2013/4/25 11:24 《現在地》
坑口は素掘で、釣鐘形の断面をした単線の鉄道用らしい姿である。
サイズは案外に大きいという印象を持ったが、これはあくまで主観的なものでしかなく、少し前に人が身を潜らせる事が出来ない極小断面の水路隧道を見ていたせいもあるだろう。
現在の吾妻線のトンネルよりは明らかに小さく、私が見慣れたものと比較するならば、一般的な林鉄用の隧道(つまり軌間762mm程度のもの)と同じではないかと感じた。
数字で表現すれば、高さが3.5〜4m、幅が2.5m前後といったところ。
そして坑口を塞ぐようなコンクリートの壁が設けられているが、これは鉄道に使われるという未来が失われた後に、何らかの転用が行われた事を示していた。
人が出入りするための扉が嵌められていたであろう下部の穴と、明かり採りか換気用の窓であっただろう上部の穴のほか、天端近くに何かパイプを通していたような小孔がある。
また、壁そのものの下を潜るように地面が掘られていて、そこには水路が通じていた。
上の写真にも写っているが、坑口前の地面にコンクリートの標柱が立っていた。
左はその3面の写真である(残り1面は確か無地)。
これが意味する所についてだが、一番左が「電電公社」のマークが刻まれている。つまり電信線関係の標柱である。
中央は「一・〇米」という意味だろうか。地中1mの位置に電信線が埋設されている(た)?
右は「昭34.8」とあり、標柱の設置年に関する表記と思われる。
いずれにせよ、未成線の路盤はいつの時期からか水路に加えて電信線の用地としても使われていたようである。
こうしたことが、現場を深い藪から遠ざけているのだろう。
四角い入り口に身を屈め、いよいよ洞内へ。
思わず息を呑む。
洞内に異様な光景が展開していたのだ。
ざわざわと忙しない音を立てる水の流れは、思いのほか深く洞床を削ったあと、
坑口から10mも行かないうちに、隧道の右側の側壁の下へと消えていた。
このことがまず意外であった。未成隧道の全体が水路に転用された訳ではない事を知った。
屈んでも私は入れない小さな横穴に勢いよく吸い込まれていく用水。
この先の出口は、地上から確認済みである【この穴】に違いないが、
どのくらいの距離を隔てているのかは、穴の先に光も見えず不明である。
いつ、どのように掘ったのかを含め、謎が多い水路である。(名前は大津用水というらしい)
振り返ると、限定的に注ぎ込む外光に、
緩やかなカーブを描く素掘の壁が照らされていた。
洞内も坑口と同じ大きさで掘られており、巻き立ては皆無だった。戦時施工を思わせる。
それにしても、この空虚な洞内で、壁の主は何をしていたのだろう。
真っ先に想像されるのは戦争中の弾薬保管庫のような使い方だが、
終戦間際まで掘削が行われていたらしいので、転用は戦後なのだろう。
そして、私の背後には未成隧道の象徴。
未成を証明する隧道断面が待ち受けていた!
未成の“顔貌(かお)”
これは、私が少しキザにそう呼んでいるものだ。
このレポートを「 The Obroaders 公開記念」と銘打った訳も、
同映画をご覧の方にはもうお分かりだろう。 →→11月28日まで、テアトル新宿で上映中!!
未成線にある隧道は、確かにすべて“未成隧道”と呼べるのだが、こうして掘削途中の段階で遺棄されたものと区別する用語が欲しいと思う。
そういう意味で本隧道は、未成線内にある“工事未完の隧道”であった。
そしてそれゆえに、掘削途中の隧道でしかあり得ない特殊な断面を留めていた。
このことは大いに衝撃的であった。
当サイトの14年の歴史のなかでも、岩上隧道以来(※)の遭遇と思われる。(※ 単に未完成の隧道ではなく、未完成ゆえの特殊な断面を残している隧道)
ここからは、未成隧道の病巣ともいうべき空間である。
完成された断面部分よりは、危険度が高いと考えねばならない。
そしてその危険さを物語るように、断面変化の地点には、かつてモルタルの壁で塞がれていたような痕跡が見られた。
閉ざされた隧道の奥の、更に封印された一画…。
一瞬、オカルトな妄想が頭をよぎったが、壁が崩れていたのは私にとって幸いな事である。
なお、隧道に入った瞬間から風が感じられないので、たぶん奥は未貫通だろう。
それでも洞奥を極める必要がある。
す、すげぇ。
この隧道の作り方(掘り方)が、手に取るように分かる光景だった。
最初の釣鐘形をした完成断面から、左右3分の1ずつがいきなり消えたのが最初の変化であった。
そして残された中央部、縦にばかり広い断面であったが、これもあっという間に天井が切り詰められていくのだった。
しかもその変化はスムースではなく、「ガクッ」「ガクッ」と、階段を削るように2度に分けて表れていた。
この変化を模式的に示したのが、次の写真である。
なお、便宜的に入洞直後の完成断面を「第1断面」、以降段階を経るごとに「第2断面、第3断面、…」と呼ぶ事にする。
第2、第3、第4断面の変化は、このように段階的である。
これがどのような意味を持っているのかの詳細は、(既にご存じの方もいるだろうが)後ほどまとめて解説する。
ただ簡潔に述べるならば、この段階的に変化する断面形こそ、隧道が伝統的「工法」によって掘削されていた証拠なのである。
古い未成の隧道でしか観察する事が出来ない、極めて貴重な土木の“足跡”といえるものだ。
狭い。
「第4断面」は、いよいよ限界的な極小断面となった。
もはや立って進むことはできず、身を屈めて歩く必要がある。
両側の壁面の同じ高さに色の変化が見られ、以前は水没していた可能性が高い。先ほど見た崩れた壁との関連性が疑われる。(用水の水源地利用?)
閉所恐怖症の人には堪らないだろうこの極小断面は、おそらくこの隧道の中で最初に掘り抜かれた部分である。
これを専門用語で「導坑」という。
文字通り、トンネルの本坑(完成断面のこと)を導くために掘られる、試し掘りと作業坑を兼ねたものであり、多くは本坑の予定地に重なって掘進されるため、トンネルの完成後には原形を留めない。
導坑が現れたとなったら、いよいよ「切羽」が近そうだ…。
(切羽(きりは)とは、トンネル工事の先端の壁。掘削先端面。)
行き止まり間近かと思いきや、身を屈めたまま不自然な方向に首を曲げて見る行く手には、なおも暗澹たる洞床が奥深く続いていたのであった。
フラッシュを焚いて撮影しているのと、断面の小ささゆえ写真では明るいが、肉眼だと薄暗い。
だから、床にずっと並べてある“何か”の正体も分からず仕舞いだ。
「第2断面」になって以来ずっと向かって右側の壁に沿って置かれている、木造の“何か”。
隧道工事と関係があるものだったのか、未成後に持ち込まれたものなのか、酷く崩れていて正体不明である。
また、断面の変化にばかり気を取られるが、隧道そのものの進行方向にも注目したい。
この辺りから、結構な角度を付けて右方向にカーブしているのである。
そのカーブのきつさは明らかに国鉄のそれではなく、林鉄や鉱山鉄道らしいものがあった。(導坑のせいもあるかも知れない)
ゆえにこれ以降、前にも後にも光は見えなくなった。
また広くなる?!
か、 貫通していたのか?!
狭隘洞の奥に隠されていた、第5の断面。
この奥には、一体なにが…。
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