隧道レポート 国道229号江ノ島トンネル旧道 第3回

所在地 北海道島牧村
探索日 2018.04.27
公開日 2021.07.11

 北国澗西の岬にて、再び“旧々道”を探る


2018/4/27 5:42 《現在地》

目の前に見える旧国道の【北国澗3号隧道】には入らず、旧旧道を探しに道なき枯れ草の斜面を浜へ下った。
旧々道は、大正6年の地形図において北国澗西の岬を回り込むルートとして描かれており、同様に描かれていた東の岬では強烈なインパクトを持った“眼鏡トンネル”と遭遇しているだけに、西での探索も何かを期待せずにはいられないとても楽しみな仕事であった。

浜へ降りてまず振り返ると、朝日に黒く塗り潰された東の岬が、北国澗の穏やかな入江の向こうに重たく横たわっていた。
少し前、旧道上で同じように振り返ったときには、あの岬の突端に針の穴程度の“眼鏡トンネル”が見えたのだが、少し角度が変わっただけでもう光を通さなくなってしまった。
やはりあの眺めは、一瞬の宝物だったらしい。



逆光に目を慣らしつつ、東の岬の基部に注目すると、既に通った1号隧道の西口が周囲に崩壊を引き起こしているような荒々しい姿を晒していた。
その手前右にある突出した岩場が2号隧道の在処地だが、こちらは樹木に遮られて坑口は見えない。

そしてここで初めて気付いたが、1号隧道上部の尾根上にも、人為的な切り通しとみられる凹部と、それに連なる道形がよく見えた。
この位置の峠道は歴代の地形図に描かれたことがおそらくなく、探索も行ってはいないが、立地的に考えて、旧国道および旧々道より古い明治以前の古道に由来するものだろうというのが私の推測だ。

しかし古道とはいえ、波打ち際の旧々道が通りにくくなった嵐の日には活躍したと思うし、或いは旧国道の時代となってからも、雪崩の危険を避ける近道として冬場に使われていたのではないだろうか。



洗濯板のような(という伝統的表現は既に多くの読者にとって意味不明になりつつあると思うが)磯場を歩いて、岬の先端(○印の位置)を目指していく。

さっきからずっと旧々道の痕跡を探しているのだが、まるで駄目だ。
東側の岬でも全く道形の見られない区間があったが、ここもそんな感じ。
海岸は崩れが酷く、大岩がごろごろしていて、そもそも旧々道が存在していた時代とは地形が変わっている印象を受ける。
とりあえず今は、黙って先へ進む以外、できることはなさそうだ。




隧道を発見した東の岬ほどは険しくなさそうな、西の岬の先端部へ接近中。
たぶん人工的な地形ではないと思うのだが、先端付近はちょっとした平地になっていた。
しかし、この地形の感じだと、さすがに隧道もう1発というのは、虫の良すぎるお願いかな?……エヘヘ。

またここまで全く旧々道の気配を感じられなかったが、もしちゃんと来ているなら、必ずやこの平地は経由するであろうと思える地形である。
当然、私も上陸する。



5:45 《現在地》

道は…

見当らない。

軽く落胆する。

ともあれ、わざわざ道を作らなくてもどこでも通れそうな平地なので、真価を問われるのはむしろこの先だろう。
この先、思いのほか険しい地形になっている予感がする。
もしも、岬の西側に入っても全く道跡が見られなければ、旧々道がこの岬を回り込んでいたということ自体、疑わしくなってくる。




そういえば、眺め納めとなる今の今まで、こいつの写真を撮っていなかった。
岬のすぐ沖合に浮かぶ、この小島を。
東西の岬と小島の三方包囲によって、北国澗という現在の国道からは全くの隠れ地となっている、波穏やかな入江が形成されている。

それはそうと、見渡す限り草木一つとてなく、高波が来れば忽ち没してしまいそうな小島の上にも、釣り人の影があって驚いた。
どこの陸地とも接していないはずだが、夜のうちに舟で来たのだろうか。

実質的には無意味である廃道なんてものを夜明けと同時に歩き始めた自分も痴れっぷりも、廃道というものの魔力に憑かれているが故のことだが、釣りなるものの魔力もまた相当らしい。お互い無事に最後は家へ帰して貰いましょうねと、遠くの影に心の中で言葉を贈りつつ、私は岬を回って北国澗から出た。




おおおーっ!

なんか道っぽくなってきた。

そ れ に

突然見えだした 背景 にゾクッときた!


なんか、目の前に横たわる“前景”の険しさと、
長閑な村落と雄大無比な北の山からなる“背景”とが、
蜃気楼でも見ているかと思うような非現実感の取り合わせで、グッと心に迫ってきた。

昔の旅人も、初めてここを通ったときには、私と同じ興奮を少なからず覚えたんじゃないかな。
そして興奮しつつも、思いのほか間近に見え出した明るい漁村に、ホッとしたとも思う。
このホッとするという部分は、難所をピンポイントに歩いている私には味わえない旨味だったろう。
でも、その旨味を想像できるだけの経験値が私には備わっているんだよ。

さあさあ楽しくなってきた。
もうひと盛り上がりと行こうじゃないか!




うおおーっ!!

激アツ片洞門!!

正直、ワイルドに過ぎて、

これが道路なのか海食地形なのかよく分からないが(笑)

隧道でさえ海蝕洞を再利用していたくらいだから、

この際、道路として使っていたのなら、由来はどうでもいいとしよう!



なんて愉快なギャップ萌えの眺めでしょう!
こんな恐ろしげな絶壁の崖道を歩いているのに、
背景はめっちゃ体育館だし、その脇には車が快走する現国道もよく見える。
この旧々道のことなんて、私にこっそり見られている街の誰も意識はしていだろう。

秘密めいていて、とーっても楽しい。 あ〜、ほんと楽しい!




5:50 《現在地》

道がッ! 

いや、

が ないッ!!



がっ!!!



向こう側に道ダブル!!

これは目に毒だ! アッツすぎるッ!!

この“W”の出現によって

一連の片洞門が単なる海食地形ではなく、

道としての開削部分が大きいことを確信できたッ!
めっちゃ嬉しい!




オイオイ!

なんか心なしか、生還と平和の象徴だった体育館が遠ざかってないか?(笑)

どうやら私の生還はまだ確定状態ではないと理解する。探索は終わっていない。

とりあえず、次の一歩に算段が必要だ。

この写真だと伝わりづらいが、眼下の波打ち際までは結構な落差がある。

次は、次なる一歩を踏み出すべき足元の画像である。↓



結構高くて恐いなぁ

っていうか、

だらけじゃん!!

露出している岩の基盤に、綺麗に平行する2列の孔を発見!

咄嗟に思いついたのは、やはり桟橋のことである。
或いは、石垣を築いていた基礎かも知れない。
そして、なぜか海側の列は大きな四角い孔で、陸側の孔は小さく丸い。
この差の理由は分からないが、橋脚を挿す孔だったならば波に耐えるよう太い柱を使っていた?

いずれにしても、これで間違いなく道がここより向こう側へ続いていたことを確信できた。

あとは、どうやってここから下へ降りるか。出来るなら戻りたくはないなぁ。




 オーバーハング大殿堂


↑この崖を〜 慎重にぃ〜 降りまして〜



5:52 《現在地》

無事、波打ち際まで降下成功!

この日、前日に北海道を通り過ぎた低気圧の影響で波が急激に高まっており
(この後に訪れた須築旧道では、この波の高さで苦労することになる)
押し寄せ砕ける波が、ざっぱ〜んざっぱ〜んと凄い音を、背にした崖に反響させていた。
もしも、極端に高い波が来てしまっても、おおよそ逃げ場がないという場所にいる。
今はまだ前衛の岩々が足元への波の襲来を辛うじて防いでくれているが、
これが乗り越えられてしまわぬうちに速やかに、この難場を突破したい。

この私の苦闘は、かつてここに道を作り出した者どもの追体験であると言う意味で
やはり尊い体験なのだと、自分ではそう思っている。



ここを下ってきた。落差4mくらいか。
非常に急だが、ゴツゴツした礫岩で手掛かり豊富なのに救われた。

足元には、等間隔に綺麗に並ぶ孔がある。
おそらくは木桟の脚を挿していた跡だと思う。
孔の大きさがそのまま柱の太さとすれば、材質によっては
今日は高級材とされるような直径30cmを超える柱が多数、立っていたことになる。
それでも、あの猛烈な冬の日本海の怒濤に、どれほど耐えられたであろうか。



(話が進まないので、興奮の叫び声キャンセル)

とんでもないオーバーハング大魔境であらせられる!

人が造った“片洞門”の小ささが笑えてくるような、海を制する天然の大片洞門である!

しかし人も負けてはいない! この天然の岩を庇に使って、真下に橋を架け道を作って見せた!

ここに道を作り出した何者かは知らぬが、とんでもない大仕事をしでかしている!!




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

全天球画像だが、マジで激浪の逃げ場がない立地というのが分かるだろう。
さっさと、奥の方に小さく描き足した「ピンクの矢印」まで走って、助かることにしよう!

ちなみに、足元の岩盤にはたくさんの柱孔があったが、崖の方に受けとなるような
別の孔は見当らなかった。本当良くこんな岩場に桟橋を架けて、道を通そうと思ったものだ。

次の陸地を目指して、走れ〜。

このとき私が思ったのは、この走りの先に待つ集落が、
千走(ちはせ・ちわせ)と呼ばれていることへの不思議なシンパシーだった。
ただし「角川日本地名大辞典」によると、千走の由来はアイヌ語のチウウシで、
「潮が生ずる」という意味で、海岸付近の潮の流れが強いことを意味しているとある。
個人的には、アイヌ語で水際の断崖を意味する「ワシリ(ウエンシリ)」との関係も感じるところ。
内地においても、おそらく同源の「ワシリ(走り)」と呼ばれる海岸の難所が佐渡島などに点在する。



無事、そこに到達。

こっちも強烈な片洞門!!!

地球が作った巨大オーバーハングの中腹に、決して大きくはないが、
かといって遠慮がちとは言いにくい存在感を放つ、人が造った片洞門が収まっている。
安易にトンネルで通り抜けたがる現代人が忘れかけた地球のエキサイティングが、ここにある!
完全廃道の旧道でさえ、かわいい子ヌコに思えてくるこのハードさよ!!
俺はこういうのを求めていたと、はっきりと分からせられてしまった。

片洞門へ、よじ登れ〜。



よじ登って片洞門に立っても、その先はすぐに地面果てていて、
約20mの空を挟んだ向こう側に次の“片洞門”があった。
しかし、もはや円周の5分の4は岩であるその姿は、もう“片洞門”というか
“八割洞門”(?)

ともあれ、背景を含めた全体のムードには、急速な緩解を感じる。
地球が眉間に寄せた険しさが、ほころんでいく。
あと一つ二つ岩場はあるだろうが、最大難関を越えたと確信した。

最大難所は、距離としてはごく短かった。
だがその険しさの瞬間最大能力が高すぎて、目を剥いた。



これは上記の“八割洞門”から、振り返って撮影した、
凶悪なる核心部 だ。

ここに道がなければ、私はただの険しい崖としか感じなかったろうが、
ここにノミやツルハシといった弱い武器で正面から挑んだ人間が、
大正6年より昔のこの地にはいたということに、心より敬服、脱帽する。

もっとも、大正13年という案外に早い時期に次世代の道(今の旧道)が作られているというのは、
やはりこの険しすぎる道では、千走の人々を満足させられなかったからなのだろう。



状況証拠的に、こんな感じに2本の桟橋が連続して架かっていたんだろうなぁ…。

今回、やや安易に2匹目のドジョウ的な隧道出現を期待していたのだが、
並みの隧道を遙かに上回る衝撃の光景であったと思う。
ほんと、道の先って読めないから、永久に飽きないんだよなぁ。




そして、険悪の核心部を脱すると、道は私を導く役目を終えたことを悟りでもしたかのように、自然と薄れて消えていく様子であった。

廃道は険阻な場所から破壊されて消えていくと考えるのが普通だろうが、現実にはむしろ険阻な場所にこそ、容易に消えざる遺構を留めているケースが多い。
藪や土といった短期間で形を変えるものに覆われた地形よりは、険しい岩場の方が廃道には良い保存場所である。




5:57 《現在地》

50mばかり道が跡形もなくなっている海岸の斜面を横断していくと、ついに千走の外れの広い礫浜にでた。
旧国道はこの斜面の直上にあるらしく、正面奥には現国道も見えるが、現国道側から私を見ても、旧々道と戯れているとは思うまい。釣り竿も持たずに海岸線を彷徨う意味不明な行為と思われよう。…密漁でも密入国でもないよ!方々にそれらを警戒する看板があるので、疑われそうでドキドキしていた。



この探索は間もなく終えるが、一連の旧道と旧々道の絡みは、この先も千走の集落を過ぎるところまで続いていたらしい。
画像は昭和32年と大正6年の地形図の比較である。
この先、千走集落の中ほどを過ぎるまで、旧道と旧々道は異なるルートだったことが分かると思う。

全体的に旧々道は海寄りの浜辺を通行しており、なんとこの時代まで千走川を渡る橋は(少なくとも通年では)架かっていなかった模様で、河口付近に渡船を示す記号が書かれている。水深0.5mとあるから、平水時に大人がギリギリ徒渉可能なくらいであろうか。
対する旧道は道をやや内陸に移し、これに伴い集落も内陸側に移動している。千走川にも架橋が行われているが、現在の国道はこれよりも下流を渡っており、この橋は既にない。

なお、大正6年の地形図だと千走には村役場の記号がある。
これは当時北海道に行われていた独自制度である北海道二級町村制による西島牧村の役場位置を示しており、昭和31年に東島牧村と合併して現在の島牧村となるまで、千走は長らく村の中心であった。
いま見てきた旧々道や旧道を通らない限り、外部から辿り着くことができない村が、ここに存在していたのである。



江戸時代の街道って、たぶん方々でこういうところを歩いていたんだろうと思っているが、大正6年の地形図を見る限り、旧々道自体はこの浜辺をただ突っ切って、奥の千走集落を目指していた。
なんと茫洋たる旅の絵であろう。
晴れている日はまだしも、嵐の日や雪の日、これらが重なった吹雪の夜なんてもう、生きて歩き抜ける気がしない。(千走川を渡る橋なかったらしいし…)




これと比べれば遙かに文明的となったのが、大正13年生まれの旧道である。
こちらは浜辺ではなく、崖錐斜面を切り拓いて高いところに道が付いており、櫂を漕いだり脚を濡らすことなく千走へ行けるようになっている。往昔の不便と比べれば、3本の素掘りトンネルなんてむしろ幸せで堪らなかったと思う。
先ほど東口を見ただけで入らなかった3号隧道の西口が、おそらくこの上にあるが、角度的に見えない。



浜を歩いても何もないと思ったので、切り上げて旧道へ。
そしてこの高台からは、旧々道の驚愕すべき片洞門が、見えていた。

しかし、あそこが道だったと気付くかどうかは微妙なライン。ベテランの私なら…
……旧地形図を見ていなければ気付かなかったろうな、やっぱり。
現地に目に見える分岐がないのは、やっぱり厳しいものがある。

最後に、やり残してしまった隧道を回収しに戻ろう。




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