2011/5/16 6:37 《現在地》
それは、いとも容易く見つかった。
仮に廃隧道を探す目的でなくても、この道を通りかかった人ならば、ほぼ例外なく見つける事が出来たであろう。
それでも全くメジャーな物件ではないところが、「手堀中山隧道一人勝ち」の山古志らしいと言うか…。まあ冷静に考えれば、この林道のような市道の通行量は、かなり少ないのであろう。地元民の軽トラくらいしか通っていないようにも思われる。
ただ、新中山トンネル、新芋川トンネル、そしてこの市道という3つの道の完成順序いかんによっては、乗用車が通行不能であった旧中山隧道を回避しうるルートとして、この道が秘かに脚光を浴びていた時期があるかもしれない(要調査)。
この発見された隧道は、昭和6年版地形図に描かれていた2本のうちの1本と考えられ、名称はどちらも不明なのであるが、仮称を「芋川小松倉第1隧道」とする。
隧道はこのように、市道のとりたてて特徴のない法面に口を開けていた。
ただし、市道を整備する際に隧道の存在を無視していたのではなく、坑口前で両者の路盤の高さを合わせようとした形跡が見られる。
というのも、直前の尾根を切り返した市道は、一旦僅かに上った後、すぐにその分を下ってから、ここに至っているのである。
もっとも、正確に言えば「隧道の高さ」に合わせたと言うより、隧道から先に続く「旧道の高さ」に摺り合せるための、アップダウンであったのだろう。
ともかく、この地点から先の市道は一旦、「昭和6年版ルート」そのものとなるようだ。
右の写真は、坑口と尾根の高さを対比したもの。
尾根の上を縦貫する支線の存在が、隧道の存在を脅かすのではないかという心配は杞憂に終った。
地形図上で予想していた以上に尾根は高くそびえており、斜面が急なこともあってか、隧道の存在に十分な“意義”を感じられるだけの比高感をもっていた。
ん?
隧道が小さいだけでねかって?
……ま、それもあるな。
坑口は、あまり良くない土質を反映してか、コンクリートの坑門を有していた。
しかし、その保存状況は極めて不良で、どうやら自然の老朽化というよりも、
市道を建設する段階で、坑門を斜めに削り取るような事が行われたのではないかと思われる。
向かって左側には胸壁があるが、右側はそれが完全に失われ、いきなり坑道が始まっていることから、そのように考えた。
なお、銘板のようなものも見あたらないが、当初から無かったのかどうかは不明である。
いざ、入洞。
(にゅ〜♪)
貫通☆確認!
坑口を見つけたはじめの時点では、洞内は落盤によって完全に閉塞しているように見えたのだが、近付いてみたところ、まだ完全には閉塞していない事が判明!
これで洞内を見る事も、未発見のまま素通りしてきた南側坑口を手っ取り早く発見することも、一挙に道が開けた。
それは間違いなく喜ばしいニュースではあったが、
ただひとつ…
この嫌らしい隙間…スリット…エロさの欠片もない無い、ただただ嫌らしい隙間…
これを、
この匍匐前進を強制してくるスリットをスルーしないことには、隧道貫通という“欲望の果実”に食らいつくことは出来ない。
大量の土と一緒に、生きた根っこもチラ付かせている隙間を、私もワルニャンとなって進むことにする。
コンクリートの擁壁は、破壊されながらも一応の仕事をしていて、その下を通ることが出来たのは、精神的に救われる部分があった。
それでも、右手がサラサラの触れれば崩れる土山を弄る感触は、忘れがたいが…。
また、このスリット部分の土には、獣の足跡が沢山あった。
おおよそこのサイズを通行可能な獣であれば、みな分け隔てなく通行するのであろう。
そして今、霊長の長であるヒトに属するワルニャンも、その一角を占めたのである。
つか、元からヒトのための隧道だったわけだが。
鼻腔を芳しい土の香りでいっぱいにしながら、
入洞のための関門を突破。
急に闇が濃くなった洞内の人となった。
隧道内部には、先住民族としてのコウモリたちが、それなりに幅を利かせていた。
地上高が低いために、彼らと私の接近遭遇は、嫌でも濃厚になっている。
とはいえ、陣地を放棄するのは当然彼らの方である。
ここでも万物の霊長はひるまないのだ。
…つか、元は俺たちの場所だし…。
そういえば、「第1回」読了後の読者さまのコメントで、坑口の小ささを驚くものが数件見受けられたが、その事についてこれまで私は触れていなかった。
いわれてみれば、確かに狭い。
しかし、山古志的には標準的サイズというか、この前日から始まっていた私の「山古志ひとり隧道めぐりツアー」の成果(東隧道、雪中隧道などなど)のせいで、既に慣れてしまっていたというのが正しい。
敢えてサイズを計らなかったが、幅・高さとも1.8m程度の、いわゆる“人道サイズ”であったろう。
これは、あの有名な“手堀中山隧道”よりもさらに小さく、昨日の東隧道とは同一規格のように思われた。
隧道は、私が旧地形図から想定していたよりかは幾分長かったが、客観的には十分に短いものであり、30m程度であろう。
コウモリたちがいなくなった洞内を悠々と光の元へ近付いてゆくと、一台の、“放置車両”に遭遇した。
それは、何の変哲もないリアカーであり、今日でもほとんど形の変らぬものが方々で活躍しているのを見る。(田舎よりもむしろ都会の方で見る気がする)
ゴムタイヤを履いた普通の大きさのリアカーであったと思うが、この風景に出会って私が思ったのは、
「このリアカーにとっては、これでも十分広い隧道だったんだな」
という感想であった。
同じ時代に大活躍していたはずの猫車(一輪車)や自転車、カブなんかにとっても、この隧道で不足を感じることは無かったと想像する。
思えば、我々人間が移動するための器具としては、四輪の自動車ばかりが、いたずらに大きい気がする。
もちろん、大量の人員を輸送したり、荷物も運ぶことも思えば正当な大きさだが、自動車輸送の台頭が国土に“強いた”投資がどれほど大きかったかという事を、(後付けじゃなく)この洞内で思ったのである。
特に、都会(車社会)との関係性無しでは暮らせないように社会全体が変革されてゆくなかで、このような山村の住民は、自ら切り拓いた愛着のある “まだ使える道” を、数多く捨て去らねばならなかったろう。 そのことの、物質と、時間と、精神の犠牲の大きさを思った。
我ながら素晴らしい結語を垂れた気がするし、隧道も貫通したので、もうこれでレポートを終えて良いですかね?
いや、せめてまだ見ぬ南口の“ご尊顔”を拝してからにしましょう。
所ならぬ残雪の壁に通せんぼされた、鬱然たる堀割に出た。
あたりは見覚えのない杉林だが、そんなに遠くない場所に、少し前に通った市道が横たわっているはずである。
その繋がりも、確認する必要があるな。
でもまずは、振り返って坑口をチェックしよう!
6:42 《現在地》
雪山の上に立って見たせいで、なおさらに低く小さく見えた坑口であったが、確固たる存在感に息を呑んだ。
やはり、ボロボロであっても「坑門がある」というのは良いものだ。
単なる土留めとしての役割意外を何も持たせられていない(装飾的意匠皆無)としても、それでもなお構造物としての風格は、突然始まるあらゆる坑道に勝ると思う。
であるにも関わらず、
ここには、“それ以上”のものが…
【ここに注目!!】←文字列にカーソルオン!
昭
和
十
やりおった!
相変わらず、隧道の名前は知れないが、
ある意味ではそれ以上に興味深いといえる、
竣工年に関する記年を発見したのである!
「昭和十」の次には、どんな文字があったのか。
残念だが、復元する手がかりは全くない。
しかし、仮に「昭和十年竣工」と刻まれていたとしても、
昭和6年版の地形図に描かれていた事との整合性はどう説明する?
根拠の無い説ではあるが、坑門に刻まれていた数字は、
隧道がコンクリートで巻立てられた、その年を示しているのであって、
それ以前から、素掘の状態で隧道は存在していたと考える事は可能だ。
(さらなる旧隧道が存在する可能性もゼロではないが、発見には至っていない)
なお、刻まれていた数字の内容よりも、このような形で数字が刻まれて
いたこと自体に対する、驚きと歓びの方が大きかった。詳しくは下の枠内にて。
左の画像は、今回の探索の直前に通過した旧芋川隧道の水沢新田側(西側)坑口の側面に刻まれていた、竣工年と思われる文字である。
芋川小松倉第1隧道(仮)で目撃したものとは、固まる前の坑門のコンクリートに直接へらで文字を刻んでいる点や、文字の大きさ、字体までも、非常に良く似ている。
しかし、刻まれている「年」自体はだいぶ離れており、それでいながらほぼ同一の意匠が用いられている点(しかも、他地域の隧道では一般的な意匠とはいえない)が、非常に興味深い。
(全く同じ人物が両方の隧道で主導的な役割を担い、揮毫した可能性がある)
右の画像は、以前レポートした東隧道(大芋川集落と東隧道は約3km離れている)の内壁に刻まれていた、隧道名と竣工年の文字である。
これも同じように、コンクリートに直接へらで文字を刻んでいるが、内壁に刻んでいる点(東隧道は坑門を有さない)や、文字の大きさ、隧道名の有無など、酷似とまでは言えない違いがある。
なお、刻まれている竣工年は「昭和十年四月」であった。
これらの3本の隧道の他に、同じような意匠が施された隧道は、山古志周辺地域で今のところ発見出来ていない。
旧中山隧道のように坑門無しの完全素掘であれば施しようが無かったであろうし、それ以外の多くの隧道も改築されていて、往時の意匠が確認出来ないのである。
山古志地域にある各隧道の相関関係(Aが出来たことに刺激されてBが作られたとか、CとDは同一の人物が作ったとか)については、『手掘隧道物語 (とき選書)』や『掘るまいか―山古志村に生きる』などの良書によってある程度明らかにされているが、いずれはマイナーな隧道までをカバーした内容でまとめられると良いと思う。
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北口はいつ完全に圧壊して閉塞してしまってもおかしくないが、
この南口については、もうしばらくのあいだ形を留めていられるだろう。
一旦ここを立ち去って、隧道南側の旧道の確認を行う。
荷物を積載したリアカーを人の手足で引き上げるのには苦労を伴ったであろう急坂の道が、ほぼ真っ直ぐ、杉林を切って南へ向かっていた。
山古志は闘牛で有名な牛の産地でもあるから、リアカーの主役は黒く頼もしい彼らであったかも知れない。
車道というよりは、古道のような佇まいの浅い堀り込みの道を少し下ると、呆気なく明るい場所へ出た。
明るい場所は生きた水田であったが、集落の周りで見たそれとは違って、まだ水が入れられていなかった。
少しでも標高が高いせいだろうか。
道はこの畦端を通り、さらに南へ通じている。
田の終りを前にして、再び堀り込みとなった道が右側に離れていた。
そこへ入るとすぐに笹藪が深くなり(現在は別の道から田へアクセスしているようだ)、さらにガサゴソと進んでいくとすぐに、見慣れたアスファルトの路面が下に見えてきた。市道に戻ってきたのである。
なお、前回「ここか」と疑ったこの小径は、結論からいうとフェイクであり、こことは繋がっていなかった。
最初に迷いを捨て、弱気を捨て、怠惰を捨てて驀進していれば、さんざん藪を這い回って苦労していたかも知れない。
…クレバーなオブローダーって、なんか嫌だな…(苦笑)。
まあいい。
裏から来たことで、より重層的に楽しめた気もするしね。
1号隧道(仮称)の位置と、それに続く旧道(赤線)を図示した。
超ミニサイズの廃道だが、これで“隧道・車付き”なんて贅沢だ。
ということで、
残すはあの尾根にあったはずの、2号隧道(仮称)だが、
なんかもう、切り通しが見えているような気が…。
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