おこぜ氏の聞き取りによって、芦廼瀬川出合にある滝集落の古老よりもたらされた新説は、説というよりも事実を窺わせる、“謎の穴”の利用関係者による証言だった。
おこぜ氏から会話型式で送られてきた、前回紹介した古老の証言をまとめると、概ね次の通りである。
滝集落の古老証言 まとめ
- 穴は、カリガワのためのもので、山で伐りだした材木を1本ずつ穴を通して流した。
- カリガワで芦廼瀬川を下った材木は、滝で筏に組まれて十津川を新宮へ流した。古老は以前、カリガワの手伝いをしていた。
- 十津川の下流に二津野ダムが出来る昭和30年代中頃まで、カリガワも筏流しも行なわれていた。
- 穴があった地点の谷幅は、カリガワが行なわれていた当時、今よりもずっと狭かった(ので、大岩は流送の障害になっていた)。
- 穴が掘られた時期は不明だが、戦前からあった。
- 穴を誰がどのようにして掘ったかは不明。
この“カリガワ説”の裏付けの得るために、まずはカリガワがどのようなものであったのかを、出来るだけ詳しく知る必要があるだろう。
私は林業における運材という分野について、もともと林鉄や林道が大好きなので、ある程度の予備知識は持っていた。
だから、運材が陸送と流送に大別され、流送は管流(くだながし)と筏流(いかだながし)に大別されることは知っていた。
管流は木材をバラバラに流すことで、筏流は文字通り筏を組んで流すことである。
したがって、カリガワというのが管流に属するものであることは予想できたが、寡聞にして初めて耳にする言葉だった。
だが、逆さにした「川狩(かわが)り」は聞いたことがあり、やはり管流の地方的な表現であって、木曽でも千頭でも秋田でも日本各地で耳にしたことがある。
ネットで「カリガワ」で検索を掛けてもヒットしないが、「カリカワ」と濁りを清めると、多数の地名や会社名に交じって、「十津川かけはしネット」という十津川村教育委員会のサイト内にある「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」というページがヒットした。
曰く……
カリカワ(狩川)
〔筏〕一本流し、管流し。材木をバラで流送すること。この作業の総指揮者はカリカワノショウヤ。その人足は、カリカワニンプ(宇宮原・旭)。平谷辺では、バラガリという。旭では、旭川筋の間はイッポンナガシ、大川へ出ればカリカワだという。
十津川かけはしネット「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」より
……ということで、管流の地方的な呼び方と見て間違いないようだ。
十津川村での管流について、村公式サイト内の十津川民俗WEB事典(十津川文化叢書からの引用)により詳しい解説があるので、時間のある方はどうぞ。
次に、現地の景色をもう一度、カリカワという観点から眺めてみたい。既に撮影した写真でも、観点を変えることで、新たな気づきが得られるかも。
というわけで、現地を一望する俯瞰写真である。
そこに古老の証言した風景を想像して、重ねて描いてみた。
今よりも川の水が流れる幅(流水幅)が狭くて、木材を流送することの邪魔になるので河中の大岩に穴を掘って通したというのは、こういうイメージだろう。
水は穴以外からも自然に流れ出ていただろうが、狭いところに木材が引っかかるので、すんなりと流れるように穴を掘った。
検証開始。
まず、探索日の低い水位からは、河底から2〜3mの高さにある穴を、水と一緒に木材が流れたということは想像しにくいが、これについては発電所による取水の影響や、ダム建設による河床自体の低下も想定されるので、一旦措く。
より大きな疑問は、大岩に穴を掘って通さねば満足に流材できないほど、かつての谷幅が狭かったのかである。
おこぜ氏も同じことを疑問に感じて古老に質問していたが、古老は、「そうだ」と答えたそうだ。
現状、「川幅」の半分くらいを件の大岩が邪魔していて、「流水幅」はその半分ほどに制限されているが、それでも特段に幅が狭いとは感じない。
この土地のかつて(カリカワが中止される昭和30年代半ば以前)の谷幅を知るには、それこそ小川取水ダムの建設写真(着工前の写真を必ず撮影しているはずだ)を見られればベストだが、その手掛かりはないので、航空写真による代用を試みた。(旧地形図も見たが、精度の問題で、特に狭さは感じられなかった)
歴代の航空写真を重ねて比較してみたのが右画像だ。
最新の令和1年版から昭和41年版までの3枚は、いずれも取水ダム建設以降の景色であるが、それほど大きく渓相が変化しているようには見えない。周辺の山肌を見ると、多くの崩壊地を作っていた山腹を横切る道路が次第によく馴染み、周辺の緑化が進んでいる様子が見て取れるくらいで、件の大岩はずっと同じ場所にあるように見えるし、この間には川幅が変ってしまうような大きな変化は見て取れない。
この期間には、平成23(2011)年の台風12号で紀伊半島一円が大水害(紀伊半島大水害)となり、十津川村も明治22年水害(新十津川村分村のきっかけとなった)以来といわれる大きな被害を受けたが、大岩は動かなかったと判断できる。(取水ダムによる減水効果は限定的だったはずだ)
取水ダム建設以前に撮影されたのは、最後の昭和23(1948)年版だけである。
陸上の道が全く見て取れない原始的な風景の中で、この頃おそらくカリカワが行なわれていたはずだが、大岩の所在が確認できない。
もしこれが本当に大岩がここになくて写っていないのなら、古老の証言の意味を再検討しなければならない大事だが、画像の解像度や影の問題があるので断定は無理だし、古老も大岩が戦後に移動してきたというような話はしていないようなので、撮影精度の問題で写っていない可能性が高いとは思う。
一応、大岩は既に同じ位置にあったという前提で検証を進める。
その上で、川幅というか、流水幅の変化が見て取れるかという問題だが、残念なことに、この写真の精度では分からないというのが答えだろう。
航空写真から、カリカワ時代と現在の河況の変化を読み取ることは無理なようだ。
流水幅が今よりもいくらかは狭かったから、大岩に穴を穿って流材を行なったことは、事実であろうと思う。
ただ、単純に流水幅を広げるだけならば、別のもっと簡便な手段があったように思えてならない。
大岩という、かなり厚みのあるものを掘り抜いて、幅や高さや深さに制限がある水路を増やすよりは、もともと川が流れていた岸を切り広げることが、より少ない労力で可能であるように思う。大岩を掘るよりも、より小さな岩を退かすなり崩すなりするほうが、容易いはずだ。
私は、おこぜ氏がもたらした古老の証言を読み進める中で、全く自然な印象として、この大穴が掘られた理由として、次の風景を想像していた。
(今よりも狭かったと言われる)川幅を塞ぐ堰があった可能性。
なぜ堰を設ける必要があったかの説明が必要だろう。
これは一種の鉄砲堰だったと考える。
テッポウガリ(鉄砲狩り)
〔筏〕テッポウセギを築いて、湛水を放流して、その水勢によって材木を押し流すこと(西中)。
テッポウセギ(鉄砲堰)
〔筏〕略してテッポウ、セギともいう。
十津川かけはしネット「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」より
鉄砲堰の説明は上記の通りで、全国で広く行なわれていたが、十津川でも行なわれていた。
通常、カリカワは(管流全般も)渇水期に行なわれる。
増水した川で行なうと、制御不能に陥り、木材が行方知れずになったり、破損しやすいためだ。
しかし、渇水期のそのままの水量では、大量の材を流すことは難しい。
そこで、意図的に川を堰き止めて、材を浮かべ、それを一挙に解放することで、増水時以上の勢いで一度に押し流すのである。
川のエネルギーを、引き絞って、一気に放つ。これを鉄砲堰という。
「林道事業50年史」より
「林道事業50年史」より
左の写真は、『林道事業50年史』に掲載されていた徳島県木頭村(きとうそん、現在の那賀町の一部)の鉄砲堰である。
ここに写っている堰はかなり大規模でなもので、コンクリートか石組みのように見えるが、小規模なものは全体を丸太で組み上げた。
チェンジ後の画像は、放出した瞬間の同じ堰で、凄まじい迫力である。
この勢いで下流まで一気に大量の材を押し流したわけだ。
右の写真も同書にある木頭村の風景だが、これは鉄砲堰ではなく、水堰という形式である。
こちらも堰で湛水するところまでは一緒だが、破堤によって水と材を一気に解放するのではなく、堰上部の越流部分から、丸太で作った修羅(木材の流路)が下流に続いていて、そこを水と一緒に材が滑らかに流れていく。つまり、川の中に専用の流材路を作るわけだ。
同書によると、前者は、河床が堅固で、下流に大きな障害物がなく、大量の木材が一挙に流しても支障がない場合に行なわれ、後者は、河中の障害物が多いなど、前者の使用に耐えない場合に行なわれたという。
……鉄砲堰と、その亜流である水堰を較べると、この芦廼瀬の現場により適しているのは、明らかに水堰のように思われるが(河中の障害物が多すぎる)、十津川で水堰によるカリカワが行なわれていたかは証拠がない。(修羅による運材は十津川でも間違いなく行なわれていたが)
しかしともかく、私が古老の証言から考えたのは、
ここで堰によって湛水し、その堰を解放するのではなしに、隣の大岩に開けた穴に設けた堰を操作していたのではないかということだ。
そのうえ、鉄砲堰のような乱暴な方法ではなく、水堰のように、穴の下流に繋がる修羅による運材径路を設けることで、【荒れた下流】を安全に流送していたのではないかという仮説である。 名付けて、流材路穴堰説だ。
流材路穴堰説の下流側から見た想像図。
穴を材が流れたとしても、そのまま下流側の河床に自由落下というのでは、いかにも材に悪そうだ。
そこで、丸太造りの修羅によって、流しそうめんのように下流まで自然な傾斜で流下させたと考えた。
また、水を一時的に堰き止めるための樋門がどこかにあったはずだが、その開閉装置の置き場所として“テトリス台”と穴直上の“輪っか”があったとまで大胆に想像してみた。
もっとも、樋門があったとしたら、それを設置するための凹形の構造物がどこかにありそうだが、それは見当たらなかった。
鉄砲堰のようなものがあったのではないかという私の考えを、古老の言葉を直接聞いたおこぜ氏に向けてみたところ、次のような感想を頂戴した。
あの水系で鉄砲堰を利用することもあったという証言は得ています。ただし,あの岩の位置に鉄砲堰を作ったのか,他の何箇所かに作ったのか,両方なのかまでは確認していませんので,古老もそこまで詳しく知っているか否かも不明です。逆に言えば,訊けば判るかも知れません。
あの岩の穴程度の深さの淵は,あの規模の谷では珍しくはないですし,もし,岩の上側が大きな淵で,穴と水面が同じくらいなら,人力で1本づつ穴に送ったのかも知れません。しかし,その点も,そこまで具体的なことを会話時には思いつかなかったので,実際どう運用されていたかは確認していません。訊いてないだけで,これも古老が知っている可能性は残されています。古老が携わったというカリガワの作業がその岩の辺りなのか,もっと下流(上流?)なのかも訊いていませんので,知っている可能性もあります。一本ずつ流していたのは間違いないです。
追加の証言を得るか、文献を得るかしない限り、確定しがたいことなのは重々承知だが、そう悪くない手応えだとは思う。
ただし、穴の内部を流材とは関係なしに普段から水が流れていたことはなかったと私は思う。
理由は、穴の内壁がそれほど侵食されているように見えないことや、下流側の坑口にも水垂れの侵食があまりないことだ。
数年しか使われていなかったというのなら別だが、長く水を通していたならば、もう少し侵食の跡があって良さそうに思うがいかがだろう。最終的には石の硬さ次第だろうが。
大岩の上下に色の違いがあるのは、水に浸される機会の差だろう。
ちょうど穴の下端辺りを境にして色が違っているが、かつての汀線がこの辺りにあった名残なのだろうか。
大岩の側面に、堰を支えるような構造の跡があったかを、写真から調べてみたが、はっきりしない。
矢印の位置に、人工的とも見える凹みがあるが、それくらいである。
現地の写真を見返すことでは、やはり解決までは辿り着けそうにない。
古老の証言のうち、カリカワに用いた穴だったという核心については、残念ながら現時点の到達地点はここまでである。
それ以外の証言、十津川本流の筏流しが行なわれていた事実や、その時期については、資料での検証で正確だと確かめられた。
以前、十津川村には村史がないと書いたが、確かに村史というタイトルでは出ていないものの、昭和36(1961)年に村役場が発行した、その名も『十津川』という1000ページあまりの大著があり、これが(時期はやや古いが)村史の代用となる記述量があった。(内容は、十津川村綜合文化調査団がまとめた十津川文化叢書を1冊にまとめたもの)
交通、林業、発電事業などの項目について読んだが、残念ながら芦廼瀬川の謎の穴の答えは書かれていなかったし、この川でどのような運材がなされていたかも触れてはいなかった。
ただ、二津野ダムの着工によって十津川本流での全ての筏流しが終了したことが明記されており、証言は正確だった。
また、村内にはかつて筏組合という流材専門の組合が複数存在し、その仕事の内容として、河道の改修も行なわれたことが出ていた。
その延長線上に芦廼瀬川での穴の掘削もあったのだろうか。ただ、芦廼瀬川は筏が下る川ではなかったから、むしろこの地で伐木を行なった事業者の仕事の可能性の方が高そうだ。
あとは、森林開発公団が請け負った芦廼瀬林道の全通が昭和34(1959)年12月1日であったことも判明した。当然、それ以降にカリカワが行なわれることはなかっただろう。
次のステップは、もう一度村に乗り込んでの徹底的な聞き取り調査になるだろうか。
しかし、第二第三のおこぜ氏が登場することも吝かではないので、意欲のある方および村民に知り合いがおられる方の協力は随時募集中です。
もちろん、皆様の推理のご披露もお待ちしています。