隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦 前編

所在地 東京都八王子市
探索日 2014.12.30
公開日 2015.01.02


このレポートは、私が東京都日野市に移住してきてからの7年間で最も自宅に近い場所での廃道探索となった。
ミニレポ202回で紹介した下久保バス停も同じくらい近いが、あれは廃道探索ではないので除外)
私が住む日野市平山から直線距離で1.5kmも離れていない、八王子市長沼(マピオン)を舞台とした探索である。
しかも表題の通り、こんな家のすぐ近くで、ガチの明治隧道捜索を行った。
言っておくが、私の家の周りは隧道が少しも珍しくない千葉や大分のような“トンネル王国”ではない。むしろ、一般にそれらが少ないとされるエリアだ。

しかもこれは有名物件ではない。ネット上では情報を少しも見付けられていない(あったらぜひ教えて欲しい)。
ここに引っ越してきてから7年間、この隧道の存在を意識したことは、一度もなかった。

なお、予めお断りしておくが、このレポートもまた机上調査が未了の状態で執筆を始めている。
これは例によって、公開することで情報が集まることを期待しての事であるから、お心当たりの情報がある方は、ぜひ一報ください。

あまり前置きが長くなるのも興醒めだろう。
早速、今回のレポートを行った唯一の情報源を、お目にかけよう。
今のところ、これだけが、隧道捜索の根拠。




この独特の風合いを持った地図に見覚えがある読者もいるだろう。
当サイトでも時折登場するこの地図は、迅速測図と呼ばれる、縮尺2万分の1を持つ本邦最初の地形図である。
関東地方分の測量時期は、明治14年から18年までであり、全国の5万分の1地形図が整備される20年以上も前の詳細な地図として極めて価値が高い。

まず、最初にツッコミを受けそうなので書いておくが、図の左下の「神奈川県南多摩郡」は誤記ではない。
同郡が東京都の前身である東京府に編入されたのは明治26年であり、この図が調製された時期には、北多摩郡、西多摩郡と共に、神奈川県に所属していた。
また、本編に関係するいくつかの地名を赤字で表記したが、当時は市制や町村制の施行以前である。左上の「八王子驛」は、近代の八王子宿を継承した固有の地名であり、鉄道の八王子駅とは関係が無い。(八王子に甲武鉄道が開通するのは明治22年である)

この小縮尺図では、とりあえず八王子と今回紹介する隧道の位置関係を大雑把に把握していただけれ十分だ。

補足説明として、明治10年代の八王子は、近世から続く甲州街道の宿駅であったのみならず、江戸末期の横浜開港に端を発する機業ブームの中で、多摩一円の生糸集散地になっており、大変な繁栄を謳歌していた時期である。
八王子から南へ延びる2本の太い道は、横浜港へ向かう新旧の街道である。旧は「浜街道」と呼ばれた鑓水峠越えの道、新は「横浜街道」と呼ばれた御殿峠越えの道である。このうち前者は「絹の道」として、文化庁の「歴史の道百選」にも選ばれている。



ヤベーダロ!

隧道だぜ、マジで。

八王子近辺における隧道の歴史は、明治34年に鉄道の中央本線が、八王子から上野原へ延伸した際に、高尾山周辺に穿たれたものを嚆矢とする(と私は考えていた)。
道路隧道に限定すれば、八王子と五日市を結ぶ小峰峠の旧隧道(旧小峰隧道)が明治45年の開通であるから、これが市内最古の道路隧道とされている(はずだ)。

だが、この迅速測図にははっきりと道路隧道が描かれており、これが事実であって明治10年代の八王子近郊に道路隧道が存在したとしたら、歴史的発見はさすがに言い過ぎだとしても、多摩の偉大なる第1号隧道(the first one)に君臨するであろう。

しかも、これが有名な存在でないことは、千頁を超える大著である「八王子市史」(昭和55年刊)に、関連する記述が一切見付けられない事から推定される。


改めて、この図から読み解ける隧道の情報を挙げておく。
まずは、隧道の位置が最も重大な情報といえるが、これについては、現代の地図との比較の上で述べることにする。
図中の隧道の長さは、縮尺から計算して60m前後となる。決して長くはないが、通行人が見過ごすほどに短くはない。

そして、隧道がある道の正体を知る上で参考になりそうな表記が、図中の黄色い枠の中にある。
枠は上下2箇所にあるが、それぞれ次の文字列が読み取れた。

(上の文字列) 従横浜 至八王子驛
(下の文字列) 従木曽村 至八王子駅道

これらの表記は迅速測図独特のもので、、「従●● 至○○道 (●●より○○に至る道)」の形式を取るが、正式な道路の路線名というわけではなく、その道の繋がりを大雑把に示している。
同じ道でも場所によって表記が違っているが、これも表記の位置によって内容が変わる証拠である(駅と驛のような表記ぶれもある)。
ちなみに、「木曽村」というのは馴染みがないと思うが、現在の東京都町田市内にあった前記「横浜街道」沿いの村名である。(町田界隈の横浜街道は、現在では「町田街道」と呼ばれている)





とりあえず、迅速測図の信憑性を疑わない限り、見間違いなどあり得ないレベルで明確に描かれていた隧道。
これに気付いたのは昨年(平成26年)の12月28日で、探索は30日であった(笑)。

ここからは、この隧道が後の地形図ではどのように表記され、現在のどの場所に比定されるのかを、見ていくことにしよう。
この工程が、探索の成否を決める事前の準備として最も重要である。
それと肝心の隧道名が定かではないのだが、何と呼べばいいものか…。いくつか候補はあるが、ここでは無難に“長沼柚木(ゆぎ)間隧道”(仮称)としておこう。


← 古い                (歴代地形図)                  → 新しい
明治14〜18年
迅速測図
明治39年
昭和4年
昭和51年
平成12年





図上の5つの赤枠にカーソルを合わせると、それぞれの時代の地形図画像を表示する。(画像が切り替わらない場合は、枠内のリンクをクリックすると、それぞれの画像を表示します)

ここに表示した新旧5枚の地図の中で、もっとも注目すべきは、迅速測図から明治39年測図版への変化である。

なんということでしょうか!

明治39年の地図で、早くも隧道は消滅しているという事実。

その後の昭和4年版でも隧道は復活することなく、その後一気に時代を下って昭和51年、現代に入ると、周辺の山域に急激な宅地開発の波が押し寄せ始める。
そして、最後の平成12年版では…

奇跡的に、隧道跡地は今も山ん中かも?!

これは、もしかしたら、もしかするのか?!!



平成12年の地形図は、隧道の跡地が旧態を留めているのではないかという(遺構が現存するかも知れない)希望を持たせたが、さらに新しい地理院地図を見たことで、そうした期待感は文字通り「半減」を余儀なくされた。(ちなみにこの地図の範囲内に、私が住んでいるアパートも描かれているな。笑)

というのも、南口の擬定地点付近に平成12年の地形図にはなかった新たな区画が登場しており、付近の等高線も改変されていたのである。

残念ながら、下柚木側の南口については絶望と見なければならない。
しかし、なおも北口については、山中に遺存物を発見する可能性があると思った。
周辺の圧倒的な市街地化を思えば、これでも奇跡的なチャンスといえるのではないか。
それに、これだけ都市化が進んでいても、案外に明治初期の道形が残っているのが興味深い。これは、ピンポイントに隧道だけを捜索するのは勿体ない“発見”である。地元なら、なおさらね。


果たして、多摩地区最古の道路隧道は、現存しているのか?!

多摩丘陵に残された貴重な森を舞台に、
年の瀬の明治隧道捜索作戦が幕を開ける!




私に明治を感じさせた、長沼町の隠された直線道路


2014/12/30 13:27 《現在地》 

探索は、自宅から2kmほど離れた湯殿川の畔から始めることにした。
この場所を選んだ理由は、目指す隧道へ通じる道が、この場所で湯殿川を渡っていたからである。
これは冒頭の迅速測図から読み取る事が出来た事実である。

隧道に通じる道そのものの起点は、もっと八王子の中心市街地に近く、おそらく現在の西八王子駅付近で甲州街道から分かれ(起点候補1)、横浜街道と現在の子安町付近で交差している(起点候補2)が、これらの地点は既に都市開発が著しく、まだ長閑だった明治の郊外景観を些かも留めているとは思えなかった。部分的には現在に通じる道形があるだろうけれども、今回は隧道探しを中心に据えた探索と言うこともあり、川→山(隧道)→川を一つの区切りと考える意味からも、この湯殿川畔をスタート地点に据えたのだった。

改めて、湯殿川河畔の風景。
木橋であっただろう明治の橋が現存しているはずもなく、その役割はすぐ下流側に架かる春日橋というコンクリート橋に継承されている。



湯殿川の河畔を後にして隧道探しへ出発する。
川の対岸は都立長沼団地として大々的に区画整理がされており、迅速測図の道形は全く残っていないようだが、こちらの南岸は、どっこい明治の道形が現在もしっかりと残っていて、活用もされていた。

地元住民の一人として、今まで何度となく、昼夜別けなく眺めていたこの風景が、元を辿れば明治隧道へ通じる直線道路の一部だったのだと思うと、興奮はいきなりレッドゾーンへ突入せざるをえなかった。

まだ、遺構と呼べるようなものを何一つ見ていないのに、現代の道路に隠された明治馬車道を彷彿とさせる直線に気付いたと言うことだけで、こんなに興奮できるのだから、オブローダーは幸せな世界を生きている。

そしてこの直線道路の行く先が、真っ正面の丘陵的山岳に向けられていたことに意味に、これまで些かも意識を傾けなかったのは、甘えであった。
自宅の近くにそんなものがあろう筈はないという、根拠の無い甘え。
なるほど、この直線には百年を越えた深甚なる謂われがあったのである。

チェンジ後の画像は、湯殿川を振り返って撮影。
右に見えるのが現在の春日橋。



これだけでご飯3杯は余裕でイケル、迅速測図と現代の地図上に比較されし明治直線道路の痕跡。

迅速測図上の直線道路の長さは、おおよそ750mであり、この程度の長さの直線を地上に描き出すことは、明治時代の測量技術を用いなくても、近世にあっても十分実現可能である。
だが、それでも私はこの直線道路の起源は明治初頭にあり、隧道と軌を一にするものであると考える。

その根拠は、隧道の存在である。
この程度の丘陵地を越えるのにわざわざ隧道を設けようというのが、明らかに車両交通の存在を示唆しており、徒歩交通に支配されていた近世とは考えられない。
ここにある直線道路は、間違いなく明治の隧道工事と同時期に、車道として新たに開発されたのだと思う。
直線道路の周辺を見ると、所々に近世までの旧道らしきラインが付随しているのも見逃せない。(春日橋から南へ進む道や、隧道周辺の峰越え道が旧道を示唆する)




13:30 《現在地》

京王線のガードを潜って進むと、ご覧の長沼町交差点に到達する。
ここは都道174号長沼北野線の終点であり、左右の都道173号上館日野線(北野街道)にバトンタッチするので、従来私はここを三叉路と認識していた。
だが、実態は異なっていた。
ここは十字路であり、都道174号の正面延長線上に、1車線の狭隘な道が通じていたのである。

もはや言うまでもない。
この狭路こそが、明治の迅速測図では太く描かれていた、隧道へ通じる直線道路の続きである!




自宅から2kmの地点なのに、

ここから先へ進むのは、初めてだ…。



13:32 《現在地》【迅速測図】

都市計画道路の下を潜り(長沼陸橋)進むと、またしても分岐が現れた。
地形的にも多摩丘陵という山地の裾野に到達した模様で、右の山林など、俄然郊外の感じになってきた。
なんというか、ここまでは順調である。これまで幾度となく経験してきた成功体験… 古地図を元に古隧道を探し当てるときの成功パターンを綺麗になぞっている。
この先も順調に山の中へ突き進めるならば、本当に、多摩最古の隧道を発見することになるのかも……!!

そんな期待に胸を膨らませるこの分岐は、文句なく“直進”である。
例によって轍の多数派工作は左だが、私が辿るのは、過去のメインストリートだ。直進で間違いない!

迅速測図によれば、この分岐が旧来の北野街道(明治期は「高幡道」とも呼ばれた)との分岐地点である。




いよいよって感じじゃねーか?

ま、まだ隧道の気配は感じないけれど、明治道を辿っている気配は濃厚である。

この狭い道幅と直線の組合せなど、鉄道廃線跡でなければ、もう明治道しかないと思える取り合わせだ。
それに、この辺りからはいよいよ上り坂が始まっている。
これも峠越えへの準備体操だと思える。

そして遂に現れた、道形以外の“遺産”。


馬頭観世音碑。
側面を見ると、「昭和三年三月 施主菱山栄次郎」の文字がある。

明治39年以降の地形図に隧道が描かれていない事を考えると、この馬頭観音碑が安置された時期に、隧道が使われていたかは微妙だ。
それでもこの道にはまだ、馬背を頼った交通が残っていたのであろう。

冒頭に紹介した5世代の地形図を見直していただければ分かるが、昭和3年頃は現在の京王線の前身である玉南電気鉄道が東八王子まで全線開業して間もない時期であり、多摩一帯が東京市街に対するレジャー供給地として、最初の開発ブームに晒されていた時期である。それを追い掛けるように宅地化が進んでくるのであって、この地での馬背交通は終焉を迎えつつあったろう。




13:34 《現在地》【迅速測図】

湯殿川の畔を発ってからここまで約700m。
道の状態は色々と変化したし、景観も一様でなかったが、ともかくここまでは迅速測図の直線道路をなぞってくることが出来た。
現代にも同じ直線の道が残っていたからである。

だが、遂にここで直進する道が消えてしまう。
迅速測図にある直線道路の最南端部である。
ここは現在、六社宮(ろくしゃぐう)という神社の境内になっていて、直進線上にちょうど本殿が重なっているので、突っ切る道自体が存在しない。




そのため、先へ進むためには、六社宮の社地をぐるりと回り込む矢印のような迂回を強いられる。
しかも最短で迂回しようとすると、途中に車が通れない“板橋”が架かっている有り様だ。
ここで渡る小川は、隧道擬定地から流れ出ている。

この、これまでの直線道路の利便と相反する神社の位置についてだが、Web八王子事典の六社宮の項目に、次の解説があった。

1878年(明治11)11月3日長沼村内の各字に鎮座した八剣社、熊野社、日枝社、八坂社、東照宮、五龍社の6社を合祀し六社宮とした。1966年(昭和41)社殿を造営。

迅速測図が描かれた当時には、既に六社宮が存在していたのである。
しかもその位置が変っていない事は、当地に小さく華表(鳥居)が描かれている事からも理解される。
だが、当時は神社の山側に、直線道路の続きがちゃんとあったのだ。
それが、冒頭に並べた歴代地形図の変化を追っていくと、明治39年には神社表側の迂回路が太く描かれるように変わり、昭和4年の地図では完全に神社山側の道は消えてしまっている。

このことからも、隧道と直線道路とは不可分の存在であって、明治39年時点で、この道の利用度に大きな後退があったことが推測される。
その結果として、神社の境内に直線道路の一部が吸収されてしまったのだろう。



迂回をして隧道があったと見込まれる谷筋へ向き直る。
右側の林地が神社の境内であり、かつての直進道路は、この先のカーブの辺りで合流していたものと思われる。

山と里の境界を卜(ぼく)して安置されたと思しき二体の石仏が、小さな屋根の下に佇んでいた。
街道の安全を司る青面金剛像と地蔵菩薩像だろうか。
前者の両側面には、それぞれ次の刻字を認めた。

(右側) 寛政二四月吉日
(左側) 長沼村 講中拾一人

寛政2年は西暦1790年である。隧道より相当に古いと思われる時代の石仏がここにあるのは、直線道路が当時まだ存在しなかった事を支持する。
いずれにせよ、江戸時代からこの先の峠道が活用されていたものと思う。
隧道建設という当時の一大事が、この地を選んで興されたのならば、そこには既に十分な交通量があったと考えるのが自然だ。



それでは、入山しよう。





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