通学を主目的に建設されたとされる、東、七曲、雪中、そして芋川小松倉という、全て旧山古志村の東竹沢地区にあるこれら隧道の違いというのは、通学に関わる学校と集落の違いであった。
右図のように、その対応関係は明確である。
<例>梶金集落→(東隧道)→梶木小学校、 木籠集落→(七曲隧道)→梶木小学校
また、通学の対象となったこれらの学校は、全て同時に存在していたわけではなく、時代とともに移転や改廃があった。
例えば、梶木小学校と芹坪小学校が、昭和52年に合併して東竹沢小学校となった。
そのため、芹坪小学校に通っていた小松倉の児童は、新設の東竹沢小学校へ通うために、冬期には雪崩の心配が大きい谷沿いの道を通学する必要が生じた。
それで小松倉の父兄たちが中心となり、はじめ自らツルハシを握り、やがて県の事業として認められて開削されたのが、全長550mにも及ぶ「雪中隧道」であった。
雪中隧道の完成は昭和52年であり、ここでも通学という目的が隧道を生んだことは明白である。
こうした法則性を理解すれば、芋川から小松倉への通学のために新たな隧道が掘られたことも、違和感はない。
通学のため隧道は建設され、分校建設に伴って使われなくなった。
これで芋川小松倉隧道の改廃の謎は、解き明かされたといえそうだ。
だが、より大きな芋川集落にまつわる交通路変遷の謎は、これで全ての要素が明かされたわけではない。
そこには通学だけではなく、暮しの全体に関わる大きな理由が存在していたようだ。
厳しい山村で“現代”を生き抜く人々の必死さが、次の新旧2枚の地図には滲み出ている。
昭和6年当時、芋川集落は、新潟県古志郡東竹沢村に所属していた。
このことは、小松倉の古老が語る芋川集落誕生の経緯(分家)からも良く納得出来ることである。
詳しい時期は不明ながら、この当時に芋川集落内には東竹沢村立芹坪小学校の分校が設置されたことがあったという。
そのために(少なくとも小学生については)、小松倉集落まで隧道を通って通う必要はなくなったのであった。
そして、昭和31年3月31日に東竹沢村は隣接する竹沢村、大田村などと4村合併し、新たに古志郡山古志村を発足させたのであるが、この直後に異変が起きた。
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山古志村誕生から6ヶ月余り経った昭和31年10月1日、芋川集落を含む一帯が山古志村を離脱し、隣の北魚沼郡広神村との合併を行ったのである。
これにより芋川集落は従来の古志郡ではなく、北魚沼郡に所属するようになり、当然のことながら、山古志村立となった芹坪小学校の分校を集落内に存続させることも出来なくなったであろう。
そもそも立村の経緯からして、芋川の住民はそのほとんどが小松倉の住民と親戚関係にあったはずだが、そうした血族的な繋がりよりも、隣村である広神村との関係を選んだというのは、なかなかに衝撃的な離村・合併劇であるように思う。この決断には、芋川住民の相当の決意が込められていたはずだ。
これは、本編中で何度も名前の出て来た旧芋川隧道である。
全長約400mもあるこの隧道が完成したのは昭和32年で、それは芋川分離合併の翌年のことである。
当然、分村が行われた当時まだ隧道は建設中で、その建設にあたっていたのも芋川集落の住民たちであった。
そして隧道の完成により、芋川は名実ともに広神村の一部となったのである。
この旧芋川隧道のわずか700mほど北側には、同じ尾根を越えて小松倉と広神村内を結ぶ全長877mの旧中山隧道が、昭和24年に小松倉集落の人々によって完成しており、芋川の住民はその完成に大いに刺激されて芋川隧道の建設にあたったといわれている。(『手掘隧道物語 (とき選書)』より)
2つの集落は時に助け合い、時に切磋琢磨をし合う理想的な兄弟のようであったが、弟はやがて、より良く導いてくれる新たな親を求めて家を出たという感じだろうか。
両者の決別など、地図の上では“線1本”に過ぎないものであるが、それでも行政的には平成の市町村大合併劇を経てなお、長岡市と魚沼市という風に厳然と分離し続けている。
そもそも、小松倉集落による中山隧道自体が、東竹沢村の中でも南東の端にあっていろいろと不便に耐えねばならなかった人々が、「もし裏山を隧道で抜けれれば、上越線の駅もあり、山古志にはない繁華の地でもある小出(こいで)の町へ容易に出かける事が出来るではないか」と構想した、そんな行政の枠には捕らわれない反骨の精神から生まれたのである。
その同じ血を分けた(同様の不便をより深く受けていた)弟が、隧道と共に離村の道を選んだとしても、それは決して突飛な事ではなかったと思える。
しかし、実際のところ、どのような“理由”から離村を選んだのか。
その詳細は、今日刊行されている『山古志村史』にも『広神村誌』にも、記されてはいない(いずれも大著であり、私の読み込み不足の可能性あり)。
唯一見つける事が出来たその“理由”とは、『角川歴史地名辞典:新潟県』の『芋川(広神村)』の項に記された、次のわずか1行の記述である。
――東竹沢村が山古志村の一部になる際、当地域は、通学などに交通の便のよい広神村に編入。(『角川歴史地名辞典:新潟県』より)
なんと、ここでも再び「通学」というキーワードが現れたのだ。
分離前夜の芋川の住民たちは、翌年には開通するであろう新たな隧道を睨んで、こんな事を話し合ったのかも知れない。
“この新たな隧道を通学路にしたならば、わが子を分校という不自由な環境ではなく、ちゃんとした(隣村の)本校に通わせられるかもしれない。
しかし、そのためにはなんとしても隣村の学区に入る必要がある。
それには、隣村と合併してしまえば良いではないか。”
“村の子が中学、そして高校と進学するにしても、自らが(主に冬場の)就業の場を求めるにしても、小出の町はなんとも頼もしい。
それに較べて、役場への用向きを済ませるとき、合併後の村の役場の位置は余りにも我々から遠いではないか。”
「我々は、山古志村から離脱しよう!!」
……以上が、山古志の東竹沢地区に数多くある手作りの隧道たちにまつわる、親と子と村が綾なす物語のその一端らしきものである。
多分に私の思い込み(つうか思い入れ)が入っていて、正確性の保証は全くしかねるが、一応大きな矛盾はないのではないだろうか。
『雪中隧道』の執筆時に製作した、山古志村における小・中学校の変遷についての図を、ここに一部修正して転載する。
昭和31年の山古志村制定当時には村内に5つの小学校(本校)があったが、昭和52年には4校となり、平成12年には1校に統合された。 | 昭和31年の山古志村制定当時には村内に5つの中学校(分校含む)があったが、昭和47年に2校となり、平成4年には1校に統合された。 |
村に住う親たちが、どれほど我が子から通学の苦労を取り除こうと願っても、行政は時に非情な効率化を求めなければ立ちゆかなくなる。
そのため学校数の減少は、人口が少ない地方ほど深刻であるが、広大な面積に少数の人口が点在する山古志村の場合、特に深刻な状況になっているといえる。
それでも子供たちがちゃんと通学出来ているのは、ひとえに“歴代の親たち”が、交通に改善に意を注いできた賜物なのであろう。
山古志の交通史には頻繁に現れる親の愛情は、いまも伝統としてきっと息づいているに違いない。