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隧道レポート 可児市久々利の柿下トンネル 後編

所在地 岐阜県可児市
探索日 2023.04.08
公開日 2025.04.14

 閉ざされた本坑と発散する横坑


2023/4/8 15:09 (入洞7分後)

天井まで高く積み上げられた土嚢ウォールによって、完全に密閉封鎖されてしまった柿下トンネルの本坑……


…と思いきや?



なんだこいつは?!  脇が甘過ぎだぜ! (ペロペロ)

車の通行は禁じるが、人とぬこの通行は許すとでも言うかのように、片側の脇に隙間があり、身を捩れば大人も通り抜けられそうな状態だった。
そして、ここまでの洞内でも微かに感じられていた空気の流れは、この隙間にも間違いなく流れ込んでいた。
この先に隧道が続いているに違いない!

身体を入れるより先に、カメラだけ差し込んで撮影したのが、次の写真だ。(↓)




外の光だ!

照明を入れずに撮影したので、出口の光だけが闇の空にぽっかりと写っていた。
おそらく40〜50mくらい先に光があり、【いま背を向けている長さ】と足せば、記録されている柿下トンネルの205mという全長になるかと思う。

ただ、見えている出口……南口には、何か大きな障害物が設置されているようだ。
北口には閉ざされたフェンスの扉があったが、南口にあるのはより固定的な障害物のようである。
光が通る隙間はあるが、私が通り抜けられるのかは近づいてみなければ分からない。

1本のトンネルであるが、2つある坑口の塞がれ方は、明らかに性質を異にしていた。
洞内に刻まれている新しい轍を見ても、柿下トンネルが真に廃止されている区間は、ここから先の封鎖部分だけであるようだ。
もちろん、道路法的な意味ではトンネル全体が廃止されているのだろうが、新しい轍が直前の横坑へ引き込まれており、北口からここまでの柿下トンネルは、その横坑の先にある何らかの施設へのアプローチトンネルとして利用されていることが明らかだった。



そしてこれが、轍が通じている鉄扉のある横坑だ。

この先の空間も本坑と同様、戦時中に地下工場として建設されたのだと思うが、果たしてそのような“終わった”場所に真新しい轍が多数引き込まれているというのは、いかなる事情によるものなのか。
地下空間を別の用途に転用しているなら、その看板なり表札なりが設置されていてもおかしくないと思うが、そういうものはなかった。(文字のかすれた【行き止まり】だけだ…)
まさか、口外できないような“ヤバイ工場”じゃないだろうな……。


…………静まりかえっているし、少しだけ入ってみるか…。



ここまで入洞から9分間の行動の軌跡を、マッピングした地図上に描いてみた。

本坑から逸れて横坑へ進入しようとするのは2回目であるが、最初の時のように半分封鎖されていた横坑ではない。

今から、真新しい轍が引き込まれている“鉄扉の横坑”へと進入する。




15:10 (入洞8分後)

…うへぇ……

やっぱりそうなってるよなぁ……
横坑の先には、今までのトンネル本坑と平行する別の坑が存在していた。
しかも、そこから綾織るようにさらに奥へと分岐する横坑の入口も見えている。

長さ205mの1本道であるべき道路トンネルが、秘かに接続していた広大な地下工場跡。
横坑の鉄扉を潜ったことで、そんな迷宮への導火線が、今にも点火しそうになっていることを、膚に感じる。
私はそれがとても恐ろしい!! そんな覚悟も準備も何もないのだから!

普通のトンネルの感覚だったら、洞内分岐が1つでもあれば珍しく、2つあればもはや激レア! …という感じであるのに、碁盤の目状に広がる地下工場トンネルの分岐の数を、道路トンネルのように数えだしたらおかしくなるのは当然だ。
掘削する容積を出来るだけ少なくして山を貫通させようとする道路トンネルと、地下に空間をより広く生み出そうとする地下工場のトンネルは、建設の目的からして真逆であり、相容れない!!!

「次の写真」は……



本坑の西側に平行している坑にて、南口方向を撮影した。

ここにも出口がある!

こうして出口が複数あることを実際に見せつけられると、柿下トンネルに拘っている自分がアホみたいに思えてくるな。
しかも、はっきり言って本来の柿下トンネルの南口より与しやすそうだ。
何やら土嚢で塞がれているのは見えるが、隙間が大きい。
いざとなったらここから出て、本来のトンネルの南口へ迂回できる可能性がある。
あと、やっぱり少し狭いな。南口に通じる坑道は、どれも少しだけ狭く掘られているのかもしれない。理由は分からないが。



はいはいはい、やっぱりね、
反対側も、外へ繋がってるんだね…。
遠いが…、見覚えのあるような入口が見える。 実際は私が潜ったことのない入口だが。

ようするに、柿下トンネルと全く同じく南北に貫通している直線の坑道が、トンネルの20mほど西側に平行して存在していたのである。
まるで柿下トンネルのクローンのように。

そして、このどちらが“本坑”であったのかも、地下工場側の視点からは不明であり、どちらもそれほど重要な坑道ではなかった可能性もある。
だから、このどちらが柿下トンネルとして転生していたとしても、不思議はなかったように思う。
洞内だけに目を向けるならどちらでも条件は変わらなそうなのだ。あとは外の都合だろうか。

柿下トンネルとして建設されなかったものが、柿下トンネルの正体であったことを知ってしまい、私は複雑な気持ちになった。
長さ205mのトンネルなら205m分あるはずのトンネルとしての誇り。それをこのトンネルは何メートル分持って過ごしてきたのか。
そんなことを考えてしまった。



15:11 (入洞9分後)

迷宮の導火線に火が点いてしまったようだ。

これはもう、私の中ではトンネル探索というオブローディングの範疇ではない。
別の世界に来てしまった。

それを自覚してもなお直ちに歩みを止めなかったのは、この地下工場跡がなぜ真新しい轍を誘引しているのかという謎があったからだ。
その部分には確かに、柿下トンネルの最後の利用目的を知るという、私の興味に直結する意義があった。



……以後、各坑道の逐次記録は止め、遭難防止のためのマッピングを行いながら、しばしのあいだ遊動的な探索を続けた。




15:12 (入洞10分後)

洞内には多数の電線が張り巡らされていたが、トンネル本坑にあったような照明は見当らず、代わりにコンセントが所々に設置されていた。
また、様々分岐する坑道の所々には、空気の流れをコントロールし、ひいては湿度や温度をコントロールするためのセパレートが設置されていた。
素材は現代的なものであり、コンセントの存在と合わせて、戦時中の地下工場跡がそのまま放棄されているわけではないことは明らかだった。



最近まで車で人が出入りしていた痕跡がある区画だが、全体的にはどこを見ても廃墟でしかなく、現役で利用されている、あるいは日常的に人が出入りしていると思われるような区画や施設と遭遇することは遂になかった。
最近に車の出入りがあったとしても、それは廃止された施設からの資材の搬出など事後処理的な目的であったのかもしれない。



15:14 (入洞12分後)

そして肝心な施設の正体だが、大量のセパレートによる湿度と温度管理の形跡や、肥料袋らしきアイテムの存在などから、モヤシとかキノコなどのような暗地作物の栽培施設であった可能性が高いと感じた。

チェンジ後の画像の発芽しているモヤシ状のものは、この施設の生産品の残骸というよりは、洞内に暮らすハクビシンか何かの糞からたまたま発芽しただけだと思うが、“そういうことに向いている環境”であることを物語っている。

疑問への一応の答案を得た私は、速やかに柿下トンネルへ帰還することにした。
この帰還の移動の様子を動画で撮影したので、4分と少し長い内容だが、興味のある人は見て欲しい。(↓)



15:14〜15:18 (入洞12分後〜16分後)

無造作に歩き回れば間違いなく迷いそうな広大な地下空間が広がっていた。
動画の開始地点(私が引き返し始めた地点)から、動画の終わりの地点(柿下トンネル復帰)まで4分間、どこをどんな風に歩いたのか。
現場でのフリーハンドのマッピングから大まかなルートが分かるので、それを書き起こしてみたのが次の地図だ。(↓)



地図は不正確ですので、これを参考に入洞するのはおやめ下さい。

在りし日の柿下トンネルは、トンネル内で遭難できる唯一のトンネルであったかもしれない。
というのは冗談としても、トンネル内にある扉の向こうに、地下栽培施設があるトンネルというだけでも唯一無二だろう。
状況的に、柿下トンネルが廃止された後に、施設の稼働が始まったようには見えなかった。

日本各地に戦時中建設された地下工場はあったようだが、道路トンネルとして転用されたものは極端に少ない。
そこには先人たちの道路に対する妙な潔癖さが感じられるが、ここに柿下トンネルを“開通”させ、それを市道とする決断を下した人たちは、自分たちがとても珍しい選択をしたという自覚は持っていたのだろうか。それが地味に気になっている。

チェンジ後の画像に赤く着色した部分が、数年前まで「柿下トンネル」として供用されていたとみられる坑道だ。

探索の最後は、土嚢で封鎖されているトンネルの残りの区間へ潜入しよう。
そして、トンネルとしての到達地であった、まだ見ぬ南口を目指したい!




 塞がれた柿下トンネルの南口へ


2023/4/8 15:18 (入洞16分後)

一度は私を脇道へと逸らすことに成功していた“本坑封鎖”の土嚢の壁と、再び向き合う。

まるで石垣のように緻密かつ丁寧に、天井までびっしりと積み上げられた土嚢の壁。
ここまでびっしりだと、人が通るための隙間を一時的に開けることも普通なら不可能で(上まで手が届かないから)万事休すとなるべきところだったが、どういうわけか、片側の側壁に沿って辛うじて大人が身をねじ込める大きさの隙間があった。
敢えて残したにしては、通り抜けるのには不便な大きさだが、塞げたのに塞がなかったのは確かに見える隙間をありがたく利用させて貰うことにした。 にゃああん。



通り抜けた隙間を振り返り。

既に述べた通り、この土嚢の壁の前後でトンネルの断面が変化している。
高さはおそらく変わっていないが、壁を境に南口側(こちら側)は幅が1mくらい狭くなっていると思う。
あるいは、北口付近も同様に狭かったような気もするが、とにかく直前の断面との差ははっきり見て取れた。

このような断面の変化も、単純な道路トンネルとしては不自然な点だが、もはやこれを単純な道路トンネルとは誰も思っていないだろうし、トンネルとしての利用に先行する当初の用途(戦時中の地下工場だろう)に起因している可能性が高い。具体的にどんな理由かというと、まだ答えに窮するが。



15:19 (入洞17分後)

土嚢の壁を背に、トンネルのラスト30〜40mを見ている。
素掘りであるのはこれまでと変わらないが、幅が狭く、そして洞床に一切の轍が見られない。
それがここまでとの最大の違いである。
また、洞床には大小の瓦礫が少なからず散乱しており、ときおり落盤が起っていることを伺わせた。

このトンネルが廃止された時期についての事前情報はなく、平成16年度の『道路施設現況調査』に市道のトンネルとして計上されていたことが判明しているものの、それとて当時までトンネルが一般に開放されていたことの証明にはならない。既に封鎖されていても、道路法としての供用廃止の手続きがされていなかっただけかもしれないし、そのようなトンネルは実際に数多く存在する。

もし、平成16(2004)年当時は本当に道路として開放されていたトンネルであったとすると、探索(2023年4月)時点では廃止から最長でも20年を経過していなかったことになるが、そんな最近までこのトンネルが現役だったとしたら、本トンネルが持つ衝撃度はさらに大きなものになると感じる。実は昭和の時代には封鎖されていたと言われれば、まだ納得がしやすいが。



何かで塞がれているのは間違いないが、その封鎖壁の周りに隙間があって少なからず外光が射し込んでいる南口まで、ほんの僅かとなった。
そんなところで、さすがにもうないかと思った分岐が、またあった。
しかも、これまで目にしたほぼ全ての洞内分岐が直角方向の十字路や丁字路であったのに対して、ここだけは右後方に分岐しているようだった。



振り返りながら分岐を撮影した。
右が本坑で、斜め左45度くらいの方向に、掘りかけなのか、崩壊したのか、埋め戻したのかは分からないが、奥行きのない支坑が伸びていた。
この支坑の内部には、落盤によるものか、とても大きな岩塊が大量に散乱していた。

現役の道路トンネルに隣り合っていていい“顔貌(かお)”ではない。
道路トンネル時代も、この支坑を物理的に封鎖していた感じがしないから、もろにこの姿で露出していたと思う。
柿下トンネル、最後までヤバイヤツ。



15:20 (入洞18分後)

辿り着いた南口。
僅かに水が溜まっていた形跡があるが、今日は乾いている。
そういえば、トンネル内で勾配の存在を意識しなかったが、地下水で漏れているような場所や水没した区画もなく、全体的によく乾いていたと思う。この点でも、地下工場を建設するのに適した環境だったのだろう。

北口が開閉式の鉄扉であったのに対し、この南口は開閉を前提としないコンクリートブロック塀で塞がれていた。
トンネルの断面に近づけようとした形跡はあるのだが、完璧ではないために、塀と壁との隙間が三方に空いており、中でも――



――向かって右側の隙間は、先ほどの土嚢の壁にあった隙間以上に大きく、にゃんこの通りを良くしていた。

これもわざわざ開けておいたのではないと思う形ではあるが……

ありがたく、使わせて貰う。 よいにゃぁ…。



15:20 《現在地》

私のあるべき光の元へ!

約20分ぶりに地上の世界へ帰ってきた。
トンネルが接続していた“地下迷宮”について、私はおそらくほんの一部を垣間見ただけでて、とても全貌は知り得ない。
しかし、柿下トンネルとして供用されていた区間については、これを全うすることが出来た。探索は成功だ。
巨大地下工場跡の一部を市道として転用した、そんな不思議で前代未聞なトンネルが、この可児市に実在していたことを知ったのである。

全長205mの柿下トンネルを潜り抜けた先は、同じ可児市の柿下地区であった。
北口のあった久々利地区とはトンネルのある小山を隔てて隣り合っている。古くは城下町として開発され、昭和30年まで久々利村の役場がおかれていた久々利地区に対し、当時既に同村に属する大字であった柿下は、より農村的な性格が強い地区である。



コンクリートブロック塀で封鎖されている柿下トンネル南口。

『道路施設現況調査』に記録されている本トンネルの断面サイズは、幅員3m、高さ2.5mというものだったが……
3mもあるかなこれ?

洞内は「ある」ところもあったと思うが、ぶっちゃけこの南口の狭さは本当に3mあるか疑わしい。せっかくメジャーを持ち歩いているのにうっかり実測を忘れてしまったが……、いずれにしても3mあるか疑いたくなるくらい狭い入口である。
往時は自動車も通っていたのであろうが、出入りは相当窮屈だったろうし、洞内も待避できるほどの場所はないので、対向車がないことを確かめて入る必要があったはずだ。

素掘りであることも北口と同様で、扁額などももちろんない。全体として、とても素朴な“ただの穴”のような坑口であり、真っ当な道路トンネルの入口に見えないだけでなく、巨大な地下工場の存在を予感させるものでもない。
地下の工場がいかに巨大なものであっても、こんなに小さな出入口からでは出し入れできるものに限度があると思うが、別の出入口もあるようだったし、工期の短縮や、秘匿性および防爆性の向上などの意図からも悪戯に大断面にしない選択がされたのかもしれない。



隣家の生垣と畑の間にある、まるで畦道のような細い道が、トンネルへの唯一のアクセスだった。
坑口のすぐ傍までは鋪装されているが、この道も明らかに幅3mはなく、2m程度しかない。

また、最新の地理院地図にも描かれているが、坑口脇に石段がある。これは神社の参道である。地図を見ると、その本殿は山のてっぺんにあるらしく、けっこう離れているし高さもある。私は登らなかったが地下大迷宮の直上に鎮座している神社であるから、おそらく工事関係者も参拝したのではないだろうか。



15:21 《現在地》

坑口から50mほどで、1車線の市道と十字路で交差するが、特にトンネル側へ向かって通行の規制やトンネルの存在を告知するものはなかった。

なお、十字路の直進方向にも引続き狭い道が延びているが、これをあと100m進むと県道381号多治見八百津線にぶつかって道は終わる。
たかが100mだが、自転車を残してきた私はこれを面倒くさく感じ、ここで引き返してしまってゴメンナサイ。
ストビューで確認した限り、同県道との分岐地点付近にも特に柿下トンネルに関係する記念碑や看板などはないようだ。

ただ、この100mの途中に1本の小さな橋が架かっている(写真右奥に見える)。
銘板も何もない橋だが、可児市管理橋梁一覧(pdf)という資料によると、その橋は「第三岩下橋」という名前である。



ここで注目したいのは、この「第三岩下橋」と、久々利から柿下トンネルへ向かう途中で渡った【久々利橋】が共に、「可児市道1052号線」という道路に属していることだ。

久々利橋と第三岩下橋の間にあるのが柿下トンネルであり、現在このトンネルは市道ではないが(根拠は、全国Q地図の「2018年度全国トンネルマップ」に記載がなく、同地図が典拠として掲載している平成元年度の国土交通省資料に記載がないと考えられること)、『平成16年度道路施設現況調査』には柿下トンネルが市道として記載されていたことから、現役当時の柿下トンネルは可児市道1052号のトンネルであった可能性が極めて高いと思う。
道路ファンにとって道路名の同定は、単に知る以上の意義があると思うので、これは資料調査の大きな収穫である。

何の変哲もない柿下の農村風景に、柿下トンネルやその大元である巨大地下空間のエキセントリックさは不釣り合いだったが、そもそも柿下トンネルが似つかわしい景色なんてものも、なかなか想像できない。アレはどこにあっても浮いてしまう奇抜な存在だったろう。これは、日本の素朴な農村に大都会の軍需工場が疎開してくるという出来事の異常さと、同質のものであったと思う。

撤退開始。




復路の柿下トンネルでは、往路で立ち入らなかった柿下トンネル本坑から【東に分岐する扉】の内部を少しだけ確認したが、先に確認した西側の扉の内部と同様、何らかの地下栽培施設として転用されていた形跡があった。ただ、多くの通路は封鎖されており、おそらく西側ほど広い地下空間にはなっていなさそうであった。

戻りは入洞から10分ほどで、最初の北口へ帰還。



15:33 《現在地》

私が洞内で即席にてマッピングした洞内地図が正しければ、この北口前の広場の山側には、柿下トンネルとは別の坑口が口を開けているはずだった。
洞内からこの辺りに【外口の光】を見ている。

変な話だが、今回全く事前の情報提供なく、もちろん大した心の準備もなく、ただ【SMD24の地図】には平然と描かれ続けている柿下トンネルを訪れてみただけだった私は、数分前に現実に遭遇した地下迷宮の存在を、未だ少しだけ信じられないような気持ちがあった。
私はたぶん日本のトップ10に入るくらいにはたくさん廃トンネルを通ってきたという自負があるが、そんな私でも、戦時中の地下工場跡を道路トンネルに転用したものと確信できるようなトンネルは初めてだった。トンネルが先にあって、その途中に防空壕を付け足したようなものとは訳が違う。

果たして私が足を踏み入れた巨大な地下空間は、この地上世界と繋がっている現実であったのか。



現実でした。

広場の端の山の迫りに、往路では気づかなかった坑口が口を開けていた。
少し水が溜まっていて、洞内には光も見えないが、風が出入りしており、あの大迷宮を介して柿下トンネルと繋がっている開口部だと分かった。
大らかというかなんというか、ここは封鎖もされていないようだった。


そっか…… 現実は面白いなぁ。




 ミニ机上調査編 〜久々利工場と柿下トンネル〜


今回探索した柿下トンネルは、道路トンネルとして記録されていた諸元(長さ205m、昭和35年竣功、幅3m、高さ2.5m)からはとても推し量れない恐るべき広大なバックグラウンド(この場合は歴史もそうだが主に物理的な広大さ)を有するトンネルであった。
これはとても、「面白い」トンネルである。

それが掘られた経緯を考えれば、「面白い」なんて不謹慎だと叱られるかもしれないが、純粋に1本の道路トンネルとして見たときに、洞内分岐の無造作過ぎるその多さや、交通用トンネルではない地下空間を転用して開設されたとみられる背景など、エキセントリックなトンネルである印象が強く、これはやはり私にとっては「面白い」という表現が一番相応しい。非交通用トンネルの道路トンネル転用の例としては、釜石鉱山の探鉱坑を流用として国道283号の仙人トンネルが建設されたケースなど、少数例が知られている。

ここでは、柿下トンネルの由来や過去の利用状況について、机上調査や読者様から寄せられた情報から分かったことをいくつか紹介することで、本編を締めるミニ机上調査編としたい。
なお、今回も机上資料の捜索の部分で、お馴染みのるくす氏に大変多くの協力をいただいた。





今回の現地探索が本トンネルとの初めての遭遇で、特に事前情報を有さなかった私であるが、格子状のトンネル網が広範囲に設置されている状況から、戦時中に日本軍が建設した地下工場跡に由来するものであると判断した。
私は同様の特徴を持つ地下空間を、これまでも様々な場所で体験したことがあった(交通遺構というサイトのテーマから離れるのでレポートしたことはなかった思うが)。

なお、地下に広大な空間を有する施設としては鉱山もあり、実際に今回探索した加茂地区(可児市や美濃加茂市がある一帯)は多数の亜炭鉱山を有したことでも知られているのだが、一般的に多層的である鉱山坑道とは配列の特徴が異なっていたし、旧地形図にも久々利地区に鉱山が存在した形跡はなかった。

帰宅後、柿下トンネルは旧軍の地下工場跡であるとの推測を持って、文献の検索を進めたところ、すぐに次のような記述を見つけることが出来た。
これは柿下トンネルの竣功年(『道路施設現況調査』による)とされる昭和35(1960)年に刊行された、『可児町郷土史』の記述である。


 地下工事の洞窟跡

昭和16年12月8日、大東亜戦争が布告され、同19年20年に至るや敗戦に敗惨と都市はほとんど爆撃を受け、焼失焦土と化した。都市の軍需工場は焼失し、市街地も灰燼に帰し、都市部から農村へドンドン疎開し、農家の納屋、小家離座敷は逃げてきた疎開者で充満していた。

政府は平牧村、久々利村の「岩山」を大仕掛けに洞窟を掘抜き当時鮮人人夫5000余人が入込んでいた。山中に地下工場の建設を画して爆薬数百トンを使って、数条の岩洞窟を市街地のように碁盤目に掘ったおおよそ5000坪に及ぶ正に機械まですえつけ送電架設も終わって、穴の中に赤々と電灯が灯いて操業一歩前に至った、昭和20年6月長崎市、広島市への「原子爆弾」によって一瞬にして全滅した。このため20年8月14日の降伏となって戦争は終結した。

終戦この山洞に無宿の一族が住んで附近を荒し、盗品の隠場に化したこともあった。
洞窟は縦横に走っていて碁盤目になっている。水は上から洩出しないから有利な使用法を研究してください。

『可児町郷土史』(昭和35年)より

このように、戦争末期に平牧村や久々利村の山中に軍需工場疎開用の地下工場の建設が大々的に進められ、操業一歩手前まで工事が進められたことが出ていた。
また、「有利な使用法を研究してください」と結ばれていることから、この段階では道路トンネルや何らかの地下栽培施設への転用は、まだ実行されていなかったことが窺われる。

この地下工場建設については、さらに後の昭和55(1980)年に刊行された『可児町史 通史編』においても、やはり記述があった。
内容に重なる部分もあるが、再び引用する。

 地下工事の建設

昭和19年7月サイパン島が陥落し日本全土が米空軍B29爆撃機の行動可能範囲となり、主要都市への爆撃が本格的に始まったので、軍や兵器製造会社などが地下工場の建設を計画し、町域内の山は掘削しやすい凝灰岩層からできている関係もあって、久々利の柿下、平牧の二野・羽崎、帷子の古瀬などに地下工場建設のためにたくさんの労務者(多くは半島出身者)が入り、柿下や二野では大きな洞窟が作られ、なかには機械を設置する程に作業が進んでいたが終戦となり、二野ではそれらの洞窟の多くは入口を塞いだが、一部入口が開港している。柿下は入口を塞がずそのままにしてあって、戦後、洞窟を利用してマッシュルーム・椎茸栽培などが行われている。

『可児町史 通史編』(昭和55年)より

久々利やその周辺で地下工場の建設が行われた内容は同じだが、今度は終戦後の転用についての記述がある。
柿下(すなわち今回探索した地下工場跡であろう)では、マッシュルーム・椎茸栽培などが行われているという。
今回私が目にした洞内に残存している多数の資材や土工以外の建築物は、これらの利用法に関わる遺構であった可能性が高いだろう。
ただしここにも道路トンネルとしての利用についての記述はみられない。(実際は既に利用されていたはずだが)

さらに昭和60(1985)年に刊行された写真集『図説可児・加茂の歴史 目で見る可茂地域二市二郡の歴史』には、久々利地下工場の建設についてもう少し詳しい内容が記されていた。

 地下工事の建設

可児の久々利・平牧の丘陵には、戦時中に地下工場のための郷が各所に掘られている。大部分は入口が小さいが、羽崎の地下壕は広く夏には「洞窟まつり」が行われたり、柿下の壕では一時マッシュルーム栽培などに利用されたりした。

久々利柿下の地下軍需工場は、名古屋の三菱発動機の工場疎開用であった。昭和19年4月、軍の秘密命令を受けた一行が柿下付近の測量と地形・地質調査をし、12月より工事に着手した。村へはその直前に公表され、工事人夫2000人、家族を合わせると6000人の人々が移住してくるということで、村当局は、人口1750人の村で、どう宿舎を用意したら良いかかわらず、急ぎ飯場用の小屋が18棟作られたが間に合わず、村中一軒残らず割当られ、なかには一軒で60人も泊めることに協力した家もあった。それでも不足し、寺・集会場・弘法堂なども宿舎となった。

工事は、昼夜別なしの突貫工事で進められ、20年6月には一部機械も設置され、工員140人程の第一陣が就業した。
敗戦後、機械類は賠償品として引揚げられた。
また、平牧では火薬処理のミスから昭和21年2月21日に死傷者173人が出た。

『図説可児・加茂の歴史 目で見る可茂地域二市二郡の歴史』(昭和60年)より

これにより、久々利柿下の地下工場は、名古屋の三菱発動機(飛行機エンジンなどを製造する重要企業)の疎開用のもので、昭和19(1944)年12月に着工し、20年6月には実際に工員140人が就業を開始したとあるから、全体の一部ではあったとしても、この地下工場は実際の稼働に至っていた可能性がある。(これはかなり珍しい)

また、戦後はマッシュルーム栽培に利用されたと、過去形の表現になっていた。
もしかしたら昭和60年当時には既にこの利用は終息していたのかもしれない。
それはともかく、同じ町内の羽崎地区の地下工場跡では「洞窟まつり」が行われているという記述はなかなか衝撃的だ。今も行われている?

なお、地下工場跡の転用方法としては、上記文献にあるようなマッシュルーム・椎茸栽培だけでなく、ウドの栽培を行っていたという情報もある(地元にお住まいの読者様のコメントより)。
区画ごと、あるいは年代ごとに、様々な作物の生産が試みられたのではないだろうか。

以上紹介したような地誌的文献に加え、戦時中のいわゆる強制労働や、戦後の平和学習をテーマとした論述においても、久々利の地下工場についての言及が近年も行われていることが分かった。
例えば、平成11(1999)年11月に刊行された雑誌『民医連医療 (328)』の記事「地下軍需工業跡を訪れて平和をテーマにした体験研修」に、次のような記述があった。

 可児市久々利地下軍需工場の概要

地下壕といえば長野の松本大本営や、沖縄の住民や軍が使用したものが有名ですが、地下壕は、全国各地にあります。
1944年12月から1945年の8月初旬まで掘られたこの(久々利の)地下軍需工場は、総延長7015mに及ぶ精密な38本のトンネルからできていて、小高い丘陵の地下に縦横にはりめぐらされています。十分な調査がなされていないまま50数年の歴史が経過しています。一番大きなトンネルは、ここ数年前まで市の生活道路として活用されてきました。しかし、ほとんどの地下壕の入口は、大人が背を丸くし、かがんで入るぐらいのものですが、中に入っていくと高さ4〜5m、幅4mぐらいほどに大きくなっていきます。

『民医連医療 (328)』「地下軍需工業跡を訪れて平和をテーマにした体験研修」(平成11年)より

このように最近の文献では、久々利の地下工場跡の総延長(7015m!)トンネルの総数(38本!)が記載されているなど、だいぶ具体的な数字が出ており、「一番大きなトンネルはここ数年前まで市の生活道路として活用されてきました」というように、市道トンネルとしての活用についての言及も初めて確認できた。そのうえで、これが過去形の表現になっていることから、平成11(1999)年の時点で、既に道路トンネルとしては利用を中止していた(道路法的には平成16年度時点でも供用中であったようだが)ことも判明した。






以上見てきたような国内の文献によって、確かに久々利には大規模な地下軍需工場跡が存在し、その跡地は戦後にキノコ栽培施設や生活道路として活用されていたという、私が現地で見た景色を裏付ける記述を確認することができた。
だが、今回の調査対象には、もう一つの“当事者”が存在している。
それは、我が国がこの地下施設によって対峙しようとしていた敵対の“当事者”である。

ノースカロライナ大学が運営する電子図書館ibiblioに公開されている1947年の米政府文書UNDERGROUND PRODUCTION OF JAPANESE AIRCRAFTは、米国戦略爆撃調査委員会が1945年9月から日本国内をはじめとする日本軍の展開地域を調査してまとめた、日本軍の航空戦略や航空機生産に関わる地下施設ついての包括的な英文の報告書である(序文より)。

この資料には調査者が(終戦直後の)地下軍需工場で撮影した多数の写真や、接収した資料を元にしたとみられる多数の図面などが収録されており、同資料の第2章「UNDERGROUND PLANTS OF MITSUBISHI AIRCRAFT CO.」に、「KUKURI」という項目があった。
以下、当該項目の本文を翻訳したものを掲載する。

 KUKURI

三菱第4エンジン工場の久々利工場は、名古屋の北東約20マイル、広見の南東3マイルの丘陵地帯に位置していました。
堆積岩の尾根に、全長23000フィート(約7010m)に及ぶ38本のトンネルからなる精巧なネットワークが掘削されました。計画総面積は360000平方フィート(約33440平方メートル)で、そのうち270000平方フィート(約25000平方メートル)が完成しました。トンネルの断面は幅16フィート(約4.9m)、高さ11.5フィート(約3.5m)でした。

建設中、トンネルは丘陵を完全に貫通して掘削され、工作機械を各トンネルに直接搬入できるようにしました。機械設置後は、トンネルを封鎖する予定でした。そして、3つのトンネル以外の全ての入口を隠して、それらのトンネルだけが唯一の入口になるようにしました。

計画されていた800台の機械のうち164台が地下に設置されました。これらの機械はトンネルの両側に並べられ、中央には幅約4フィート(約1.2m)の通路が残されました。この工場はエンジンを製造する予定でしたが、実際の生産は達成されませんでした。
これらのトンネルは日本で見られるものの中でも最も優れたものの一つでした。非常に乾燥しており、よく整備され、床は滑らかで広々としていました。

久々利は1945年11月3日に視察されました。

『UNDERGROUND PRODUCTION OF JAPANESE AIRCRAFT』(1947年)より

このような詳細は報告が成されており、国内の最近の文書に登場しているトンネルの総延長や本数などの数字は、おそらくこの米国文書を元にしている。
また、前述したように多数の写真と図面も掲載されており、久々利については次のような全体図が!!!



『UNDERGROUND PRODUCTION OF JAPANESE AIRCRAFT』より

これが、戦時中に計画・建設が進められた久々利地下軍需工場の全体計画図だ!

全体が二つのブロックに分れており、いずれも南東―北西方向に概ね平行する形で掘られたトンネルと、それらをいくつかのブロックごとに結ぶ横坑によって構成された碁盤目状の配置である。これらの総延長が約7000mあったということだが、凡例によって終戦時点までの掘削の進捗状況も4段階に表現されている。
すなわち、「パイロットトンネル」として表現されている部分は何らかの掘削が行われており、薄いグレーの部分は拡幅工事中、濃いグレーの部分は拡幅が完了して完成した部分である。(残る白い部分は未掘削)

また、この図にも関係する内容で、先ほど引用した本文に大変興味深いことが書いてあった(下線部分)。
すなわち、洞内への機械の搬入のために一旦は全てのトンネルを貫通の形で掘抜くが、機械の搬入後に坑口の大半を埋め戻し、最終的に3つの出入口だけを残すことになっていたという。
この図面でも大半の開口部が破線で描かれているが、この破線部分は機械搬入後に埋め戻す計画であったのだと思う。

そして、この図面には後に「柿下トンネル」となる坑道も、他の坑道と区別なく描かれている。
チェンジ後の画像に、その位置を示した。

これは、私がマッピングした洞内地図との対照や、地形図との重ね合わせ(↓)から推測した内容だ。


このように最新の地理院地図と図面を重ねてみると、久々利集落南方の二つの丘の地下に、久々利の町をそのまま収納出来そうなほど広大な地下工場が建設されていたことが分かる。
そしてその無数にあった坑道のうちのたった一つだけが、終戦後しばらくしてから柿下トンネルという新たな使命を与えられて甦ったのである。

また私は探索中、柿下トンネルの南北の出入口付近の坑道は、洞内の中央付近よりも断面が小さいのではないかということを書いたが、これも事実であった。そしてその原因も判明した。すなわち、南北出入口付近の坑道は、機械の搬入後は速やかに埋め戻される予定だったから、機械の据え付けを行うべき洞央部の坑道よりもともと小さい断面で掘られていたのだ。

したがって、もし工場の建設がさらに進展していれば、柿下トンネルの本坑は南北共に埋め戻されていたはずで、その場合は後のトンネルとしての再開はなかったと思われる!
これを知った瞬間は、あの柿下トンネルが、それほどにか細い運命を辿って誕生したものだったということに、震えが走った。
私が洞内で目にした【埋め戻された坑道の一部】も、戦後の埋め戻しではなく、機械据え置き後の開口部に対して行われた埋め戻しだったのだろう。



(久々利の機械工場)

(久々利工場。工作機械の設置に使われる小トンネル)

(久々利工場。2列に並んだ工作機械)

(久々利工場。工作機械の設置中)

全て『UNDERGROUND PRODUCTION OF JAPANESE AIRCRAFT』より

これら4点の写真も全て久々利工場で撮影されたものだ。各括弧内はキャプションの意訳文。

これが本当に私が探索した地下空間の過去の姿かと、実際に機械が設置され灯りも点されている状況に驚かされた。
そして、もしこのような状況のまま今も放置されていたら、さしもの私も怖じ気づいてしまって今回の探索より遙かに手前で引き返したかもしれない。
正直、戦争中の写真には恐怖を感じるものが多くあるが、これらもそうだった。私が愛する国の景色だというのに愛着を感じられない…。

こんな恐ろしい地下空間が、柿下トンネルの生まれたままの姿だったのだ……。



『TH AF NEWS』(2008年)より

なお、上記4枚のうち2枚目の写真と同じ場所を撮影したとみられるカラー写真も2008年12月のTH AF NEWSに発見された(→)。

これまた写っている人物の印象などから国内の風景に見えないところがあるが、「Kukuri Plant Entrance」の注釈や、写っているものの配置などから、前出の「工作機械の設置に使われる小トンネル」を撮影した写真と同一地点だと分かる。

で、これはもしかしたらであるが、現在の柿下トンネルの久々利側坑口であるのかもしれない。

サイズ感や坑口の岩の形などがそこそこ似通っているし、おそらく地上の道から辿り着きやすい場所に開口していたからこそ柿下トンネルとして転用されたのだと思うので、素質はあると思う。
まあ、存在していたとされる開口部の総数に対して、根拠としてはいささか弱いかもしれないが…。




今回の調査は、以上である。

久々利地下工場について言及している文献は他にも多数見つかっているが、基本的には上記米軍の報告書を下敷きにしたものや戦時中に建設に従事した方の証言に基づくものが多く、終戦後の利活用、特に道路トンネルとしての利用について言及しているものはとても少なかった。
そのため、柿下トンネルの特殊性の要とも言える部分については分からないことが多い。
もし事情をご存知の方がおられたら教えて欲しい。






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