2018/4/27 5:14 《現在地》
旧々道の隧道があるだろうと、期待しながら近づいた巨大な岩場。
そこに待ち受けていたのは、“隧道らしきものの姿”であった。
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この全天球画像を見て欲しい。○で囲んだところに奇妙な穴が開いている。
その姿は本当に奇妙であった。
岩場には穴が2つ空いていて、まるで眼鏡のようであった。
眼鏡を知っている文明人ならば、ほぼ全員がそれを連想すると確信できるほど類似していた。
もっとも、こいつの眼鏡は少し斜めに“掛けられて”いる。平行する2つの穴が、2mほどの高低差をもっていた。
さて、トンネルをよく知っている文明人ならば、“眼鏡トンネル”と呼ばれるもののことも知っているだろう。
都市部など交通量の多い場所でしばしば見られる、上下線を分離した双頭並列のトンネルをそう呼ぶのだ。(例)
だが、目の前に現れたこの眼鏡のような形の2つの穴は、果たして本当に隧道なのか?
素掘りの眼鏡トンネルなんて、私は見たことがなかったし、他にはどこにもない気さえする。
もしこれが確かにトンネルであったならば、まさしくトンネル界の奇物といえよう。
実は私自身も、この時点ではかなり懐疑的な見方をしていた。
シンプルに、こんな形の隧道がある道理が無いと思ったからだ。
なまじ大量の経験から自分の中に常識めいたものを持っていると、例外を認めるハードルが高くなるものだ。こんなものがあるはずない。うっかり騙されて恥をかくのはゴメンだ。そんな風に思う。
私は、この奇妙な眼鏡型の穴は、位置的に見て、海蝕洞でありうると考えた。
ここはかなり海面の高さに近く、岩場の礫岩らしき質感からも、海蝕洞の作られやすい状況だと思った。
現に穴の上部を見上げれば(←)、そこには2階家がすっぽり収まるほどの巨大な岩の庇があり、明らかに海蝕洞を形成しつつあるのだ。
(→)
だが、穴は海蝕洞だという説を地形が推す一方で、ここまで明らかに存在していた旧々道らしき道は、どうやってこの先へ進むのかという問題があった。
左の写真は、穴の前に立って波打ち際の方を撮影したものだが、道が迂回して先へ進む余地はない。
頭上も凄まじいオーバーハングであるから、登って越えることも考えられない。
消去法的に、穴が旧々道として使われていたという結論になる。
つまり、穴が海蝕洞に由来するものか、イチから人が掘ったものであるかの特定はまだ出来ないものの、とにかく大正13(1924)年に現在の旧道である北国澗1号隧道が開通するまで、この穴が確かに道路用トンネルとして利用されていたことは断定して良いと思う。
大正6(1917)年の地形図は、まさしくこの位置に1本の隧道を描いている。
この地図上の平穏な表現からは、斯様な奇物を誰も想像し得なかったはずだ。
描いた本人もおそらく想像しなかったろう。
見れば見るほど、印象的なルックスだ。
純粋な海蝕洞であれば、隣接して2つの穴が空くことにも偶然の産物以上の意味はないであろうが、人がイチから掘ったものだとしたら、謎は一気に深まってくる。
2つの穴の微妙な高低差も、意味深である。
2つの穴はちょうど、岩の表面に見える層理の傾斜に沿って配置されており、このことは海蝕洞説を推す根拠となりそうだ。
だが、2つの穴の洞床部分がいずれも整地されたように水平であることや、両方の穴の断面が共に車馬を通行させうる形と大きさであることなどの状況は、これらの穴にトンネルとしての加工が施されたことを窺わせる要素といえる。
2本の穴は非常に近接しているが、写真中央部に見える岩柱によって、辛うじて分断されている。
この柱の周りの形状には、人工物らしさが全くなく、波に侵食されたとしか見えない。
始めからこのような形で隧道を掘ったものとはさすがに考えづらいだろう。
この柱の存在は、2本の穴が基本的には海蝕洞を利用したものだと考える最大の根拠になっている。
なお、天然の海蝕洞を活用した隧道には、いくつかの前例が存在する。
北海道内では、雷電海岸のウエントマリでも発見されており、やはり大正時代以前に、海蝕洞を人道隧道として改築したものと考えられている。
下段側の隧道によって、岬の突端にあたる巨岩を潜ると、急速に原子炉本来の明るさを取り戻しつつある燃える朝日が、目の前に浮かんでいた。
なお、この強烈な逆光のために分かりづらいが、チェンジ後の画像の左下のあたりは海面である。
下段側隧道が、海面すれすれの位置にあることが分かると思う。
当然、高波となれば、洞内にまで海水は浸入することであろう。
ここが道として専ら使われていたのは大正時代までであったろうが、海蝕洞としては現役である。
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5:18 《現在地》
この全天球画像を解説しようにも、四方に語るべきものがあり、何から語るか悩んでしまう。
これから個別の画像を使ってピックアップしながら説明していくので、
まずは存分にグリグリしながら、起床から30分ほどで全く唐突に、
この奇妙過ぎる隧道を解釈する仕事を与えられた、
私の嬉し恥ずかしい困り顔を見てあげて欲しい。
(どうにも恥ずかしくてね…)
隧道としては変態的としか言いようがない、東口のシルエット。
そして改めて、上下2本の隧道の洞床部分が水平であることに作為を感じざるを得ない。
明らかに地層は斜めに走っており、そこにこの水平の洞床が自然発生するとは考え憎い。
天井の綺麗な円い形もそうかも知れないが、洞床については確実に整地されていると思う。
しかし、ここで大きな新たな疑問が生じる。
両方の穴を整地して、隧道として使う必要があったのか?
普通に考えれば、2車線道路なんて、概念さえほとんどなかった当時、
どちらか一方の海蝕洞を隧道として利用できれば十分だったように思えるのに、
なぜか両方の穴の洞床が平らに均され、壁も整形されているように見える。
もしかしたら、この2つの穴は、同時に使われていたのではないのかも知れない。
穴を背に、進行方向を見ている。
ここに道の続きがあることから、穴が隧道だったと「確定」した。
ここには、道であった2段の水平面が顕著に見える。
そして、これらの水平面が、上段下段の隧道にそれぞれ対応している。
特に作為を感じるのは上段の水平面だ。これは自然の地形ではない。
一方、下段の水平面については、道として均されたのかもしれないが、
自然に出来た波蝕棚かもしれない。(周辺の地形を見ても、その可能性が高い気がする)
上段の隧道から続く道は、隧道を出てすぐに、小さな橋を渡っていたらしい。
この橋は当然落ちていて、前後の同じ高さに路面らしき水平面があるのだが、
橋直下の岩場には、木製の橋脚を挿していた孔が残っていた。
これは反対の海側の風景。
足元の陸地が下段の隧道と同じ高さで、奥は波の高い外洋に接している。
道のように見える同じ高さの平場があるが、これはたぶん波蝕棚だと思う。
海面すれすれの高さに平らな岩棚が広がっているのは、この辺りでよく見る景色だ。
……で、次は下段の道から振り返った隧道を見てもらうが、
これがまた予想を越えて奇妙な姿をしていた。まだ驚きがあった!
直前までいた上段隧道の地下は、半分くらい空洞だったことが判明!!
上段、下段の2穴より遙かに大きな“第3の穴”が、ここに存在していた!
この穴の正体は、大方の皆様の想像通りだ。
何よりも、下から見上げる上段下段の2つの穴の形の美しさが印象的だった。
やはりこの形は、どちらの穴も隧道としての改造を受けたことがあると思う。
最も大きな第3の穴の正体は、これはもう見るからに海蝕洞だった。
上段の道が橋を架けて渡っていたのも、この海蝕洞だったのである。
第3の穴もいずれ貫通し、3つの穴が並ぶようになるかも知れない。
その景色は30世紀くらいの日本の地味な新名所になるかも。
少し離れると、もう隧道はほとんど見えない(この写真だと下段の穴だけが辛うじて見える)。
3つの穴はいずれも、さらに大きなホール状の海蝕洞の奥壁に口を開けている状況であり、
隧道単体としてはせいぜい10mほどのものだが、路上の空が覆われている長さは20m以上あるだろう。
今回のこれは、怪しい朝日に導かれるようにして遭遇した、
天造と人造の協作する、霊妙でありかつ周到な、奇なる奇なる隧道であった。
5:19 《現在地》
隧道を抜けるとすぐに道はなくなり、ただそこに広がっている波蝕棚の平坦な面を歩いて進むよりない。
おそらく大波が立つときは通行不能になるだろう。
上段の隧道より通じる道は、この辺りも克服すべきであったと思うのだが、それらしい痕跡はない。
もっとも、廃止から半世紀どころかまるまる1世紀近く経過しているので、桟橋のような道だったとしたら、跡形もなく洗い流されるには十分な時間であろう。
さらに50mほど進むと、完全に岬の先端を回り込むことに成功して、あの藪の濃かった海岸風景が帰ってきた。
しかも、ここに来て突然、無言で竿を垂れる釣り人達が何人も何人もいるのである。
彼らが明るくなる前から同じ動作を繰り返していたのかと思うと、知らない世界のことなので少しぞっとした。
もっとも、彼らは彼らで、突然後ろから私が現れたので気持ちが悪かったかも知れない。
でも誰も振り返らなかったからな。気付かれていないのかもしれなかった。よほど楽しいんだろうから、そっとしておこう。
釣り人の邪魔をしないように、あとはちゃんと旧々道の場所を辿るべく、私は早めに岸辺の笹藪へ突入した。
そこには確かに微妙に平らな道跡の気配はあったが、藪が濃すぎてほとんど足が地に着かない状態だった。
これはタマランタマラン。早く旧道来てくれ。
5:28 《現在地》
靴が脱げそうな激藪に耐えることおおよそ5分。
距離としてはせいぜい100mほどであったのだが、見覚えのある笹の広場に到達し、その山側に見覚えのありまくる隧道が口を開けていた。
約30分ぶりに、旧道の北国澗1号隧道東口へ回帰したのである。
今回の探索における最大の発見は以上であった。探索はなお続く。
北国澗1号隧道の2周目の通過をする。
何か新たな発見でもあれば良かったが、特になく終わる。
そもそも頭の中は、さっき見た変な隧道のことでいっぱいで、仮にこの洞内にクマが寝ていても見逃していたと思う。
前書いたことの繰り返しになるが、この旧隧道は大正13(1924)年の竣工と記録されている。
そうなると、さっき見た変な旧々隧道は、それ以前に使われていたということだろう。
したがって、現役時代を知る人から話を聞ける可能性は、ほとんどない。
帰宅後の机上調査で情報が得られなければ、たぶんこのまま迷宮入りしそうだな…。
とりあえず、先を急ぐぞ。
もしかしたらこの先にも、旧々道時代の遺物があるかも知れない。
6:32 《現在地》
さてここからは初めての領域。
そしてさっそく未知なる隧道、北国澗2号隧道の黒い入口が100m先に見えている。
一見して迂回は難しそうな巨岩のでっぱりを潜っていく隧道である。
だがこの場面にも、旧々道が別に存在していたという疑惑がある。
再び昭和32年と大正6年の地形図の比較である。
前者には「北国澗2号隧道」が描かれているが、後者にそれはなく、だいたい同じ位置に海抜3.96mの水準点が示されている。
この隧道部分の道路位置や線形については、表記上の誤差以上の有意の差は感じられないものの、隧道記号の有無が明瞭な差となっている。
ちなみに、水準点は明治時代より順次全国の幹線道路沿いに国策として整備された重要施設であり、道の付替によっても更新されてきたものなので、その存在は各時代に重視された道のバロメータと言える。
改めてこの水準点に着目すると、昭和32年版では少し位置が変わっているが、やはり近くに海抜12.13mの水準点が表示されていることが分かる。
問題は、この部分の旧々道がどこにあったかだ。
先ほどの1号隧道では、目論見通りに旧々道と旧々隧道を発見し、疑問を速やかに解決できたが、今回は簡単ではなさそうだ。
はっきり言って、探す余地がなさ過ぎるのである。
ここで旧々道のルートとして一番簡単に考えられるのは、波打ち際まで降りて岩場を迂回していたというパターンだが、それだと先ほどのような隧道を整備した道にしては消極的すぎる気がする。
ここから見ても分かるとおり、海岸の岩場には通行のために手を入れた気配が薄い(見ようによっては片洞門のような形だが、おそらく自然地形だと思う)。
それに、3.96mの水準点は、波打ち際よりは一段高いところを通っていた印象を与えるのだ。
とりあえずこの謎を保留しつつ、少し先へ進む。
2本目の隧道、北国澗2号隧道の東口に立った。
完全なる素掘り隧道であり、坑門工や洞内の巻き立てを有さない。そして短い。
『道路トンネル大鑑』巻末のトンネルリストに記載された本隧道のデータは以下の通り。
路線名 | トンネル名 | 延長 | 車道幅員 | 限界高 | 竣功年度 | 素掘・覆工 | 舗装 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
一般国道229号 | 北国澗2号 | 25m | 4m | 3.7m | 大正13年 | 素 | 未 |
1号隧道との違いは、断面のサイズにもある。
幅が20cm広く、高さも50cm大きい。
おそらくこれは主に巻き立ての有無によって生じた差であって、素掘り部分のサイズは変わらないと思う。
(→)
これは振り返って見た景色。
奥の土が露出しているところが1号隧道の坑口だ。
今歩いたところの路肩に、空積みの石垣があることに気付いた。使われている石材は、旧々道で見たような丸石ではなく、間知石を使っていた。
道は海面よりも10m以上高い所にあるが、もっと低い位置に旧々道がないかも探ってみた。しかし急な斜面が海岸まで落ち込んでいて、それらしいものはなかった。
長さ25mの穏便なる2号隧道をすり抜ける。
隧道は良く原形を保存しており、もしここまで連れてこられるならば自動車でも通行可能な状況だ。
しかし西口に近づくと、その断面の形状に違和感があった。
西口はひとことで言えば歪な形状をしていて、路面よりも低い位置まで空洞となっていた。
そのため、道は外へ出る少し前から路肩に低い石垣を持っていて、これが外の高い路肩擁壁へと繋がっている。
なぜこんな断面なのか不思議に思ったが、外へ出て振り返って見て納得した。
なんてことはない。
坑口があるところの岩盤の形状が凹んでおり、そのため隧道と繋がってしまったようだ。
それにしても、旧々道はこの岩場をどうやって越えていたのだろう。
こちら側もオーバーハングするほどに岩が切り立っていて、旧々道を海抜4m付近にどうやって確保していたのか手掛かりが全くない。
旧道の海抜は明らかに10m以上あり、旧々道時代からこの隧道を使っていたとは考えにくい。
岩場を越える方法……、
外周に長い桟橋を取り付けたか…、なんの捻りもなく波打ち際を歩いたか…。
海抜3.96mの旧々道時代の水準点も行方不明だ。
2号隧道に対応する旧々道の行方は謎として残ってしまったが、先へ進む。
最終関門である3号隧道が150mほど先に待っているはず。
そして、そこにも探るべき旧々道があるはずだ。
2号隧道から先の旧道は、道形はしっかり残っており、藪も浅くて助かるが、道幅いっぱいを埋め尽くす真新しい倒木の出現には辟易とさせられた。
倒木の檻を突破して進むと、高い岩場の下に道は延びていく。
もちろん未舗装なのだが、それだけでなく、この道にはガードレールや道路標識といった現代的な要素がまるでない。
昭和40年代までの北海道の国道は、これで普通だったのだろうかと訝しく思う。
ここはいかにも酷道がありそうな山奥の旧道とかではなく、普通にこの先にも集落や漁港があって、その唯一のアクセスルートだったはずなのだが。
このような旧国道の状況は、現在の北海道の国道のよく整備されているイメージとは真逆と思える。
実は我が国の道路制度の根本である道路法は、北海道に関する特例をいくつも定めている。その代表的なものが、道内の国道を全て直轄国道(いわゆる指定区間)にするというもので、しかも費用負担にも特例があって、通常の指定国道を新設や改築する場合の国の費用負担率は3分の2なのだが(残り3分の1が都府県の負担)、道内の国道の新設や改築は国が10分の8を負担することになっている。
このような別格の厚遇によって、全国平均より著しく立ち後れた状況で始まった広大に過ぎる北海道の道路整備水準を国は率先して向上させてきた。
私を含めて、北海道をドライブした人の多くが道内の国道の整備状況の良さを口にするが、それは主に道路法の成果である。
路肩に一箇所だけ雪の塊が残っていた。そしてその上には滝があった。
しかしわずかな水量は海風に吹き返され、地上にはほとんど届いていなかった。
こうした立地にある旧道の交通が、冬期にも確保されていたとは到底思えなかった。
現代の感覚だと、冬の間は自家用車がなんの役にも立たないなんてことは受け入れがたいが、
昭和40年代頃まで、我が国では都市部以外で自動車のための道路除雪はほとんど行われておらず、
雪国の人々はそれを当然のこととして受け入れて、望まぬ怠惰か、過酷な出稼ぎを選んできた。
滝を潜ると3本目の隧道が見えてきた。
隧道前が直角に近い左折のカーブになっているようで、見通し悪し。
昭和32(1957)年の地形図だと、旧国道のこのカーブ上に海抜12.13mの水準点が描かれているが、発見できなかった。
なお、2号隧道からここまで、進むほど踏み跡が鮮明になってきている。
オブローダーなら、この楽しい廃道の全線を通して歩かないわけがないので、主に釣り人によって作られた踏み跡だろう。
東口は非常に藪が濃かったが、これから向かう西口からは簡単にアプローチできそうだ。
5:40 《現在地》
北国澗の入江を頭上にいただくピカチュ●の左耳を貫く、北国澗3号隧道だ。
トンネル名 | 延長 | 車道幅員 | 限界高 | 竣功年度 | 素掘・覆工 | 舗装 |
---|---|---|---|---|---|---|
北国澗3号 | 97m | 4m | 3.7m | 大正13年 | 素 | 未 |
3本揃って大正13年生まれであり、長さは右耳の1号隧道より3m長く、断面のサイズは2号隧道とぴったり同じ、完全な素掘り隧道である。
3号隧道を潜れば旧道はほぼ終わりだが、その前に旧々道をもう一度探りたい。
大正6年の地形図では、道は3号隧道を経由せず、岬の突端を回り込むようになっている。
これを辿ってみたいと思う。
(←)
まずは、現在地から旧々道が分岐しているかを探し始めたが、地形が険しく、それらしい道は見当らない。
旧々道はもう少し低い位置にあったと思うので、海岸まで下りて探すことにした。
この段階では、旧々道はまだ気配すらない。
! 私は目を疑った。
お分かり、いただけただろうか?
(お使いのディスプレイはたぶん正常です。 ドット欠けではない。)
先ほど潜った旧々道の変態型隧道が、黒いかまどの中央で、
灼熱の溶解炉のように燃えさかっているのを目撃した!!!
それは得も言われぬ美しさがあり、私は固まって見惚れた。
常日頃より、このように目立って見えてはいないのではないかと思う。
早朝の逆光という光の加減で、たまたま旧々隧道の存在が極度に強調される状況となったのではなかろうか。
旧々隧道は、私に見つけられたときだけでなく、別れ際にも私を喜ばせることを忘れていなかったのだ。
私はまたしても、出会った廃道との相思相愛を確信してしまった。なんと惚れられやすい体質だろう!
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