隧道レポート 神威岬の念仏トンネル 後編

所在地 北海道積丹町
探索日 2018.04.23
公開日 2021.10.22

 古の灯台守とその家族が通った“旧道”


2018/4/23 16:44 《現在地》

念仏トンネルを潜り抜けると、神威岬を見渡せる場所に出た。
目の前の陸地が、実はとても薄い、痩せ尾根の半島でしかないことを見透かすように、
西日を反射する海の輝きが強烈で、陸地は影絵のように黒く沈んでいた。

半島の先端近くに、トンネルの謂われに深い関わりを持つ神威岬灯台があるが、
山の陰になっていてこちら側からは見えなかった。その代わり、
先端の沖に浮かぶ西洋ロウソクのような神威岩がシンボリックに聳えていた。



念仏トンネルが観光名所であった当時は、ここからまだずっと浜辺を歩き、
最後に電光形の坂道で半島の背骨へ攀じて灯台へ達する遊歩道が存在していた。
だが今では観光客がこの浜へ降りることはほとんどないようだ。

時間があれば灯台まで往復したいところだったが、
あいにくもう日暮れが迫っていて、残り時間で出来ることを
取捨選択すると、ここは諦めなければならなかった。

16:45 引き返し始める。



海蝕洞か溶岩洞窟だよ。
そう言われたら、“自然物”で納得してしまいそうなルックスをした、念仏トンネル西口。
道や踏み跡がないところに口を開けているこういう紛らわしい形の穴には、これまで方々でさんざん期待と落胆を貰ってきた私だから、これだって中を覗いてみなかったら隧道とは思えない。落胆が恐くて、たいへん疑り深くなってしまった(苦笑)。

この姿で、しかも名乗る扁額も何もないくせに、最新の地理院地図にしっかりと名前付きで描かれ続けているのだから、観光地としての知名度の大きかったことが、まだ仕事をしているのだ。

さて、戻りだが、

この穴には戻らない。




こっちへいくぞ! →→

“直立モアイ像”を見に行きたいわけではなくて(それも少しはあるが)、念仏トンネルが掘られている岬を、トンネルを通らずに回り込む道があったと思うので、それを探して辿りたい。

いわば、念仏トンネルの旧道にあたる道だが、そういう道があったと考える根拠は、念仏トンネル建設のきっかけとなった大正元年の事故だ。
それまでは海岸に灯台守やその家族が灯台へ通った古い道があり、そこで事故が起きたから難所にトンネルを掘った。それが念仏トンネルだった。
地形的にも草内から灯台に至る道の最大の難所はここであったと思われるので、狙いは間違っていないと思う。

これまで、念仏トンネルの旧道を探したというような話を聞いたことはなかったが、件の経緯を知った時点で、オブローダー的に自然に沸き起こった興味を素直に受け入れて、チャレンジしてみたいと思う。



しかしまずはこれだ。

さっきから、目が離せない。

念仏トンネルと違って、これは純然たる自然物であることが確定しているだろうに、

なんでこんなのもの言いたげな形になっちまったんだ?



この手の屹立する大岩のなかでも、尖り方の“尖りっぷり”が凄いこの岩、もちろん名前が付けられていて、「水無の立岩」というらしい。

こんなに薄っぺらで高くて、静かな湖にあるならまだしも、日本海の荒波の前ではあっという間に倒されそうなのに、なぜか倒れず昔から存在している。
いや、なぜなのかって、知りたい人は「水無の立岩」で画像検索してみるとよい。
この岩、たとえば岬の方から見ると分かるらしいが、実は屏風みたいに薄いけれども案外奥行きがある。(とはいえこの薄さは驚異だが)

しかし面白いのは、ちょうどトンネルから出たところにいきなり立っているせいで、遠くから見えていて徐々に角度を変えながら近づいていくわけではないから、この「実は奥行きが…」ということに気付く機会がないことだ。

トンネルを出て来た全員をほぼ漏れなく驚かせる、この人工と天然の合わせ技は、なかなか憎い計らいというか、トンネルの誕生自体は偶発的な出来事だったはずなのに、後の観光を助ける妙技を形作っていた。地味に感心した次第だ。

岩の幅が分かる画像が【これ】
いや、そんな言うほど幅や奥行きもないような……。やっぱりこれは相当に奇天烈珍妙な岩であるぞ。



本来の灯台への道(黄色い線)から逸脱して、道があったとは思うがはっきりとした明言は得ていない“旧道擬定地”へ、入り込んできた(桃色の線)。

とりあえず、釣り場を探す釣り人は岩を削ったりしないし、観光客も岩を削ったりしないという前提で話を進めたいが、ここまでは旧道であっても不思議がない、歩き易い波蝕棚である。

たかが全長60mのトンネル(しかもそれは屈曲のせいであり実際は4〜50mで足る)を迂回して進むくらい、ワケないと言いたいところだが、歩ける場所と歩けない場所がはっきりと分かれている岩崖だらけの地形だから、最後まで油断は出来ないな。




16:48 《現在地》

労せず平らな波蝕棚を50mほど歩き、岬の先端とみられる場所へ到着した。

転落事故の発生日は、大正元年10月29日午前8時頃と伝わっており、この日の天候や波の高さは、ちょっと分からない。
ただ、「荒波に足をさらわれ海中へ落ちた」(北海道道路史)ということだから、平波ではなかったのだろう。

対して本日は、とても穏やかな様子である。風も波もない。
それでも、この辺りの今海から出て来たような水浸しの雰囲気からして、高波はもちろん、大潮とか風雨といった悪条件がひとつでもあれば、散策どころの状況ではなくなりそう。


労せず歩けはするものの、特段に道として手を加えられてはいないと思える地形である。
波蝕棚という天然素材が、上手い具合に道を求める心に応えてくれていた。
すんなりこのまま岬を回り込めるのか? (←変なフラグを立てるな……)




外海から隔てられた大小さまざまな潮の池があった。
プールみたいな良い形をしたもの(写真→)や、甌穴を作り始めたばかりのもの(チェンジ後の写真→)もあった。

これは和みますなぁ、思いのほかに。





………

まあ、こうなると思っていたよ。

先に【反対側から見た】とき、ずいぶん険しそうだったものね……。


とりあえず、橋が架かっていたのでない限りは、
今いる高さのまま先へ進むことが出来ないのは分かるので、
少し上に行ってみることにする。この写真で白く写っている岩へ登ろう。




これは道なのか?

下が穏やかな海だから、まだ進んでみようと思えるが、

落ちたら助からない崖だったら、間違いなくここでストップしたと思う。

そう思うくらいには、危うい細道である。



いや、そもそも道なのかという話になるのだが、

……見つけちゃったんだよな。



←この穴って、人工物だよな……?

こんな場所に削孔をする理由があるとしたら、道を通すためだったと考えるのが自然な気がする。
すでに念仏トンネルがあるなら、人でも電線でもそこを通せば良いのであって、岩場を巻いて通る理由はない。
この孔が手摺りの支柱を挿し込んでいた痕なのか、それとも人道用桟橋の支柱の痕なのか、正直これだけではなんとも言えないが、とにかくここまでは人工物が全くなかった“念仏トンネル旧道擬定地上”で、何かしら人工物を見つけた。
このことの意味は、とても重い。

ここに道があったか、無かったか。
この問題をイチ(有)かゼロ(無)で判定するなら、誰が見ても道の跡と思う明瞭な遺構の発見がイチ、全く何も見つけられない状況がゼロである。
そして現状は、“零点イチ”みたいな、微弱な人工物が見つかったに過ぎない。

しかしそれが、人が危険を冒して入り込む蓋然性が乏しいこんな場所での発見ならば、“零点イチ”も、ゼロよりは遙かにイチに近い証拠と判断して良いと思う。
状況的に、これが大正7年以前の旧道である可能性は高いと思った。
3人が高波で命を落した現場なのではないか。




なんか……、

不思議と歩ける空間が続いているな…。

こんなファジーな表現をしたら、いかにも頼りないく投げやりに歩いているように思われるかも知れないが、もちろん、慎重に判断しての決行だ。

万が一滑落したとしても、今日の海ならすぐ近くの陸へ泳ぎ着けるとは思っていたが、そんなことになれば、カメラや記録メディア、GPS、スマートフォン、その他持ち歩いている全ての機材を一挙に駄目にする可能性があり、今回の北海道遠征を初日で棒に振ることになる。そんなことになったら目も当てられないので、海遊びの少年ほどに冒険は出来ない。

この岩場は確かに急だが、掴める場所が沢山あって、しかも硬くて粘りがある溶岩である。そしてその岩質にマッチした自分の履き物。もちろん、技量と精神力。そうしたことを全て踏まえて、十分に歩けそうだと思ったので進んでいる。

……それに、やっぱりこれって偶然の産物じゃないと思うぞ。
この、「不思議と歩ける空間が続いている」という状況は。



全天球画像。

私の身体の右側の岩場を、水平に移動してここへ来た。

この後は、左側の岩場を同じように水平移動して先へ進む。



頭上はこんな感じなので、ロッククライマーでなければ登ってはいけない。
念仏トンネルは、ここを行き来する危険を取り除いてくれたのだから、
ちょっとくらい中が曲がっていたとしても、文句を言ってはバチが当たる。



通り抜けた。
一番険しい15mほどを通り抜けてから、振り返って撮影したのがこの写真。

さっき謎の孔を見つけた場所ともう一つ、今振り返って初めて気付いた“あるもの”を、チェンジ後の画像でハイライトしている。

“あるもの”のズーム撮影画像(→)。

それは岩に埋め込まれた鉄の輪だった。
登山者が打ち込むハーケンよりは遙かに大きなものであり、明らかに土木工事的な遺物だと感じた。

前出の“孔”と組み合わせることで、なんとなく吊橋的なものがイメージされたが、それは可能性の一つに過ぎない。
輪っかからチェーンが何かが伸びていて、それを手掛かりにしながら崖を行き来するイメージも持った。

でもここは登山道ではなく、もとは灯台を維持管理するための道具とか、買いだしてきた食料とか、そういう荷物を運ばねばならない道だったのだから、もう少しは整備されていたと思いたい。

ともかく、一つではなく二つ、明らかに人工的な工作物が、この普通なら人が入り込みそうにない岩場に残されていた。
旧道だよ、旧道に違いない。
私はもう確信している。




16:57 《現在地》

旧道への挑戦を初めて13分後、私は無事に岬を巻いて、トンネルの
東口へ戻ることが出来た。念仏トンネルがなぜ必要とされたのか。
大正時代に探求されたこの事象を、私はなんと平成の時代に追認した。

海の安全を守るために、灯台守とその家族が通った嶮岨な仕事道。この表現は少し美化されている。
幼子を連れてまでここを歩かねばならない、現代の感覚なら非人道的と思われるような仕事が、
人知れず、何十年と続けられてきたことの悲歎と哀れみを、この奇妙で歪なトンネルの由緒は、伝え続けている。





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