2011/5/16 5:56 《現在地》
朝一番で新潟県道415号茂沢竜光線を起点側から自転車で辿り、約1.5km地点で事実上の終着地でもある(この先にも県道は続くが未開通である)大芋川集落の入口に到着した。
小さな集落を囲むように円を成す道があり、集落の入口でその道とぶつかるから、このように丁字路になっている。
山越えをしてやってきた来た旅人であれば、こうした集落の始まり方は、集落全体が自分を受け止めてくれるような安心感を与え、好感度が高いと思う。
そして私がいま、ここからひとつだけカーブを戻って、来た道を振り返ったとしたら、次の景色(↓)を見る事が出来る。
高くはなくとも酷く峙(そばだ)つ尾根に穿たれた、大小の隧道。
さらに、そこから延びてくる道。
すなわちこれが、冒頭に紹介した昭和42年版地形図にも描かれていた芋川隧道と、その新トンネル。
そして、県道415号の姿である。
芋川隧道にはこの通り新旧が存在しており、私がその“どちら”を通ってきたのかも、“ペダルの汚れ”を見るまでもなく明白だと思う。
それは看過することの出来ない廃隧道であったが、その紹介は次の機会に譲り、今回は「昭和6年版隧道」にスポットライトを当てたい。
おそらく、自動車などと言うものが入り込んでくる昔から、この村のカタチはさほど変っていないだろう。
大芋川の集落は、そんな風に思わせる、いわゆる塊村の形態を示していた。
周囲を山に囲まれ、自身も南低北高の傾斜した山腹にある集落は、居住地はもちろんのこと、その暮しを賄うための耕作地にも厳然とした限りがあり、そういう事情から、長い月日に肥大化することも、侵略されることも、飢えに消えてしまうことからも、上手く逃れてきたのではないかと思われる。
今日の地方が皆「過疎」を叫んでいるような状況であっても、この集落の外見はあくまで堂々としていて、目立つところに廃屋をのざらしておくような真似はしていない。
事前に地形図から予感していた通り、居心地の良い“まとまり”を感じさせるような集落であった。
6:23 《現在地》
集落内を30分近くもうろうろして堪能(村の神社へ登ってみたり、県道の不通地点を確かめたり、現行地形図に描かれている小隧道を確かめたり)した後に、いよいよ今回の集落訪問の目的である、「昭和6年版隧道」へ通じていると思われる道の入口へとやってきた。
この場所は、集落をぐるりと囲む円形路を時計になぞらえるときに、0時の方向(北)にあたっていて、県道415号は3時から入って7時の方向へと抜けている(抜けてすぐに未開通)。
冒頭で述べたとおり、これらがそれぞれ別の目的地へ向かう道だということは、集落の出口が既に異なっているということからも、実感される。
さて、この場所には嬉しい「オマケ」もあった。赤矢印の所だ。
十字路角のスイセンの植え込みに混ざって、小振りな道標石がやや傾きながら健気に立っていた。
そして、文字は通りに面した2面に刻まれていて、それぞれ次のように読み取れた。
右 ひろせ
向 (摩滅していて読めず、或いは空白)
左 小松倉ヨリ 竹沢行
「ひろせ」(広瀬)は、昭和30年以前に存在していた広瀬村と同名で、水沢新田はそこに属していた。
「小松倉ヨリ竹沢行」は、小松倉を経て竹沢へ至る道ということで、「竹沢」は昭和31年から平成17年までの山古志村役場所在地(それ以前は竹沢村があった)である。
つまりこの道標石は、右に「昭和42年版隧道ルート」、左に「昭和6年版隧道ルート」、それぞれの行き先を指しているのである。
この「左」というのが正面の道の事を指しているならば、現状ともぴたりと合致することになる。
いずれにしても、この道標石の存在は、芋川を起点とする2方の道が同時に使われていた時期があったことを示している。
道標石の建立年が不明なので、前述した地形図表記との矛盾は生まないが、ある時代の道路事情を示すものとして重要である。
北向きの急な上り坂で始まった道は、すぐさま右に折れ、つまり東を向いて登り始めた。
そのため、芋川隧道のある尾根から登ってきた強烈な朝日を正面にして登っていく形となり、くしゃみが出た。
もっとも、この方角への登りは長く続くことはなく…
こんなカーブがすぐに現れて、今度は反対の西向きへと私を切り返させた。
ちょうどこの角には10基ほどの石仏が、杉の木立と共にあって、集落の方向を見下ろしていた。
神社はあっても寺院が見あたらない現在の大芋川集落であるが、かつてはこの辺りにあった…とかであろうか?
切り返しカーブから、集落方向を振り返った眺め。
まだ200mくらいしか来ていないし、高度も20m上がっただけだが、見晴らしは既にこんなによろしい。
これは先ほども書いたとおり、大芋川集落自体が山の斜面のそれなりに高い所にあるためで、海抜270m前後ある。
いま見えている広がりは、4〜5km離れた魚野川沿いの低地と、その向かいの魚沼丘陵地帯であろう。
なお、これから小松倉へと抜ける道の最高点は海抜が350mあり、小松倉集落はそこから下って230m前後。
つまり、大芋川側から向かえば、下りの方が多いことになる。
最初の切り返しのカーブから、次の切り返しまでの距離が約300mあり、この間も全て登り、しかも結構急坂である。
出発前に地形図へ書き込んでいた「隧道坑口擬定地点」のひとつは、この右手の尾根の近くにあるはずであって、実際、程よい場所にご覧の分岐(右へ離れていくおあつらえ向きと思える小径…)が出現したのであるが、敢えて私はこの小径を無視して進むことにした。
正確にはほんの少しだけ入ってみたのだが、意外にまだ尾根は遠く、しかも路上の藪が濃くて、尾根まで辿るのが容易でないと考えたからだ。
もちろん、発見のためには我慢は必要だが、今回に限ってはここで素通りしても、おそらくリカバリするチャンスがもう一度あると思う。
そして、その時の方が容易に発見出来る公算が大。
…少しだけ嫌らしく場慣れした私は、そんなふうに目論んでいた。
たかが300mであるから、幾ら上りが思いのほかに急坂で、漕ぎ足に力を込めた報いの粟を生じようとも、“2度目の切り返し”という名の尾根に辿りついてしまうまで、大した時間はかからなかった。
この尾根こそ隧道がくぐり抜けていたはずの尾根なのだが、ここまでてっぺんに近付いてしまうと、もう隧道が出現する可能性は皆無となる。
「これは想定の範囲内だ」「作戦だ」と、いつになくクールを装いつつも、既に一度隧道擬定点を素通りしている事実の前に、多少の敗北感と焦りを憶えた。
それは、私がまだまだ若いことの証でもあった。
完全にベテランのジジイオブローダーに進化したら、こう言うときにも眉ひとつ動かさず、「なかった」で済ませる事が出来るかもしれない。
6:34 《現在地》
そんな感じで辿りついた尾根は、早くも峠に辿りついたと錯覚するような、爽快な場所だった。
小松倉までの最高地点はまだもう少しだけ先だが、海抜は既に330mに達しており、峠の一角と表現しても間違いではない。
そして、この尾根を道はU字型に回り込んで行くのだが、その内側にもう1本分岐する道がある。
すなわち、分岐する道は尾根の上を走っており、それはこの先でまだ見ぬ隧道の直上を跨ぐはずである。
隧道は、尾根上の道を作る際に、押し潰されたり、埋め戻されているかもしれない。
そんな嫌な予感もあったわけだが、正面の道をこのまま進めば、その決着は遠くないだろう。
尾根上から見る西方、小千谷方面の眺め。
ガードレールが無いせいもあって、眺望は抜群に優れる。
この小さな峠道の途中に、かつては2本の隧道が存在していたものと思うが、
それらを用いる以前の旅人の方が、眺めに関してだけは、恵まれていた可能性が高い。
そして、今日の我々は幸か不幸か、それを取り戻している。
隧道の擬定点は2箇所あって、そのうちの1箇所はいま私がいる尾根に、
もう1箇所は、ここから見えているあの尾根に存在する。
矢印のあたりに道の姿が見えているが、
もう現状の高さからほとんど変化が無い事が分かるだろう。
こういう晴れた日ばかりなら、とても気楽な峠に感じられるが、
実はこの探索の2ヶ月後、この道を通った直後に、こんな場面となり、もっと大変な目にもあった。
詳しくは【日本の廃道2011年8月号および10月号】に連載した、
『緊急ルポ 平成23年7月 新潟・福島集中豪雨の体験 〜新潟県長岡市山古志および川口周辺にて〜』
に掲載しているが、雨や雪が峠の姿を180度変えてしまうことを実感する体験だった。