隧道レポート 七泰の滝の下の謎の穴 机上調査編

所在地 奈良県十津川村
探索日 2020.3.04
公開日 2020.6.08

索道説を裏付ける決定的一手


現地で解決できなかった“謎の穴”の正体を解明する取り組みは、机上調査に持ち込まれた。
しかし、探索中に最寄りの小川集落で戸別訪問の聞き取りを実施しなかったことを、すぐに後悔することになった。
一瞬、謎を持ち帰ってから解決できるだろうかという不安から実行を考えたのだが、当時既にコロナ禍が騒がれており、外部者の訪問は普段以上に警戒されるだろうと思って中止したのだった。

机上調査の上でまず誤算だったのは、日本最大の面積を誇る巨大な十津川村が、未だに現代史の村史を刊行していないことだった。
検索してヒットするのは、明治初期の洪水に打ちひしがれた彼らの先祖が北の大地に拓いた新十津川の町史だった。


「建設の機械化1960年6月号」より

次に、電源開発株式会社の社史に狙いを定めた。
昭和37(1962)年に同社が刊行した「10年史」を読んだ。
そこには、昭和35年に運転開始した十津川第一発電所建設の概要が述べられていた。
十津川を堰き止め風屋ダムを建設する工事は、始めに十津川村を南北に貫く国道168号を大型自動車が通れるように改良することから始めなければならなかったこと、同国道の天辻峠で現在使われている1km以上のトンネルもこの目的で同社が建設したこと、一連の国道改良工事の工費は8割以上も会社が負担したことなど、興味深い事実が述べられていたが、哀しいかな、同じ十津川第一発電所に水を送る取水施設としては風屋ダムが圧倒的メインであり、小川取水ダムはサブであったせいか、芦廼瀬川の工事には一言も触れてはくれなかった。

国会図書館のデジタルライブラリーを、「芦廼瀬」をキーワードに手当たり次第検索し、見つけた資料がいくつかあった。
一つは、建設業界誌「建設の機械化」1960年6月号に掲載されていた「熊野川水系十津川の電源開発とその建設機械」という記事で、表題から大いに期待したのであるが、本題は風屋ダムの建設機械であり、小川取水ダム工事についての解説はなかった。



「公団月報 昭和33年11-12月号」より

もう一つは、私が大好きな森林開発公団が発足当初に発行していた「公団月報」昭和33年11-12月号掲載の「芦廼瀬林道の共同施工について」という記事だ。

熊野川流域の電源開発計画の一環として、奈良県吉野郡十津川村の風屋に建設中の風屋ダムに附属する芦廼瀬発電所が芦廼瀬川の川口に建設を予定され、あわせて芦廼瀬川を小川および大野において止水し、その水を同発電所へ導くために工事用道路を建設する計画と芦廼瀬川流域に蓄積されている約3400千石に森林を開発するための林道の開設計画とがたまたま計画線及び施工年度を一にしているため、公団と電源開発株式会社が共同で道路を建設することについて両者から発議がなされた。これは二重投資を避け、両事業を円滑に行なうことの妥当な提案である。
「公団月報 昭和33年11-12月号」より

上記のような事情から、芦廼瀬川沿いの道路(林道と工事用資材運搬路を兼ねるもの)を、森林開発公団と電源開発株式会社の共同で実施することを決定し、昭和33年11月に農林大臣の認可を得たという記事である。路線名は、芦廼瀬林道であったそうだ。

今回私が探索に利用した道路は、出発地の国道425号を含み、全てこの時に建設された芦廼瀬林道に含まれていた。
実際の工事は、国道168号との分岐地点から発電所までのA区間685mは電源開発側が、残りのB区間8225mは全て公団側が“実行”し、建設費はそれぞれの便益比で分担することになっていたようだ。
さらに、B区間の第1工区(小川地区…今回探索区間)の工事を請け負うことになったのは、鉄道建設工業株式会社であることも判明した。

しかし、残念なことに着工後の顛末は不明である。
この道路が取水ダムまで完備されている状況なのであれば、そもそも工事用索道は必要ではないようにも思われるので、この林道の完成時期は重要なのだが、解明できなかった。
小川取水ダム単体の着工時期も不明であるが、昭和32年に電源開発が十津川建設所を開所しているので、それ以降なのは確かだろうし、発電開始は昭和35年10月1日とはっきりしている。

普通に考えれば、道路の開通を待ってから、ダムの工事をするところだが、分担工事という特殊な事情のため、道路の開通が電源側の希望よりも遅くなり、そのため完成道路の末端を起点に索道を敷設して、ダム工事を先行させたという説は、考えられそうなことである。
また、取水ダムのすぐ上流に植林された広場があり、そこに集材に使えそうなケーブルが散乱しているのを見ている。
あれは芦廼瀬林道の林道としての仕事の名残のように思われた。

しかし、河中の大岩に開けられた“謎の穴”の正体という私にとっての核心については、図書館で本を読んでも正体を知ることは難しいのかもしれなかった。

もちろん、歴代の航空写真や地形図も見たが、空振りだった。


「最後の手段」だと、私が思っている手段に出た。

十津川村役場へ、メールで問い合わせてみた。



村へのお越し、ありがとうございます。
さて、お問合せの件について、お答えいたします。
当時の事を知っていると思われる方に聞いてみたところ、おおむね平沼様が推測された通りのようです。

ただ、記載されている文献についてはわかりませんでした。
ご協力できずに申し訳ございません。
ご理解よろしくお願いいたします。

十津川村役場からいただいたメールより

おおむね私が推測した通り……

私が推測して問い合わせのメールに書いたことは……

“これは私の推測ですが、取水ダムを建設する際に資材運搬用の索道が敷設され、その索道の通り道として、障害となった河原の大岩にトンネルを貫通させたのではないかと考えています。”

つ ま り、 索道説が正解。



解決しちゃったねぇ。

右図は、索道説を再現した地図だ。
現地の最後に紹介した広場が起点であり、そこから約300m真っ直ぐ河道上に架策されて、途中で謎の穴を貫通。取水ダム右岸の導水隧道坑口付近に至るものを想定している。

しかし、答えていただきやすいようにと、私の推論を書いてしまったのは、失敗した気もする。
これはたぶん反省点だ。
私が推測したとおりだと太鼓判を押されたのは嬉しくもあるが、新たな発見に繋がらなかった。
あの小さな穴をケーブルと搬器が一緒に潜っていたのは驚くべきことだし、大岩を迂回せずに潜る必要があった理由も、深く納得出来る事情があったのかも知れないが、不明だ。
大岩の上のテトリスブロックの正体も不明。

たぶん解決したけど、55点の解決といったところ。
もちろん、たった数日で詳しい方に問い合わせてまで返信を下さった村の親切な対応は、百点満点。
だが私はまだ納得していない。
このレポートの公開をきっかけにさらなる情報がもたらされることを期待しつつ、現地での聞き取り調査も要検討だ。



これで完結したはずなのに、続くになっちゃった
↓↓↓


逆転的追記: 穴は索道ではなかった?! 古老による衝撃の新証言!  2020/6/11追記 Thanks おこぜ氏


十津川村役場に回答を得たことで、多少の疑問は残しつつも、謎の穴の正体は索道説で揺るがないと思われたが、昨日、穴は索道のために掘られたものではないという衝撃的証言が寄せられた。

情報提供者は、紀伊半島内在住の友人おこぜ氏だ。
彼は、私のレポートの最後の一文に呼応するように、地の利を活かして(それでも現地へは遠い山道の運転で2時間ほどかかるそうだ)、さっそく現地での聞き取り調査を私の代わりに、そして彼自身の疑問解消のために、行なって下さったのである。

彼が聞き取り調査を敢行したのは、右図に青字で示した3地点だそうな。
すなわち、最寄りの(上・下)小川集落、J-POWER電源開発株式会社十津川第一発電所、そしてそのすぐ近くの芦廼瀬川十津川合流地点に面した滝集落。
そしてこのうち小川集落は、人口極めて希薄のために道ゆく人影が見られず断念したというが、残りの2ヶ所で証言を聞き取ることに成功したそうだ。

さっそく、最も核心的だった滝集落古老の証言を聞いていただく。
聞き取り、おこぜ氏。書き出し、おこぜ氏。
それでは、どうぞ。

巨大立体交差の下のR425にある古いトンネルを抜けると、旧R169にT字でぶつかる。そこが滝集落だ。30メートルほど集落を進むと、向こうから古老がやって来るのが見えた。そうさなぁ、年の頃なら後期高齢者に入るか否かというところか。道端のちょいと広い場所に車を停め、元気そうに歩いてくる古老を待ち伏せた。

おこぜ> ちょっと訊きたいのですが,発電所の奥に,小川取水ダムっていうのがありますが,ご存知ですか?

古老> あぁ,あるね,知ってますよ。

そのすぐ下におっきな岩が谷の真ん中にあるのはご存知ですか?

すぐ下のおっきな岩?いや,知らんなぁ。

谷の真ん中にデェ〜ンとある岩で,真ん中にトンネルみたいな穴が開いているヤツなんですけど…

あぁ,ダムのちょっと下にある岩か。知っとる,知っとる。

そうですか!実はあの岩の穴がなんなのか調べに来たんですが,知ってますか?

知ってるよ。あれは カリガワ (狩川=丸太を1本ずつバラバラに川に流す流送方法)や。

カリガワっていうと,筏ですか?

そう,大野や小川から,材木を1本ずつ芦廼瀬川に流して,十津川とぶつかるここ滝で,それらを筏に組んで,新宮まで流しとったんや。俺はずっと新宮で働いとったけど,その前は,カリガワの手伝いもしよったよ。

材木を流すのにあの岩に穴を抜いたってことですか?

そう。

いつ頃まで使っていたんですか?

十津川の下流に二津野ダムが出来るまで流しとったよ。

うわっ…私の推理力、低すぎ…?

……ええと、 これはどういうことでしょうか。

まず、十津川村の回答は、誤情報だったということになるのだろうか。

二つの異なる情報が手元にあるとき、新たに寄せられた一方が無条件で正しいとは当然ならないわけで、精査が必要だ。
ただ、新たな滝集落の古老証言には、本人が直に、あの穴を流送される木材が通るところを見ていたという、ナマの強さがあるのは事実だ。
果たして、索道説と、カリカワ……言い換えれば木材流送路説は、両立しうるのだろうか。



率直に言って、両立は難しいと思われる。

まず、時期的な問題がある。
電源開発が「十津川第一発電所×風屋ダム」ペアの次に建設した「十津川第二発電所×二津野(ふたつの)ダム」の完成は、前者の2年後にあたる昭和37(1962)年であるから、前者のサブダムだった小川取水ダムの建設が盛んに行なわれていた時期にも、「カリガワ」による穴の利用が続いていたことになる。
小川取水ダム建設の索道を通すために穴が掘られ、工事の合間を縫って、あるいは工事が終わった後の短期間だけ、穴を木材流送に使ったというのは考え難い。

また単純に、水面より遙かに高い位置にあるべき索道トンネルを、水中にある流送路トンネルとして使うことは(あるいはその逆も)高度的に難しいはずだし、必然性もない。
滝古老の説を採るならば、索道説はナシになると考えるのが自然だろう。

その上で、索道がなかったかと問われれば、私はNOであったと思っている。
索道自体がなかったならば村の回答も違ったものになったと思うし、大岩上にある謎の“テトリス台”は(これは多くの読者からも予想があった説だが)、索道施設の基礎ではなかったのだろうか。


しかし、改めて穴の姿を見て……(→)
ここを木材が流れていた、そのために掘った穴なのだと言われても、
なんの疑問も感じないで納得することは無理だ。

聞き取りの前に穴の姿を確認しに行っていたおこぜ氏も、同じ気持ちだったはずだ。
彼の聞き取りは、現状の景色を見た誰もが気になるこの疑問に踏み込んでいく。

おこぜ> ということは,当時は,谷幅がずっと狭かったということですね?

古老> そういうこと。

今は岩の周りが広く,大岩は流れの邪魔とは言い難い。果たして,いつ頃谷幅が広まったのかは訊き忘れてしまった。

おこぜ氏が書かれているとおり、現状の谷の広闊な風景からは、この大岩が流送の邪魔になった状況が想像できないが、昔はそれほどに谷が狭かったのかという問に、古老はいとも簡単に、「そうだ」と返したそうである。

それでもなお私には、それほどの河況の変化を実感として認めることは難しいのだが、同じ紀伊半島人であるおこぜ氏は、是であるとしている。
曰く、

「間近で大規模な山体崩壊などをこの数十年で何度も経験すると,あの程度の岩なら,上下左右に動くことも容易に想像は出来ますが,あの谷の地形と流量では,この物件に関しては考えにくいですね。しかし,周りの地層を見ると,谷はドンドン削られて広まっているのは間違いないでしょう。現在の景色は,当時のものものとは異なっているだろうということを前提にすべきでしょうね。

――とのことである。

とりあえずこのことは措いて、聞き取りの続きを見ていこう。

おこぜ> で,あの穴はいつ頃からあったんでしょうねぇ?

古老> さぁ,カリガワはかなり昔からやっとったでなぁ。

戦前とか?

いやいや,いつとはよう言わんが,もっとずっと昔からやわ。

へぇ,それで昭和30年代中頃くらいまでやってたんだぁ… 誰がどうやってあの穴を開けたんでしょうねぇ?

「さぁ,そんなことまでは知らんわ」 と古老は笑った。

そんなわけで、穴は古老がカリガワの仕事に携わるずっと以前から、そこにあったらしい。
誰が掘ったのかも、不明だという。

穴の古さについては、穴の内部に現代のトンネル工事でも用いられる【ドリルで掘ったような小孔】が無数に見られたことから、機械力を駆使したダムの建設と関係があるのではないかと考えた根拠の一つだったが、ドリル孔と断定できるほどよく見てはいなかったし、古くからある穴が、機械力の時代になってからも拡幅や改修を受けた可能性も考えられる。

滝古老とのトーキングはだいぶ多岐にわたったようだが、穴に関する証言は概ね以上のような内容であったという。
そして、この古老の証言を裏付ける重要な事実として、十津川第一発電所に出入りする職員2名から聞き取りをしたうち1名の答えも、「前に人から聞いたことがあるのは、丸太を流す為に掘った穴だ」であったというのだ。(もう1名は、穴の存在は知っているが、由来は分からないと回答)
少なくとも現地には、穴が丸太を流すために掘ったものだと考えている人が複数いると推定できる事実である。




次節では、十津川一帯で古くから行なわれてきた“カリガワ”について学ぶと共に、流送路説の資料的裏付けを進めてみたいと思う。
個人的に、現状では流送路説を全面的に受け入れるが、単純な流路確保の為に掘られたものではないのではないかとも考えている。
その辺りも追求していきたい。




“カリガワ説”の検証


おこぜ氏の聞き取りによって、芦廼瀬川出合にある滝集落の古老よりもたらされた新説は、説というよりも事実を窺わせる、“謎の穴”の利用関係者による証言だった。
おこぜ氏から会話型式で送られてきた、前回紹介した古老の証言をまとめると、概ね次の通りである。

滝集落の古老証言 まとめ

  1. 穴は、カリガワのためのもので、山で伐りだした材木を1本ずつ穴を通して流した。
  2. カリガワで芦廼瀬川を下った材木は、滝で筏に組まれて十津川を新宮へ流した。古老は以前、カリガワの手伝いをしていた。
  3. 十津川の下流に二津野ダムが出来る昭和30年代中頃まで、カリガワも筏流しも行なわれていた。
  4. 穴があった地点の谷幅は、カリガワが行なわれていた当時、今よりもずっと狭かった(ので、大岩は流送の障害になっていた)。
  5. 穴が掘られた時期は不明だが、戦前からあった。
  6. 穴を誰がどのようにして掘ったかは不明。

この“カリガワ説”の裏付けの得るために、まずはカリガワがどのようなものであったのかを、出来るだけ詳しく知る必要があるだろう。

私は林業における運材という分野について、もともと林鉄や林道が大好きなので、ある程度の予備知識は持っていた。
だから、運材が陸送と流送に大別され、流送は管流(くだながし)筏流(いかだながし)に大別されることは知っていた。
管流は木材をバラバラに流すことで、筏流は文字通り筏を組んで流すことである。
したがって、カリガワというのが管流に属するものであることは予想できたが、寡聞にして初めて耳にする言葉だった。
だが、逆さにした「川狩(かわが)り」は聞いたことがあり、やはり管流の地方的な表現であって、木曽でも千頭でも秋田でも日本各地で耳にしたことがある。

ネットで「カリガワ」で検索を掛けてもヒットしないが、「カリカワ」と濁りを清めると、多数の地名や会社名に交じって、「十津川かけはしネット」という十津川村教育委員会のサイト内にある「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」というページがヒットした。
曰く……

カリカワ(狩川)
〔筏〕一本流し、管流し。材木をバラで流送すること。この作業の総指揮者はカリカワノショウヤ。その人足は、カリカワニンプ(宇宮原・旭)。平谷辺では、バラガリという。旭では、旭川筋の間はイッポンナガシ、大川へ出ればカリカワだという。
十津川かけはしネット「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」より

……ということで、管流の地方的な呼び方と見て間違いないようだ。

十津川村での管流について、村公式サイト内の十津川民俗WEB事典(十津川文化叢書からの引用)により詳しい解説があるので、時間のある方はどうぞ。

次に、現地の景色をもう一度、カリカワという観点から眺めてみたい。既に撮影した写真でも、観点を変えることで、新たな気づきが得られるかも。


というわけで、現地を一望する俯瞰写真である。
そこに古老の証言した風景を想像して、重ねて描いてみた。

今よりも川の水が流れる幅(流水幅)が狭くて、木材を流送することの邪魔になるので河中の大岩に穴を掘って通したというのは、こういうイメージだろう。
水は穴以外からも自然に流れ出ていただろうが、狭いところに木材が引っかかるので、すんなりと流れるように穴を掘った。

検証開始。
まず、探索日の低い水位からは、河底から2〜3mの高さにある穴を、水と一緒に木材が流れたということは想像しにくいが、これについては発電所による取水の影響や、ダム建設による河床自体の低下も想定されるので、一旦措く。

より大きな疑問は、大岩に穴を掘って通さねば満足に流材できないほど、かつての谷幅が狭かったのかである。
おこぜ氏も同じことを疑問に感じて古老に質問していたが、古老は、「そうだ」と答えたそうだ。
現状、「川幅」の半分くらいを件の大岩が邪魔していて、「流水幅」はその半分ほどに制限されているが、それでも特段に幅が狭いとは感じない。

この土地のかつて(カリカワが中止される昭和30年代半ば以前)の谷幅を知るには、それこそ小川取水ダムの建設写真(着工前の写真を必ず撮影しているはずだ)を見られればベストだが、その手掛かりはないので、航空写真による代用を試みた。(旧地形図も見たが、精度の問題で、特に狭さは感じられなかった)



← 新しい                (歴代航空写真)                  → 古い
令和1(2019)年 昭和51(1976)年 昭和41(1966)年 昭和23(1948)年

歴代の航空写真を重ねて比較してみたのが右画像だ。

最新の令和1年版から昭和41年版までの3枚は、いずれも取水ダム建設以降の景色であるが、それほど大きく渓相が変化しているようには見えない。周辺の山肌を見ると、多くの崩壊地を作っていた山腹を横切る道路が次第によく馴染み、周辺の緑化が進んでいる様子が見て取れるくらいで、件の大岩はずっと同じ場所にあるように見えるし、この間には川幅が変ってしまうような大きな変化は見て取れない。

この期間には、平成23(2011)年の台風12号で紀伊半島一円が大水害(紀伊半島大水害)となり、十津川村も明治22年水害(新十津川村分村のきっかけとなった)以来といわれる大きな被害を受けたが、大岩は動かなかったと判断できる。(取水ダムによる減水効果は限定的だったはずだ)

取水ダム建設以前に撮影されたのは、最後の昭和23(1948)年版だけである。
陸上の道が全く見て取れない原始的な風景の中で、この頃おそらくカリカワが行なわれていたはずだが、大岩の所在が確認できない。

もしこれが本当に大岩がここになくて写っていないのなら、古老の証言の意味を再検討しなければならない大事だが、画像の解像度や影の問題があるので断定は無理だし、古老も大岩が戦後に移動してきたというような話はしていないようなので、撮影精度の問題で写っていない可能性が高いとは思う。
一応、大岩は既に同じ位置にあったという前提で検証を進める。

その上で、川幅というか、流水幅の変化が見て取れるかという問題だが、残念なことに、この写真の精度では分からないというのが答えだろう。
航空写真から、カリカワ時代と現在の河況の変化を読み取ることは無理なようだ。



流水幅が今よりもいくらかは狭かったから、大岩に穴を穿って流材を行なったことは、事実であろうと思う。
ただ、単純に流水幅を広げるだけならば、別のもっと簡便な手段があったように思えてならない。
大岩という、かなり厚みのあるものを掘り抜いて、幅や高さや深さに制限がある水路を増やすよりは、もともと川が流れていた岸を切り広げることが、より少ない労力で可能であるように思う。大岩を掘るよりも、より小さな岩を退かすなり崩すなりするほうが、容易いはずだ。

私は、おこぜ氏がもたらした古老の証言を読み進める中で、全く自然な印象として、この大穴が掘られた理由として、次の風景を想像していた。



(今よりも狭かったと言われる)川幅を塞ぐ堰があった可能性。

なぜ堰を設ける必要があったかの説明が必要だろう。

これは一種の鉄砲堰だったと考える。

 テッポウガリ(鉄砲狩り)
〔筏〕テッポウセギを築いて、湛水を放流して、その水勢によって材木を押し流すこと(西中)。
 テッポウセギ(鉄砲堰)
〔筏〕略してテッポウ、セギともいう。
十津川かけはしネット「十津川探検 〜十津川郷民俗語彙〜」より

鉄砲堰の説明は上記の通りで、全国で広く行なわれていたが、十津川でも行なわれていた。

通常、カリカワは(管流全般も)渇水期に行なわれる。
増水した川で行なうと、制御不能に陥り、木材が行方知れずになったり、破損しやすいためだ。
しかし、渇水期のそのままの水量では、大量の材を流すことは難しい。
そこで、意図的に川を堰き止めて、材を浮かべ、それを一挙に解放することで、増水時以上の勢いで一度に押し流すのである。
川のエネルギーを、引き絞って、一気に放つ。これを鉄砲堰という。




「林道事業50年史」より

「林道事業50年史」より

左の写真は、『林道事業50年史』に掲載されていた徳島県木頭村(きとうそん、現在の那賀町の一部)の鉄砲堰である。
ここに写っている堰はかなり大規模でなもので、コンクリートか石組みのように見えるが、小規模なものは全体を丸太で組み上げた。
チェンジ後の画像は、放出した瞬間の同じ堰で、凄まじい迫力である。
この勢いで下流まで一気に大量の材を押し流したわけだ。

右の写真も同書にある木頭村の風景だが、これは鉄砲堰ではなく、水堰という形式である。
こちらも堰で湛水するところまでは一緒だが、破堤によって水と材を一気に解放するのではなく、堰上部の越流部分から、丸太で作った修羅(木材の流路)が下流に続いていて、そこを水と一緒に材が滑らかに流れていく。つまり、川の中に専用の流材路を作るわけだ。

同書によると、前者は、河床が堅固で、下流に大きな障害物がなく、大量の木材が一挙に流しても支障がない場合に行なわれ、後者は、河中の障害物が多いなど、前者の使用に耐えない場合に行なわれたという。

……鉄砲堰と、その亜流である水堰を較べると、この芦廼瀬の現場により適しているのは、明らかに水堰のように思われるが(河中の障害物が多すぎる)、十津川で水堰によるカリカワが行なわれていたかは証拠がない。(修羅による運材は十津川でも間違いなく行なわれていたが)

しかしともかく、私が古老の証言から考えたのは、
ここで堰によって湛水し、その堰を解放するのではなしに、隣の大岩に開けた穴に設けた堰を操作していたのではないかということだ。
そのうえ、鉄砲堰のような乱暴な方法ではなく、水堰のように、穴の下流に繋がる修羅による運材径路を設けることで、【荒れた下流】を安全に流送していたのではないかという仮説である。
 名付けて、流材路穴堰説だ。



流材路穴堰説の下流側から見た想像図。

穴を材が流れたとしても、そのまま下流側の河床に自由落下というのでは、いかにも材に悪そうだ。
そこで、丸太造りの修羅によって、流しそうめんのように下流まで自然な傾斜で流下させたと考えた。

また、水を一時的に堰き止めるための樋門がどこかにあったはずだが、その開閉装置の置き場所として“テトリス台”と穴直上の“輪っか”があったとまで大胆に想像してみた。
もっとも、樋門があったとしたら、それを設置するための凹形の構造物がどこかにありそうだが、それは見当たらなかった。


鉄砲堰のようなものがあったのではないかという私の考えを、古老の言葉を直接聞いたおこぜ氏に向けてみたところ、次のような感想を頂戴した。

あの水系で鉄砲堰を利用することもあったという証言は得ています。ただし,あの岩の位置に鉄砲堰を作ったのか,他の何箇所かに作ったのか,両方なのかまでは確認していませんので,古老もそこまで詳しく知っているか否かも不明です。逆に言えば,訊けば判るかも知れません。

あの岩の穴程度の深さの淵は,あの規模の谷では珍しくはないですし,もし,岩の上側が大きな淵で,穴と水面が同じくらいなら,人力で1本づつ穴に送ったのかも知れません。しかし,その点も,そこまで具体的なことを会話時には思いつかなかったので,実際どう運用されていたかは確認していません。訊いてないだけで,これも古老が知っている可能性は残されています。古老が携わったというカリガワの作業がその岩の辺りなのか,もっと下流(上流?)なのかも訊いていませんので,知っている可能性もあります。一本ずつ流していたのは間違いないです。

追加の証言を得るか、文献を得るかしない限り、確定しがたいことなのは重々承知だが、そう悪くない手応えだとは思う。


ただし、穴の内部を流材とは関係なしに普段から水が流れていたことはなかったと私は思う。
理由は、穴の内壁がそれほど侵食されているように見えないことや、下流側の坑口にも水垂れの侵食があまりないことだ。
数年しか使われていなかったというのなら別だが、長く水を通していたならば、もう少し侵食の跡があって良さそうに思うがいかがだろう。最終的には石の硬さ次第だろうが。




大岩の上下に色の違いがあるのは、水に浸される機会の差だろう。
ちょうど穴の下端辺りを境にして色が違っているが、かつての汀線がこの辺りにあった名残なのだろうか。


大岩の側面に、堰を支えるような構造の跡があったかを、写真から調べてみたが、はっきりしない。
矢印の位置に、人工的とも見える凹みがあるが、それくらいである。


現地の写真を見返すことでは、やはり解決までは辿り着けそうにない。
古老の証言のうち、カリカワに用いた穴だったという核心については、残念ながら現時点の到達地点はここまでである。
それ以外の証言、十津川本流の筏流しが行なわれていた事実や、その時期については、資料での検証で正確だと確かめられた。

以前、十津川村には村史がないと書いたが、確かに村史というタイトルでは出ていないものの、昭和36(1961)年に村役場が発行した、その名も『十津川』という1000ページあまりの大著があり、これが(時期はやや古いが)村史の代用となる記述量があった。(内容は、十津川村綜合文化調査団がまとめた十津川文化叢書を1冊にまとめたもの)

交通、林業、発電事業などの項目について読んだが、残念ながら芦廼瀬川の謎の穴の答えは書かれていなかったし、この川でどのような運材がなされていたかも触れてはいなかった。
ただ、二津野ダムの着工によって十津川本流での全ての筏流しが終了したことが明記されており、証言は正確だった。

また、村内にはかつて筏組合という流材専門の組合が複数存在し、その仕事の内容として、河道の改修も行なわれたことが出ていた。
その延長線上に芦廼瀬川での穴の掘削もあったのだろうか。ただ、芦廼瀬川は筏が下る川ではなかったから、むしろこの地で伐木を行なった事業者の仕事の可能性の方が高そうだ。
あとは、森林開発公団が請け負った芦廼瀬林道の全通が昭和34(1959)年12月1日であったことも判明した。当然、それ以降にカリカワが行なわれることはなかっただろう。




次のステップは、もう一度村に乗り込んでの徹底的な聞き取り調査になるだろうか。
しかし、第二第三のおこぜ氏が登場することも吝かではないので、意欲のある方および村民に知り合いがおられる方の協力は随時募集中です。
もちろん、皆様の推理のご披露もお待ちしています。



進展あれば続くが一旦完結。


当サイトは、皆様からの情報提供、資料提供をお待ちしております。 →情報・資料提供窓口
今回のレポートはいかがでしたか?
「読みました!」
コ メ ン ト 
(感想をお聞かせ下さい。一言だけでも結構です。いただいたコメントを公開しています。詳しくは【こちら】をどうぞ。
 公開OK  公開不可!     

「読みました!」の回数 1211人

このレポートの公開されているコメントを読む

【トップへ戻る】