夏は壮絶な藪に覆われ、しかもその藪はイバラを多分に含むとあり、事実上接近が不可能となる大沢田隧道の一ノ関側坑口。
しかし、早春の一時を狙って接近した我々は、背の高いバリケードで塞がれた坑口へと辿り着いた。
バラ線の隙間を潜りながら背徳感を外へと置き去りにして、大正13年に生まれ、昭和58年に老朽化のために任を終えた全長1000m近い闇へと、足を踏み入れた!
これまで、取材カメラの入ったことのない隧道内には、果たして何があったのか?!
まず洞内に入って最初に気が付いたことは、今まで見てきた同年代の煉瓦製隧道に比較して、断面が大きいのではないかと言うことだ。
そのことを感じながらも、現地では本当にそうなのかという確証を持てずにいたが、『鉄の廃路』サイトの調べによれば、 この隧道の断面は中間型といって、将来の電化を見越した路線に使われた。
とのことである。
やはり目の錯覚などではなく、一般的な煉瓦隧道に比べると、電化の設備を設置できるだけの余裕があったのだ。
『鉄道構造物探見(JTBキャンブックス刊 小野田滋著)"』(78頁)によれば、
この中間型断面は、大正11年から14年のたった4年間だけ利用された物で、その後は少し寸法の異なる「新・中間型断面」に改訂されている。
わたしが“一般的な”煉瓦隧道だと感じていた物は、「甲型」という大正5年制定の断面であり、路盤から天端(てっぺん)までの寸法が、この「中間型」は約50cm大きいし、幅も30cm程広い。
今となっては全国に何本残っているか分からない貴重な「中間型断面」を採用し、先を見越した造りになっていた大沢田隧道であるが、実際にこの区間が電化されるのは、昭和40年になって初めてである。
完成後40年以上も、拡幅された部分は手持ちぶさたにしていたことになる。
そして、昭和58年には隧道ごと廃止されてしまったというわけだ。
写真は、隧道内の待避坑。
この待避坑についても現在は規格があり、隧道完成の翌年、大正14年にはじめて制定されている。
規格制定前年に完成した本隧道ではあるが、2種類のサイズの待避坑が整然と利用されている。
写真は大きい方のものである。(規格では全長800m以上の隧道には「中型」を設けることになっていた。)
洞内には、まだ様々な設備が残されたままになっていた。
出入り口の天井には架線用の支柱が残り、内部の側壁には電線や、コンセント(次の写真)、“他の隧道でも見たことがあるが正体の分からないフックの付いた金属の棒”(←情報求む!)などが、入ってすぐに発見された。
写真下の方に写っている、函状の部分には、いったい何かが納められていたのだろう。
なんとなく、洞内の様子はかつて探索した青森市の「奥羽本線 大釈迦隧道(2代目)」に似ている。
隧道の造りは違うが、様々な設備が荒れるに任されている雰囲気は近い。
もっとも、こちらはレールもバラストも剥がされ、再利用するような話を聞いたこともないが。
側壁の目線の高さほどに、埃に塗れたプラスチックのボックスが取り付けられているのを見つけ、これを開けてみたところ、中には三穴のコンセントが綺麗な状態で残っていた。
ブレーカー付きである。
幾つ目かの小さい待避坑の中を覗いてみると、そこには足の踏み場もないほどに山積みとされた、黒いタイルたち。
瓦のようでもあるが…、それにしては薄い。
しかし、床用のタイルではなさそうだ、歪曲しているし。
これまで、鉄道廃線跡で見たことのない、この大量のパーツは、一体何だろう?
そういえば、この待避坑はコンクリートで巻かれており、跡から補修されたような痕跡がある。
この写真は天井を撮影したものだが、不自然に中央部分の色データが欠落しているので、こんな写り方になってしまった。
これは、山行がで隧道内部写真を公開する場合の殆ど全てがそうなのだが、撮影された写真の明度を画像処理ソフトによってかなり上げているのだ。
そうしないと、フラッシュだけで撮った写真は明度が不足しているので。
で、この写真も同じように作業をしたのだが、写真の一部分だけ色が黒で潰れてしまっていたのである。
そのために、全体を明るくしたところ、色データのない部分が不自然に灰色っぽく写ってしまった。
それだけ、天端部分が真っ黒だったと言うことだ。
普段、天井へ向けてフラッシュを焚き、天井を撮影できないと言うことは考えられない。
つまりは、天端部分に付着した煤がこの異様な写真の原因なのである。
キタキタ キター!
隧道内には、キロポストがそのままに残されていた。
表示されている距離は、「440」。
単純な感想だが、大きな数字だ。
この廃線跡が、日本の幹線鉄道の一部分であった査証といっても良い数字だろう。
東京駅からの距離であろうと思われるが、国幹となる場所に住んでいない我々にとっては、本当に大きな数字に感じられた。
それだけに、感激も大きなものがあった。
バラストが無くなって基礎の部分まで露出してしまい、代わりに壁に立て掛けられているキロポスト。
よく見ると、周囲には100m間隔の小さな木柱も残されていた。
明治23年に建設された初代の有壁隧道は、この地点から約2km東の山中に、他の交通路からはやや離れてポツンと佇んでいるが、風化が著しくもはや通り抜けは叶わない。
さながら自然の沼地のようになってしまった坑口は、見る者を幽玄の境地へと誘いさえする。
もはや、それは産業遺構というよりも、廃墟そのもののようである。
一方で、その跡を継いで建設されたこの大沢田隧道は、いまだ国幹であった矜恃を失わず、胸襟正しい鉄道マンのような緊張感が漂っているように思う。
これが、風化というものなのか…。
真っ直ぐな隧道で、始めから出口は見えていたが、1km近くあるのでなかなか通り抜けには時間がかかる。
特に危なっかしい様な破損箇所もなく、湧水も多くはないようだ。
頭上の地被りは30mほどしかないようなので、場合によっては切り通しでも何とかなったような地形にも思えるが、北国では切り通しはあまり好かれない。
すぐ10mか20mか傍を、下り線の隧道が並行しており時折列車が通り過ぎていたが、不思議と通過音は聞こえてこなかった。
昭和58年まで使われていただけあり、それほど時代を感じさせないようなパーツも残っている。
かと思えば、こんな古めかしい景色もそのままに残っている。
これはまるで、「ドラキュラ城」のイメージだ。
中世のお城の城壁か、いや、この暗さや雰囲気は、むしろ地下の拷問部屋か…。
不気味だと思えばかなり不気味な景色だ。
もっとも、ここにいる三人はまったくそういう感覚は麻痺しており、次々現れる遺構に興奮のしっぱなしであったが。
それにしてもなぜか、この待避坑の向かって右下の部分、煉瓦が40cm四方ほどスッポリ切り取られている。
何のためにこんなことが?
出口が最初の頃の点のような見え方から、それなりに大きくなり始めた頃、ふたたび大きなキロポストが現れた。
「1/2 439」とあるので、つまり先ほどのキロポストから500m来たことになる。
出口まではもう2〜300mほどであろうか。
そして、その傍の壁には一箇所、鮮やかな赤みを見せる「窓」状の切り欠きがあった。
それは、30〜40cm四方の穴で、煉瓦の層を全て貫通し、茶色い地肌にまで届くほど深い。
明らかに人工的な所作によるものであり、しかも周囲の煉瓦の赤さを見るに、廃止後になって切り取られたようである。
この穴の為に、煉瓦の巻厚や、地肌と煉瓦の間にあてがわれた木簡のような薄板の存在などを、目の当たりにすることが出来る。
これらは、普段なかなか見られるものではないので貴重である。
ところで、このような大規模な煉瓦掘削を行ったのは、やはり隧道や煉瓦構造物の経年変化を調べるための調査目的であろう。
以前にも福島県内の奥羽本線は赤岩駅付近の、明治時代に建設された隧道内部で、同様な煉瓦の欠損を見た。
現在もこの時期に造られた隧道は各地で現役として利用されており、安全性を確かめる為の調査は重要だ。
隧道内部には生き物の姿はないが、代わりに、闇の中にこそ相応しい無色の物体が生じていた。
左の写真は、洞床に発生した、まるで綿飴のような、おそらくカビである。
あるいは石綿のようでもある。
ライトで照らすと、キラキラと反射した。
右の写真は、内壁を覆うように成長した白い結晶だ。
煉瓦の煤の上に発生しているので、経年に拠る物と見て間違いないだろう。
その成分は、地中の地下水に含まれている石灰分か、煉瓦の成分も析出しているのだろうか。
やはり、ライトの光で所々が光る。
…
( ゚д゚) ポカーン
なんだあれ?
キタッ!
あちー!
それは、初めて見る竪坑の姿だった。
竪坑は、一般に作業坑の一種で、工期の短縮のために両側の坑口以外に地上から隧道内部へと通じる穴を掘り、内部からも掘り進めるようなことに使われる。
東北で有名な例としては、奥羽本線の福島・山形の県境にある「第16号隧道(第二板谷峠トンネル 全長1628.5m 明治22年竣功)」には、そのような目的で竪坑が掘られたことが記録されており、それは現存している。
しかし、私はここに来るまで、よもやこの無名に近い大沢田隧道にも竪坑が存在するとは全く考えていなかった。
全長も1000mと、決して短くはないが、他の竪坑を有する隧道と比較すると長くはない。
それに、特別に難工事であったという話も聞いたことはない。
果たして、この竪坑は隧道の工期短縮のために掘られたものなのだろうか?
むしろ、蒸気機関車の煙出しにこそ目的があったのではないかと考えるが、正式な史料にあたってみないと何とも言えない。
いずれにしても、頭上にポッカリと口を開けた穴は、間違いなく竪坑である。
この竪坑、路盤から5m以上も高い天端に口を開けており、もちろん立ち入る術はない。
本坑との接線部分は、リング状に組まれた5重ほどの煉瓦によって取り囲まれており、その奥の竪坑内部はびっしりと煉瓦で巻かれている。
もっと奥にはただ闇があるばかりで、幾らSF501や100万カンデラもの出力を持つ大照明で照らしても、塞がれているであろう部分を見ることができなかった。
竪坑があるのは、清水原側の坑口から200m程の位置と思われる。
かなり片側の坑口に寄った位置であり、このこともまた、工期短縮のための竪坑ではないのではないかという気にさせた。
また、たまたまであろうが、ちょうどこの直上の地上(地被りはこの辺で30mほどのようだ)が、岩手県と宮城県の県境線である。
ちょうど国道4号線の峠も離れていない場所にあるのだが、帰りに国道側から路傍に竪坑の出口を探す試みは、失敗に終わった。
しかし、詳細に探せばきっとあると思うので、今後の再調査が待たれる。
いよいよ出口が近づいてきたが、まだ発見は続いた。
待避坑の脇に立て掛けられた、勾配標である。
右側(一ノ関側)へ10パーミルの下り、
左側(仙台側)へ3パーミルの下りと、それぞれにここを頂点に下り勾配を示しており、つまりはこの場所(県境のほぼ直下!)が峠のサミットだということだ。
すぐ背後の竪坑はやはり、サミットにあって、篭もりやすい煙を出すためのものだったと、ほぼ確信した。
そして、傍の待避坑のなかには、もう一つ勾配標が置かれていた。
しかし、こっちは明らかに色合いからやせ細り方から、腐朽が進んでいる。
同じ内容を示していたように見えるので、可能性としては、こちらは大正13年製の初代標識である可能性もある。
というか、闇からライトに照らし出されてパッと見えた瞬間、私は密かにギョッとした。
なんだか、木偶人形のように見えたので。
そして、いよいよ出口が近づく。
南側を向いた坑口からは、初春の陽射しが、しんとした洞内に、微睡むような影を伸ばしていた。
いつも、廃隧道から外へと出るときにはホッとした気持ちになるが、この光にも癒された。
眩しい陽射しに目を細めながら、枯れ草の匂いがする洞外へ出た。
やはり夏場は大変な樹海になるという、この清水原側の坑口。
派手なデザインはないが、緻密で精巧な煉瓦坑口のイメージを強く持つ、美しい姿だ。
アプローチの国道とこの隧道との間には、一ノ関側坑口ではなりを潜めていた下り線の線路が立ちはだかっており、この美しい坑門を見るためには、踏切のない線路を横断せざるを得ない。
坑口から20mも離れると、この季節でももう坑門は見えなくなった。
坑口前の雑木林を抜けると、枯れススキの原っぱ。
両脇のコンクリートの法面が低くなってくると、左に現在線の上り線が現れる。
国道からも見える、黄色い鉄製の保線資材小屋。
扉が閉まっていたが、取っ手に力をかけると、ギィと重い音とともに開いた。
中は空っぽだったが、白いペンキで、「整理整頓」と書かれた文字が、まだ残っていた。
現在まで東北本線に築かれた有壁越えの隧道の内、もっとも新しい4代目の隧道。(昭和58年完成)
正式な名前は、「新大沢田トンネル」といい、旧来の名称とは「新」の文字で区別されている。
上り線として利用されており、地図上で見ると全長は1400mほどあるようだ。
よほど真っ直ぐなのか、外からも点の反対側の出口が見えていた。
見通しの悪い場所ではないので、速やかに安心して渡ることが出来た。(言うまでもないが、こういう事は推奨しない。)
線路を渡り、向かいのコンクリの法面を上ると、そこは畑になっており、畑の先には国道4号線の車の流れが間近にあった。
最後にもう一度振り返り、色々な発見をもたらした大沢田隧道を探す。
だが、もう見えなかった。
一年の大半を壮絶な藪や、あるいは深い雪に隠され、接近するためにはさらに、現役の鉄路をも跨がねばならぬこの隧道は、近くて遠い、大正時代の遺構だった。