2015/4/25 14:30 《現在地》
現道の宮沢トンネルへ戻ってきた。
これからこいつを潜って、旧隧道の北口を目指そう。
平成7(1995)年に開通した現トンネルは、いかにも平成生まれらしい姿であった。
坑門に飾られた大きなレリーフがひときわ目を惹くが、「小諸城大手門」の注記があるので、ちゃんとこの道に関わりの深い(この道の終点は小諸城跡そば)題材が使われている。
あまりレリーフ系の飾りは好きじゃないが、いつまでもそれだけでは思考停止なので、どこかで愛せるようになる手掛かりを掴みたいものだ。
…とまあ、雑談はさておき、洞内へ。
幅10.5mもあるトンネルは最初から最後まで真っ直ぐだが、全体が登り坂なので、自転車だと少しかったるく感じた。全長は331mで、旧隧道の倍に少し足りない。
トンネルを抜けても、まだ上りか。
自転車だと自然と勾配には敏感になるが、集落と集落を結ぶ長いトンネルというのは、大抵はトンネル内にサミットがあって、外に出ると下りというのが多い。
だが、ここにはそのパターンが当てはまらず、宮沢集落から大杭集落へ通じる現道は終始登り坂であった。
ところで、地図の上でもちょっとした違和感を醸しているのだが、トンネルを抜けて少し進んだ所で、突如、ほぼ直角に左折して旧道合流地点へ向かう。
新しい道にしては妙に良くない線形なのだが、恐らく将来的にはこのまま直進して進む、大杭集落を通らないバイパスを構想しているのだろう。
なお、こちら側の坑門にもレリーフがあった。反対側のような説明書きはなかったが、噴煙を上げる荒々しい山と梅の枝を組み合わせた絵は、まさにほんの少し前に見た浅間山そっくりであった。
14:33 《現在地》
トンネルを出て約200mで、2度目の直角カーブ。
そしてここが現道と旧道の分岐地点である。
また、大杭集落の始まりの地点でもある。
分岐地点から振り返ると、直進が旧道で、左折が現道である。
旧道は平坦か微妙な登り坂だが、現道はここから下り坂(つまりいま上ってきた)である。
特にこの段階では、旧道側にもバリケードは無い。
それでは、さっそく進んでみよう。 …今度は、頼むよ!
自転車のまま旧道へ入ると、オイオイ塞がなくて良いのかよ!
と、思わずツッコミを入れたくなるくらいには、着実に路面が廃道への道を歩んでいた。
おそらく廃止から20年弱を経た風景である。
封鎖のバリケードはないものの、「小諸市」が設置した「この先行き止まり」の標識だけはあった。
行き止まりなのに行くのかよ。馬鹿なの? …とでも言いたいのだろうか。
もちろん、喜んでいきますよ!
これは幸先がいいぞ。
反対側のように、現役施設への通路として使われている雰囲気がないので、今度こそ生粋の廃隧道が待っていてくれる、はず!
旧道入口から目指す隧道までは、おおよそ200mくらいだと考えられる。
宮沢側よりはいくらか長い旧道である。
そして、進むにつれて本格的に障害物も増え始め、遂には大きな倒木に進路を阻まれたので、自転車を乗り越えさせるのには一手間があった。
このように、路上はそれなりにごちゃごちゃしているのだが、一方でガードレールの外に広がる眺望は、スッキリと爽快なものだった。
私が居るちょっとした高地と、遠くの浅間山や裾野に広がる小諸市の街並みとが、間に横たわる千曲川の河谷を抱いて、スペースコロニーの中を想像させるような巨大な凹面世界を作り出していた。
鋪装はされているのだが、既にこんもりとした草の踏み応えに支配された旧道は、遂に “意味ありげな右カーブ” を見せた。
この展開に、私は判決が告げられる前のような緊張を感じた。
次のカーブを曲がれば、隧道が口を空けているのか、いないのか、それは高確率で明らかになるだろう。
なお、旧道はここで現道のトンネルの上を越えている。
両者の意外に大きな高低差は、旧道が上り、現道が下った結果である。
判決。
あっ…
これは……
ダメか?
ダメだったのか?
14:36 《現在地》
ダメでした…。
南口と同じようなバットレス擁壁が屈強に坑口を塞いでおり、
唯一の開口部に取り付けられたシャッターは、施錠されているらしく、手をかけても全く動かなかった。
全長186mの闇が両腕の少し向こうに蠢いている感触はあったが、願いは叶わず、想いも届かず。
封鎖されていて入れない廃隧道に出会うこと事態は、全く珍しい事ではないのだが、
シャッター封鎖という、坑道そのものの健在を強く匂わせる状況が、私をいつも以上に悔しがらせた。
また、隧道がそれなりに長いということと、明治ないし大正生まれという歴史の深さも、後ろ髪を引いた。
同じ塞ぐでも、中が見えるようなフェンスや鉄格子での封鎖だったら、もう少し留飲も下がるのだが…。
大きな落胆はあったが、これでも南口よりは収穫もあった。
一番嬉しかったのは、扁額が存在し、それを目にする事が出来たことだ。
無情にも下の方の一部が封鎖壁に邪魔され、永遠に読めなくなっているが、見える範囲だけでも右書きの「宮澤隧道」の文字を判読出来た。
「宮澤隧道」というのである。
現トンネルと同じ名前だった。「大鑑」には「宮沢3号隧道」とあったが、扁額の文字は違っていた。
数字付きの名前は、坑門が建造された当初のものではなく、その後に管理者が便宜のため付けたのかも知れない。
残念ながら、これ以外の文字は見あたらない(見えない)ので、坑門が建造された年度などは分からなかったが…。
同じ封鎖するにしても、なぜこんな厳重な擁壁が必要だったのだろう。
単に封鎖の厳重さを欲するだけなら、ここまでする必要は無さそうだ。
バットレスという形状を用いているのは、廃止時点で坑門工が手前側に転倒してくるような事態が危険視されていたのだろうか。
残された坑門には、目立つ皹(ひび)や亀裂はなく、健在そうだったが。
画竜点睛を欠くの故事通り、坑口を隠された坑門工に本来の精彩を感じ取るのは難しい。
だが、残っている部分の凝った造形を見ただけで、大正期から昭和戦前までの期間に好まれたモダンな意匠を纏った、かなり上質なコンクリート坑門工を予測することが出来るのである。
だからこそ、
だからこそ、この愛のない塞がれ方が残念であった。
せめて、写真だけでも見たいと思って帰宅後に探したが、「小諸市誌」など色々見ても載ってないんだよなぁ…。
平成7年まで現役だったはずなので、皆さまの中にも確実に目にしたことがある人がいると思うのだが、どうでしょうか?
去りがたい気持ちはあったが、両側坑口が封鎖されている隧道に対しては正直、
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