隧道レポート 国道229号江ノ島トンネル旧道 第1回

所在地 北海道島牧村
探索日 2018.04.27
公開日 2021.06.18


《周辺地図(マピオン)》

北海道後志地方の海岸線を走る国道229号の旧道については、これまでも何編か紹介してきた。
いずれも北海道らしいスケールの大きな景観が特徴的なレポートだったと思うが、実はもっと手頃で探索しやすい旧道もたくさんある。本当にたくさん!
今回は、肩肘張らずに探索できる程よい加減の旧道を一つ紹介したい。

舞台は、茂津多岬の北側に位置する島牧村より、江ノ島トンネルの旧道だ。
この辺りの国道は、かつてニシン場として繁栄した面影を微かに留める小さな漁村を点綴しつつ、緩急ある海岸線を伸びやかに走っており、随所に小旧道、旧隧道がある。




現国道にある江ノ島トンネル(全長477m)は、島牧村西部の最大集落である千走(ちはせ)と、北海道の西海岸では数少ない広い砂浜で知られる江ノ島の間にある、ピカ●ュウの頭のような二つ耳の尖った岬からなる北国澗(ほっこくま)を一息で貫いている。完成は昭和46(1971)年だから結構古い。

チェンジ後の画像は、昭和32(1957)年の地形図だ。
ここに描かれているのは国道の指定を受けて間もない頃の道路で、3本の短いトンネルを有する、現在の地図からは完全に抹消された旧道が描かれている。
また、お馴染みの『道路トンネル大鑑』の巻末トンネルリストにも、この3本のトンネルとみられるデータが収録されている(内容は本編内で紹介)。

こんな集落近くの手頃な旧道で、3本もの旧隧道が収穫できる見込みがあるとなれば、私は自然と足を向けたのだったが、

この地には――

奇妙極まる隧道が眠っていた!

(ありがちないつもの煽り文句だと思ったかも知れないが、ガチで奇妙な隧道が出てくるから、覚悟せい)



 怪しい朝日に見守られながら出発


2018/4/27 4:52 《現在地》

この探索は、平成30(2018)年4月の第一次北海道遠征(5日間にわたって国道229号の旧道を中心とした西海岸の探索を行った)最終日の早朝に行った。
既報である探索に対する時系列としては、雷電海岸探索の翌朝であり、須築虻羅北檜山大成線などを攻略した日の朝イチだ。

この先に見える突出型の坑口を持つトンネルが、江ノ島トンネルである。こちらは東口で、西口まで見通せている。
目指す旧道へは、坑口手前を右に入れば良いと思われ、初めて来る場所なのだが、この行動には目新しさが全くなかった。

しかし、こんな朝っぱらから、なんだこの路駐の多さは。
何か事故でも起きた直後かと思ったほどだが、実はこれらは釣り人の車だった。
お互いずいぶん熱心なことである。



これが、国道229号江ノ島トンネル旧道東口だ。

最初だけ道路っぽいが、少し先は深い藪のようである。
右の奥に見える岬は、地図上で見たピカチュ●の左耳だ。
そして昭和32年の地形図を見る限り、旧道はここから岬までの海岸線を半分くらい進んだところから、左折して1本目の隧道に入っていたようだ。

ここから見ても、たぶんあそこなんだろうなと言う地形が見える。敢えて矢印で示さなくても、皆様も分かるよね?
藪が深そうなのはネックだが、もともと長い旧道ではないし、隧道を鼻先にチラつかされている状況に、辛抱堪らん。鋭意突入だ!!

…ただし、自転車はここに置いていこうかな。



入口から30mで、路上は草むらとなって轍が消えたが、さらに20mばかり入ったところに、道路の中央を塞ぐように、親の顔よりも見た標識が突っ立っていた。
今さら説明も不要だと思うが、これは「通行止め」の標識で、かなり古いものなのだろう、めちゃくちゃ色褪せて美白されていた。

現在のトンネルが開通したのは昭和46(1971)年なので、引き換えに旧道となったこの道が廃止された時期ははっきりしないが、ともかく旧道となってから50年近くも経過している。
そりゃ標識だって色褪せるだろう。


ぐわあ〜! 朝っぱらからこいつはキツいな。

あっという間に口の中が笹の葉でいっぱいになってしまいそうな強烈な笹藪だ。
しかも、灌木と絡まり合っていて始末に負えない。
まだ春先だというのに、これはあまり季節を問わないタイプの藪だ。

道は最初から緩やかな登り坂になっていて、徐々に海岸との比高を増している。とはいえ、その気になれば簡単に磯へ降りられる立地である。
私がオブローダーでなければ、もし釣り人だったとしたら、迷わず磯を歩いたに違いない。




この激藪の中で、私は落ちている靴を見つけた。

「Fashion」というロゴが入った、ファッショナブルなメンズスニーカーである。

……ここで片靴を失った持ち主は、いったいどうなってしまったのだろう?
まさか、今も裸足のまま藪を彷徨っている……訳はないが、人によっては靴が脱げたことにさえ気付けないほどの激藪なのだ。そして、戻って探す気になれないほどの激藪。

哀れな片靴に祈りを捧げた後、元の場所に戻して、探索続行。
そしてちょうどこのとき、印象的な天体ショーが始まっていた。



朝日が…… 赤い。

え? なにこれ?

なんでこんなに赤いの? 
朝日だよねこれ? 
いつもはもっとギンギラギンじゃない? 
百鬼夜行絵巻の最後に上ってくる太陽のような、不気味な色をしていた。

まあ、この景色は多くの人が目撃しているはずで、それで騒ぎになっていないのなら、別に珍しい出来事ではなかったのだろう。たぶん、低い位置に薄雲か靄がかかっていて、そのため覇気のない朝日に見えたのだろうか。

……なんとなく、忘れられない1日になりそうだ……。
(予感は的中し、この日の終わりもまた、印象的な太陽を見送ることになった)



5:00 《現在地》

出た! 隧道!

入り口からおおよそ180m。
予期していた位置にて、1本目の旧隧道の入口を発見した。

坑口前が広場になっていたようで、いかにも昔の狭いトンネル前の造りである。
車がすれ違えないような狭いトンネルであればこそ、こういう広場が必要とされたのであり、しかもその多くがトンネル掘削時の残土で造成されているという合理性もあった。

既に一面の笹原と化し、自動車の通った面影は薄れてしまった旧国道だが、この広場には路線バスや運材トラックなどが土埃を巻上げながら豪快に疾駆した、かつての北海“ダート国”道の匂いがあった。




いいねぇ。 コンクリートトンネルの落ち着いた佇まい。
残念ながら、隧道名が分かるような扁額はない。

しかし、見慣れないものがある。
この坑門に取り付けられた鳥居のような木組みはなんだ?
よく見ると、左側の柱には支えもあって、頑丈に作られていたようだ。
今までたくさんの坑門を見てきたが、この形の木組みは初めて見た。

なお、トンネルはちゃんと貫通しているようで、出口が見通せたが、
そのシルエットが少し歪だ。内部には落盤がありそうである。



私が静かに坑門を観察している最中、その背後では、
赤光の球体が、東の地平を離れ、空に浮かんだところだった。
私はかつて、これほど秘めやかで淑やかな一日の始まりを体験したことはなかった。
この太陽が普段の見慣れた姿に変わる瞬間を見たいという衝動に駆られた。
だが、それは探索の遅延を意味するので、私は諦めた。



坑門に意識を戻して、不思議な木組みの正体を探ろう。

おそらくこの木組みの狙いは、坑門の倒壊を防ぐことにあったのではないかと思う。
見ての通り、この隧道はコンクリートブロック造りなのだが、坑門付近の目地には大きな環状の亀裂が発生している。

これは内壁に架かる地圧が土被りの大きさによって一定でない(偏圧)ために発生した、組積造の坑門にありがちな故障なのだが、放置しておくと坑門の倒壊に至る。
致命的な亀裂の進行を抑えるために、内側を巻き立てて補強することがよく行われるのだが、そうすると必然的に隧道の断面が小さくなってしまう。
それも避けるために、坑門の面の方を支えたのではないだろうか。

そしてどうやら、この付け焼き刃のような補強は成功しているらしく、現在のところ坑門の倒壊を免れていた。
いつから補強された状態なのかは分からないが、現役時代の末期からだとしても50年近くが経過している。
おそらく使われている木材が電柱用のもので、防腐剤(クレオソート)が塗布されていたおかげで、腐朽せず維持されている。




――北国澗1号隧道――

奇物遭遇は、この先に……




 北国澗1号隧道を探索する


05:05 《現在地》

『道路トンネル大鑑』巻末のトンネルリストに記載された本隧道のデータは以下の通り。

路線名トンネル名延長車道幅員限界高竣功年度素掘・覆工舗装
一般国道229号北国澗1号94m3.8m3.2m大正13年覆、素

現地には隧道名の分かるアイテムがないが、現道の江ノ島トンネルとは全く違う名前を持っていた。そして、竣工はなんと昭和時代ではなく、大正時代まで遡るらしい。
そして、このデータにも明かされているとおり、東口の立派なコンクリートブロックによる巻き立ては全体を覆っておらず、入口から20mほどで素掘りに変化していた。
断面のサイズに関しては、おそらく平均的な1.5車線道路トンネルのサイズ感であり、オート三輪のような小型自動車ならすれ違いができる。

前回の公開後、読者さんからのコメントで、北海道で旧国道のトンネルが、塞がれないまま口を開けているのは珍しいという指摘があった。これは私の印象の話になるが、ある時期より早くに廃止されたものについては、わざわざ閉鎖工事を行わなかったようである。この「ある時期」がいつかは分からないが、大雑把な印象としては、平成になる前に廃止されたものは塞がれていない感じがする。



当サイトのベテラン読者であれば既に察しておられると思うが、今くぐっているこのトンネルは残念ながら、今回冒頭で煽った“奇妙極まる隧道”ではない。
落ち着いた、いい意味で平凡な旧隧道である。

洞央付近にやや大きな落盤があって、天井に広がりが出来ていても、まだまだ完全閉塞を心配する時期には遠そうな、息の長そうな廃隧道であった。




2分足らずで西口に到達した。

が、意外なことにこの西口には、東口にあったような覆工も坑門もなかった。
何か理由があってそうなったのだと思うが、こういうのを見ると、私の世代的にはつい軽口を叩きたくなる。“貧●っちゃま”と。
しかも、ちゃんと坑門を作らなかったせいで、崩れてしまっているじゃないか(笑)。



5:08 《現在地》

(←)
外へ出た。

小さな浜が目に飛び込んで来た。
奥に見える岬までの間が、北国澗と名付けられた入江であろう。
「澗」とは、小舟を寄せられる場所のことを指し、特にこの北海道西海岸においては、ニシン場としての繁栄とも深く関わりを持った地名である。

現在、この北国澗の入江は、江ノ島と千走という集落の間にあって、旧国道の廃隧道を潜らなければ辿り着けない小さなエアポケットのような無人境だが、地名があることに、ちゃんと理由があるのだろう。

(→)
東口とはうって変わって野趣が溢れまくっている、西側坑口。
昭和46年までは国道229号だったのだが、さすがにその年代であっても後進的な存在だったに違いない。
そもそも、崩れにくい地形だから坑門を省略したという感じもないので、単純に予算不足だったか…?
さらに穿った見方をすれば、表側だけを飾った可能性もある。
(今でこそ国道229号はどこまでも続いているが、この隧道の現役時代を通じて、道は茂津多岬で行き止まりだった。したがって、この隧道には表口と裏口という観念が明確に存在したはずだ)



道の先を見通すと、早くも第2の隧道がお出ましだった。やったぜ!

北国澗を取り巻くピカチ●ウの2本の耳にそれぞれ隧道があるが、実は頭頂部にも地図では分からないくらいの岩場の突起があり、そこに短い隧道がある。
『大鑑』によれば、北国澗2号隧道とネーミングされている。

現在地(1号隧道西口)との距離はわずか100mほどであり、目と鼻の先といえる。
ここからでも、既に見た目を取り繕う意識を全て取り払ったかのようなイカツイ姿が、よく見えた。
ほんと、さっきの綺麗な坑門はなんだったんだ(笑)。
木組みを立ててまで保存しようと頑張っていたのに。




ところで話は変わるが、

この画像は、1号隧道西口から、北側を撮影したものである。
これは、いま隧道でくぐった岬の突端方向ということになるが、
なぜわざわざ進行方向ではない方向を見たかというと、

2号隧道へ進む前に、調べたいことがあった。



この地図を見て欲しい。

チェンジ前の画像は、冒頭にも紹介した昭和32(1957)年版の地形図であり、現在はいずれも旧道となった3本の隧道が描かれている。
注目してほしいのは、チェンジ後の画像の方だ。

チェンジ後の画像は、大正6(1917)年版の地形図である。
隧道が1本しかない。
道の位置も微妙に違っているように思われ、現在の国道よりも2世代前の“旧々道”が存在していたことを窺わせた。
しかも、大正13年生まれの3本の隧道より古い、大正6年以前に竣工した“旧々隧道”が存在している可能性が強く疑われた。

今回は人生初の北海道遠征ということもあり、普段以上に事前の地形図調査を念入りにしていたおかげで、このことに気付くことが出来た。
また、旧道については、故・堀淳一先生の名著『忘れられた道 北の旧道・廃道を行く』(平成4(1992)年発行)にもレポートされていたので知っていたが、旧々道に関する情報は全くなく、完全に現地初見の探索としての期待度があった。



――というわけで、敢えて意地悪く前説では伏せていた本命ターゲット=旧々道の存在を明かしたところで、さっそくそこに突入したいと思う。

私もこれで凄くテンションが上がったのだが、見ての通り、確かにこの1号隧道西口前からは旧々道らしき道が分岐していた。

地形図が全て真実を語っているとしたら、大正13(1924)年という早い時期に旧道化したであろう道だけに、ほとんど原形を失っていたとしても無理はなかったが、実際には容易く見つけることが出来た。

これが首尾良く旧々道だったなら、肝心の“旧々隧道”に関する決着も、すぐに付くはずだ。
なにせここはだいぶ狭い界隈だ。
仮に岬の突端まで連れて行かれても、150mない。



擬定“旧々道”路線に入って30mほどで、道が急に狭くなってきた。
しかし、道形自体はしっかり見える。
これはもう完全に道の跡に違いないのである。尾根の西側で陽当たり不良のせいか、藪も浅くて大層いい。旧道よりも歩き易いぞ。
また、微妙に登り坂になっているが、大した勾配ではない。

チェンジ後の画像は、さらに20mほど進んだところであるが、岩場に差し掛かるところで、嬉し恥ずかし、石垣があった。

路肩に積まれた小さな石垣。
年代を物語るような質素な空積みで、しかもすぐ下の海岸から拾って来たらしい丸いままの自然石であった。

ここが大正6年以前の道だとすれば、それはニシン達がこの辺りの海を賑わわせていた最後の時代である。
それはそれは大勢の人々がこの道を使ったに違いない。現在の国道よりもさらに賑わっていたはずだ。




そして、この切り立った法面はどうだ。

時代は古くとも、その時代に相応しい、しっかりした道の面影があった。

これで前哨戦の岩場を巻き越えると、その先にもっと大きな岩場が、

白い逆光のシルエットを、水平の海原に突き立てていた。

早くも岬の端が迫っている !!




うーーおーーー!!!

↑なんて叫ぶと、隧道の発見を疑われそうだが、そうじゃないんだ!

そうじゃないけど、もはや逃げがたい岩場のボリューム感を前に、隧道の予感が昂ぶった!

「これは在る……! 旧々隧道…」




…………

なにかが、見えてきている…




……?

????!

なんか、おかしくない?!





隧、出現。




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