2008/2/26 9:46
なにか、あらかじめ仕組まれてでもいたかのような、劇的な遭遇だった。
問題の巨大堀割は、生涯初の地底湖水泳が「鍵」として必要であったかのように、それを成し遂げた私の前に初めて現れた。
遭遇した瞬間、これが探していた旧口野隧道の、後に開削を受けた姿なのだと、ほぼ確信した。
だが、地図や石碑のことを何も知らなかったら、これをただの石切場の通路と思っただろう。
何か、隧道であった証が欲しいが、今はまず、装備を回復させることが先。
冷たい風が常時吹き抜けるこの堀割で、今の私の濡れ濡れ装備は余りに悲惨だった。
堀割の機能を遺憾なく享受し、尾根の西側、沼津市側へと抜けた。
堀割が確かに道であった証として、古い道跡がその先に通じていた。
この場所は、「当レポの第5回」で到達して一旦は隧道の擬定地とした鞍部とも少し離れた、別の場所だった。
向こうは「第二洞」の直上にあったが、より可能性の高いこの“第二の擬定地”は「第一洞」の直上で、古い地形図に描かれた隧道や切り通し(昭和27年版以降)の位置にも文句なく一致していた。
位置的には、完璧な符合といっても良い。
ご馳走は最後に残しておく心理が働き、敢えて写真を撮らず堀割を通過。
右の写真は堀割から30mほど離れてから振り返って撮影したものだ。
たおやかな鞍部にスリット状の切れ込みが豪快に刻まれており、間違いなく人為的な堀割である。
そして、鞍部からここまではほぼ平坦な地形であったが、この先は急激に落ち込んでいる。そして、そこに何ら道の痕跡を見出せない。
古い地形図によれば、隧道から西側はほぼ真っ直ぐ西へ下っているはずだが、ちょうどその辺りには第一洞が口を開けているのであり、道は失わたようだ。
第一洞の西口坑内に隧道の竣工記念碑が移転されたのも、この立地を考えれば納得できる気がする。
道を探して、斜面が急になる縁の辺りをウロウロしていたところ、なにやら文字が刻まれた石標を発見。
大分風化していたが、「渋谷」の2文字を確認。
これと同じ標石は、沼津側の最も奥まったところにある民家の前でも道に面して建てられていた。
ここに、また新しい「謎」が提示されてしまった。
麓と峠に立つ2本の「渋谷家標柱」。これは何を意味しているのか。
単純に考えればこの土地の所有者、所属を示しているのだと想像できるが、近年建てられたものでないことは間違いないだろう。
現在地と麓との間にかつて連続する一本の道が存在していたことの、これは査証になる可能性もある。
道らしきものは見あたらないので、急な斜面を強引に降りることにした。
その途中で、林の切れ目から多比の集落が眺望された。
かつて、隧道をくぐり抜けた旅人たちも、これと同じ景色を見ていただろうか。
石切場の崖を避けながら、藪を掻き分けて下ること1〜2分。
下り着いた場所は、第一洞の二番目の坑口の前だった。
もっとも、今回はたまたまここに降りただけで、この坑口と峠の隧道は全く無関係であろう。
9:50
第一洞の内部を素早く移動し、「入水地点」へ戻った。
すぐさまライフジャケットを脱ぎ、服とズボン、もちろんパンツも素早く着替える。そして、探索続行上支障のない姿に変身。
しばらく寒さに震えがおさまらなかったが、ともかくこれで一息ついた。
頭の中は、「まさかの隧道跡発見」そのことばかり。
目の前のプールの衝撃など、既に過去のことになりつつあった。
「全ての始まり」といっても言い過ぎではない一枚の石碑。
最後にこの前を通るときは、自然に頭が垂れた。
いまだ、いつ、だれが、なぜこの場所に石碑を移したのかは分からないが、坑口に刻まれた「山田」の二文字も考慮すれば、この石切丁場を開発した人物こそ、石碑に名を刻まれている「山田与七氏」本人ないし、その子孫ではなかったか。
この丁場の開発によって本来の隧道へ行く道が途絶えたため、石碑を麓のこの場所に移した可能性が高いと思う。
そして、2度目の下山。
通常の装備品と、ほとんど役に立たなかったチャリに加えて、ライフジャケットを含む着替え一式が加わり、怪しい大荷物になってしまった。
端から見ると、不法投棄に来たように見えただろうな…。
これから余分な装備をクルマに戻して、最後の仕上げ探索へ向かう。
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10:23
仕上げの探索は、これまでの沼津側(西)からではなく、伊豆の国側(東)から行うことにした。
これで、旧隧道を含む古道が一筋のルートとして確定できるはずだ。
(写真左)峠の登り口にあたる旧江間村の地形は、ご覧の狩野川放水路によって大きく変わっており、古い道形も当然探せない。
(写真右)放水路沿いの市道から北へ別れるこの細道が、旧口野隧道への道になる。
途中までの道案内を、日中は暇だという江間ぬこ太郎氏にお願いした。
曰く、この辺りには忍び込める洞窟が沢山あるので、縄張りとしては申し分ないとのことである。
また、件の切り通しを利用して多比の漁港へ行き、人間の水揚げを狙うこともあるという。
道理で、なかなかいいガタイをしておられた。
氏の別邸が、道に面したところにあった。
私はお礼を言って、さらに狭くなった舗装路を先へ進んだ。
入口から200mほど進むと、例の青い屋根の工場に突き当たった。
道は自然に工場の敷地へ入っていくが、その直前で右に逃げるさらに細い道がある。
峠への道は、こっちである。
軽トラ幅の道になって、舗装もコンクリート製に変わる。
真っ正面の尾根が、幾つもの地底空間を秘めた古き石切場である。
肝心の隧道跡も、その中に埋もれていたのだった。
コンクリート舗装路も、小さな斜面の畑に突き当たって終点だった。
しかし、終点からは後上方へとさらに道が続いていた。
ここからは草の道、地道である。
切り返して20mか30mほど進んだところで、先ほどびしょ濡れで居た場所へと戻ってきた。
これでラインは一本に繋がった。
切り通し(隧道跡)へは、ここで左折して藪へ切り込んでいく必要がある。
夏場はどうだか分からないが、この季節だと数メートル入れば地を割るシルエットが見えてくるので、そこを目指せばよい。
何ももったいぶるわけではないが、写真を撮り直す目的で、先に第一洞へ入った。
30分ぶりに洞内へ戻ると、さっきはプールのところにしかいなかったコウモリが、洞内を随分飛び回っているではないか。
ちょっとウケタ。
私が離れた後の30分間に、彼らなりに何かを相談し、そして思うところあって飛び立ったのだろう。
私の興奮が彼らに伝播したのか。
そしてコウモリたちの生息のコア。プールの間へ。
かつてORJにも寄稿を戴いた廃道界きってのコウモリ博士“まるはし屋”氏によれば、この洞穴はかつて、学者の間でも良く知られた「太平洋岸の一大営巣地」であったとのこと。
私には、この場所の何がそんなに良いのか分からないが、やはりプールがお気に入りなのだろうか。
それと、このプールの水質について数名の読者から、「糞でかなり汚濁されているのでは?」というツッコミが入った。
見た目は透き通っていても、ほとんど流出入が無いので、確かに心配されるとおりであるかも知れない。
しかし、まるはし屋氏の見解としては…
「この程度なら汚いに入らないと思いますね。
さわやかグアノ水
といった感じかな。」
…とのこと。
どうやら、大丈夫そうです。(上の写真の群体だけでなく、こちらも水面上ですけど、大丈夫ですよね…)
しかしこの密度は凄い。気持ち悪カワイイ。
なんだか無性に、顔面から豪快にモフモフしたい衝動に駆られてしまった。
さて、最後の仕上げに行こうか。
待ちに待った、旧口野隧道跡との再会だ。
10:30
第一洞坑口付近から仰視する堀割の図。
先日、新たに二万分の一迅速図という、明治27年の地形図を見た。
今回のレポートで使用した五万図は明治36年だから、それよりもさらに古い。
そこにも、旧口野隧道は、はっきりと描かれていた。
そして、前後の峠道には「荷車ヲ通セサル部」の破線が付されていた。
旧口野隧道が街道としてひろく使われた期間は、きっと短かったと思われる。
碑によれば、隧道の竣工は明治20年。
しかし、前後の道は急坂で狭く、荷車や馬車は通れなかった。
明治36年に、「本レポートの第一回」で紹介した「口野切通」が開通した。
さらに同40年までに多比第二、御場の二隧道が竣工し、
皇族の馬車も往来する主要道「沼津八日町線」が出来上がる。
以後の旧口野隧道は、
採石場を通り抜ける小径として細々と使われたに過ぎないのではないだろうか。
やがて切り通しになったのも、道路の改良ではなく、単純に採石の為かも知れない。
(なお、上の図は昭和29年版二万五千図韮山)
この構造とするには余りに非効率と思われる、最大比高(目測)30m近い堀割部。
周囲の採石跡の露頭とは明らかに異質な、曲線的壁面を有する。
単なる採石場の通路ではないと断言できる。
これが、切通しの内部状況。
一般的な切通しは平坦だが、ここの場合、10m近く沼津側が高くなっている。
これは、隧道跡と考えるには不自然だ。
また、切り通しの全長についても、碑文にあった全長十間(約18m)との符合が欲しい。
その点では、かなり近い線を行っているように思われる。
洞床が現在の堀割の下端部で、かつ平坦だったと仮定した場合で、おおよそ30mほどだ。
おそらく、両側坑口付近はもともと深い掘り割りであったろうから、これは誤差の範囲だろう。
沼津側が傾斜しているのは不自然だが、これはおそらく大規模な崩壊があって、相当に埋没したのだと考える。
沼津側出口付近の壁面はご覧のように、もの凄い亀裂が縦横に走っている。
伊豆半島はもともと地震が多い土地柄だが、大正末期の関東大震災でも韮山一帯は甚大な被害を受けた。
付近の採石業は、震災の後に復興用の資材としてまた勢いを取り戻すのだが、ともかくこの壁の巨大な亀裂などは単なる風化で片付けにくいものだ。
もともとの隧道や切り通しが、いずれかの地震災害で埋没した可能性は十分ある。
そしてこれは、切通内で最高所である沼津側出口付近から、伊豆の国側を振り返って撮影したものだ。
採石場とは似つかわしくない、風趣に富んだ曲面が見て取れるだろう。
この微妙なカーブの中に、明治5年から10年もかけて建造された隧道の壁面の一部が隠されているのではないだろうか。
ん?
何か凹みがある。
ま
ままま
まままさか!
これって、もしかしたら記念碑が最初にあった凹みでは…?
いや、ちょっと高さが足りないような気もするし、寸法を測ってみないと何とも言えないが…
しかし、この凹みには何かしら意味があるのだろう。
しかもそれは石切場とは関係のない何かだと思う。
例えば、地蔵が安置されていたとか…。
隧道が確かにここにあったという証
…というにはちょっと弱いかも知れないが、印象深い凹みだ。
仮に、これが旧口野隧道の南口付近にあった石碑ないし地蔵を安置するようなスペースだった場合、隧道は、おそらくこんな感じ(画像にカーソルを合わせてください)だったのだろうか。
ややひょうたん型にくびれた壁面には、どんな意味があるのだろう。
この場所に隧道があったことはほぼ間違いないと思うが、この堀割一つとっても、解明すべき謎は少なくない。
後は、市町村史よりもさらに突っ込んだ地元の情報を、足で拾って歩く必要がありそうだ。
丁場の闇に隠されていた石碑には、道路トンネルとしては県内最古着工例とも思われる明治5年着工の文字が刻まれていた。
15年の月日を要して、数多の村人が力を合わせて道を穿った、その記録がしたためられていた。
幾つもの闇をくぐり抜け、水の壁をも乗り越えて、遂に見つけたこの切り通し。
岩を咬む冷たい風の不協和音。不安を煽る山鳩の声。
それらでさえ、薫風に混じるホトトギスの音に聞こえたのかも知れない。
大業を成し遂げた彼らと、…私には。