隧道レポート 倉俣へっつりの“雪中隧道” 後編

所在地 新潟県十日町市
探索日 2019.11.05
公開日 2023.06.30

 豪雪地の冬を救う坑(あな)


2019/11/05 14:13 《現在地》

ストビューによって見つけた“怪しい暗がり”の正体は、まさしく閉ざされた隧道の坑口だった。
これが『中里村史』で読んだ「倉俣へっつりの雪中隧道」である証拠はまだないが、状況的に間違いはないと思う。

発見はもちろん嬉しかったが、目の前の容易ならざる状況が、すぐに私を冷静にさせる。
まず、坑口前はもの凄い激藪だ。左の写真はこれでも邪魔な草木を少し取り除いてから撮影している。
坑口および周囲の道の状況は、私が藪の中で撮影したこれらの写真を見るよりも、藪のない時期に撮影されたストビューの画像を見て貰った方が早いだろう。

坑口はいかにも人道トンネルらしい小さなもので、コンクリートで巻き立てられた坑道が地表に突出した、いわゆる坑門という壁を持たない非常にシンプルなデザインだった。それゆえか扁額なども見当らず、トンネル名は不明のままだ。

加えて、その坑口は人為的に封鎖されていた。
地面から1.4mくらいの高さまではコンクリートの壁で、その上の残り0.6m程度は見慣れた異形鉄筋の格子によって、それぞれ鎖されていたのである。(→)

明らかに立入禁止というか、廃止済の隧道だから入るなという意思が感じられる状況だが、それでも物理的には立ち入ることが可能だった。
上部のコンクリート格子の隙間から、ヌコの動きによって。

チェンジ後の画像は、坑口前で振り返って撮影した。
これを撮影した直後に、私は、 に ゅ る ん 。




入っちゃった。

これは、入っちゃった直後に撮影した全天球画像だ。

別にそういう意識で撮影した記憶はないのだが、もろに、

モンスターに追いかけられて命からがら出口に辿り着いたのに、その出口が塞がれていることに気付いて絶望する弱小冒険者だ。

それはさておき、こうして私の身体の大きさと比較しても、よくこの隙間を通ったものだ。どうしても入りたかったらしい。(苦笑)




14:16 (内部侵入0分後)

といったわけで、坑口前に辿り着いて約4分後に、私は隧道内に足を踏み入れた。

外から格子越しに覗いた時点で分かっていたが、洞内は入ってすぐ左へカーブしており、出口は見通せない。
記録によれば、全長は271mあったはずで、歩いて探索する廃隧道としては決して短い距離ではない。
そして当然のように風通りは感じられない。代わりに、嗅ぎ慣れたカビと土とコウモリ糞が渾然一体になった異臭がした。

率直に言って、ここに“快”を感じる人間というのはまずいないと思うが(もちろん私もそう)、
それを承知で鉄格子を越えてきたのであるから、進める限りは奥へ進む所存である。
覚悟を決めて、洞奥へと出発しよう。



洞内の第一印象は、狭い、ということだ。
これは明らかに人道トンネルのサイズ感であり、数字にすると幅1.8m、高さ2m程度と思われた。左右の壁に同時に手を付けられ、天井も触れるサイズだ。これで奥行きは300m近くあるうえに、おそらく閉塞している(南口が発見出来ていないので)という状況は、とても圧迫感があった。

雪中隧道は、冬期間除雪が出来ない雪崩危険地帯を、人だけでも安全に通過させようという目的なので、基本的に歩行者だけが通れる人道トンネルである。
だから断面がこのように小さく、そして照明が設置されている。車ならばヘッドライトに頼って照明がない隧道も進めるだろうが、歩行者はそうはいかない。

写真は、入ってすぐのところに設置されていた電球式の照明の残骸だ。
この先も点々と同じ照明の残骸が現れ続けた。




入ってすぐにある左カーブを曲がったところだ。
ここからはもう、外からは覗けない未知の領域だ。

内部にカーブが多いことも、雪中隧道の特徴だ。
これは雪中隧道の多くが、山の出っ張りではなく、雪崩が多発する山の凹んだ部分に掘ってあるせいだ。
そんなカーブした隧道を地形に沿って掘り進むには高度な測量が必要で、しかも地表に近い部分は地質が軟弱なことも多いため、雪中隧道の建設は自然難工事となって、完成には時間を費やすことが多かった。
この隧道の場合も、昭和33年の着工から昭和42年の完成まで9年もの月日を費やした記録があり、工事体制は不明ながらも、長さの割りに時間がかかっているといえる。

もっとも、雪中隧道の施工に時間がかかったのは、技術的な意味での難工事というだけでなく、その工事体制の貧弱さに起因することも多かった。



工事体制の貧弱さとは、予算不足とか、“手掘り”のことである。
人道トンネルである雪中隧道が利する範囲というのはかなり狭いことが多く、大半の道路工事が公共事業として行政主導で進められるようになっていた戦後であっても、近隣集落の住民たちが自ら計画し、施工までも自らが農閑期に鍬をツルハシに持ち替えて掘り進めた(いわゆる“手掘り”)ケースがあった。(例えば昭和47年に着工し52年に完成した山古志村の雪中隧道はそうだった。途中からは公共事業として施工されたが)

この隧道の場合はどうだろう。
工事に9年もかかっている点には“手掘り”感があるが、少なくとも最終段階の施工を行ったのは専門の土木会社だと思う。内壁が綺麗にコンクリートで巻き立てられており、これは専門職の技に違いない。

最初のカーブ以降、隧道は真っ直ぐに進んでいる。
ただ、しっかりとした下りの勾配がずっと続いている。地上に並走している県道の勾配をなぞっているものだと思う。トンネルの勾配としては結構な急さだ。この地中へ“降りていく”という感覚は、私の気持ちを余計に敏感にさせた。狭さを、いつも以上に息苦しく感じる。



14:18 (入洞2分後) 《現在地》

おっとこれは……。
寡黙だった隧道が、いま初めて、“短い言葉”を発してくれた。
向かって左側の壁に、時間の経過を感じさせない白い綺麗なペンキ文字が残っていた。

「昭.41年度 50M起点|終点」

この隧道の竣工は昭和42(1967)年3月とされている。昭和42年3月は昭和41年度末だ。したがってこの文字は、完成時に描かれたのかも知れない。
意味するところは、この地点が昭和41年度の工事の終点で、かつ同年の工事起点から50mの位置ということだろうか。
ここから50m前といえば、ちょうど私が入ってきた坑口(北口)が該当すると思う。

この解釈が正しければ、隧道は南から北へ片押しで掘り進められたと考えられる。
そして多分これは正しい。なぜなら、この隧道はおそらく南から北への一方的な上り勾配になっており、ならば南から北へ掘り進めるのが合理的だ。



左側の壁から水が音を立てて勢いよく吹き出していた。それもなん筋も。
壁には水抜きのための孔が予め開けられていたようだ。異常出水というわけではなく、予め想定されていたもののように見える。
洞内へ流れ込んだ水は、洞床両脇にある小さな側溝へ導かれ、洞奥に流れていた。相変わらず下り勾配が続いている。

現在地は、北口から70m付近である。
ここはもしかしたら、県道の【大樽沢橋がある沢】の底を潜る部分かも知れない。
この水の出方も、沢の底だと考えると辻褄が合う。




出水地点を過ぎた80m付近には、強烈な左カーブが待っていた。人道でなければ許されない、狭いブラインドの強烈急カーブ。
それを一息に曲がった先は、再びの直線だった。そして引き続きの下り坂である。
壁や洞床は相変わらず廃隧道らしからぬ綺麗さを保っている。壊れた照明さえ修理すれば、現役の雪中隧道と言われても信じられるだろう。

ところで、この動画の8秒付近でブオーンという唸るような音が聞こえるが、これは地上を走る車の走行音だ。入口から聞こえたのではなく、隧道の側壁を通して地上の音が聞こえた。相当に浅いところを通っているのだと分かる。



ますます深まる地底の闇。下り続ける先に未だ出口が見えない閉塞感。おそらくこの隧道に辿り着ける出口はない。そんな予感がする。
音を立てずに洞床を流れゆく水の行く手は、どうなっている?
いい予感はない。

雪国の冬のあの閉塞感は、そこで暮らしたことがある者にしか共感されないかもしれない。
日差しを忘れた鈍色の日々が、真綿で首を絞めるように、人の心に苦しみを与えてくる。
そこに、除雪された道が通じていること以上の救いが、安心感が、あるだろうか。
この暗く薄気味の悪い隧道が救い。そんな慎ましい雪国のリアルが、ここにはあった。




14:20 (入洞4分後) 《現在地》

坑口から100mを越えているのは間違いないと思うが、距離を測る術は進むほど失われていく。先ほどの急カーブのせいで、振り返った入口の見え方から距離を推測することも出来なくなった。経過した時間も距離を知る拠り所だが、当然正確性は期しがたい。

そんな中、内壁の一画に、今までなかった奇妙な形状をした部分を発見した。

チェンジ後の画像が、その奇妙な部分のアップである。

これは、横坑を塞いだ痕だと思う。

側壁部分はほぼ境目が見えないくらい丁寧にコンクリートで塞いでいるが、天井のアーチに掛る部分だけは後からコンクリートで埋めることが難しく、こういう奇妙な凹みが残ってしまったのだろう。
この隧道に横坑があった可能性が極めて高くなった。


雪中隧道に横坑はつきものだ。
同じ旧中里村内に存在した昭和26(1951)年生まれで素掘りの“瀬戸口”雪中隧道にも、全長160mの中間付近に横坑が1本あった。

多くの雪中隧道は地表に近いところを地形に沿って掘ってあるので、横坑を掘ることで比較的簡単に地上へ繋がることができる。
横坑を掘ることで、測量の基準作成、同時に複数箇所から隧道を掘り進めることによる工期短縮、ズリや地下水の排出、換気、明り採りなど、一石四鳥五鳥の効果が期待出来た。
完成後もわざわざ塞がず残されることが多かったが、ここではみっちりと塞いでいた。

いつ塞いだのかは分からない。
残念ながらこの横坑が地表に通じる部分は、おそらく倉俣スノーシェッドの側壁の裏であり、地上側を確認出来ない。
スノーシェッドは平成15年〜20年の完成だが、それまでは開口していたのだろうか。



次回、決着。


 下り続けた隧道の果ては……


14:21 (入洞5分後)

手を伸ばせば両方の壁を同時に触り、天井も触ることが出来る、そんな人道サイズ廃隧道の“底”は未だ見えない。
塞がれた横坑痕を過ぎた後も洞内の様子に目立った変化はなく、大人しくまっすぐに下り続けている。
天井から落ちた電線と照明が這う洞床は土っぽい風合で、湿っているが、泥濘や凹凸はほとんどなく歩き易かった。セメントや石灰が混ぜ込まれた土なのかも知れない。

チェンジ後の画像は、洞床の両側に設けられた小さな側溝の様子だ。勾配に従って水が勢いよく流れている。狭い洞内の勾配は写真では伝わりづらいと思うが、側溝を流れる水の勢いは、その証拠である。

それにしてもこの隧道、照明の故障を除いては、内部の破壊や荒廃がほとんど見られない。
また、人里や現道に近い廃隧道ではありがちな、廃止後の倉庫的利用や不法投棄による物品の散乱、侵入者による落書きなども全く見られなった。
なんというか、こんなに道から近いところにありながら(ストビューでも発見出来るほどに)、廃止後はほとんど誰も立ち入っていないような印象だ。もしかしたら、封鎖と廃止が同時だったのかも知れない。



14:22 (入洞6分後) 《現在地》

だが、入洞から6分を経過したところで、ついに大きな変化と遭遇した。

ここまでの展開(下り坂+流れる水)から私が特に心配していた水没の出現だった。

覚悟はしてはいたのだが、ここまでがとても平穏だっただけに、廃隧道という現実を突きつけられた衝撃があった。
ここまでほとんど立ち止らず進んで来たのだが、当然ここでは足が止まった。




足を止め、水没のその先の坑道へ視線を射す。

水没区間は15mくらいしかなく、その先に、土砂の山が見えた。

それと同時に始まる、洞内3度目となる左カーブ。しかも凄く急な。

なんというオブローダー泣かせな絶妙な配置だろう!

多分あの土山の正体は、隧道を塞ぐために意図的に持ち込まれた土砂だと思う。
そしてあの左カーブの奥は、元々この隧道の南口(出口)だったのではないだろうか。
ここから土砂が隧道を完全に塞いでいるのが見えたなら、わざわざ水溜まりで足を濡らすこともなかったのに、カーブのせいで奥を確かめることができない。



というわけで、仕方なく足を濡らす決断をした。
足が濡れても乾かせば元通りになるが、確かめられる事実を確かめなかったことで残る小さな疑念は、場合によっては死ぬまで付きまとうだろうからな。しっかりケリを付けて帰ることにする。

……ざぶざぶ……。

大きな下り勾配が付いているために、短い距離の水没でも、最後は30cmくらいの水深になった。長靴だったらギリギリ耐えられたかも。
水を上がると、直ちに土砂の山と左カーブが始まる。

ところで、この写真の下の方に、ほとんど水没した背の低いコンクリート壁が写っているが、これは隧道の封鎖を前提とした工作物であり、奥にある土砂が封鎖目的で外から持ち込まれたものだと考える根拠の一つだ。
天井に目を向けると、よく見る小さなコウモリたちが群集して休んでいた。



想像以上に奥まで左カーブが続いていて、土砂の山に取り付いてもなお、最奥までは見通せなかった。
土砂は高く積まれていて、天井と土砂の間には50cmくらいしか残っていない。
進むためには、苦しい姿勢を余儀なくされる。

これが長く続いたら地獄だ……、早く終わってくれ…。




這い進むこと数メートル。

急カーブが終わり、その先には再び直線の坑道があるらしいことが、見えてきたが……

!!!



14:23 (入洞7分後)

最終の閉塞壁を目視成功!

注目すべきは、隧道を塞ぐ最後の壁の直前で、内壁が綺麗にスパッと終わっていることだ。
そこが本来の南口だったのではないだろうか。だとすれば、これで元の隧道の全長271mを全て見たことになる。
また、閉塞部分の土砂にモヤシのような植物が多数発芽しているが、“隧道ヌコ”ことハクビシンが、
ここにも棲息しているのではないか。木の実を食べた彼らのフンから発芽したものと思う。



推定される現在地および雪中隧道の全体像は、上図の通りだ。

洞内は全て北口から南口への一方的な下り勾配で、おそらく両坑口には15mくらいの高低差がある。
全長は271mと記録されている。体感はもう少し短い気もしたが、カーブが多いために体感がずれたのだろう。
最後に左カーブしてから坑道が途切れていた(おそらく南口)が、こういう線形は雪中隧道の出入口でよく見られる。

なお、隧道南口の地上における位置は、現道の【倉俣スノーシェッド南口付近】と見られる。
スノーシェッドの山側擁壁の裏に埋められているようだ。同スノーシェッドの完成は平成20(2008)年なので、
その工事が行われるまでは、南口も北口と同様、県道の山側に開口していた可能性がある。
そんな昔の話しではない。どなたか記憶&記録していないだろうか?



……というわけで、洞内探索はこれにて決着。

さわやかグアノ水漬けになった靴と靴下を早く乾かしたいので、大至急地上へ戻るぞ。



地中に眠る“倉俣へっつりの雪中隧道”の透過図を描いてみた。
北口が現道よりも一段高い位置にあるのも、積雪を踏まえた工夫である。
多くの雪中隧道が、このように無雪期の道路より一段高い位置に出入口を持っている。
したがって、現道の倉俣スノーシェッドによって埋められたとみられる南口や横坑の出口も、
道路よりは一段高い位置に口を開けていたと考えて良いだろう。

現地探索、終了。



 ミニ机上調査編 〜倉俣へっつり(芋川)雪中隧道の歴史〜


『中里村史』に見つけたごく短い記述から始まった今回の雪中隧道探索だが、帰宅後に改めて机上調査を行ったところ、この隧道に関する記述のある文献を追加で見つけることが出来た。
新潟県民俗学会が昭和10(1935)年から年4回刊行している雑誌『古志路』の第296号(1990年8月発行)収録の記事「越後方言の雪語彙(7)」に、「セッチューズイドー」という項目があり、以下の解説文が掲載されていた。

セッチューズイドー
雪中隧道。雪崩の常襲地を安全に通行するために掘り抜かれた、細い手掘りの坑道。角間との間の瀬戸峡に。<中里村東田尻> 津南町駒返りとの間の通称ヘッツリに。<中里村芋川>

『古志路(第296号)』「越後方言の雪語彙(7)」より

この「越後方言の雪語彙」という連載は、筆者である高橋実氏が中心となって、歴史的に越後方言で利用される雪に関係するあらゆる語彙(ことば)を、さまざまな文献や現地調査によって収集したものである。交通と関係する語彙も多く収録されており、その中にこの項目があった。このレポートの最初に、「雪中隧道は特定の隧道名ではなく一般名詞だ」と書いた通りである。
解説文中では具体例としていずれも中里村にあった2箇所の雪中隧道が例示されている。前者は以前探索した瀬戸口雪中隧道であり、後者が今回探索した隧道を指している。

また、『中里村史』をよく読み込むと、探索前は見逃していた重要な記述を見つけることが出来た。
後に雪中隧道が建設されることになる、“へつり”と呼ばれた難所における交通史である。
この場所が広い中里村の中でも特に雪崩の難所として恐れられていたことが分かる内容なので、少し長いが紹介したい。

以下に、村内有数のナゼバを挙げてみよう。(注:ナゼとは全層雪崩のこと。最も恐れられた)
筆頭には、旧倉俣村の入り口を扼していた“ヘツリ”に指を折らねばならない。この清津川西岸の難所は、古く、川原まで一気に落ち込む幅広く長大な急斜面に、呼び名どおり、ヘツラねば通れぬような細道が危うげに刻まれていた。この一帯の小字名も“ヘツリ道”という。今や道の跡形もないが、そもそも夏場のうちから、“ヘツリ”は交通の難所をなしていたものである。倉俣村の村道としてナツミチが改修されてからも、冬の季節ともなれば、絶えず膨大な量のナゼとワヤ(注:ワヤは表層雪崩のこと)が崩落してきては、道を埋め尽くした。

『中里村史 通史編 下巻』より

詳しい年代は記事に書かれていないが、「旧倉俣村の入り口を扼する」と表現されているとおり清津川西岸の津南町と旧倉俣村の境にあった“ヘツリ”の難所は、古くは夏場であっても通行困難なほどの極めて幅の狭いの崖道だったという。
右図は昭和4(1929)年の地形図だが、確かに崖際の狭いところを危うげに道が通っている。しかしこれでも、「倉俣村の村道としてナツミチが改修され」た後の姿かもしれない。

村史の記述はさらに続く。

この道が“ヘツリ”を通る部分の延長は、200m以上もあり、しかも急坂をなしている。芋川から津南町駒返りへ、冬期に“ヘツリ”経由で直行することは、自殺行為そのものというほかはなく、ここに近づく者は絶無であった。大正13年5月15日、雪を少々割っておいた“へつり”を通り、十日町市姿から芋川へ嫁いできた一女性は、なお大量の残雪がここに堆くなっていたさまを追憶している。旧倉俣村の関門はこうして雪崩に閉ざされるために、その代替えとして、清津川対岸の川原新田との間にオサバシを架けて迂回路としていた。

『中里村史 通史編 下巻』より

冬の“ヘツリ”を通過することは自殺行為に等しいから、冬になると水量が減少する清津川の河原に対岸へ結ぶオサバシ(筬橋=織機の筬(おさ)のような形状をした梯子状の簡易な橋)を架けることで、“ヘツリ”を迂回して通行していた。オサバシによって雪崩の常襲地帯を迂回することは、瀬戸口雪中隧道が建設されるまでの瀬戸峡でも行われていた記録があり、当地方では毎年恒例の出来事であった。
芋川のオサバシについて、さらに次のような記述や写真もあった。


『中里村史 通史編 下巻』より

芋川と川原新田の間のオサバシは、ナゼとワヤの村内きっての多発地帯をなす、通称“ヘツリ”または“ヘッツリ”の交通が、冬期間を通じて不可能になったため、芋川から津南町駒返りへ出る道の迂回路として、毎年11月15日ごろに架けられた。川原新田はコムラなので、ヨネーブシンとして全戸から人夫を出したが、芋川からはそれほど大勢が出たわけではない。橋桁になるスギ丸太は、たいてい芋川で負担し、ボヨは河原の柳などを伐って使った。架橋の位置は、その秋の最も川幅の狭い地点が選ばれたため、毎年のように移動した。オサバシが上の方に架かると米の値段が上がり、下の方に架かると下がる、という俗信まで成立していた。

『中里村史 通史編 下巻』より

芋川のオサバシは、冬期間の“へつり”の迂回のため、毎年の秋に両岸の村が分担して架設した。右写真のような危うげな橋を、広い河原の中で毎年変化する清津川の流れに合わせて架け替えたのである。こうした作業は当然、住民にとって大きな負担になったが、それは生活の礎となる橋であり、行わないという選択肢は考えられなかったであろう。
だが、そうして架けた橋が使えなくなってしまう春こそが、最も事故がおこりやすい季節だった。

ところが、この芋川・川原新田のオサバシは、ハルミズによっていち早く流されてしまう年が多かった。水勢の物凄いハルカワに再度架橋するなどは、思いもよらない。そこで、冬の間ワヤとナゼの跳梁に任せていた“ヘツリ”の道を、急遽復活させることになったが、といっても、硬い雪の斜面に足掛かりを刻んでおく程度のことしかできなかった。旧倉俣村へ津南町から嫁いできている者の数は、決して少なくない。彼女らは、4月2日の実家へのセックドマリに、まだナゼの危険の残る“ヘツリ”を、恐る恐る通り抜けていた。駒返り経由で織機を橇で引いてきて、強引に“ヘツリ”の雪上を通過したところ、その直後に大きなナゼが崩落し、危機一髪で難を逃れた者が清田山にある。

『中里村史 通史編 下巻』より

冬山登山をしたことがある人ならば、上記された内容の“怖さ”が一層リアルに感じられるかと思う。しかも、春先の雪崩に磨かれた圧雪の急斜面に刻まれた危ういステップを命がけで往来したのは、主に津南から倉俣へ嫁いできた女性たちであったというのだから、逞しいにも程がある。
そして、この一連の記述の最後に、待望となる雪中隧道が現れるのだ。次のような記述で。

近年、“ヘツリ”には、セッチューズイドーと呼ばれる271mの坑道が掘りぬかれた。頭のつかえるような細い穴であったが、大量の雪崩防止柵が打ち込まれて“ヘツリ”が無雪化されるまで、画期的な冬の交通路の位置を保っていた。

『中里村史 通史編 下巻』より

既に紹介しているこの村史の別の箇所の記述により、雪中隧道は昭和33(1958)年に着工され、42(1967)年に完成していることが分かっている。
また、村史の発行は平成元(1989)年なのだが、その当時既に「大量の雪崩防止柵が打ち込まれて“ヘツリ”が無雪化」していたことも分かる。これは言うまでもなく、現在の県道の整備が進展し、冬期間も安全に車が通行出来る道路になっていたことを意味している。したがって、この時点で既に雪中隧道の積極的な利用は行われていなかったと思われる。

村史の記述はこの時代までだが、平成時代の中頃に県道の倉俣スノーシェッドが整備され、一層万全な体制となった。
かつて冬場に近づくことは自殺行為とまで言われた“ヘツリ”の難所は、さらに過去帳の奥深くへと仕舞い込まれ、証しだった雪中隧道も、封鎖・閉塞されたのである。


倉俣スノーシェッド建設当時の雪中隧道の状況については、地元出身の読者さまK氏より、次のような情報を頂いた。これは文献調査のミッシングピースを埋める重要な証言を含んでいる。

近くの倉俣集落出身の者です。実家がここのレポートで取り上げられるなんて!と感動しています。
「へっつり」は他の地域で言う「へつり」がなまったものだと思いますが、若い世代にはすでに認識されていない地名な気がします。旧倉俣小学校では毎年、全校生徒が書いた文集を作るのですが、その文集の題名が「へっつり」でした。地域を象徴する交通難所から文集名が取られていたのだと思いますが、私が在学していた1990年代末〜2000年代の頭頃には、すでに隧道地点が交通難所という認識はなくなり、その地点を指す地名も日常で不要になっていたのだと思います。小学生の私も変な名前だなあと思っていました。地名が由来だと知ったのは大人になってからです。

隧道の入り口ですが、スノーシェッドの工事当時は、工事の関係で藪がなく、車道からよく見えました。その当時はまだ封鎖されていませんでしたが、工事の進捗と主にいつの間にか格子が入っていた記憶があります。

読者様の情報提供コメントより

雪中隧道が封鎖されたのは、スノーシェッドの着工から完成までの期間であったという有力な証言であるが(平成15(2003)年にスノーシェッドの北半分が、その5年後に南側半分が完成している)、旧倉俣小学校が毎年発行する文集の題名が「へっつり」だというのも大変印象的な内容だと思う。如何にこの難所が、地域にとって思い出深いものであったかが伺える。オブローダー養成学校でもなければ、なかなかこの題名は思いつかないぞ。


――といったところまで、主に村史の記述から拾った“へつり”の交通史である。
続いては、雪中隧道により焦点を当てて、その建設から完成までの経過を探ってみたい。
幸いにしてこの部分についても、前記した情報提供者K氏や、当サイトの机上調査サポーターるくす氏(Twitter:@lux_0)らの協力によって、探索前は知らなかった有力な情報源を見つけることが出来た。

それは、旧中里村が昭和30(1955)年の開村から平成17(2005)年の閉村まで737号を発行した村広報誌『なかさと』である。
合併後の十日町市ホームページに全てPDF化したものが公開されている
同誌よりまず紹介したいのは、着工当初の記事である昭和33年3月15日号より、その名も「ヘツリに雪中隧道」だ。
非常に有用かつ興味深い内容なので、全文を転載する。


『なかさと 昭和33年3月15日号』より

県道田代―越後田沢停車場線の通称ヘッツリに、県単事業として雪中隧道が33年度において開さくされることになった。
計画によれば総工費約400万円で、中3分の1が地元負担で延長130m(ササリ沢から大樽沢間)巾1.8m、高さ2mとなっている。
この工事が施行されることによって、現在冬期間川原新田を通じての仮設道路の必要がなくなり、交通の安全が期されることになる訳である。
なお今日冬期間といえども、交通不能な道路が存在していたということは、当局も全国的にもないことであると、驚いている。

『なかさと 昭和33年3月15日号』より

新情報が盛りだくさんで興奮する。
1行目から順に見ていくが、昭和33年当時の県道の路線名は田代越後田沢停車場線であり現在(中深見越後田沢停車場線)とは少しだけ違っていた。これは後に終点側が少し延長されたことによるもので、“ヘツリ”周辺は現在と同じ経路だった。

その“ヘツリ”に、県単事業として雪中隧道が昭和33年度に開削されることが決定したということが記事の主題である。県単事業とは国の補助金を受けないで県が実施する事業のことだ。

下線部には当時の計画が簡潔にまとめられている。巾(1.8m)と高さ(2m)は実際に完成した隧道と大きな差がないと思うが、総工費約400万円という見込みは、最終的には1300万円(村史より)が投じられていることと比べるとかなり足りていない。そのうえ、全長も完成時は271mとなるものが、この時点では130mとあって、半分以下である。

全長が異なっていることは特に興味深い。工事の途中で、計画が変更されたのではないだろうか。
記事には、延長130mの隧道は、ササリ沢と大樽沢を結ぶものだと書いてある。残念ながらササリ沢がどこかは分からないが、大樽沢については、現地に銘板などがないので私も見逃していたが、「大樽沢橋」が県道上のこの位置に存在しているのである。(本編に登場した【この橋】は「小樽沢橋」であり異なる)


「ササリ沢から大樽沢」「延長130m」というキーワードから想像するに、昭和33年の着工当初の計画では、雪中隧道は、現在の南口(大樽沢)と、洞内にある今は塞がれている【横坑】までの区間(最終的な全長の約半分、おそらく130m程度である)だけのものだったのかもしれない。

次の行では、雪中隧道が建設されることによる効用が述べられている。
冬期間の“川原新田”を通る“仮設道路”による迂回交通が解消されるとある。これは村史にも出て来た“オサバシ”を使ったルートのことだろう。

そして最後の行では、やや突拍子もないことが述べられているように思う。冬期間に交通不能となる道路が存在することに当局(国のことか?)「全国的にもないことであると驚いている」というのは、さすがに現実と乖離している気がする。当時はむしろ、冬期間交通不能にならない道路の方が遙かに少なかったはずである。

ところで、記事に掲載されているモノクロの写真は、何を写しているのだろうか。
砂利道と崖のような感じがするが、そこに2本の折れ線が書き加えられている? 
折れ線は雪中隧道の予定位置かと思ったが、それにしては不自然な位置だし、不思議な写真である。



雪中隧道の工事は県単事業として新潟県が3分の2、残りを地元の中里村が負担する形で、昭和33(1958)年度から予算が付いて着工した。
完成は昭和41年度末(昭和42年3月)であるから、9年もの長い月日を要したのだが、この間に発行された広報誌の中に、工事の進行を伝えるものがいくつか見つかっている。

例えば昭和33年11月15日号の「村政経過報告」には、「へつり雪中隧道工事、本年度45万円着工の見込み」とある。
そして翌年昭和34年3月15日号の「予算内容の概況」には、「県道の工事負担金としてヘッツリ雪中墜道が継続事業として更に30万円」とあり、2年目の予算が執行されている。
これらの額はあくまでも村の負担金だから、県はこの2倍の額を投入しているとみられるが、県側の資料は見つかっていない。

さらに翌年昭和35年3月15日号の「予算の概要」には、「継続事業として、へつりの雪中隧道30m」という内容があり、今度は金額ではなく施行延長ベースの記述になっている。
仮に毎年30mずつ施行すれば、9年間で270mとなり、完成した隧道の全長と等しくなるので、毎年30mずつ安定したペースで建設を進めていた可能性が高い。
なんというか、先に見た村史の記述からは、ヘツリの雪中隧道建設は村民の命に深く関わる事業というような“熱”を勝手に私は見ていたが、実際の工事は、毎年30mずつ急がず弛まず進められたとしたら、少々悠長だと感じるし、イメージが変わってくる。

だがこれは部外者である私が勝手にヒロイックな見方を好んだためであり、おそらくこの悠長さこそが、豪雪地の山村が雪中隧道の建設にリソースを傾けられる限界であり、リアルな姿だったのだろう。
住民自らが集合し独力で建設したわけではなく、あくまでも公共事業として行われているので、いろいろな事業とのバランスの中で、このようなゆっくりしたペースで建設は進められていたのだと思う。

この記事以降は、特に目立つ記事がないまま、月日が流れる。
着工8年目となる昭和41年11月15日号に、「合併十年を省りみて」という村民の座談会記事が掲載されているが、その中で「合併当時から懸案になっている問題」というテーマで、次のような発言が見られた。「まずなんといっても道路問題ですね。倉俣地区は雪季になるといまだにオサ橋だ。雪中隧道の工事も年々進んではいるが、なんとか永久橋をかけてもらいたいとおもいます」。

ここには長期化する雪中隧道の完成を前に、従来のオサバシに代わる永久橋を架けて貰いたいという要望が出ている。
昭和40年代ともなれば当地方にもモータリゼーションの波は激しく押し寄せており、もはや人道トンネルに過ぎない雪中隧道が完成しても時代遅れになりつつある。だから一年中自動車が通れる永久橋こそが欲しいという風に聞こえるのは、深読みか、穿った見方か。ちなみにこの要望の橋、雪中隧道に遅れること20年後、昭和62(1987)年に倉俣大橋として完成している。

昭和42年5月15日号に掲載されているのが、「芋川雪中隧道完成」の記事である。全文を紹介しよう。


『なかさと 昭和42年5月15日号』より

昭和33年着工以来9ヶ年の才月を要し、総工費1300万円が投じられ、昭和42年3月、芋川雪中隧道が完成した。
ここは通称「へっつり」と呼ばれており、冬期間はしばしばなだれがあり、危険な所であったが、隧道完成により、なだれによる危険はなくなった訳である。
十日町丸山工務所の請負。隧道延長271m、幅員は2m。そのうち、両側の側溝をのぞくと1.6mとなっている。
【写真は完成した雪中隧道】

『なかさと 昭和42年5月15日号』より

着工当初は延長130m、総工費400万円とされていた隧道が、どういう経過があったのかは不明のまま、最終的には延長271m、総工費1300万円で「完成」した。

一緒に掲載されている写真は、現時点で私が見つけることが出来た現役当時の唯一の写真であるとともに、おそらく現在は消失してしまった南口を撮影したものだと思う。
隧道内に出口の光のようにも見える白い点があるが、内部は直線ではないので見通せるはずがない。照明だろうか。

こうしてようやく完成した雪中隧道であったが、完成後の活躍ぶりを伝える記事はあまりない。
先ほど引用して紹介した、「頭のつかえるような細い穴であったが〜〜画期的な冬の交通路の位置を保っていた。」という村史の記述は、そのほとんど唯一のものである。

また、雪中隧道は地形図でもしばしば冷遇された。
左図は隧道完成後の地形図だが、隧道の姿はない。
隧道に並走して存在する、「ナツミチ」である県道だけが描かれている。

雪中隧道が地形図上で冷遇を受けたのは、ここだけではなく、私が把握している多くの雪中隧道に言える。冒頭に紹介した山古志村の雪中隧道などは全長600m以上あるにもかかわらず、一度も地形図に描かれたことがない。
その原因はよく分からないが、雪中隧道に共通する、すぐ隣にナツミチである車道が存在している立地のせいだと思う。
雪中隧道は独立した一個のトンネルではなく、単に道路の歩道部分を庇で覆った程度の構造物と見做されているのかも知れない。

地形図に描かれていないというのは地味な特徴のようだが、我々のような趣味の者が辿り着く可能性を決定的に小さくしている点で無視の出来ない特徴だ。


雪中隧道の完成から3年目の昭和45年1月15日号に掲載された「“村づくり”新春座談会」には、来たる70年代の展望を述べた中に、こんな村長の発言があった。
県道については、倉俣のヘツリは隧道がよいか、スノーセットがよいか、よく検討してもらい、70年代にはぜひ実現に努力したい。
言うまでもなく、人道専用である雪中隧道に代わる、冬でも自動車が通れる道路への改良が話題になっているのだ。

実際にこの区間の県道が改良されて、冬季閉鎖が解消された時期は、はっきりしない。
ただ、手元にある昭和61(1986)年版の新潟県道路地図帳には、この部分に冬季閉鎖の表示はなく、既に通年の通行が確保されていたことが分かる。
ここに倉俣スノーシェッドが誕生するのは平成時代だが、それよりかなり早い時点で、道路の拡幅や舗装、雪崩防止柵の整備等の防雪対策によって、除雪による通年の車輌通行が可能になっていたようである。

したがって雪中隧道が期待された役割を果たした期間は、10年に満たない程度だったのかもしれない。
広報誌が雪中隧道の存在に言及した最も新しい記事は、昭和60(1985)年2月10日号にある「錦糸町朝市で交流」というものだ。
記事は村おこし活動に関するもので、村内の中里クラブが東京錦糸町の朝市に出店し都民と交流を深めたという内容。
そこに……

1月17日、倉俣のへっつりのトンネル内に貯蔵しておいたダイコンをはじめシメジ、ナメコ、モチなどの特産品を2トントラックとマイクロバスに満載して出かけました。

『なかさと 昭和60年2月10日号』より

ふにゃ〜〜〜……。 1月なのに、隧道はもう倉庫代わりだ……。ダイコン置き場になっている…。

というわけで、遅くとも昭和60年には既に雪中隧道としては利用されていなかったことが分かった。
その後の隧道の歴史における最終ページは、先ほど紹介したK氏の証言の通りであろう。
倉俣スノーシェッドの建設に巻き込まれる形で、既に役目を終えていた隧道は完全に封鎖された。そして現在に至る。


雪中隧道は、生まれた最初から、車道に附属する歩道専用隧道のようなものであり、決して目立つ存在ではなかった。
だが、そんな慎ましやかな姿に魅力を感じるのは、きっと私だけではないだろう。
まだ紹介していないものを新潟県と富山県で何本か見つけているが、私が知らないものもまだまだ沢山あるはずだ。ご存知の方はぜひ教えて欲しい。



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