道路レポート 北海道道740号北檜山大成線 太田トンネル未成遺構 最終回

所在地 北海道せたな町
探索日 2018.4.27
公開日 2018.5.18

“未成トンネル”改め“天狗トンネル”の大成側内部探索


2018/4/27 17:24 《現在地》

異形に満ちた閉塞地点から、逃げるように撤収したのは7分前のこと。
今はもうトンネルからも脱出し、その足で特徴的なラッパ型坑門まで上ってきた。そして、おそらくもう二度とここから眺めることはないだろう夕日を眺めていた。

しかし残念ながら、この美しい今日の終わり際をじっくり堪能している暇はない。日が水平線に落ちきる前に、いくつかの難所を持つ海岸線を戻らなければならない。

復路、開始!




17:38

さっそくだが、ここまで来れば一安心だ。
いまは最大の高巻き(難場D)を攻略し終えたところだ。
距離のうえではまだ4分の1も戻れていないが、往路で一番「危ない!」と思った難所がここだった。




先を知っている帰路だからこそ、許される時間になっている。
往路と同じ海岸だが、北海道の西の端から見送る北海道最後の夕日は、とても新鮮だった。
探索での大きな成果を抱えて帰る夕焼けの道は、何もかもが誇らしく、輝かしく見えた。
今回の北海道探索全体を通じて、今が幸せの絶頂だ。




“山行が”には勿体ないくらいフォトジェニックな景色に包まれながら、黙々と歩くことしばし、別れた時とは全く違う色を纏う、見覚えのある道が見えてきた。

「無事に戻ってきたぞ! 歓迎してくれるか、道よ!
いまの私は、知っているぞ。
お前の生き別れた片割れが、どうなったか。その現況を。
そして、“天狗トンネル”という、お前の生来の名も。
全てを知って、帰ってきたぞ!」




18:11 《現在地》

天狗覆道坑口前の閉鎖ゲート、自転車の在処へと戻ってきた。
ここから天狗トンネル北口までの海岸迂回の行程は、往路で約55分を要したが、復路は30分足らずで終わった。
通れる場所が予め分かっている状況だと、道なき道でもこのくらい素早く行き来できるということだ。

話の流れとしては、これにて大団円というのが最もすっきりしそうだが、忘れてはいない、ひとつだけやり残しがあったことを。
ここから始まる天狗覆道と、その奥に続く天狗トンネルの大成側部分を、まだ探索していない。
これらは、時間切れになることを心配して往路で先送りしていた部分だ。

最後にこれをやっつけよう。
まずはフェンスを越えて、その向こう側の水面へ飛び降りる。 バッシャン!



未成ゆえに一度も灯されることのなかったナトリウムネオンの幻が現われた。

覆道の窓部分の上部にある明り採り用の小窓から、ほぼ水平に射し込む夕日が見せる、ひとときの幻想だ。

洞床を浸す透き通った水面までもが、今だけは私をもてなす舞台装置と思われた。

夢見がちな私は、自分が道を喜ばせた結果がこれなのだろうと、自惚れた。



このとき、世界は海とも山ともつかない不思議な景色に変じていた。

ここは天狗覆道。往路で入口に掲げられた【銘板】を発見し撮影しているが、内容を覚えているだろうか。
全長60mで、完成したのは昭和63(1988)年12月であることが刻まれていた。意外に古いと思ったものだ。
そして覆道の奥は、工事中に天狗トンネルの名で呼ばれていたことが先ほど判明したトンネルに繋がっている。

まもなく、その接続点だ。



30分前に北口を離れたトンネルの南口へやってきた。
覆道とぴっちり接続していて、本来ならトンネルの扁額がありそうな部分は見えない。だが、実際に扁額が存在することはないだろう。
道が微妙な上り坂になっているようで、洞床の水がこの辺りから引いている。

奥に見える銀白色に光っている部分は、太田トンネルとの接続地点の手前にある閉鎖された扉だ。
あの扉の裏側は最初に探索しているので、残る未探索部分は、はここから扉までの100m足らずとなった。

!!! 銘板だ!

北口側では最後まで見当たらなかったトンネル銘板が、定位置に取り付けられていた。
やった!! これで、ラベルプリンターで印刷された、いかにも工事中の仮称かもしれないと疑われる名前だけではなく、完成後もずっと残るはずだった名前や、気になる竣功年などが一挙に明らかになるぞ!!


天狗トンネル
1995年12月
北海道開発局
延長 719m 幅員 5.5m
高  4.7m        
施工 H元-H5 岩田・札建・伊藤JV
    H6    岩田建設株式会社
    H7 細川建設工業株式会社

名前は変わらず、天狗トンネルが正式名! 完成は平成7(1995)年だ! 天狗覆道の完成が昭和63(1988)年とあったから、その7年後。続いてすぐに建設されたのである。
北口の放棄された洞内には平成10年頃に人が出入りしていた痕跡があったが、そのこととも矛盾はない。


このトンネルの中間部350mほどを再利用する形で全長3395mの太田トンネルが作られ、道道が全通を果たしたのは平成25(2013)年だから、天狗トンネル開通から18年ものタイムラグがある。 産道を通過するのに要した時間の長さが、難産の証しといえるのだろう。

また、地味にこれも初見の情報だったのが、トンネルの長さだ。
全長719m!
地図上で想定した範囲内の数字ではあったが、これだけの長さの新設トンネルが開通前に完全放棄される未来もあったのかもしれないと思うと、なかなか凄まじい。




トンネルに入ってまもなく、今度は向って右側の壁に取り付けられている装置を見つけた。

近寄ってみても、見覚えのない機械だった。
北口内部でも何かの装置を見たが、それとは違う形をしている。
いずれにしても、完成後のトンネルには見られない、工事現場特有の装置だと思われる。




装置には2つの大きなツマミと、ツマミによって選択される4つの目盛りがあった。そしてそれぞれの目盛りには、「鉄筋計」「覆工コンクリート」「支保工応力計」「吹付コンクリート」の文字が見て取れた。また、外部出力端子のようなものもあった。

おそらく、データ表示器を接続してツマミを操作すると、選択したデータを表示することができるのだろう。
私のような部外者が目にすることは滅多になくても、見慣れた思い出の装置だという人がきっといる。




終わりは、もうすぐそこに見えている。
だから、もう何もないだろうと思うのは自然なことなのだ。
しかし、こいつは最後の最後まで、思いがけないものを見せてきた。そして私を驚かせたのだった。

今度は左側の壁面だった。
高さ1.5mくらいのところにプレートが取り付けられていた。プレートの両側には、北口で見たクラックのような白い線がある。
実は、壁面のプレート自体はこのトンネル内に沢山あって、北口でも南口でも【見ている】。それらは皆、NATMの施工内容を記したもので、巻き厚が変化する度に丁寧に取り付けられているようだった。

だが、このプレートは違っていた。1枚きりの存在だった。



平成5年7月12日午後10時17分発生
北海道南西沖地震による津波到達高
▽EL=TP+6.600

ハッとした。
思いもしない内容だったから。
しかし、そういえば、そんなことがあった。
被害に遭われた方々には薄情と思われて仕方のない感想だろうが、25年前に起きたこの大津波地震のことはもう忘れていた。

おそらく、最大の被害地であった奥尻島(200人を超える死者の約8割は島で亡くなった)へ行ったなら思い出したのだろうが、この場所との関係を考えなかった。
だが、地図を見れば一目瞭然、ここは奥尻島から最も近い陸地である。18kmほどしか離れていない。たまたまこの日の探索で島影を見ることがなかったので、意識しなかったのだ。

壁面に取り付けられたプレートには、この地震で発生した津波が、東京湾平均海面(TP)+6.6mの標高(EL)まで達したことが記されている。
そして、プレート下端から左右に引かれたチョークの線が、実際の津波の到達高なのだろう。一緒に「津波」という文字が書かれていた。生々しい感じがした。


プレートの位置を基準に考えると、津波は路面より1.5mくらいの高さまで達したようだ。
これは人だろうが車だろうが、大抵はひとたまりもない波高である。こんな津波に逃げ場のないトンネル内で襲われたらと思うと、戦慄を禁じ得ない。

『地震予知連絡会地域部会報告第4巻』(pdf)を読むと、各地の津波の高さが分かる。最大の被害地である奥尻島では20mを越える(部分的には30m近い)津波が観測され、北海道本島においては渡島半島の日本海岸一帯が最大波高4〜8mを観測した。当地はまさにその中心だ。

地震が発生したのは、平成5年7月12日だった。
トンネルの完成が平成7年だから、当時ここは工事中だった。発生時刻が22時台だったので、現場は無人であった可能性は高いと思うが、それでも相当の被害を受けたことだろう。
当時、奥尻島の被害が凄まじすぎて、その報道が多かったとは思うが、被害は私の印象より遙かに広域まで及んでいたのだろう。

津波によって激しく浸水したことと、道路計画の変更が行われたことの間には、因果関係があるのだろうか。



18:17 《現在地》

天狗覆道の坑口から約150m、これが【あの扉】の裏側だ。約3時間ぶりに辿り着いた。

扉の先は今や太田トンネルを名乗っているのであり、北口の“片割れ”との間は完全に途絶してしまっている。

私の探索も、これで本当に思い残すことはなくなった。帰還する。




地上へ戻ると、さすがにもう薄暗くなっていた。
そしてちょうど、これから帰る方向に聳(そばだ)つ太田山の上に、まん丸の月が浮かび上がってきたところだった。



このとき、反対側の水平線には、燃え尽きた太陽が沈もうとしていた。
それは、こんなにも昏(くら)い太陽があったのかと思う色だった。



18:28 《現在地》

5日間があっという間に過ぎ去った、濃厚すぎる初の北海道探索は、
こうして時間の全てを使い切ったことを象徴するような景色の中で、終わりを迎えた。
この大地にも、私を猛らせる道が沢山あることが、よく分かった。また来たいと思う。



机上調査編 〜道道北檜山大成線の整備史〜


私もこれまで沢山のトンネルを見てきたが、今回のは過去に例を見ないとびきりの変わり種であったと思う。

天狗トンネルを旧トンネル、太田トンネルを新トンネルとして考えた場合、新トンネルが旧トンネルの内部から分岐して建設されるのは、珍しいケースだが、過去にいくつか例を見ている。たとえば、有名な上高地の旧旧・旧・新という3世代の釜トンネルの関係がそうであった。

しかし、今回のように、新トンネルが旧トンネル内の2箇所に接続することで、旧トンネルの中間部のみが新トンネルの一部として再利用され、両坑口が放棄されるというケースは、見たことがなかった。
こんなことができたのは、旧トンネルも作られた年代が十分に新しく、老朽化対策や拡幅などの大規模な改築を必要としなかったことが大きいのだろう。

改めて太田トンネルの蛇行する線形を地図上で眺めていると、天狗トンネルの存在に引っ張られていることが感じられる。
もし、天狗トンネルがない状況で太田トンネルの建設が計画されたなら、チェンジ後の画像に示した青線の「仮想ルート」が掘られたのではないか。
そうなっていたら、太田トンネルは今より100mほど短くなっただろう。

トンネル内に2箇所のS字カーブという不利な条件を受け入れ、さらには技術的に高度で高価なトンネル内分岐工事を2箇所も行うことで、ようやく免除された新規の掘鑿延長は、せいぜい300mくらいではないか。最終的に全長3395mものトンネルを完成させるなら、たった300mの新規掘鑿を避けるために旧トンネルを利用したというのは、苦労の割りに旨味が少ないような気がしてしまう。不自然ではないか。

天狗トンネルと太田トンネルの関係を、さらに深く調べる必要がありそうだ。
机上調査編、スタート!





まずは、尾花岬を巡る道の開発史を探っていこう。

右図は、大正6(1917)年測図版の5万分の1地形図「久遠」に描かれている尾花岬の周辺だ。
図中の「太田」から「日昼部(にっちゅうべ)」までの海岸線には一切の道が描かれていない。太田と日昼部は、南北から伸びてきている道のそれぞれ終点になっている状況だ。(ちなみに、南北の道も車道ではなく、人が歩けるだけの道である)

北海道の広域的な道路整備は、近世に幕藩体制が蝦夷地まで拡大する中で、先住者であったアイヌ民族の土地に渡島半島南部から徐々に和人が流入し、活動範囲を拡大(参考)していく過程で進展したとされる。その経済的な礎となったのは、ニシン漁を初めとする海の漁労であったため、村は海岸近くに作られ、それらを結ぶ道も海岸線をなぞるように作られた。
ようするに、北海道(蝦夷地)の広域道路網は、海岸道路の整備が初期の目標にあった。

その過程においては、険しい尾花岬にも道が欲された。
大正14(1925)年に北海道庁がまとめた『北海道道路誌』に、文政(1818-1830年)以前の状況について、次の記述がある。

太田山は久遠(くどう)場所にある著名の山にして山脚海に臨みて帆掛岬となる甚だ険急なり 唯此山権現を祭るを以て南方より此権現迄は纔(わずか)に径路ありて陸行するを得るも其以北太櫓(ふとろ)場所へ掛けては険難にして通行する能わず 
『北海道道路誌』より引用

この状況を打開するため、江差の商人鈴鹿甚兵衛と津軽の商人松前屋庄兵衛が相謀り、私費を投じて12里(48km)余りの道を計画したそうだ。工事は松前藩の許可を得て安政4(1857)年に行われ、関内(せたな町南端)から太櫓に至る「太田山道」が完成したらしい。
これは現在の国道229号が通る太櫓越ではなく、太田から天狗岳の山頂を越え、峰伝いに太櫓へ下る経路ではなかったかと想像するが、先の大正6年の地形図には天狗岳山頂までしか道がなく、早い時期に廃道になったのかも知れない。

尾花岬に現代的な道路整備の機運が生まれるのは、まだだいぶ後のことであった。




この項は、道道資料北海道が収集・公表している情報を多く参考にして執筆しました。ありがとうございます。

右図は、昭和35(1960)年当時における、大成〜北檜山間の道路状況の模式図である。
当時、現在の道道740号北檜山大成線の区間は、3つの路線に分割されていた。昭和32年に認定された2本の道道(道道183号久遠宮野線と道道184号太櫓北檜山線)と、その間を結ぶ町道久遠太櫓線である。

尾花岬周辺は町道久遠太櫓線の領分だったが、軽車両の通行が可能な程度まで整備されていたと思われるのは、北檜山側は新城辺り、大成側は富磯辺りまでである。まだまだ全線開通までの道のりは遠かったが、2つの町の地名を起点と終点に据える町道の認定は、そこに道を整備しようという希望の表れであったといえそうだ。
そしてその希望は具体化する。

昭和33(1958)年8月1日、町道久遠太櫓線の(おそらく)全線に相当する約23.8kmが、国による“開発道路”の指定を受けたのだ。
このことは、最終的な全線開通へと至る、何よりも決定的な出来事であった。

少し脱線するが、開発道路とはなんぞやという話を先にしたい。
我が国の道路制度の根源である道路法の第88条に、次の条文が存在する。

国は、道の区域内の道路については、政令で定めるところにより、道路に関する費用の全額を負担し、若しくはこの法律に規定する負担割合若しくは補助率以上の負担若しくは補助を行い、又はこの法律に規定する以外の負担若しくは補助を行うことができる。地勢、気象等の自然的条件がきわめて悪く、且つ、資源の開発が充分に行われていない地域内の道路で政令で指定するものについても、同様とする。 
『道路法(昭和二十七年法律第百八十号)』より引用

上記のうち下線を引いた前段部分に該当する道が、北海道における開発道路だ。
条文の後段にあるとおり、(昭和39年の法改正以降は)北海道独自の制度ではなく、他の都府県にも指定されうるものである。奥地産業開発道路整備事業などで整備された路線にがあるのだが、主目的はやはり、道路法制定当初において面積あたりの道路量が全都道府県中で圧倒的に少なかった北海道の開発に必要な道路を国庫の予算で優先的に整備することにあった。
なお、「道の区域内の道路」という表現では、道内の国道・道道・市町村道が含まれるように見えるが、道内の国道は初めから全て国が管理者である(=全て指定区間である)ため、開発道路は道道や市町村道からセレクトされる。

この制度がスタートした昭和27(1952)年(=道路法制定当初)から昭和45(1970)年までは、開発道路の整備・維持は、ともに100%国庫でまかなわれた(道や地元負担ゼロ)。その後は徐々に補助率が下げられ、最後に改正された平成5(1993)年以降は、建設80%・維持70%の補助率になっていた。
似たような制度に、道路法第56条を根拠とする“主要地方道”がある。これも国が政令で指定した都道府県道や市道について、通常より高い国庫補助が与えられるものだが、整備・維持とも最大補助率は50%である。いかに開発道路が有利な事業であったか分かるだろう。

実際、北海道には開発道路の事業によって整備された道路が数多く存在する。国道236号野塚峠や国道273号三国峠、国道333号北見峠など、完成後国道に昇格し、重要路線となっているものが少なくない。
一度開発道路に指定されても、完成時に解除されるケースが多いため、これまで指定された累計数や総延長は定かでないが、路線数は100本以上、距離は1000km以上が指定されたと思われる。
開発道路こそは、現代北海道における道路整備の花形だったといえる。
(平成22年度時点で道内にあった全ての開発道路が指定を解除され、北海道開発局(国)から北海道へ管理が移された。北檜山大成線についても、同年以降は北海道が事業主体となって整備を完了させている)


話を本題に戻す。
北檜山町と大成町を結ぶ町道久遠太櫓線は、昭和33年に開発道路に指定された。(これより早い昭和28年に、太櫓村の村道太櫓久遠線が開発道路に指定されているが、このときの指定区間は同村内で完結していた模様だ)
そしてこれ以降、開発道路の指定区間は、整備を終えた区間が指定を解除される(=管理が北海道に移行される)ことで、年を追うごとに短くなっていく。

右図は、昭和49(1974)年時点の模式図だ。
前の図との変化がいくつもある。
まずは、昭和47(1972)年に、従来の2道道1町道を統合した道道740号北檜山大成線が認定された。これに伴い、開発道路の指定も同道道上へ変更されたが、この時点の指定区間は北檜山町新城から大成町富磯までの14.7kmであった。
さらに2年後の昭和49(1974)年に、整備が進展した大成町富磯から太田までの5.1kmが指定を解除され、道道北檜山大成線の開発道路指定区間は、北檜山町新城から大成町太田までの9.6kmとなったのである。
右図が示しているのは、その段階である。

そして、この年から21年後の平成7(1995)年まで、指定区間の新たな短縮は行われなかった。
言い方を変えれば、新たな開通がなかったということである。
当時は沢山の開発道路が道内各地にあって、この道は整備の番が回ってくるのをじっと待っている状況だったのかもしれないし、開通がなかっただけで、北檜山側で着々と工事が進められていた可能性がある。
そして昭和60年代に入ると、今回探索した大成側でも工事が行われた。現地で目にした太田覆道と天狗覆道の銘板が、それぞれ昭和62年と昭和63年に完成となっていたので、間違いない。

次の項では、新城〜尾花岬〜太田間における道路整備の進捗の様子を、別の資料から調べてみよう。




http://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/
北海道檜山振興局資料より転載。

当地を管轄する北海道檜山振興局の公式サイトで、平成25年(※出典元は24年とあるが、誤りと思われる)4月22日付けで各報道機関に配布されたとみられる、「一般道道北檜山大成線の供用開始について」と題されたプレスリリース(pdf)を見つけた。

開通式の2日前に発行されたこの資料には、右に転載したような一般的情報だけでなく、今回探索した未成トンネルや未成道の謎を解明する手掛かりとなるうる情報が記されていた。



北海道檜山振興局の発行資料より転載。


それが、左に転載した「事業経過」だ。
昭和47(1972)年の開発道路指定から、開通直前までの出来事までを簡潔に列記しているのだが、「天狗トンネル」の6文字こそ見当たらないものの、ぱっと見で気になる内容がいくつもある。例えば、平成17年度の「太田トンネル貫通」や、平成18年度の「太田トンネル延伸決定」は、怪し過ぎる文言である。



@
平成7(1995)年
A
平成10(1998)年
B
平成17(2005)年

右に掲載した3枚の地図には、@平成7(1995)年、A平成10(1998)年、B平成17(2005)年、の各時点における工事の進捗度合いを、上記「事業経過」や現地の銘板などから推定して記入した。順に説明していこう。

@平成7(1995)年時点において、太田集落を起点とする大成側の工事は、太田覆道(120m、昭和62年完成)、天狗覆道(60m、昭和63年完成)、天狗トンネル(719m、平成元年着工、同7年完成)まで進展し、終点は天狗トンネル北口地点(起点から1.4km地点)であった。これは今回探索した未成道区間の全てである。
一方、探索しなかった北檜山側でも工事が進められており、平成3(1991)年に全長1161mの日昼部トンネルの工事に着手した。

A平成10(1998)年時点において、大成側の工事に新たな延伸はなく、終点の位置にも変化は見られない。北檜山側では、日昼部トンネルが平成10年に完成したことで、終点が尾花岬の北方800m付近まで進み、大成側終点との間の未開通距離は1.6kmほどまで縮まった。
いよいよ最後のトンネル工事が始められるかに見えたのだが、次の図Bでは大きな異変が起きている。

B平成17(2005)年時点において、大成側と北檜山側の道が1本に繋がっている!
開通式が行われる8年前の段階で、トンネルは一度貫通し、道が繋がっていたのである。
「事業経過」に、平成14(2002)年度「太田トンネル工事開始(旧名:北成トンネル)」、平成17(2005)年度「太田トンネル貫通」とあるとあることが、この図の根拠だが、「太田トンネル(旧名:北成トンネル)」は、天狗トンネルの内部で分岐し、日昼部トンネルの南口へと至る、全長2633mの長大トンネルだったと考えている。
この時点でなぜ天狗トンネルの北口が放棄されたのか気になるところだが、その検討は後回しにして、話を先に進めたい。

太田トンネルが北成トンネルと呼ばれていた当時の資料を2件見つけた。
1件目は、平成16年度技術研究発表会で発表された技術論文「ベルトコンベア方式によるズリ出しについて-北成トンネル工事の事例-」である。現場となった北成トンネルについて、次のように書いている。

北成トンネルは一般道道北檜山大成線のトンネル工事として平成15年3月から平成18年3月までの4ヵ年にわたり施工中の山岳トンネルであり、地山は先第三紀の花崗閃緑岩を主とする堅硬な地質である。本トンネルは、NATM工法を採用しているが、ズリ出しについてはダンプトラック方式ではなく、ベルトコンベア方式を採用している。 
『ベルトコンベア方式によるズリ出しについて-北成トンネル工事の事例-』より引用

『ベルトコンベア方式によるズリ出しについて』より転載。

また、同論文の工事概要に「延長:2633.27m」とあり、これがトンネルの全長であると考えた。
さらに数枚の現場写真が挿入されており、そのうちの1枚(右画像)は、明らかに見覚えのある場所だった。

お前は、太田覆道!

こんなに立派に……まるで現役道路さながらに活躍していた時期が、あったのだなぁ。
工事用とはいえ、いまは見られない電柱やトンネル内照明もあるじゃないか。路面の轍もしっかりしていて、波に何度も洗われた礫浜のようになっている現状とは大違いだ。論文のテーマになった巨大なベルトコンベア施設が覆道からにょっきりと生えてきていて頼もしい。覆道の手前にあった広大な【空き地】が、ベルトコンベアで運ばれてきたズリの一時貯蔵場であったのだろう。

そして、現在の太田トンネル南口ではなく、天狗トンネル南口へ通じる太田覆道がベルトコンベアの通り道になっていた事実は、天狗トンネルが北成トンネルへ通じる唯一の通路であったことを示唆している。


“北成トンネル時代”を伝える2件目の資料は、平成15年度に北海道開発局が事業再評価用の基礎資料として作成した「一般道道北檜山大成線」(pdf)だ。当時事業中であった9.6kmの開発道路区間が再評価の対象になり、最終的に事業継続と決定したのであるが、今読むとこれも当時の状況を知る格好の資料である。


北海道開発局「一般道道北檜山大成線 平成15年度」より転載。
本事業においては、昭和49年度より不通区間の工事に着手し、平成15年度までに、2.4kmの区間を北海道に引き継いでいます。
今後は引き続き用地補償及び現在施工中の北成トンネルなどの工事を促進し、平成18年頃の全線引き継ぎを目指します。 
北海道開発局「一般道道北檜山大成線 平成15年度」より引用

このように、北成トンネルという名称が普通に(仮称などの文言なく)使われており、しかも平成18年頃には全線の引き継ぎ、つまり開発道路の指定を解除して北海道に委譲する、イコール開通させることを見通しに掲げていたのである。

実際、昭和60年代からこの頃までの工事の順調な進展を見れば(天狗トンネル完成後に何らかのルート変更が行われたとはいえ)、北成トンネルが完成する平成18(2006)年頃の全線開通が予想されていたのは納得である。

だが、現実にはさらに数年を要することになった。
その直接の原因は、前掲の「事業経過」に書かれていた平成18年度の出来事「太田トンネル延伸決定」であった。

北成トンネルという名前について、ここでひとこと。
北檜山町と大成町を繋ぐトンネルということで、両町の頭文字を取って名付けられたのだろう。単純な命名だが個人的には好きだ。長大トンネルに相応しいと思える。
太田トンネルに改称された経緯は不明だが、トンネルの延伸が決定した平成18年度頃に改称されたようである。



@
平成7(1995)年
A
平成10(1998)年
B
平成17(2005)年
C
平成22(2010)年

右に掲載した4枚の地図のうち、@〜Bの変化については先ほど説明したので、今回はC平成22(2010)年度の変化を重点的に見ていきたい。

C平成22(2010)年度では、北成トンネルの一部となった、かつての天狗トンネル南口付近の洞内に2箇所目の分岐が作られ、そこから新たに約900mのトンネル(太田トンネル延伸部)が掘鑿されて、太田集落の400mほど北側に新しい坑口を生んだ。
そして、この新坑口から北成トンネル北口までの全長3395mが、1本の太田トンネルという名で呼ばれるようになった。
「事業経過」によると、この延伸部を含む太田トンネルの工事は、平成21(2009)年度に完成したようだ。


「道内最古の山岳霊場を貫く」より転載。

この太田トンネル延伸部の工事についても、当時の資料がいくつか発見されている。
そのひとつが、施工者自ら『建設グラフ2009年5月号』に寄稿した記事「道内最古の山岳霊場を貫く」だ。

記事中の工事概要(左図)の中ほど、括弧の中にしれっと書かれているのを見つけた。
(既設の天狗トンネルからの分岐部施工)と。
完成後はほとんど幻の存在となってしまった天狗トンネルの名を、現地の銘板以外で初めて見つけたのが、この記事だった。

また、「トンネル延長」の欄には925.9mという数字が書かれているが、これは【太田トンネル南口にある銘板】内の延長の数字とぴたり一致している。
現地では、なぜ3395mと書かれていないのか不思議だったが、あの銘板は太田トンネル延伸部についてのみ記していたのだ。太田トンネルの残りの区間(つまり、北成トンネルであった約2.6km分)についての銘板は、太田トンネルの北口に掲げられている可能性があるが未見である。誰か確認して欲しい)



岩田地崎建設株式会社公式サイトより転載。

太田トンネル延伸工事についての資料はほかにもある。
JVの一員として施工に加わった岩田地崎建設株式会社の公式サイト内「道道北檜山大成線 太田トンネル」がそれだ。
ここにも、天狗トンネルから分岐する工事であることがはっきり書かれているほか、工事中に撮影された5枚の写真が掲載されており、うち1枚(右に転載した)は灼熱のトンネル分岐部である!


ここまでの調査で、天狗トンネル“魔”改造の実態が判明した。
平成7年に完成した全長719mの天狗トンネルに後付けされた2箇所のトンネル内分岐は、同時に作られたものではなかったのだ。

北口側の分岐が先で、平成14(2002)年の北成トンネル着工時に設けられたのだろう。
この時点で旧天狗トンネルの北口は放棄が決定し、分岐部も埋め戻されたようだが、旧天狗トンネルの内部については大半である約500mが再利用され、南口もそのまま北成トンネルの南口として使われる予定だったようだ。
だが、この北成トンネルが貫通した翌年の平成18年度には、旧天狗トンネル内に2箇所目の分岐建設が決定し、南口も放棄されることになった。
旧天狗トンネルの再利用区間はさらに短縮され、350mほどに。
両坑口を奪われ、中間部のみが再利用されるという、換骨奪胎の“魔”改造であった。

そして、このような 2段階の計画変更を経たからこそ、太田トンネルは、この編の冒頭で私が表明した違和感――たった300mの新規掘鑿を避けるために旧トンネルを利用したというのは、苦労の割りに旨味が少ないような気がする――を感じさせる線形になったのだろう。




天狗トンネル→北成トンネル→太田トンネルという、2度の計画変更があったことは、これで分かった。
ではなぜ、2度の計画変更が行われたのだろう。これが最後に残された謎である。

だが、この謎の答えは、これまで引用してきたどの資料にも書かれていないし、書かれている他の資料も見つかっていない。
既に引用したこれこれ、そして引用はしなかったが、平成20(2008)年度に北海道開発局がまとめたこれなど、計画変更のことを書いていても良さそうな資料はいくつもあるのに、どれも空振りだ。
さすがに、計画変更自体が私の妄想で、最初から太田トンネルを作るつもりで工事が進められていたとは思えないのだが、関係者の口は一様に重いように感じられる。

そういうことだから、ここからは推測の話になってしまうことを、ご了承いただきたい。


右図は、昭和60年から現在までの工事の進行を年表形式にまとめたものだ。
このうち4つの段階が、先ほど掲載した「図@〜C」に対応している。

工事計画の変更が行われたことを明言する資料は未発見だが、明らかに2回の計画変更があったように思う。
1度目は、平成7年に天狗トンネルが完成してから平成14年に北成トンネルが着工するまでの期間に行われ、2度目は、平成17年に北成トンネルが貫通してから、平成18年に同トンネルの延伸が行われるまでであろう。

これらの計画変更がなぜ行われたのかということを説き明かしたいのだが、手掛かりが乏しく、同時期に世の中で起きた出来事に原因を求めることしか出来ない状況だ。

そして、私が関係があるかも知れないとピックアップした出来事は、以下の4件だ。

  1. 平成5年7月12日発生 北海道南西沖地震による津波および土砂災害
  2. 平成8年2月10日発生 豊浜トンネル崩落事故
  3. 平成9年8月25日発生 第2白糸トンネル崩落事故
  4. 平成16年9月8日発生 台風18号による豪雨災害

上記はいずれも、北海道の道路に大きな被害を与えた災害であり、検索すればネット上に多くの情報があるので、ここで一般的な説明はしない。
中でも、豊浜トンネル崩落事故との関連性を指摘する読者コメントは、このレポートの初回公開時点から圧倒的に多かった。それだけ多数の読者に強烈な印象を残した出来事であったと同時に、北海道在住者の多くが実際に「あの事故以来、北海道のトンネルは変わった」という実感を持っているということかも知れない。
客観的にも、同災害の発生時期は1度目の計画変更と完全に符合するうえ、2度目の計画変更についても、1度目の計画変更では十分ではないと考え直したなどとも考えられる。

そして私自身の考えとしても、多くの犠牲者が出た豊浜トンネル崩落事故と、その翌年に発生し、犠牲者はなかったが崩壊の規模自体はさらに大きかった第2白糸トンネル崩落事故が、北檜山大成線の計画変更の最大の要因であったと考えている。

この2つの崩落事故は、北海道日本海岸の海食崖にあるトンネルが現場であったこと、従来は特別危険視されていなかった現場で突然発生したこと、坑口付近の地山が崩壊し土被りの浅い巻き出しと呼ばれる部分を押しつぶしたことなど、多くの共通点があった。
そして、これらのトンネルと同様の条件を持つトンネルが非常に多かったことから、それらの安全性の確保が緊急の課題として道路管理者に問われた出来事だった。
翻って天狗トンネルを見てみると、上記した“共通の危険性”を、全て有しているように思われる。

過去2回の大きなトンネル災害を受けて、国道における岩盤斜面の緊急点検調査を行い、早期又は順次対策が必要とされる箇所として管内で4路線127箇所を抽出しています。 その点検結果にもとづいて、それぞれの箇所における最適な対策工法を選定し、その検討結果を踏まえて対策工を順次実施しています。 岩盤斜面の主な対策としては、危険箇所をトンネルにより回避する対策工や岩盤切り工、金網工、トンネル補強工などの現道対策を行っています。 また、トンネルによるルート変更以外にも、危険な岩体を除去し金網等を設置する現道対策工事もあわせて実施しています。 今までに完成した主な工事は、下記のとおりとなっています。
・白糸トンネル L=1,806m H11.4月完成
・滝の澗トンネル L=1,320m H12.10月完成
・豊浜トンネル L=2,228 H12.12月暫定供用
特に滝の澗トンネルと豊浜トンネルは落石や雪崩による通行規制も解除となっています。豊浜トンネルは、平成13年6月9日に完成となりました。 
「小樽開発建設部における道路防災について」より引用

上記は、崩落事故が起きた2本のトンネルを管理していた北海道開発局小樽開発建設部がまとめた安全対策レポート(pdf)の一部である。
北檜山大成線を管轄しているのは隣りの函館開発建設部だが、同じ北海道開発局の部署であるから、同時期に同レベルの対策が行われたと考えている。
つまり、昭和60年代以前に計画された天狗トンネルでは、豊浜トンネルや第2白糸トンネルを襲ったような崩落を防ぐことは難しいから、予め危険箇所を避けるようにトンネルを延長する計画変更が、2度にわたって行われたのではなかったろうか。
平成5年の北海道南西沖地震や、甚大な豪雨災害をもたらした平成16年の台風18号についても、計画に影響した可能性はあるが、具体的に述べられる手掛かりは乏しい。


天狗トンネルは、その“名”を捨てることで、未来の安全というかけがえのない“実”を取ったのだろう。



【追記】 新聞記事により、1回目の計画変更の原因が判明した 2018/5/22追記

本レポートの公開後、北海道在住の読者わかだんな@函館氏より、地元紙「北海道新聞」のバックナンバーに、天狗トンネルの北口が廃止されることになった“1回目の計画変更”の経緯が明言されているとの情報提供をいただいた。情報提供、ありがとうございました!

その記事とは、「北海道新聞」平成14年5月19日号朝刊に掲載された、「どうなんリポート」である。
平成14年といえば、天狗トンネルの完成から7年目、日昼部トンネルの完成からは4年目で、北成トンネルの着工が記録されている、そんなタイミングで世に出た記事だ。

記事の見出しには、こう書いてあった。
 道道北桧山大成線*未通の鵜泊道路 最大の難所*北成トンネル着工へ*9月ごろ*完成まで4年以上*2町の市街地“直結”*合併論議促進に警戒も 」 以下、記事本文の一部を引用して紹介しよう。

着工から三十年近くたった道道北桧山大成線の北桧山町鵜泊−大成町太田間(鵜泊道路、九・六キロ)。最大の難所の尾花岬をう回する、北成トンネルの本年度着工がこのほど決まった。同道路は国が工事を代行する開発道路で、地元では国の構造改革による工事中断を懸念する声も出ていたが、両町市街地が直結するめどが立った。ただ一方で、いや応なく自治体合併を促すことにもなりそうだ。

同道路は、一九七四年に函館開建が着工。全幅八メートル、片側一車線の道路として計画された。完成後は、両市街地を結ぶ道道北桧山大成線の一部になる。しかし、難工事が続き、現在まで道に移管されたのは、二・三キロだけ。ルートは当初、尾花岬を通る予定だったが、一九九六年の豊浜トンネル事故を受けた見直しで、同岬が崩落の危険があることが判明し、工事が遅れていた。

トンネル化による岬う回が決定し、今年九月前後に北成トンネル(二・六キロ)が着工。変更前に設計され掘削完了した大成側の天狗トンネルの一部を活用する。北成トンネル完成には「四年以上かかる」(函館開建)見通しだが、最大の難所が着手され、鵜泊道路の続行にも青信号が付いた格好だ。
 
「北海道新聞」平成14(2002)年5月19日号朝刊「どうなんリポート」より引用

このように、平成8(1996)年の豊浜トンネル崩落事故を受けて行われた計画の変更であったことが、明言されていた! 

なお、わかだんな@函館氏によると、その後も北海道新聞にはこの路線についての記事が掲載されたことがあるとのことで、いくつかの記事の内容を教えていただいたが、“2回目の計画変更”の経緯について記したものは発見されていないようだ。
だが、平成21(2009)年3月20日号朝刊に掲載された、「道道北檜山大成線 太田トンネルが貫通」という記事は、興味深い内容を含んでいた。


「北海道新聞」平成21年3月20日号朝刊より転載
せたな町内北檜山区豊岡と大成区宮野の国道229号を結ぶ道道北檜山大成線の未開通区間で十八日、太田トンネル(九二五.九b)の貫通式が行われた。(中略)未開通区間の三カ所のトンネルのうち日昼部トンネル(千百六十b)、北成トンネル(二千五百七十八b)は工事が終了。残る太田トンネルは〇八年三月に掘削を開始した。  
「北海道新聞」平成21(2009)年3月20日号朝刊より引用

“2回目の計画変更”がなされて、太田トンネル延伸決定が行われたのが平成18(2006)年度。これはその3年後の平成21年3月に、太田トンネル延伸部(925.9m)の貫通式が行われたという記事である。

ここで興味深いと書いたのは、太田トンネルと北成トンネルという名前が併存していることだ。
一緒に掲載されていた地図でも、北成トンネルと太田トンネルは、坑口を介さずに地中で接続する2本のトンネルのように描かれている。
つまり、太田トンネルという名前はこの頃まで、2回目の計画変更後に掘られた北成トンネル延伸部のみを指す名称であったということが分かる。
その後、供用に至るまでのどこかで、見た目は1本だが名前は2本分だったトンネルを、太田トンネルの名で統一することになったのだろう。
そうして名実ともに道道ナンバー1の長大トンネルが誕生したのである。