隧道擬定地は、公園なのか。
これを知って期待感を高めるオブローダーは、おそらくいないと思う。
これまでの理想的な展開から、隧道、ないしは隧道の痕跡の現存への期待感を、出発時よりも数倍に期待を高めていた私だが、いざ山中へという場面に待ち受けていた「長沼公園」の立派な案内板に、大きな落胆を余儀なくされた。
道路地図などにはちゃんと公園として記載があるのだが、地形図や地理院地図には書いてなかったんだよな。
案内板を読む限り、この公園(都立長沼公園)は、いわゆる自然公園というやつで、色々な施設が整備された都市公園ではないのが救いである。
遊歩道以外の山林内は開発を免れ、明治の遺構が壊されずに残っている可能性もある。
案内板の地図には、地形図などには記載されていないような細かな遊歩道が沢山描かれていたが、それらも隧道擬定地点には被っていない。
もちろん、地図上に「明治隧道跡」などといった親切な記述も無く、今のところは、依然としてガチの探索を否定しない。
そもそも、結果がどうあろうとも、自分の目で確かめずに引き返すハズはないのである。都立長沼公園内へ突入!
長沼公園の入口は一箇所ではないが、私が入った地点から隧道の擬定地点(北口)までは、おおよそ500m離れている。そこまで道は終始沢沿いを行くようだが、案内板によればこの沢は「柿ノ木谷戸」というそうだ。
この道自体にも「霧降の道」と命名がされていたが、こちらは公園化した際に得たものだろう。
そして、現在地から隧道が潜っていただろう尾根までの高低差は7〜80mある。隧道は尾根より幾分低い所にあったと思うが、いずれにせよ50m前後のアップはあろう。
さて、再び道のレポートである。
この長沼公園が都により整備されたのは昭和55年らしいが(それ以前は手付かずの森であったのかは不明)、迅速測図の明治道と現在の地図に描かれている柿ノ木谷戸の道(霧降の道)は、隧道の近くまで完全に同じラインをなぞっている。つまり、いま辿っているこの道は明治道である。少なくとも線形については。
路面は中央の幅1mが敷石鋪装であるが、さすがにこれは明治のものではない。「もしや」と疑わせる余地さえない、萎え萎えの鋪装であった。
13:36 《現在地》
おっ! 穴があるぞ。 それも二つ。
とはいえ、これも血管を太くするようなものではない。
しっかり塞がれているからという以前に、位置的に目指す隧道ではもちろん無いし、二つ並んでいるのを見ても、道路の隧道とは思えない。
防空壕跡だろう。
しかし、ここで初めて“地山”を目にする事が出来たのは、成果である。
土地の地質は隧道現存の可否に大きく影響する。(外的な攪乱要因を除けば最大のポイントといえる)
そして率直に言って、とても残念だが、ここの地質は隧道に不向きに見えた。
砂岩のような水を含むと崩れやすくなる感触がある。
ちゃんとした覆工を施していないと、おそらく長持ちはしない。
ぐぬぬ。 地山を見て、不安度上昇。
漕ぎ足にやや力が入る程度の上り坂を約500m、何事も無く進んだ。
そして、迅速測図上で隧道がある“新道”と、山越えの“旧道”とが分岐している地点の付近(以下「新旧道分岐地点」とする)へ辿りついた。標高は約90m。尾根からはまだ40mくらい低い。
ここは穏やかな斜陽にベンチが佇み、もし前日の雨に濡れていなければ、腰をかけて休みたくなるような場所であるが、オブローディングとしてはいよいよ“佳境”へと突入というわけである。
しかし、ここに来るまでの風景から想像出来ていたことではあるが…
“新道”の激藪が洒落になってない!→
ここら辺を直進する“新道”があったはずなのだが、その気配を微塵も感じさせない。
地形も道探しの不利に働いている。一帯はお椀の底のような場所で、谷底付近については、草木さえ払えばすぐ道路に出来そうであるだけに、明治初期の地図にしか掲載されたことがない曰わく付きの“新道”の地面に刻まれた痕跡を見出すことは容易でないと感じる。
容易ではないつうか、
ぶっちゃけ無理である。
広い範囲の笹藪を一斉に刈払って、その中で微妙な地面の高低を見定めるでもしない限り、道形の有る無しを判断できないだろう。
“新道”上には隧道以外にめぼしい捜索物が無い事もあったので、その突入は潔く諦め、遊歩道として整備された“旧道”を経由して、隧道が掘られている尾根へ先回りすることにした。
“分岐地点”から尾根までは、直線距離で100m程度だが、道は少し蛇行して160mくらいある。
そして、この間の高低差がおおよそ40m。
それだけに道は急に急になり、この分かり易い変化は、間接的ながらも、新道と旧道の違いを理解させた。
遊歩道区間に入って初めて興奮したのも、この場面であった。
少し進むと、谷側の丈余の藪の上を透かして、鞍部と呼ぶに相応しい尾根の形が見えてきた。
あそこが目指す……未だ名前を知らぬ、明治以前からの峠である。
最後は本当の急坂。
濡れた落ち葉のため、漕ぎ足に車輪空転の兆しが感じられて、気が気でない。
黙って押して歩けば良いのだろうが、チャリ馬鹿ヨッキ少年の血が騒いだ。
そうして顔を紅くしながら、明るい鞍部へと辿りついた。
この峠にも、公園道ではなく、生活道として使われていた時代には、何か便宜の名前があっただろう。
残念ながらその名を未だに知らないが、長沼公園の頂上にあるので長沼峠(仮称)とでもしておこうか。
長沼峠。
ここは尾根に沿って通る遊歩道と、柿ノ木谷戸の遊歩道とが合流する地点である。
尾根を境に向こう側は同じ八王子市内の下柚木地区であるが、長沼公園の外であり、尾根筋まで開発の手が及んでいるようであった。
このことは把握していたので驚きしなかったが、向こう側が明るすぎる尾根に、落胆を覚えなかったと言えば嘘になる。
自ずから、今回の隧道探しも、この長沼側の成果に期待しなければならない状況だ。
柿ノ木谷戸を振り返る、長沼峠の眺め。
麓の街並みが案外と遠い事に驚く。
こうして眺めると改めて分かる、なかなかにしっかりとした山であり、峠へ達する峠道であった。
それに、なるほど、峠に隧道があったとしても不思議ではない地形だ。
尾根の直下まで沢筋が入っていて、尾根だけが急激に高まっている。
というわけで、視線を足元の谷底へと向けていく。
ぽっかりと隧道が口を開けて…はいないようだ。
そんな簡単なら、とっくに有名になっているだろうからな。
辺りは、典型的な里山の源流という感じだった。
一本道だった沢筋が、尾根の下に突き当たってぶつりと終わっているのだが、その終わり際で幾筋かの雨裂に分かれている。
というか、斜面に生成された幾筋かの雨裂が集まって、一筋の明瞭な沢筋になっているといった方がしっくり来るか。
ともかく、この俯瞰で隧道を探すべき斜面の大体の範囲は了解した。
多数の雨裂が集まって沢筋へと変わる辺りをつぶさに探し歩けば、そこに雨裂ではない、地下まで通じる坑口を発見できるはずだ。
もちろん、現存していれば… だが。
13:59 自転車を尾根近くに置いて、いざ、谷底への下降を開始。
しかし、案の定と言うべきか、沢筋付近は源頭部に至るまでもの凄い密生した笹藪である。
これも里人が色々な目的に(道路外の)森を利用しなくなったことの弊害というべきなのか、そもそもこれが天然のままの大自然だと評すべきか。
私は前者の説を取りつつ、行く手に蔓延る激藪の中で、地形の微妙な凹凸から坑口を探さねばならない前途を嘆いた。
それにこの嘆きは、激藪を跋渉することに対する肉体的苦痛からだけではない。
激藪があるということは、地面を厚く土が覆っているということだ。
そして大体の現存する隧道坑口というのは、土ではなく、岩が露出している部分にある。
この法則というか、当然の事実は大きい。
激藪=捜索困難であるだけでなく、激藪の存在は、地表に坑口が現存する可能性をも低める障害なのだ。
私の姿は、すぐに遊歩道からは見えない藪の底へ消えた。
しかし、絶えず 「 ペキッ ポキッ ガサッ ガサッ ゴソガサッ 」 という、笹藪や小枝と人体とが格闘する、全くスマートではない音を立てている。
したがって、この時に遊歩道を通りかかった人がいたとしたら、だいぶ訝しい気分を味わったかもしれない。
この辺はノラヌコも多い場所だが、かなり大きなヌコだと思ったかも知れない。
当の本人はといえば、まさに激闘というに相応しい状況に置かれていた。
1年に3度あるかどうかというレベルの激藪を体感していた。
しかも進むべき進路が必ずしも一定しておらず、直接見えない地面の微妙な凹凸を探りながら、さらに地面の下に隠されようとしている隧道の痕跡を探すのだ。
これが大変でないはずがない。
もし、探すべき対象が「たいしたものでない」ならば、速攻で切り上げていたであろうほどの悪条件であった。
ここまで来ると、もはや地図やGPSもあまり役に立たない。
先ほどの俯瞰で決めた、おおよそ高低差10m、幅30mの範囲とした、一人きりでのロール作戦である。
明らかに坑口や坑口に繋がる痕跡が無ければ、その範囲には足を踏み入れない等の自由はあるが、基本的に激藪の底に這いつくばっての至難な捜索となった。
とにかく重視すべきは、地山が露出している地点である。
先ほども書いたとおり、土塊の中に100年前の隧道がぽっかり口を開けていることは、まず期待できないし、そんな場所に初めから隧道を掘ることも無い。
もし地表が土の場合は、まず土砂の部分を掘割などで少し開鑿し、堅い岩盤に辿りついてから、隧道を掘るのである。
だから、探すのはまず、露出した岩盤、地山である。
次いで、掘割の痕跡(凹み)ということになる。
そしてこの現場だが、地山の露出は、極めて限定的であった。
右写真の地点にはいくらかの露出が見られるが、これは雨裂によって表土が流れ去った谷底であり、谷底に隧道を掘ることは滅多にない。
だが、雨裂などと言うのは長い目で見れば場所が変わるし、そもそも100年前と現在とでは、谷の浸食具合自体が変わっていることだろう。
さらに言えば、坑口を起点として新たな雨裂が生じていることも十分に考えられる。
だから究極的には、どんな場所であっても岩盤と掘割の痕跡を見付ければ、隧道跡を疑うに足りた。
(それゆえに、難しかった)
激闘に幾ばくかの癒しを与えたのが、時代を感じさせるこんなゴミだった。
500mlのペットボトル…ではなく、瓶のペプシコーラである。
さすがに隧道を利用した明治の人々の手にあったものではないが、こういう発見は、都立長沼公園の中にもオブローディングが成立しうるのだという安心感を与えた。
なお、このゴミが尾根筋から無造作に投げこまれたものなのか、私と同様に隧道の捜索に来た人物の置き土産なのか不明であるが、後者だったらいいなぁ。
他にも、色褪せたサッカーボールが見つかったが、こちらは明らかにヤンチャボーズの仕業だろう。
14:10 斜面のロール作戦を開始してから10分が経過し、私は予定していた捜索範囲の西端部へ達しようとしていた。
そしてこの地点で、私は今回最大の地山の露出(露頭)を目にする事になった。
一層激しく「ガサゴソ」して、最後のチャンスと思われる露頭へと近付いた。
そ し て
坑口は発見されなかった。
まことに残念だが、これが私の答えである。
最後の露頭はほぼ垂直で、人工的な開鑿の結果である可能性を感じさせはしたが、
単純な地すべり地形の一部であるとしても、全く不思議ではないし、
人工的なものと断言するのはあまりに早計であろう。
捜索の最後に、源頭部の地形を西側から振り返って俯瞰した。
遠目には分からなかったことだが、この柿ノ木谷戸の源頭部斜面には、3箇所の雨裂が存在した。
そしてこのいずれもが、隧道の擬定地点である。
規模的には真ん中のものが最大であり、また最後に紹介した露頭があったのは手前の雨裂である。
しかし、どこに坑口があったのかを示す決定的な証拠や痕跡は見付けられなかった。
全体的に地表が土のために流動的で、確たる古さをどこにも見出せなかった。
また、全ての雨裂の前に道形は存在しなかった。
そこにあるのは全て激藪の谷筋だけであり、道の位置から隧道位置を決定するという定石を使えなかったのも苦しい。
ぶっちゃけて言ってしまえば、地図上には確かに存在した隧道だが、現地ではなんら隧道が存在したという確たる証拠を得られなかった。
いわゆる、惨敗である。
14:14 《現在地》
立地的にも時代的にも十分覚悟していたとはいえ、激藪跋渉の結末としての無成果(現存しないことを確かめたことが成果だともいえるが)は辛く、斜面をよじ登って尾根に戻るのにも苦痛を感じた。
しかしともかく長沼側の坑口捜索を終え、今度は下柚木側に舞台を移すべく、峠の上に復帰したのであった。
この良く整った公園の下が、まさしく隧道の在処である。
土被りは少なくとも20mくらいあるだろうが、人為的に空洞を埋め戻してでもいない限り、現在も幾ばくかの痕跡が地中に残っているに違いない。
何か地面を透かして地下を捜索する装置でもあればよいが、そんなものが携帯できるサイズになったら、再び探索に訪れようと思う(私が生きている限りであるといいが)。
……ふぅ。
遠目に見た峠は“いかにも”といった鞍部だったが、現地へ来てみると全く平板な土地が広がっていたのは意外なことであった。
そして広く均された峠の土地の利用方法は、長沼側は公園であったが、下柚木側は家庭菜園の集合地となっていた。
小さく区切られた畑が沢山あって、それぞれにオーナーが設定されているのであろう。作物も全く色々だ。
そのような畑の中で、老婦人が一人、土に向かって黙々と作業をしていた。
「あなたはいま、昔の隧道の上を耕していますよ」などと、いきなり本題には入らない。
来意を告げ、それからソロソロと質問へと移っていく、コンビニ店長時代に培った笑顔が最大の武器になる、私のゴールデンパターンだ。
だが、私は質問すべき相手を見誤ったようだ。来意(土地の昔のことを調べている)を告げた時点で、即座に「私はこの土地の人ではない」と返されてしまった。
ぬぅ。
峠の地形は大規模に改変されていたが、そこから眺める風景も明治とは別次元であった。
←下柚木側の眺め。手前の細長い谷間に見えるのが下柚木の街並みである。圧巻は山向こうにある南大沢の開発量で、多摩ニュータウン発展の凄まじさだ。
→こちらは登ってきた長沼側の眺めで、関東平野の西端に座する八王子の市街が間近である。
少し大袈裟かも知れないが、どうしてこうなったかと、些か嘆きの気分に暮れた。
やはり、家のすぐ近くで明治隧道を捜索しようなどと言うのが、むしのよすぎる話しだったのか。
徐々に感情の起伏が失われつつある中で、もとより期待感の薄かった下柚木側に足を進める。
申し訳程度の木立の向こうに、地形図通りに整理された区画が広がっているのが見えた。
まあ、そうだよな。
もう10年早く来ていれば、また景色は違っていたはずなのだが。
峠道そのものも、今では下柚木側へと下っておらず、ここで分断されている。
今見えている下柚木側の区画へ入るには、私有地らしき家庭菜園地を通らしてもらうか、大きく迂回して麓から改めて登ってくるしかないが、自転車ありなら後者一択であろう。
…。
なんか、大穴が……?!
そ そ そこも隧道擬定地だぞ……
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