2011/2/9 9:33
目の前の景色に一瞬我が目を疑ったが、
すぐに、こんな“名(迷)所”が千葉にはあったということを思い出す。
いつか教えて貰った“アレ”は、ここだったんだと。
そういうことならば、さっそく探索を開始しよう!
先ずは…、
一歩前へ。
これがどういう状況か、お分かりだろうか。
いま私の前に口を開けているトンネルは、この坑門の奥にあるものだ。
だから、照明がついていることからもお分かりの通り、廃隧道ではない。
それをなぜか、こうして今見下ろしている。
この“坑門”からは、一歩も洞内に入ることは許されない。
無理に入ることは出来るかも知れないが、それは4mほど下のアスファルトに転落することに他ならない。
そういう意味でこの坑門は、普通の廃隧道の坑門以上に無能な存在である。
実際、縁には緩く土嚢が積まれているだけであり、
こうして突端に立つことは、全くオススメできない。
旧坑口を探していたが、気づいたときには、天井裏から現トンネル内部を見下ろしていた。
短くまとめると、そういうことだ。
言うまでもなく、こんなことは “初体験” である。
当然のようにわき起こる、「なぜ?」
しかしそれに答えるのは、そう難しいことではない。
細かな部分には色々謎はあるのだが、
大雑把にいえば、
【少しの補助線を表示するだけで解決する】
3つの坑門の位置関係を図にしてみた →
元々は現在地(旧西口)と東口を結ぶ、一直線の隧道が存在していたはずである。
そしてこの“旧隧道”は、西口から東口に向けて下りの片勾配だった。
そしてのちに、西口の位置が変更された。
このとき、新しい西口が同一平面上であったなら、白石トンネルや神無月隧道のような形になっていたはずだ。
だが、この隧道の珍しいところは、新しいな西口が相当低い位置に掘り直されたと言うことである。
そして、この新しい西口にあわせて途中から坑道を掘り直したために、旧西口は天井付近に取り残された。
さらに隧道自体も中央付近にサミットを持つ、拝み勾配になったのである。
そもそもにして、なぜ西口の位置を大胆に変更する必要があったのかは、…断定できない。
しかし、旧道の西口前はご覧の通り、狭隘である。
また、この先にある橋に対しても線形が悪い。 【参考写真】
もっとも、これだけ大胆に変更するならば、そもそもトンネル自体を2車線に拡幅することを考えなかったことが不思議だが、その必要はないという判断があったのだろう。
あと、振り返ったついでに、もうひとつ重要なことを書いておく。
この場所に来るときに障害物となった、あの背の低いコンクリートの壁。今はその裏側を目の前に見ているが、おそらくあれは共栄隧道の“本来の東口坑門”の上部だろう。
共栄隧道を道路台帳などで調べると、延長23mとなっているのだが、これは実際の隧道の全長に比べれば明らかに短く、この新たに掘り直された部分のみを指すものと判断できる。
それでは、残りはなんというかだが、残りの隧道は向山隧道という。延長は92m。
そして、竣工はいずれも昭和45年となっている。
可能性としては、この昭和45年に掘り直しが行われたことが強く疑われる。
なお、上の写真でピンクに着色した部分は、共栄隧道と向山隧道に挟まれた本来は明かり区間であるところを、人工地盤で埋め戻しているのであり、この部分が実際に明かりであった時代があるのか…、ようは2つの隧道が切り離されていた時代があったのかどうかは、不明である。
名称が2つある以上は、その可能性は高いように思うが…。
ところで。
こんな場所に一本だけ苗木が植えられているんだけど、
これは誰がどんな目的で育てているんだろう。
この木が十分に育てば、景色はだいぶ変わってしまうだろうけれど、木(気)の長い話だ。
なぜかおまじないのように、シカの角まで置かれているし。
さて、もう一度、
旧坑口を覗いてみたい。
さっき、もうひとつキニナルものがあったのだ。
この左の暗がりの部分に……
こんな横穴がッ!
この横穴の正体についてはさておくとしても、とりあえずサイズは本坑よりも一回りも二回りも小さい。
そして、肝心の奥行きだが、10mも無いようだ。
奥はおそらく埋め戻されたようで、土砂の斜面になっているのが見えた。
ちなみに、ジャンプすればぎりぎり届くかも知れないが、正気の沙汰ではない。
9:38
まるで螺旋階段みたいに、共栄隧道の西口へ戻る。
そして、入る!
一通りの種明かしは済んでいるので、あとは…
この隧道で最もインパクトがあると言われている…
洞内側からの眺めを堪能したい。
共栄隧道に入ると、いきなり右カーブからはじまる。
というか、坑門自体が右カーブの途中にあるのである。
そして、かなりの勾配で上っている。
かつての“荒療治”を思わせる、乱暴な線形である。
そして共栄隧道の23mが終わりに近付くと、波鉄板のアーチも途切れる。
その先の天井が異常に高いことは、この段階でも十分視認できる。
隧道が完全に “二体合体” した。
縦に…。
もう少しだけ進んでから(満を持して)見上げようかと思ったが、
つい我慢できず、
首を真上のやや後方へと捻った。
1分前、私が立っていた坑口。
通常ではあり得ない、隧道の大天窓である。
しきりに降り注ぐ雨粒も、洞内にはほとんど届いていない。
或いは青空、夕日、月明かり…。
どんな空がこの天窓に覗かれるのか、空を選べないことが口惜しいと思った。
あなたが代りに見てきて欲しい。
もし当代に百奇洞なるものあるならば、
ご覧に入れて進ぜよう。
上総国は大多喜なる地に天地の双洞。
共栄、向山の二隧(スイ)で御座候。
なんて、なぜか有頂天になっちゃった…笑
現地ではそれと気づかぬまま、すでに私は「向山隧道」の中にいる。
そして、2つ目の横穴を発見した。
こちらは脚立でも持ち込まない限り、立入はもちろん、内部を覗き込むことさえ不可能である。
まあ、これがなんであるかは、隧道を出るまでには明らかになる。
サミット直前で、3つ目の横穴を発見!
次第に近付いてくる天井と同じく、横穴の位置も徐々に下りてきている。
しかし、それでもまだ路面からはだいぶ高い。
…微妙な高さ。
大いに頑張れば、なんとか脚立とかが無くても入れちゃいそうな、そんな感じ。
刺激される…。
自転車を踏み台にして、ポシェットを外し、頑張ってみた。
そしてその結果…
…ぎりぎり、辿り着けず!
でも、閉塞部分が見えたので、満足。
やはりこの横穴も人為的に埋め戻されたようで、入口から5mほどで天井まで土が積み上げられていた。
ちなみに大量のペットボトルや空き缶、廃材と思しき金属ネット、挙げ句の果てには虫取りアミまで放置されているが、
……投げこむのはやめましょうね(笑)。
そしてサミットを過ぎ、さらに進むともう出口は間近。
共栄隧道がそうであったのと同じように、向山隧道の東口付近は波鉄板のアーチとコンクリートの側壁に覆工されている。
ここはもう至って平凡なトンネルである。
今一度、振り返る。
天井の高さは、【この模式図】のようにサミット付近で収束している。
最も高いのは言うまでもなく旧西口付近で、8〜10mはあろうかと思う。
そしてサミットより東側では普通に4m程度である。
ただし、左の写真を見て分かるとおり、単純にサミット以東の路面を旧西口まで延長していっても、高さの差が出来てしまう(h)。
これはおそらく、西口の掘り替えと同時に、隧道全体の洞床を掘り下げたのだろうと想像する。
(そういう意味では、模式図は正確さを欠いている)
9:50 《現在地》
共栄トンネル(ずっと隧道って書いてたな)に入ったのに、出てみるとそれは「向山トンネル」だったという、不思議。
しかし今回はもう種明かしは済んでいる。
さて全て終えようかと思ったところで、一人の老婦人が犬を連れて通りがかったので、すかさず聞き取りを実施した。
隧道がいつからあるのか、いつ掘り直しをしたのか、横穴はなんなのか…。
この3つを問い合わせたが、明瞭なお答えを頂いたのは3つ目である。
横穴の正体は、防空壕であった。
そしてこのお答えから、自動的に掘り直しが戦後であることが確定した。
ますます、昭和45年掘り直し説が有力になったが、その証明は今のところ出来ない。
向山隧道を出ると、すぐに県道81号市原天津小湊線に突き当たった。
ちなみにこの辺りは「葛藤」という大字で、「かっとうとは変わった地名だ」と思ったが、読みは「くずふじ」だという。
おそらく、ジレンマに悩むこととは関係ないと思われる。
最後になったが、この共栄・向山隧道が今の形になる前の最初の隧道はなんという名前で、そしていつ掘られたのだろうか。
この謎が残っている。
地形図では昭和43年版まで登場しないが、戦前からあったことは確かなのだ…。