今回の探索では、現国道が北国澗を貫く江ノ島トンネルに関する、旧道と旧々道の2世代の道を確認した。
それぞれ、昭和32(1957)年と大正6(1917)年の地形図に描かれている道であるから、それ以前に整備されたことは推測できる。
また、『道路トンネル大鑑』の巻末トンネルリストに、旧道にある北国澗1〜3号隧道がいずれも大正13(1924)年竣工と記録されていることから、旧道は大正13年竣工と判断して良さそうだ。
しかし、旧々道にあった隧道については記載がなく、竣工年は(大正6年以前ということ以外)不明であった。
帰宅後に机上調査を行い、旧道と旧々道に関する情報の収集を行った。
しかし結論を先に言うと、どちらの世代に関しても直接的かつ詳細な記述を持つ資料は見つからなかった。
旧道はいつ誰がどういう目的で整備し、旧々道はまたこうであったという風に理路整然と解説したかったが、現状はいくつかの断片的情報から全体像を推測するのが限度である。
『島牧村史』は、平成2(1990)年に島牧村教育委員会が編纂したもので、おそらく村に関する唯一の総合的解説書である。
だが、この1000ページを超える大著には「交通」の章立てがなく、これに関する内容は様々なところに分散している。そして全体としてもあまり多くの記述は割かれていない。
以下、この村史を中心的な資料としながら、北国澗の道に関係する記録を、新から旧へと遡る方向で紹介したい。
1. 旧道に関する記録
まずは、いまの旧国道が現役時代を終えてまさに旧道となった原因の出来事、現国道の江ノ島トンネルが開通したときの村の記録をご覧いただこう。
12月1日/江の島トンネル開通
小樽開発建設部が3年がかりで工事を進めてきた国道229号線江の島トンネル(477m)が後志管内でも珍しいルーバー付きで完成しました。江の島と元町を直線コースで結び、ドライバーの肝を冷やした北国澗岬の危険カ所も解消されました。
これは村史にスキャン画像が掲載されていた、「広報しままき」昭和47年1月号の記事の内容である。
記事自体のタイトルは「昭和四十六年をふりかえって」というもので、この年の村の10大ニュースという形で、江ノ島トンネルの完成が1枚の粗いモノクロ写真と共に紹介されていた。
記事としては短いが、「ドライバーの肝を冷やした北国澗岬の危険カ所」という表現からは、この年までこの旧道を往来するより他に選択すべき道を持たなかった村民の気持ちが伝わってくるような気がする。
当時、国道229号は村の西端にある茂津多岬が未開通のため、依然として村外との往来は東側の寿都(すっつ)町との間に限られていたのである。
しかし、茂津多岬の国道新設工事は昭和41年度に着工しており、村の国道を工事ダンプが毎日のように行き交っていたはずである。そうして昭和52年の記念すべき袋小路脱出へ近づいていた時代であった。
これを逆に言うと、茂津多岬の開通を契機に初めて島牧村を訪れたような村外のドライバーは、“旧道”を体験する機会を持たなかったということになる。
もしこの開通の順序が逆であったら、北国澗は難所としてより多くの記憶に留められたのかも知れない。
ここから旧道の現役時代へ時代を遡っていこう。
次に紹介するのは、昭和31(1956)年に東島牧村と西島牧村が合併して島牧村をつくる際に作成された「合併に伴う諸条件に関する協議書」から、運輸交通についてという項目の内容である。
昭和31年といえば、国道229号が指定されて3年目で、国道としての整備は緒に就いたばかりだが、村人自らが語るその実態である。
旧東西島牧村の主要集落および主要な“難所”(びっくりマーク)の位置を示した右図も一緒にご覧下さい。(我らが北国澗は画像中央やや左寄り)
運輸交通について
本村の往来は国鉄函館本線黒松内駅で下車同駅より私鉄寿都鉄道を利用し、寿都駅下車同地より中央バスの運行を利用するのが通常であります。
物資の輸送も右と同様であり、一切寿都より自家用車又は日通自動車に依存する輸送でありますが、冬期間即ち12月末日より翌年4月上旬の概ね3ヶ月半は降雪のため陸上交通は途絶し已むなく一般往来者は徒歩、或いは馬橇若しくは発動機漁船に便乗を余儀なくせしめられる状態を呈します。
冬期間における交通確保については一般交通生産漁獲物又は生活必需諸物資の移出入等を勘案するとき緊急解決を要すべき事項にてこれがため漁港の拡張により船舶の貨物揚降施設の整備等を、又雪上車の運行を関係筋と協議計画し、これが具現に努力せんとするものであります。
意外にも(?)道が悪いというような泣き言はなく、寿都から村内まで路線バスが通行していたことが分かる。ただし、冬場を除いて。
旧道探索中も、この道を冬場自動車が通れたのか甚だ疑問を感じたが、やはり通行不能であったようだ。
村内国道を冬期通行が可能になった時期は不明だが、北国澗を始めとする各地の難所に舗装された2車線道路が整備された昭和40年代以降とみられる。ちなみに合併当時の両村の人口は合わせて6000人を越えており、これだけの人数が雪に閉ざされて暮らしていたことには、やはり隔世の念を抱かざるを得ない。
余談だが、この島牧村の足を長らく支えていたのが、お隣の寿都町が終点であった私鉄の寿都鉄道であった。
大正9(1920)年の開業から、昭和43(1968)年に運休(その後廃止)まで、少なからず村民に利便を提供した交通機関であり、後年には国鉄による買収と延伸による西海岸鉄道の実現が待望された時期もあった(実現すれば島牧村を通過した)が、最終的に全国屈指の赤字私鉄として解散を余儀なくされている。
この合併直後に島牧村が作成し北海道知事に提出した「新町村建設計画」に、村内の国道整備に関する要望箇所が列挙されている。
そこには、茂津多岬の開削や床丹の難所にあった大平隧道の拡張に加え、千走橋の永久橋化が記載されていた。最後のものは今回探索した旧道に関係するが、北国澗の3本の素掘り隧道そのものの改良は出ておらず、そこまで差し迫った問題にはなっていなかった模様だ。というか、他の要望事項がより差し迫っていたと言うべきか。
合併直後から要望があった大平隧道の改良は昭和38年に完成し(しかし現在はさらに新しい道が使われている)、茂津多岬については前述の通り、昭和41年に着工されて52年に完成している。
右図はこれらを含む村内海岸道路の開通時期をまとめたものだ。
ソースは村史の記述に加え、『道路トンネル大鑑』その他の資料から判明した各隧道の竣工年である。隧道が開通しなければその区間の道も完成しなかったであろうから、大きく外れてはいないと思う。
こうして見ると、いくつもの難所があった海岸道路だが、大きく2つの世代のものがあることが判然とする。
大正時代から昭和10年代にかけて整備が進められた(茂津多岬だけずっと遅れる)旧世代と、それを改良した世代である。
実際には、床丹のように改良ルートも既に旧道化している部分もあるが、全体の理解としては、村の海岸道路は大正時代から昭和初期にかけて東端の本目集落から西端の栄浜集落まで順次進められ、次いで昭和30年代末から40年代にかけて再び東端から西端への流れで改良が行われた。その最終段階として、茂津多岬の貫通が果たされたというストーリーで捉えて良さそうである。
そしてこのうち昭和30年代からの改良については、北海道開発局小樽開発建設部が国道の改良事業として進めたものに間違いなく、特に謎というようなことはない。
一方、大正時代から昭和初期にかけての車道開削工事については、どういう事業だったのかを想像する余地がある。
具体的には、誰か地元の名士が計画を発案し、地元寄付金や私費を投入して建設した地元に由来する道なのか、当時の北海道の地方行政を司った国の機関である北海道庁の直轄事業であったかの2パターンどちらかであろうと思う。
道路の素性を知ることに無上の喜びを覚える私としては、ここはぜひ知りたいところだが、村史をはじめ『北海道道路史』などいくつかの文献をあたってみたものの、はっきりしなかった。
ただ、特定の人物の名前や、建設の苦労談のようなものが村史にないことは即ち、地元が主導的立場を持って進めた建設ではなかった、北海道庁の直轄事業だった可能性が高いと感じている。
なお、島牧地区の海岸道路の路線名の変遷についても村史には記載がないが、『北海道道路史』などからまとめると次の通りである。
明治2年から15年までの開拓使時代は、函館〜札幌間の西海岸線(これは県道とか国道といった格付けがない単に主要道路とされた)に含まれた。
短い函館県時代を経て、明治19(1886)年に再び国の北海道庁時代となると、明治40(1907)年に同庁が指定した仮定県道西海岸線(稚内〜函館…約750km!)に含まれた。
大正8(1919)年に旧道路法が制定されて路線が一新されると、準地方費道(内地の郡道に相当する格付けだが内地とは違い長く存続)の格付けを与えられ、準地方費道岩内江差線の一部となった。北国澗の旧道が開通したのは大正13年であるから、この準地方費道の時代である。
戦後、北海道庁は北海道開発局となり、昭和27年の道路法全面改定を契機に、二級国道229号小樽江差線の一部となった。昭和40年に一般国道229号へ改名され現在に至る。
路線の格付けにのみ着目すると、開拓使主要道路→仮定県道→準地方費道→二級国道→一般国道という経過である。準地方費道時代が格付けとしては底だったろうか。
次に北国澗の旧道を通行した体験談を探したが、これも村史には見当らず、今のところ確認できた唯一のものが、著名な登山家伊藤秀五郎(1905-1976)の著書『北の山』に収録されている狩場山への登山紀行である。
これは氏が昭和3(1928)年3月に単独で東狩場山へスキー登頂したときの記録であり、ルートは寿都→千走→東狩場山→泊→寿都というもので、行きに寿都から千走までの海岸道路を辿っている。その部分の記述を拾ってみよう。
狩場山に最も近づきやすいのは、寿都から海岸を南に八里、千走という漁村から、さらに南へ二里余り奥まった賀老という農村からする登路である。(中略)
しかしいずれにしても汽車の便は悪いところだ。それに寿都から千走までは定期船はなく、ことに冬期間は凪の日にしか発動機船の便がない。(中略)
スキーを担いで八里の道はかなりつらく、それに出来るならその日のうちに賀老まで行きたいと思ったので、ちょうど千走まで行く二人の客と一緒に馬橇に運んで貰った。(中略)
雨脚を強めた海風は、西比利亜からでも吹いてきたかと思われるほど冷たくて、馬橇の上では震えていた。寿都から四里という本目という村で一息入れると、有難いことに雨は上がった。しかしそこからは道はますます嶮岨な海岸伝いで、二十に余る小さな隧道が覘眼鏡(のぞきめがね)のように続いていて、道の半ばは雪が解けて泥の上をガタガタ滑った。日当りの悪い岩陰にはかちかちに雪の凍った処もあって、危く馬橇が傾くこともある。冬の間は、一度吹雪くと数日間は馬も不通になるということである。ようやく千走近くになると大平山や狩場山の山麓だけが雲の下に現れた。朝の八時から七時間も揺られていたので、三時半に千走で馬橇を下りた時にはほっとした。
下線の部分が東島牧村から西島牧村にかけての海岸道路の情景である。
北国澗に直接言及した記述はないが、20本以上の小さな隧道が「覘眼鏡のように続いて」いたというのは、その数の尋常でない多さと相まって、強烈な情景である。
今回紹介の旧道にあった隧道は3本だから、残りは本目から北国澗までの区間にひしめいていたのか。それとも当時は北国澗の旧道の隧道も今より多かったのだろうか。
残雪期ということもあっただろうが、馬橇のようなタフな車両にとってもなお厳しい海岸道路だったことが窺える記述になっている。
しかし、彼が3月に残雪の道を馬橇で通ったこの昭和3年という年は、『村史』巻末の年表には――「寿都〜原歌間乗合自動車運行開始 (34.8km。札幌自動車合資会社)
」――との表記がある。
原歌というのは千走の2kmほど西にある集落で、寿都からここまでバスが入れるようになったのだ。20本以上あったという隧道を縫いながら。この隧道だらけの旧道の開通は、無雪期だけではあったが、西島牧村への近代交通手段の導入にどうにか成功したのである。
以上が、旧道に関して机上調査で判明した内容である。
思うに、村内には難所が多く、北国澗は突出した存在ではなかった。
そのためか、北国澗に焦点を絞った記述は、ほとんど見られなかった。
2. 旧道以前の道の記録
私を含めて、旧道よりも旧々道の素性が気になっているという人は多いと思うが、新しい旧道でさえ前記の有様で直接的な情報がほとんどないのだから、旧々道はさらに情報が乏しい。
大正6年の地形図に、「荷車の通行が出来ない府縣道」として、1本の隧道とともに描かれていることと、現地の廃道の状況は、とうてい自動車が通れたような道ではなかったことなどが、この道に関する現地探索完了時点の情報であり、村史には素性に関わる重大な情報の提供を期待したのであるが、同書巻末の年表に関係のありそうな記述をいくつか見つけ出すのが精一杯だった。
@ | 明治22(1889)年 | 11月、江泥辺村相泊道路開修。 |
A | 明治24(1891)年 | 7月、江泥辺村北国澗道路改修。 |
B C | 明治30(1897)年 〃 | 寿都〜本目間新道開削始まる。(寄附金、国庫金による) 永豊村の以西の新道測量始まる。(5ヶ年継続として道路改築費15400円を募る) |
D | 明治37(1904)年 | 日露戦争起こる。茂津多岬沖で商船第三八幡丸、露国艦により撃沈される。 |
E | 明治39年(1904)年 | 4月、二級町村制施行され、大平川を境に、東島牧村・西島牧村と称す。 |
F | 明治43(1910)年 | 8月、千走村に官設駅逓所開設。(大正13年廃止) |
G | 大正6(1917)年 | この当時の官設渡船場。大平川・千走川。 |
@とAが、北国澗の旧々道と直接の関わりが特に疑われる記述である。
江泥辺(えとろへ)村という見慣れない地名が出ているが、これは現在の江ノ島の旧称であり、昭和5年に西島牧村江泥辺が西島牧村江ノ島へ改称して現在に至る。改名の理由は不明だが、やや難読であることと、やはり泥という字が好字とはいいがたいからだろうか。ちなみに由来はアイヌ語のエトロフで、岬のある場所という意味らしい。まさに北国澗の岬の存在を前提とした地名だったと思われる。
地名はともかくともかく、明治20年代初頭という非常に早い時期に、北国澗の周辺で何らかの道路改修工事が行われた記録がある。
これがあの奇抜な“眼鏡トンネル”を誕生させ、険しい海食崖を横断する桟橋や片洞門の痕を今に残した工事であるとは断定出来ないが、年表を見る限り、大正13年の旧道建設までの間に他に該当しそうな記述はCくらいなので、可能性は高い。
明治22年から24年にかけて建設されたというのが真相だとすれば、北海道では稀に見る古い道路隧道であり道路遺構といえる。全く放棄されているが、非常に貴重な土木遺産ではなかろうか。
しかし、貴重さを期待すればするほど、年表の記述が非常に簡潔で、詳細が分からないのが恨めしい。
この明治中頃という時期は、後志地方一帯のニシン漁の最盛期であって、地域の人口も非常に多く、今日とは比べものにならないほど繁栄していたとされる。
年表にも毎年のように、「この年豊漁、四万四千石余」、などのような記述が見られる。
現在の地図では僻遠の寒村と思える北国澗で、島牧地域の中でも初期に道路の改修が行われたことには、こうしたニシン漁の賑わいが背景としてあったと思う。
その後、この江泥辺村での道路工事にやや遅れて、明治30(1897)年から寿都と本目の間に馬車道を整備する工事が本格化している(B)。これは後の島牧村の入口部分の整備であり、現在の国道に継承されている。
同時にこの道と接続される島牧村内での改修工事もスタートしたらしく、5ヶ年継続事業として大々的に行われようだ(C)が、もしかしたらこのときに北国澗の道も再改修され、“眼鏡トンネル”が今のような二連の姿となったのかもしれない。
そして、この5ヶ年の新道整備が完了したと思われる時期に、日露戦争が起こっている(D)。この緊張が高まっていた時期は、西海岸線は軍事的にも特に重視されたはずだが、整備が行われた記録は見当らない。
終戦翌年、道内の村にもある程度の自治権を認める二級町村制が始まり、東西島牧村が誕生(E)。これまでより強い財政基盤をもって土木事業も行えるようになったと思われる。
明治43(1910)年8月に、千走村に官設駅逓所が開設された記録がある(F)。
駅逓所は聞き慣れない言葉だと思うが、現代風にいえば宿泊施設を兼ねた道の駅のようなもので、民間の宿泊施設が少なかった北海道や樺太で旅人の利便のために明治から昭和にかけて行われていた、行政の助成で維持された公的な休憩施設である。
明治43年にこれが千走に設置されたのは、ここまでの西海岸線が一定程度に整備され、外来の旅人があった証拠であるし、大正13年に廃止されたのは、この年に新たな車道(現在の旧道)が千走まで開通したことで難所が解消されて、旅人が何日も足を止められるようなことがなくなったからだろうと推測できる。
大正時代にかわり、大正6(1917)年時点にも、まだ村内の大平川や千走川(右写真)には橋がなく、官設渡船場が設置されていた(G)。
これらの川に最初の橋を架けたのは、この時期に工事が始まった新たな車道の恩恵であった。旧々道の時代の終わりが迫っていた。そして偶然にも、ニシンはこの頃から不漁の年が増え始め、昭和初期になると沿岸より完全に消失した。
以上、短い年表の記述から、だいぶ想像力をたくましくしながら旧々道の素性を探ろうとしたのだが、いかがだろうか。努力を買っていただけるだろうか。
当時の工事においては、地区ごとのニシン漁を取り仕切っていた大商人たちが、行政より力を持って中心の役割を果たした可能性がある。そのような例が各地にあったが、島牧での具体的な話は聞こえない。
それでも、旧々道の誕生が明治20年代にまで遡れる可能性が示唆されたことで、私はとても興奮している。さらなる情報を得られたら追記したい。
このほかにも、江戸時代末期に探検家松浦武四郎が当地を旅して記した『西蝦夷日誌』などにも目を通したが、旧々道に繋がる情報は得られなかった。
その頃の千走から江泥辺までの踏み分け道は、小高い丘を越えるものであったように書かれており、海岸の崖下を巡った旧々道とは異なる、古道の峠越えをしたものと推定している。
現地で凄いものを見つけてしまったから紹介したかったが、机上調査を仕上げようとしたらなかなか難しかったというのが、今回のケースだった。