隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦 後編

所在地 東京都八王子市
探索日 2014.12.30
公開日 2015.01.15

下柚木側での明治隧道探し 〜アプローチ〜


2014/12/30 14:34 《現在地》【迅速測図】

峠から眼下に見た“大穴”に、明治隧道発見に至る最後の希望を託した私は、日が傾きつつある住宅地を激走して、下柚木側の“明治道”分岐地点へとやって来た。

迅速測図と現在の地形図を見較べると、ちょうどこの辺りで都道160号下柚木八王子線(野猿街道)から北に外れて“長沼峠”の隧道を目指すというのが、明治14〜18年頃の迅速測図にある道である。

なお、野猿峠越えの都道160号は、八王子と多摩ニュータウンおよび多摩市方面を結ぶ大幹線道路であり、ほぼ全線の4車線化が完了済みだ。
その沿道に当たる区間の明治道はすっかり飲み込まれているかと思いきや、この写真のように微妙な存在感で現存していたり、生活道路として生き残っている部分が多かったのは意外だった。しかし、ここではすぐに本題の峠区間へと入りたい。




都道から離れて最初に目に止まったのは、明治道の微睡んだ気分に喝を入れ、ともすれば部外者の進入を尻込みさせるような、真っ赤な看板たちの列であった。

いずれも下柚木町会の名の元で掲げられた看板は、ペット霊園やペット火葬施設に対する反対の声を上げるものであり、この地区で深刻な問題になっている事が分かる。

その是非については私の範疇では無いが、山の裏側の長沼町では全く問題になっていなかったことが、こちら側ではかくも大問題であるというのが、近世までの伝統的な村の範囲を思わせて興味深かった。


14:37 《現在地》【迅速測図】

都道から170mの地点で道は二手に分かれている。
問題とされているペット霊園関係の施設もこの場所で、反対を訴える看板業火も、ここを盛りに燃えさかっている。

なお、この分岐は迅速測図にも同じ地点に描かれており、直進は明治隧道へと向かうが、左折は西へ走って野猿峠(ただし迅速測図に名前は無い)の頂上を目指しているす。(レポートは省略するが、軽自動車程度は通り抜けが可能である。一部未舗装)
そして、迅速測図には野猿峠を通る道は数筋描かれているが、中でも一番太く立派に描かれているのが、ここから登る道なのである。
つまり、迅速測図の時代には、この地点が野猿峠の道と明治隧道(長沼峠)の道の最大の分岐だったようだ。



分岐地点を境に看板地獄を脱出し、目に優しい普段の里山風景となる。
だが、一方で足には厳しい急坂になった。
等高線に対して敢然と立ち向かうこの直線的な坂道は、従来の明治隧道や明治車道のイメージにはそぐわない。
とはいえ、迅速測図もほぼ同じ線形を見せているのであって、ベースは変わっていないはずだ。

そしてこの急な坂道の向こうにまっすぐ見えているのは、先ほどまでいた、長沼峠の鞍部である。
迅速測図を信じるならば、隧道はこの直線坂道から少しだけ右に向いた、鞍部の直下に口を開けていたはずである。




14:39 《現在地》

ここで再び道が二手に分かれた。

明治道は間違いなく直進だが、現状は工務店の敷地で行き止まりで、まさに隧道が口を開けていたのではないかと思われる山を背に建物が建っている。

とりあえず、右の道を迂回して先へ進むことにする。
峠から見えた“大穴”の場所へ行ってみたい。
その場所は、まさに目の前の事務所の裏側で、さらに一段と高くなった敷地のようだった。
この段階で、“大穴”の正体が明治隧道の坑道陥没によるものではないかという疑惑はより深まった!





“大穴”の正体は?


14:41 

“大穴”へ到達した。

峠から見えた通り、平らな地表に大穴が空いていて、

その姿は、素人目にも陥没によって生じたもののように見えた。




“大穴”は、長沼峠鞍部の下柚木側に造成された南北50m、東西200mほどの平坦地の最も西側に存在しており、北側は鞍部へ続く上り斜面に、西側は未開発の山林に、南側は下柚木側の下りの斜面に、東側は造成地を巡る“ロ”の字型の道に、それぞれ接していた。

峠に連なる南向き斜面は家庭菜園地として利用されているが、広い造成地そのものは住宅地というわけでもなく、プレハブ小屋の工務所のようなものが多数立ち並ぶ、よく分からない一画になっている。
しかしいずれにせよ、明治隧道南口擬定地を含む範囲で大規模な地形の改変が行われており、隧道南口の現存は絶望と思われた。

もはや、“大穴”の他に隧道の手がかりになりそうなものは無い。

…近付いてみよう。




穴の淵に近付いてみると、底知れぬ不気味さがあった。

これは比喩表現ではない。
現実に陥没穴らしきものの底は、目視が不可能であった。
理由は水の存在である。

穴は長径10m程度の南北にやや長い楕円形であり、深さは不明。
というのも、地表から5mほど下に水面があり、水が濁っているので水中の様子も見通せない。
だが、3m四方ではとてもきかない水面の広さを考えれば、そこそこ深い感じがする。



穴の周りの斜面は、西側がやや緩やかで、東側は垂直に近い切り立ち方をしていた。
西側の斜面は、表土と一緒に樹木や笹藪が落ち込んでおり、そこが山林であったことを伺わせるが、東側の急斜面は完全に造成地に掛かっている。
しかも崩壊は徐々に進行したものらしく、応急措置的に設けられただろう仮設フェンスや、地表に雨水が浸透するのを防ぐためのシートが、部分的に穴の中に飲み込まれていた。

また、水を汲み出すためのポンプ座を設置していたのだろうか、底の辺りには鉄パイプ製の櫓を組んであったが、現在は特に穴の拡大や浸水に対する措置や監視は行われていないようだ。
…大丈夫か?




この穴の正体は、一体?

こうして眺めているだけでは、その答えを知る事は難しい。

だが、閉ざされた地底の様相を地表に反映した、何らかのメッセージであるのは間違いない。

一般的に考えても、地下に空洞が無い場所で、これほどの陥没が発生するとは考えにくいだろう…。



浸水のために、大穴の底から明治隧道の内部へと立ち入るという、そんな最後の小さな希望も消えた。

南口の現存は絶望であり、遂に進むべき道を見失った私であったが、ここで、オブローディングの神の実在を疑わせるような事が起きたのである。

なんと、この大穴によって自ら所有していた小屋を飲み込まれたという、極めて因縁の深い人物に遭遇し、詳しいお話しを伺う事が出来たのだ。
ここでその貴重な証言を、二つのテーマに別けて紹介したい。

関係者による証言集(1) “大穴について”
  • この穴は、去年(2014年)の大雨の後で陥没が始まり、出現した。
  • 最初の穴はもっと小さく、山林の方にあったが、次第に造成地の側へ拡大してきて、そこにあった畑や小屋を飲み込んでしまった。
  • この間、わずか数ヶ月である。現在も穴は拡大を続けている。
  • 私が穴の第一発見者であり、行政に通報したが、本格的な調査や対策工事は未だ行われていない。
  • 穴が出現した場所の近くには、15年ほど前に今のように造成される以前は、小さな沼があったと言われている。

まず驚いたのは、この穴の出現が極めて最近の出来事であったことだ。
正確な時期を聞き忘れたが、それまで平であった造成地の一角が、大雨を契機に陥没をはじめ、そのまま周囲にあった畑や小屋を呑み込みながら、現在の大きさまで僅か数ヶ月で成長したというのである。
私の家から直線距離で3kmも離れていない山の裏側で、こんな天変地異が現在進行形で起きていたという事を、私は知らなかった。


さて、続いてが、私にとっての真に核心的となる証言だ。

この陥没穴の“底”の下にあるものについて、証言者には心当たりがあるというのである。

それは、ここ下柚木出身の70才を越す人ならば皆知っており、それより若い証言者の耳にも聞こえてきた話しであると。




関係者による証言集(2) “大穴の底の下にあるものについて”
  • この穴の下に、太平洋戦争中に陸軍が戦車を隠していたトンネルが存在したようだ。
  • トンネルが貫通していたかは不明だが、戦後もしばらくは下柚木側に坑口があり、7〜80才くらいの人が子供の頃には、中に入ってよく遊んだという。(証言者は未経験)
  • トンネルに隠されていた戦車は、南大沢の“戦車道”で使われたという。
  • トンネルの坑口は、15年ほど前の土地造成時に埋め戻されたのか、それ以前から埋もれていたのかは、分からない。
  • トンネルの坑口の位置は、工務店が建っている裏山辺りと聞いている。
  • トンネルが陥没穴の真下かは分からないが、おそらく地中のトンネルの崩壊が、陥没の原因であると思う。

  • (私が迅速測図を見せて、明治隧道の話しをしたことを受けて〜) 明治時代にも隧道があったというのは知らなかった。

証言者も地中に隧道の存在を疑っていたのであるが、驚いたのが、その隧道の正体であった。
まさしく想定外の伏兵だった。

まさか、私が追っていた明治隧道の他に、陸軍が戦車を隠していたトンネルなどというものが、現れてこようとは。
しかも、その実在性に関する証言は、証言者本人の目撃ではないものの信憑性が高そうである。

なお、ここで突然に「戦車トンネル」が出て来たが、この多摩丘陵と「戦車道」の関係が浅くないことは戦後生まれの私でも承知している、この地区の歴史的事実であった。
この件については「考察編」で少し解説を補足する。

だが、タナボタのように現れた戦車トンネルに対し、それよりも時代的に古い明治隧道については、証言者もご存じなかった。
明治隧道と戦車トンネルの関連性については、二つの可能性があるだろう。
すなわち、両者は全くの別物であったという可能性と、明治隧道を再利用したものが戦車トンネルであったという可能性だ。
この疑問についても「考察編」で考えてみたい。



最後に、証言者によって指し示された、「造成以前のトンネルがあったかも知れない場所」へ潜入してみた。
場所は先ほど見た工務店の裏山で、画像の矢印の位置の20mほど向こうに陥没穴がある。

そこはまさしく、陥没穴の下に坑道が存在すると仮定する場合、地表に坑口を結ぶであろう地点であり、私の目から見ても擬定地点としての質は高かったが、残念ながら、またしても一切の開口部や近年まで開口していた事を疑わせる明確な痕跡は、見出せなかった。

しかし、これは想定の範囲内と言うべきである。
陥没穴とトンネルが地中のどこかで繋がっているならば、洞内は完全に水没しているはずであり、その水が一切流出していない時点で、そこに開口部が存在する可能性は極めて低いといわざるを得ないのだ。
15年ほど前という土地造成の時点で開口していたかも不明だが、地形の雰囲気としては、相当古い段階で開口部は失われていたように思う。

土地の造成によって廃トンネル上部の土被りが減少し、そのため地表から洞内に浸透する雨水が増加した。しかし、トンネルには出口が無かったため次第に水で満たされ、やがて内壁や天井が脆くなって崩壊。そのため地表に陥没が現れたのではないだろうか。
今後、行政によって詳しい調査と、結果の公表が行われる事を期待したい。




以上、隧道そのものの痕跡には結局辿り着けずに、この日の明治隧道捜索作戦は幕を閉じた。
だが、期待していた以上にドキドキさせてくれる場面が多くあり、特にあと1年早く訪れていたら、陥没穴に出会う事は無かったのだと思うと、巡り合わせの妙を感じた。
正体が明治隧道であれ、戦車トンネルであれ、地中に置き去りにされた何らかの人工的な空間が、何か伝えたい事があって地表に姿を見せようとしている。
そして、近くに住んでいる私を呼んだのだと、そう思った。


――探索終了。




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