現地での証言により、下柚木の明治隧道南口擬定地点付近には、太平洋戦争中に陸軍が戦車を格納していたトンネル(ここでは「戦車トンネル」と仮称する)があったという衝撃の事実が判明したのであるが、はたして「戦車トンネル」と明治隧道の間には関係があったのか。
より具体的には、明治隧道を再利用したものが戦車トンネルであったのか。
まずはこの問題を考察してみたい。
左図にカーソルを合わせるかクリックすると、画像が同じ場所の迅速測図にチェンジする。
こうして見てみると、戦車トンネルの陥没によって出現したと見られる“大穴”と、明治隧道の擬定地点とは、思いのほか離れているという事実が判明した。
もちろん、迅速測図の正確性には疑問があるのは確かである。隧道を正しい位置に描いていたとは限らない。
だが、これらの地形図に見られる等高線の変化が、土地の造成によって生じたものであると考えれば、明治隧道の南口は既にそれがあった谷ごと、造成地に埋め立てられていると判断せざるを得ない気がする。
また、“大穴”の位置より南側に明治隧道が口を開けていると考える理由も乏しい。
それでは明治隧道を必要以上に長くする必要があるし、工務店裏手の戦車トンネルの坑口擬定地点と大穴の位置を直線で結んでも、明治隧道の擬定ラインとは重ならない。
これらの情報を総合すれば、戦車トンネルと明治隧道とは、別個のものであったと判断して良いように思う。
戦車トンネルは、長沼峠を貫通する目的のものではなく、あくまでも地上から戦車を隠すための格納庫として、行き止まりの坑道だったと考える事が出来る。
そもそも、戦車トンネルとはどのような背景で建造されたものなのか。
現地の証言者は、「戦車道路で使われた戦車を隠していたようだ」と話していた。
戦車道路について少し説明しよう。
左の資料は、国立公文書館アジア歴史資料センターでデジタルデータが公開されている、「土地買収に関する件」という文書の表紙画像である。
この文書は、昭和17年に陸軍省が発行した機密文書で、本文に「実施手続中ニ係ル 相模陸軍造兵廠戦車類運行試験場 (中略)ノ残部ニ対シ 別紙図書ノ通 所有権者ト協議成立セシニ付 臨時軍事費築造費令達予算内ニテ支弁シ」
とあるように、相模陸軍造兵廠戦車類運行試験場(いわゆる戦車道路)を建設する為に行われた地権者との買収協議の途中経過を報告したものである。
右図は、この資料に綴じられている図面に少し加工を施したものである。
原図は、当時の5万図を縮小したものに、戦車道路の計画ルートと相模陸軍造兵廠の位置が書き加えられているだけだが、便宜のため、当時の主な市村名や、実際に戦車道路が建設された区間、そして今回の「戦車トンネル」の位置を書き加えている。
この図を見れば分かるとおり、戦車道路は多摩丘陵上に複数の環状道路を設ける壮大な全体計画を有しており、全長30kmにも及んだが、終戦時点で完成していたのは忠生村〜堺村間の約8kmほどで、それ以外の区間も大部分の土地買収は済んでいたとされるが、完成はしなかった。
本文に戦車道路の計画ルートは、「本買収地ハ南多摩郡堺由木多摩鶴川忠生ノ五ヶ町村ヲ貫ク環状道路トス其ノ通過スル所主ニ村道ノ拡張ニシテ或ハ山頂ニ出テ水田ニ入リ畑地ヲ走ル」
とあるが、実際に先行して整備されたのは、中でも「山頂」すなわち稜線を走る部分であったようで、戦後残された約8kmの既成区間は、昭和35年頃から防衛庁(現防衛省)が再整備して約10年間使用された後、一般に開放され、現在では町田市などが遊歩道「尾根緑道」として整備を進めている。
さて、今回の話題の戦車トンネルについてであるが、この戦車道路の計画ルートからは1kmほどの至近距離に位置している。
ただし終戦までに整備されたとされる区間からは3kmほど離れるが、堺村〜由木村の間には既に村道が存在していたから、最低限の整備で戦車が通行できた可能性はある。
実際に戦車トンネルに戦車が格納されていたかは現時点で不明だが、地元の古老の多くが戦車トンネルで遊んだ経験があるということだから、戦車トンネルと信じられていたトンネルが下柚木に存在したのは間違いないだろう。
なお、この戦車トンネルについても、明治隧道と共に情報の収集を現在進行形で進めている。
明治隧道とは別のものであったというのが私の見解だが、そもそも戦車を格納するためのトンネルというのが、戦跡に疎い私にとっては未知の領域である。
その規模や坑道の数や面的な広がりなど、想像だけでは語れない部分が多いので、これについてはもう少し具体的な証言を得てから追記したい。
早速にして、追記第1号である。
これは、Facebookを通じてYuki Dobuchiさんから寄せられた、下柚木在住の80代で戦車トンネルを遊び場として使った事があるという方の証言だ。
「下柚木に住んでる80代の方に、例の戦車格納庫で遊んだことがあるという方が居ました。
その方が入った時点で下柚木側しか入り口はなく長沼側にはぬけていなかったとのことです。」
戦車トンネルが明治隧道とは別のものであったという説を裏付ける証言である。
← 古い (空中写真) → 新しい | ||||
昭和16年撮影 | 昭和23年撮影 | 平成20年撮影 | ||
ところで、戦時中から戦後間もない頃の空中写真にも、戦車トンネルや明治隧道の状況に関するヒントが隠されていた。
右図は。戦時中の昭和16年、戦後間もない昭和23年、最近の平成20年に撮影された3枚の空中写真の比較である。
まず、昭和16年の時点では、大規模な戦車道路の建設は始まっていなかったはずで、戦車トンネル自体存在しなかったと思われるが、それでも明治隧道の両側の坑口位置を容易に特定しうるほど、はっきりとしたラインが空中から見て取れる。
地形図からは明治隧道が消えて久しいこの時期でも、なお坑口前に至る道は鮮明に残っていたのではないかと思われるが、その理由は不明だ。
次の昭和23年の写真では、南側の道が非常に鮮明に現れており、終戦まで戦車道路が実際に利用されていた事を彷彿とさせる。
周辺の山林も大規模に伐採され、道沿いに建造物や、穴のような影が見えるなど、一帯は施設化していたものと推測される。
そして平成20年の写真と較べると、明治隧道の南口の位置は、間違いなく造成地に被っていることが理解される。
これは大きな収穫であるが、同時に新たな謎も生じている。
現在ある“陥没穴”の原因と考えていた戦車トンネルの位置が、よく分からないのである。
昭和23年の写真では、戦車トンネルが現在の工務店付近に口を開けていたという形跡が確認出来ず、むしろ、これらの空中写真を見る限りにおいては、戦車トンネルとは明治隧道の再利用なのであって、陥没も地中にある明治隧道(=戦車トンネル)の南口を原因に発生していると考える事が出来るのである。
このように、空中写真を重視する場合と、迅速測図や現地証言を重視する場合とで、戦車トンネルや陥没穴に対する評価が大きく変わってしまう可能性があり、これは難しい問題となっている。
この問題を解決出来るのは、やはり多くの証言によるしかないだろう。