道を探さなかっただろうから、入口からして狭き門だったといえる。



やっぱり、こうなるのね!

道は猛烈な竹藪に呑み込まれていた。

この状況の竹藪の踏破の大変さは、経験したことのある者にしか分からないだろう。

あらゆる種類の藪の中でも、管理放棄された竹藪は、ワースト3に入る障害だと思っている。



このような状況が長く続くのであれば、探索の続行は不可能であろう。
だが幸いにして、この竹藪の広さは、私の心を折るほどではなかったし、
私はなんとしてもこの藪の中にそれを見つけ出したかったから、枯れ竹のように簡単に折れはしなかった。

ぶ厚く折り重なった竹藪の代謝物のため、もはや路盤にあるべきわずかな地面の起伏も見失ったが、
隧道は県道の下をくぐっているという証言のお陰で、探すべき方角が一つであることも救いだった。


そして遂に、それは姿を見せた。



16:27 《現在地》

あった!!

これが、歴代の地形図に一度も描かれたことがない、幻の明治隧道なのか!

土嚢で塞がれているという情報があったが、やはり諦めずに来てみるもんだ。

それらしい穴が、見事に開口しているではないか!

結局、古老がいた場所からここまでは、200mも離れていなかったのである。
泉谷の集落からだともう少し距離は開くが、かつて子供の遊び場になっていたというのも納得できる距離感だ。
もし小さかった私の近くにこんな穴があったら、きっと入り浸ってしまっただろう。



房総で“穴”を見つけても、それが真に交通のための隧道であるかどうかの判断は、慎重でなければならない。
この土地には交通用以外の隧道。例えば川廻しのための河川隧道や、灌漑のための二五穴(にごあな)と呼ばれる狭隘な水路隧道が多くあり、さらには横井戸という名前から目的も分かると思うが、その手の奥行きがない穴も多数存在する。それらはかつての人間の生活圏にあり、藪を掻き分けて遭遇した穴が、それらの名残であることが少なくないのだ。

交通用隧道を見極める重要なポイントは、坑口の前後に道が通じているかどうかと、断面のサイズが交通に適しているかどうかの2点である。
その点、本穴は前者の条件について満たしているとは断定できない。藪が深すぎて、道を見いだせなかった。おそらく人手を使って藪を整理すれば道は出てくるだろうが…
しかして、後者の条件ははっきりと満たしていた。
穴の断面が自然崩落で拡大することもあるが、それを除けば車が通れるほどに断面が大きな隧道は、基本的に交通用か河川用となる。
そしてここには河川も水路も存在していない。
すなわち、目の前に口を開けている穴は、私が探し求めてきた明治隧道であると判断できた。

そのうえで、隧道としての坑口の姿を観察してみる。
放置された時間の長さ(おそらく100年は放置されているのではないか)を考えれば、意外によく外形を留めているように思う。
崩れ落ちた岩石で坑口が過半まで埋没しているようなことはなく、内部への侵入は容易そうだ。出入りを妨げるようなものも、予想に反して存在しなかった。

しかしこの予想外の状況の良さは、古老の証言した内容に原因がある気がする。
古老曰く、2〜30年前に工業用水道の工事があり、そのときに掘っていた地下水路が隧道にぶつかったかして、陥没事故のようなことがあったのだという。
その際に隧道を土嚢で塞ぐ処置をしたといっていたので、現代人がここへ足を踏み入れて工事を行った可能性は高い。



ズモモモモモモ…

そんな擬音が相応しい、重苦しい空気だ。
もっとも、この尾根のすぐ上を交通量の多い県道が通過しているので、日常の音もまた近い。
まさに灯台もと暗し。こんな場所に隧道が隠れているとは思わなかった。(この探索中、二度もすぐ近くを通っていたのに、落差があったため気付かなかった)

坑口から手の届く範囲で埋められているとこともなく、暗い坑道が闇の奥へと伸びていた。
この発見は、まさに今回の探索における最大の「論より証拠」の核心であり、これが見つかってしまった以上は、町史に記述されていた内容も全面的に信用できるといえるだろう。

それにしても、この特徴的な五角形断面よ!
房総の古い素掘隧道を好んで巡っている人ならば、どこかで目にしたことがあるかも知れない。
私自身も何度も目にしているが、当サイトにおける前回の出現はどこだったろうか。前回でないかもしれないが、平成19(2007)年に探索した鴨川市の「保台清澄連絡道路(仮称)」の第2回以降、最終回まで複数出現している。

だが、これまで目にしてきた五角形(将棋の駒形ともいう)断面の隧道にしては、かなり天井が低いように感じられる。
坑口はそれほどでもないが、少し入ると急激に天井が低くなり、5m奥からは明らかに「横幅>高さ」の扁平な断面形になっているのだ。



見よ! この天井の近さを。
そして感じろ! この異様な圧迫感を。

いくら明治の人々の平均身長が現代人より小さかったとしても、こんなに天井が低いことは不可思議だ。
おそらくこのように天井が低い原因は、洞床に分厚く土が堆積しているせいではないかと思う。
水たまりこそ見当たらないが、洞床はふかふかの土に覆われていて、長い年月をかけて水底で堆積した気配がある。
古老も言っていた。かつてこの隧道の内部には水の溜ったプールがあったと。

それにしても、顕著な五角形の断面だ。
以前のレポートにも書いたがことだが、この断面はおそらく観音掘りと呼ばれるもので、明治初期に西洋から鉄道技術とともに覆工を前提としたアーチ形断面の掘削技術がもたらされる以前から、我が国に受け継がれてきた伝統的掘削技術によるものだと思われる。
これは全断面のうち天井の三角部を先に掘り進め、その後に全断面まで掘り下げる一種の頂設導坑工法だったらしい。
房総には江戸時代には既に川廻しの河川隧道を掘る技術者が存在していて、彼らもこの工法を使用者だったと思われる。
房総エリアに鉄道が最初の開業を迎えたのは明治29(1896)年で、本隧道はそれよりも13年ほど先に着工しているのだから、このような断面であるのも宜なるかなといえる。



古老の証言の内容からも、隧道の内部探索ができることは期待していなかったので、これは本当に嬉しい逆転だった。

洞内に入ってすぐの地点から振り返ると、天井がかなり歪で高くなっていることが分かる。
この部分は隧道が完成した後で落盤したのではないだろうか。
対して側壁部分は垂直に切られており、その表面には鑿の痕がびっしりと残っている。明らかな手掘り隧道の痕跡だ。




入口付近の側壁に一つだけ見つかった、謎の凹み。
直径10cm、奥行きは5cmほどだ。
正体は不明だが、松明のようなものを取り付けていた可能性があるのかもしれない。

それにしても、未だに鑿の痕がフレッシュな感じで生々しい。
100余年の年月を経ているようには見えないが、これは早い段階で隧道が閉塞してしまい、風が通ることが止んだからかも知れない。
風化という言葉があるように、風は長い年月を経ると意外に強い風化の力を発揮する。堅牢な覆工を持たない素掘りの隧道では、なおさらである。



閉塞壁だッ!

坑口からおおよそ20mの地点には、巨大な土嚢が天井まで積み上げられていた。
明治隧道を内部で閉塞する、化学繊維の土嚢たちとは、なんという時代のミスマッチだろうか。
古老の証言なくては、なぜこの位置に閉塞壁が唐突に存在するのかが深い謎になったことだろう。

古老曰く、房総臨海工業用水の建設が行われるまで、この閉塞壁は存在せず、隧道はもう少し奥まで立ち入ることができたが、最終的には落盤で閉塞していたという。
そしてその途中には、水没した領域と、沢山のコウモリたちが存在していたらしい。
しかし現状は、そのどちらも見当たらない。
洞床は微妙に下っており、外の雨が多いときなどは水たまりができることはありそうだが、コウモリたちは長年暮らしてきただろう隧道を完全に見捨ててしまったようだ。人間が突然隧道へ戻ってきたことが、よほど不快だったのか?



土嚢がぎっちりと積み上げられた閉塞壁。
これらの土嚢や中身の土砂はどうやって運び込んだのだろう。
残念ながら、これ以上奥へ進む術はない。

断面の大きさは、ここが一番大きい。目測ではあるが、幅4m程度、高さは五角形の頂点の部分で5mくらいあると思う。
横幅は入口と変わらないが、高さは2mくらい高くなった。天井が上がったのではなく、洞床が下がったといった方が正しい。 明治期に掘られた当時のままのサイズであるはずだから、手掘り隧道としては相当大型のサイズである。
それだけ重要な道路だったということだろう。

そんな大型手掘り隧道であったが、おそらく道造りとしては失敗作であったと思う。
そうでなければ、完成から十数年後に編纂された地形図にまるで記述がないようなことは起こらなかったと思うし、古老が幼少の頃から既に閉塞した廃隧道だったというようなこともなかっただろう。
これは町史が採り上げるほど期待された明治の大規模新道ではあったのだろうが、何かの大きなトラブルがあって、長くは存続しなかったものと考えている。

そんな徒花に終わり、地元の人にも忘れかけられていた隧道が、百年の時を経て現代社会に突如蜂の一刺しを見せたのが、古老が語る工業用水工事での出来事だったように思う。
本当に陥没事故のようなことが起きたならば何らかの記録が残っているはずで、今のところ記録は発見されていないため、正解がどこにあったのかは正直分からない。
工業用水の工事関係者は、予めこの廃隧道の存在を把握していて、粛々と対策工事を行っただけという可能性もあると思う。
だがもし本当に、“忘れられていた”隧道が工事中に発掘されたというのならば、それは一オブローダーとしてとても興奮する出来事だ。



土嚢によって閉塞させられた坑道の天井に、コンクリートで固められた狭い部分があり、そこから謎の塩ビパイプが覗いていた。
パイプは塞がっており、その先を知る術はないが、おそらくこの向こう側に工業用水道の地下空間が存在するのだろう。

なお、この部分には地熱でもあるのか、大量のゲジが張り付いていた。
さすがに見たくない人が多いと思うので、画像にはぼかしを入れている。見たいという奇特な人はこちらをどうぞ。

この上に工業用水道、そしてさらに上の地表を県道が通じている。
県道をひっきりなしに通行する車の音は、ここまで届かない。
オブローダーが交通史の暗部に光をともす役割ならば、これほどお誂え向きの場所もない気がした。




これが仮称針ヶ谷坂隧道の東口より辿ることができる全長である。
おおよそ20mの地点が閉塞部分であり、地形的には閉塞壁の先にも同程度の長さがあったと思うが、完全に寸断されている。
この隧道に入った時点では暗闇に目が慣れないため閉塞壁が見通せないかもしれないが、そうでなければ容易く見える位置にそれはある。

それにしても、坑口を見つけるだけでなく、坑道内へ入ることもできたのは大きな収穫だった。
工業用水道の工事が行われる前であれば、さらに奥まで行くことができたとは思うが、それを恨んでも仕方がない。
むしろ、明治廃隧道が見せた現代への意外な再登場というストーリーが面白かったので、これはこれでありだったかもしれない。




隧道の西口を捜索


16:31

見つかったのは隧道の東口で、内部へ20mほど侵入出来たが、土嚢閉塞のため通り抜けは不可能だった。閉塞確認後すぐに引き返し、地上へ戻った時点で坑口到達から3分が経過していた。

「古老本当にありがとう! 無事に隧道を見つけることができました!」
そんな喜びと感謝の報告をしに戻りたいところだが、刻一刻と夜闇が近づいている今、私には生半可な仁義よりも優先したい行為があった。
閉塞していた隧道の反対側坑口。西口の現状確認である。

東口の場所が確定したいま、西口を探すことはさほど難しくはないはず。しかし、夜になってしまっては、そうは言ってられないだろう。ことは一刻を争う。
そこで少し強引ではあるが、閉塞隧道の反対側坑口を見つけ出す最もシンプルな技術を使うことにした。お馴染みの“直登作戦”だ。写真および地図上に書き加えた「矢印」のように、隧道直上の尾根をまっすぐ越える。

隧道からザッザッザッザと出てきた私は、すぐさま隧道脇の草付き斜面に取付いて、そこから尾根への直登を開始した。
チェンジ後の画像は、そのよじ登りの最中に見下ろした坑口付近の様子だ。
ちょうど足元の崖下に開口しているのだが、道が竹藪に覆われていて全く見えないので、上から見ても隧道があるようには見えないだろう。この坑口、どの方位からでも最大視認距離が5mくらいしかないので、古老の証言なしでは見つけ出せなかったかも知れない。



16:34 《現在地》

“直登作戦”の前半の行程を完了。
坑口から推定15mほどの高度をよじ登ると、濃い笹藪(竹藪ではない)に覆われた尾根の頂上に着いたが、そこには見慣れた舗装路が横たわっており、前半の探索でも通過した現県道と古道の分岐地点に他ならなかった。

すなわち何の因果があるものか、この広い山野の中にあって、ともに明治の時代を分かち合っただろう3世代の針ヶ谷坂が、地図空間上のただ一点に収斂していたのだった。

もっとも、江戸時代には殿様も通った貫禄の古道と、【明治36年の地形図】には既に堂々たる県道として現れている現県道は、この場所で目に見える形で袂を分けているのに対し、おそらくこれら偉大な2世代に挟まれて極めて短命に終わった明治隧道は、地底に秘されて全く光を浴びることがない。
もののあわれというよりないだろう。
そして、そういうことを見つけてほくそ笑むのが堪らなく愉しい。



1時間半前の自分が何の気なしに通過したこの地点が、実は隧道地点だったなんて、お釈迦様でも気が付くめぇ。
それこそ、この段階で隧道に気付くには、禁断の地底透視能力が必要だったと思う。分かってしまえば、こんなに面白いこともない。

写真に写っている範囲には見当たらないが、この県道上には数百メートルごとに「房総臨海」と書かれたマンホールが設置されており、路下に工業用水道管が埋設されている。
チェンジ後の画像は、想像して描いた透視図である。
工業用水施設の位置や形状は私の想像に過ぎないが、地下の隧道との位置関係は、大きくずれていないと思う。

夕方のラッシュを控えたこの時間も、次々と車が現われては去っていく。
行き交うドライバーのうちどれだけが、地下数メートルの位置に眠る隧道のことを意識したであろう。
光が強いほど影も際立つと言うが、道についても同じことがいえる。栄えた道のこれほど間近に「あり」ながら、これほどまで等閑視されてきた隧道は、稀である。



先を急いでいる。

“直登作戦”に従って、ここから西側の路外へ逸脱しよう。
地形図を見る限り、こちら側にも東口があった「泉谷(いずみやつ)」とよく似た谷があるようで、谷の固有名としては多分こっちが峠名や大字名になった「針ヶ谷(はりがや)」なのだろう。

そそくさとガードレールを乗り越え、傾斜の端に立ち、西口の現存に期待を込めて斜面下を覗き込んでみると――




どよ〜ん……

やばそう。 再び薄暗い竹藪であることも気を重くはさせたが、何より良くないと思ったのが、東口に較べて斜面のとても緩やかであることだった。
はっきり言って、“死臭”を嗅いだ。 …もちろん、隧道のだ。

もともと斜面が緩やかだったのならばよいのだが、多分これは違う。明らかに現県道を今の姿に仕上げてくる途中の段階で地形に手が入っている。
上から見下ろした写真だと分かりづらいが、斜面の一部にコンクリート擁壁化している場所もある。 やばい……。



16:39〜16:49 《現在地》

すまん! と謝っても仕方がないし、そもそも私が謝るようなことじゃなかったが……

ない!西口現存しない!

地形を見る限り、9割がた現県道の拡幅に伴って埋め戻されたか、それ以前から埋もれていたかだ。
この写真は西口擬定地から降りてきた斜面を振り返って撮影したものだが、斜面の傾斜は終始なだらかで、坑門を有さない素掘隧道が開口していそうな地形ではないし、その跡を疑わせるような窪地もみられないことが分かると思う。



しかし、わずかな可能性を夢見て、その後も谷底を10分間ほど這い回ったのであるが、それがもう写真のような絶望的竹藪に覆われていてダメだった。東口のあった谷の竹藪も酷いと思ったが、ここと較べたら遙かにマシだ。ここはもう朽ちたジャングルジムのようなもので、手の届く場所まで移動するだけでも芋虫のように動かねばならなかった。あまり苦しく、途中で焼き払いたい衝動に駆られたほどだ。

結局10分で20m四方くらいは確認したが、ほとんど地面は見えないため、西口が小さな開口部であったりしたら、スルーしてしまった可能性もある。だがあくまでも確率が高いと思うのは、この竹藪ではなく、先ほど見た現県道の路肩下斜面だ。

それでもこの竹藪には、隧道を出た先の道が通じていたはずだが、その痕跡も全くなし。正確には「なし」というか、見つけることが不可能な状況になっていると言うべきか。
隧道跡も道も相当にピンポイントに迫っているはずだが、この西口では痕跡は何も見つけられませんでした!

西口は、完全に風化してしまったと判断する。


さて、西口は見つからなかったが、ここからさらに針ヶ谷坂の頂上を目指す道が通じていたはずだ。
その道さえも見つからないとなると、本当に隧道が貫通していて、道として開通したことがあったのかさえも疑わしく思えてしまうだろう。

ここには右図に「推定」として破線で描いたようなルートが想像され、それを実際に歩いて確かめてみるつもりであったが、とりあえずこの西口擬定地の竹藪の深さは半端なく、たった100m移動するのだけでも気が遠くなるレベルだ。そのうえ残光の届かない藪底は既に夜のとばりが降りており、動き回ることが困難になっていた。

ここは冷静に考えて、一旦現県道まで退くことにする。
しかしまだ諦めてはいない。




16:50 《現在地》

ここ、覚えているかな?
前編でもさらっと登場した、現県道脇にある小さな三日月形の旧道敷だ。
西口擬定地から100mほど離れている。

この場所の路肩が最近に土砂崩れを起こしたようで、カラーコーンや土嚢で応急措置が施されていた。
もともと見晴らしのよい場所なので、ここから下にあるはずの旧道を確かめることができないだろうかと考えたのだ。



うおー!!

今日最後のうおー!だ。 平場あるっ!

しかしそれもそうだが、凄まじい規模の崩壊だな…。遙か谷底まで根こそぎだ。



こうして見る角度を変えても、やはりある、平場!
それもちょうど、私が想定していた「隧道からの道」の所にある!
どんぴしゃだ!

地図中に点線で描いた道と、その先の隧道西口は発見できなかったが、この土砂崩壊地に浮かび上がっている平場との位置関係は、こんな感じだろう。
いよいよ、明治隧道を巡る道のミッシングピースが埋まってきたぞ。

それにしても、土砂崩れもたまには探索者の役に立つのだな。
おそらく、この100年以上ものあいだ徐々に深みを増す草木に覆われ、まったく日の目を見ることのなかった明治廃道の平場が、巨大な土砂崩れによって表土と一緒に草木の全てを洗い流された結果として、突如これほどまでにくっきりと浮かび上がることになったのだ。
もはや何が利するか分からない。
こんな形でオブローダーを答えに導く、モーセ開海ならぬ開“藪”の奇跡もあるのだ。

平場を見て満足しかけたが、折角なので降りてみることに。(これが意外に大変だった)



数分後、県道から15mほど下にある平場と見えていたところに到達。

実際そこに立ってみると、上から見たほどは“怒り肩”ではなく、やや漫然とした感じの緩急に過ぎないのだが、上から見てあれだけ真一文字というのは、天然の地形ではない可能性が高いし、なによりも――




上の写真の立ち位置から後ろへ30mほど水平移動した土砂崩れの影響圏外に至っても、その平場が引き続き存在することを確認したので、これが道の跡であることはほぼ確定といえる。

やはり隧道時代の道は、現県道よりも下の斜面を横断していたようだ。



16:57 《現在地》

そして私は、この道が最後どうやって針ヶ谷坂を極めるか、あるいは現県道と合流するかを見届けるべく、この頼りない胡乱げな道を辿り始めたのだったが、大崩壊地点から100mも峠へ近づかないうちに呆気ない最後が待っていた。

道が進もうとする斜面を邪魔する、古びたコンクリートウォール。
この上にあるのは当然、現県道だ。
現県道側からはこんな擁壁があるようにも思えない森だったが、あった。
この段階で現県道との高低差は10mを切っていたことから、ここで旧道は“吸収された”と判断した。
直上の県道に這い上がると、次の写真の場所だった。


針ヶ谷坂頂上にある市道分岐まで残り300mのこの辺りが、隧道のあった旧道と現県道が“ぶつかる”場所だったのだと思う。

ただし、不法投棄防止のためか県道沿いには有刺鉄線が張り巡らされていて路外を観察することが困難であるうえ、明治時代からは県道の姿が変わりすぎているために、分岐の痕跡がない。だから、“ぶつかる”という表現に留めた。

そもそも、現県道と旧道には、まともな分岐が与えられていなかった可能性さえある。
その場合、隧道と現県道はトレードオフだったのではないか(つまり、隧道の崩壊によって現県道が建設されたのではないか)という疑いが深くなるが、決定的な情報はない。


事前情報の少なさと、廃止後の時の長さと、覆い隠す緑の濃さと、様々な難しい条件が揃った中での探索になったが、古老のファインプレイのお陰もあって、最大の目的であった隧道の発見と、隧道を含む明治道の大部分の確認ができたので、計画は成功である!
これにて探索終了、自転車を回収して帰路に就きます。



帰宅後のおさらい編


発見された隧道こそ、房総にはとてもありふれたものである素掘隧道1本に過ぎなかったが、個人的にはオブローディングの醍醐味を大いに満喫できた、お気に入りの探索となった。
また、町史の記述だけではよく分からなかった明治以降の2度にわたるルートの変遷を、すっきりとした形で地図に落とし込むことができたのも、大きな収穫といえるだろう。
ここでは本稿の仕上げとして、冒頭の机上調査編の内容について現地調査からの補足を行うとともに、“残された大きな謎”についても探ってみたい。

針ヶ谷坂は、明治以来4回も改修しそのたびに道すじを変更している。
旧道は川辺を通り泉谷から現在の道に出て、立鳥鴇谷へぬけていた@が、明治16(1883)年泉谷の先にトンネルをほり、権現森の南に出るものに改めA同19年現在の道になりB、昭和49年道幅を広げ、舗装完成し、すばらしい道路となったのである。
『長柄町史』より引用

上記は、今回の探索のきっかけとなった『長柄町史』にある記述だ。さらりと書いてあるが、明治16年と明治19年にそれぞれ道筋が変更されたことが読み取れる。
現地探索で隧道の位置や前後の道の位置が概ね判明したことにより、概ね右図のような3世代のルート変遷であったと結論づけることができた。

次の図は、立体地図上に3世代のルートを表現したものだ。
これを見ると、新道に込められた改築の意図が理解しやすいのではないか。



隧道を用いた第1期新道は、明治初期から各地の峠道で盛んに行われた、車道化を狙った大規模な改築だった。
まず最高地点の位置を変えることで上るべき標高が20mほど下げられているし、途中の尾根を隧道で躱すことで、その尾根をよじ登るために必要だった急坂(【ここ】【ここ】)を全て回避すると同時に、斜面をトラバース気味に安定した勾配で克服することができている。かといって、明治の新道が陥りがちな過剰な迂回にも陥っておらず、線形的にはなかなか理想的と思える新道ではないだろうか。

だが、現実には開通から数年で、ほとんど別ルートである第2期新道が登場しており、その原因こそ、探索後に残された“針ヶ谷坂の改修史上最大の謎”といえる。

この第2期新道は現在使われている県道とほぼ同じルートであり、第1期新道が隧道で回避していた尾根の上を通路とすることで、さらに緩やかな勾配になっている。わずかに距離は伸びているが、1割程度であるから、車道時代に適した新道といえるだろう。
前述した通り、従来あった古道や、わずか数年前に完成したはずの第1期新道をほとんど再利用せずに整備されている点に大きな特徴がある。


(イ) 針ヶ谷坂  明治16年2月着工。
○総工費 1736円40銭5厘
 その内訳  ○1480円82銭8厘 (延長521間4尺1寸(約938m)の坂道を切下げ、トンネルと排水溝をつくる。人足5231.15人、1人25銭。石工432.6人、1人40銭の賃金である)
         ○25円57銭7厘 (略…杉丸太や木柵などの構築費
         ○230円 (略…土地買上代
これは現在の道路より東側の泉谷を通り、トンネルをぬけて権現森の東中腹を通って長柄山に至るもので、トンネルは現存し、子供達が「こうもり」をとりにいったりしていた。一部は農道として利用している。 
『長柄町史』より引用

上記も机上調査編の冒頭で引用した町史の記述だが、探索を終えた今ならば、この赤字で強調した部分が、まさにその通りであったと納得できる。
上図やその前の地図で赤線で示した道の長さは、大体この記述と一致しており、“坂道を切り下げ”という表現も、常に古道の下に新道があることから、その通りであるといえる。
この町史の記述は間違いなく、今回探索した第1期新道について述べたものであったと断定できる。

「こうして隧道がつくられたが、落盤のためすぐに通れなくなり、新たな新道が急いで整備された」。
そんな記述が町史に1行でもあれば、読者としてすんなり腑に落ちるのだが、そうした内容はない。
そして、明治36年の地形図に忽然と現われている太い県道の道(=第2期新道)は、どのような経緯で整備されたのかが不明である。
むしろこの道こそ、明治から現代に至るまで長く長く地域の交通を支えてきた重要な功労者だと思えるが、町史に書くべき記録が残されていないのだろうか。

大野善八家文書によると「立鳥村ヲ通行スル県道、二等、幅四間に相成タルトキハ、明治十九年十月、翌年五月迄ニ落成シ候」とあり、県道編入は明治19年のことであった。  
『長柄町史』より引用

上記も針ヶ谷坂に関する町史の記述だが、この「明治19年10月に県道に指定され、翌20年5月までに完成した道」が、果たして第1期新道と第2期新道のどちらを指しているのかは、最初に引用した「同(明治)19年現在の道になり」という記述を信じるならば、後者ということになる。しかし、他の根拠となるような記述はない。

町史に掲載されている安川柳渓撰文の『修道碑文』(碑文、この碑の実物は不明)によると、大多喜街道(房総中往還)の針ヶ谷坂・棒坂・矢貫坂(位置図)における大規模な新道工事は、明治16年12月には全て完成したとあるので、針ヶ谷坂でそれ以降も大規模な工事が行われていたことを窺わせる記述は、全て第2期の新道を指している可能性がある(私はその可能性が高いと思う)。

なお、机上調査編では引用しなかったが、先の引用箇所には続きがある。


『長柄町史』より引用。
尚、同文書に「県道開通ノ際、針ヶ谷坂ノ工事ニテ、堀之内、半沢与吉岩ノ下ニ敷カレテ(圧)死シ、明治二一年二月同人ノ為、職工其他有志ヲ募リ、切通県道際ニ石碑ヲ建立ス」とあるので付近を調べたところ、道端の草むらの中に半分壊されて残っていた。それをみると「長沢初五郎の墓」とあり、半沢与吉と同一人であり、後者は旧名である。撰文は岡本監輔(励業学舎主)によるもので、およそ次のように書かれている。
「初五郎は、半沢和七の最後の子で、長沢家をついだ。明治21年12月9日、工事中屋根のような大岩が頭上におち、四体はこなごなになった。年は22歳であった。」と。裏書をみると、付近の有識者17人の名前が刻まれ、工事の犠牲者を懇に弔った人情の厚さがうかがえる。
 
『長柄町史』より引用

昭和58年に発行された町史には写真付きで記述があるこの慰霊碑。明治新道の重要な遺物であり、今回の探索でも探したのだが、結局未発見に終わった。補修されて、どこか落ち着ける境内にでも安置されていることを願っているが、見つけた人がいたら教えて欲しい。

さて、肝心の内容についてだが、上記引用文中には明らかに年を誤記しているとみられる場所がある。太字にした2箇所の年のどちらかが正しくないはずだ。このままだと事故の前に慰霊碑を建てたことになってしまう。おそらく後者は明治20年の誤りだろう。
いずれにせよ、明治21年頃まで工事が行われていたことは確からしい。
それが、第1期新道の補修工事がまだ続いていたことを示しているのか、早くも第2期新道の工事が進められていたのかは確定しないが、後者のような気がする。

また、工事中に死亡者が出るほどの大きな落盤事故があったことや、今回の探索でも隧道西口付近で大規模な土砂崩れ現場に遭遇していることは、隧道を用いていた第1期新道が短命に終わったことと無関係ではないように思う。
長く活躍した古道も第2期新道も、斜面崩壊を回避しやすい尾根筋を通る箇所が多い。これは偶然だろうか。

 明治24年3月28日に正岡子規が針ヶ谷坂を越えている
2022/7/15追記

こちらのレポートの机上調査で出会った正岡子規の紀行『隠蓑日記』の作中に、彼が明治24(1891)年3月28日に針ヶ谷坂を北(長柄山)から南(針ヶ谷)へ通り抜けた際の記述があることが分かった。

当レポートで“散々悩んで”いるように、針ヶ谷坂においては、隧道を持つ第1期新道(明治16年完成)が極めて短命であったらしく、明治19年に現在の県道とほぼ同じ第2期新道へ切り替えられたとみられるのであるが、なにぶん古い話であるため、今日残っている記録に一致しない部分があって、本当にわずか3年程度で第1期新道が廃止されていたのか謎が残っていたのである。

もし、子規が隧道を通ったと書いていれば、明治24年の時点ではまだ第2期新道が完成していなかったと判断できるだろう。
それではさっそく当該部分の記述を、『隠蓑日記』の解説書である『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』(著者関宏夫)にある書き下し文(原文は漢文)で見てみよう。

二十八日。長柄山を発す。菜畦(さいけい)の阿(すみ)に屎(し)す。冷露、尻を侵す。女子蒔を負い、洞穴に憩う。屋制(おくせい)(やや)異なり、仏舎に似て、梁棰(りょうすい)の端に青粉(せいふん)を塗る。雨師(うし)来たり侵す。蓑子(さし)もて之を防ぐ。

『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』より 完成稿の書き下し文

3月28日の出発地点は現在の長柄町の長柄山追分の大黒屋という宿で、「屋制やや異なり、仏舎に似て、梁棰の端に青粉を塗る(垂木の端が青く塗られている)」と観察したり、雨が降ってきたので雨具の蓑を被って凌いだのは、長南(現在の長南町長南)であった。
その間のどこかで、「女子蒔を負い、洞穴に憩う。」のを見たと言っている。

さて、この『隠蓑日記』には完成稿とは異なる草稿があり、これも『かくれみの街道をゆく』に録されている。少し違いがあるので見てみよう。

二十八日。七時出立、暁霧アリ 且曇天、菜畦矢ヲ放ツ。九時半路傍ノ穴中ニ入リテ発句書きつく
(俳句略)
長南ニテ小雨 蓑ヲ買フ……

『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』より 草稿

草稿でも、長柄山を出発してから長南までの区間に「路傍の穴」が登場するが、そこへ入って休んだのは子規本人である点が完成稿と異なる(雨宿りでもしようと思って入ったところで、持ち歩いている句帳に気付いて、一句を認めたものらしい)。
なお、7:00に長柄山を出て、9:30に「路傍の穴」に着いたとあるが、時速4kmで歩行したとすれば、長柄山から8km以上は進んでいるはずで、約3kmの位置にある針ヶ谷坂などとうに通り過ぎている感じがする。
現在の地図でこの区間(長柄山〜長南)を観察すると、彼が針ヶ谷坂を通ったことは確かだが、そこから長南までも結構な距離があるので、洞穴を見た場所はたぶん針ヶ谷坂ではないのだろう。雨が降り出したという長南の近くであった可能性が高い。

しかし、針ヶ谷坂を通過した彼が、隧道を通り抜けたとは書いていないのは注目に値する。彼はこの旅の中で、天津新道や木の根峠では「トンネル」を通ったことを、草稿の中ではっきり記しているから。
というわけで、決定的な記述ではないものの、正岡子規が明治24年に開通した当時は、すでに隧道のない第2期新道が開通していた可能性が高い。
彼はこの道に入る前に菜の花畑で用を足し、霧に煙る新たな針ヶ谷坂を黙々と歩いたのだった。

余談だが、彼が長南で雨に降られてたまたま手にしたこの蓑は、生涯にわたって心の拠り所とするものになった。蓑を肩にうちかけたとき、房総行脚がただの行脚にとどまらず、旅のたましいがのりうつったように思われ、ほんとうの旅人となったような気がしたことを、随筆『松蘿玉液』に記している。子規庵にを訪れた訪問客の誰もが目にとめる、子規を語るうえでは欠かせない蓑となった。長南は当時、蓑と笠が特産品であった。



もうそろそろキリが無い。今回はこのくらいにしておこう。
先の修道碑に書かれている内容を挙げて、この道がいかに活躍を嘱望された偉大な道であったかも褒め称えたいし、また何かの役に立つかと思って4代の航空写真アニメーションgifも作ったが、もう書きすぎだろう。説明は略する。

…とにかく、ヨッキれんは好きなのだ。

徒花がすきっ!

開通したか、未成道なのか、その微妙なくらいの儚い存在が、大好きすぎるっ!

明治16年に県や郡のお墨付きで着工し、延べ5000人を超える人足が汗を流したという大規模な新道が、何かよく分からぬうちに終わっていた。
地図にも描かれずに、ただコウモリまみれの穴だけを残して消えていた。
子供の頃から廃隧道だったとする古老の言葉は、重い。
明治生まれの人間がどこにもいないこの現代において、明治に生まれ、その明治の数年で消えたらしい道の正しい足跡を追うことの難しさ。



探索者の、想像する楽しさと、苦さと。

すべてここにある。好きだ…。




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