隧道レポート 国道229号狩場トンネル旧道 前編

所在地 北海道島牧村
探索日 2023.05.12
公開日 2023.05.19


《周辺地図(マピオン)》

小樽市と江差町を海岸沿いに結ぶ国道229号に数ある難所の中でも最大級のものが、北海道開拓初期より西蝦夷三険岬に数えられた茂津多岬である。
1000m級の山脚が巨大な海食崖となって北の荒海に没するこの海岸線は、島牧郡島牧村と久遠郡せたな町の境であると同時に、北海道のより大きな地域区分の中でも後志地方と檜山地方の境であり、天嶮が人の流れを長らく途絶させてきた根源的な境界であった。

茂津多岬を中心とする約15kmの国道未開通区間の整備は、昭和36年に瀬棚側、同41年に島牧側から、それぞれ北海道開発局函館開発建設部(函館開建)と小樽開発建設部(小樽開建)の主導で行われ、類い希な難工事の末、昭和51(1976)年11月6日に茂津多国道は全通している。

平成8(1996)年に発生した豊浜トンネル崩落事故を受けて緊急的な防災計画の見直しが進められていた矢先の平成9(1997)年8月25日には、右図の×印の位置にある第二白糸トンネルでも大規模な崩壊事故が発生した。幸いにして人的被害はなかったものの、これらのトンネル崩落事故は、豊浜トンネルや第二白糸トンネルと共通する地形条件に置かれた数多くのトンネルを抜本的に改良する必要性を関係者に強く認識させ、危険な箇所から道路を遠ざけるという防災目的の道路改良が急がれることになった。

このような経緯から、右図に示した白糸トンネル、兜岩トンネル、狩場トンネルという3本の長大トンネルが、平成11(1999)年から平成14(2002)年に相次いで開通し、青線で示した旧道およびそれを構成する多くのトンネルが役目を終えて廃止されている。

当サイトではこれらの旧道のうち、兜岩トンネルの旧道を2021年7月に紹介済(探索は平成28(2016)年4月26日)だが、今回はその南側に隣接する狩場トンネルの旧道を紹介したい。
そして実はこの区間の探索は、2回行っている。
もともとここは、兜岩トンネル以上に一筋縄では探索出来ないところであった……。
(何があったかは後述する)


改めて、狩場トンネル区間の拡大した地図を見ていただく。
青線が旧道で、赤線は現在の国道のトンネル部分である。
また、チェンジ後の画像は、旧道が現役だった当時を描いた平成3(1991)年の地形図である。

右図からお分かりいただけるかと思うが、現在使われている狩場トンネル(平成14(2002)年10月開通、全長1648m)は、昭和51(1976)年に開通した旧道の穴床前(あなとこまえ)トンネルの内部から分岐する形で整備されていた。工事中に現場を通行した人であれば、このような構造であることをご存知だったのではないだろうか。

だが、現在の狩場トンネル内部に洞内分岐の構造は残されていないので、旧道へのアプローチには使えない。この旧道の入口は、狩場トンネル北口前のタコジリにある地上の分岐地点しか存在しない。
そのうえで、北海道にある多くの旧トンネルと同じく、この旧道にある全ての旧トンネルの出入口もコンクリートで密閉されていた。

この旧道には北から順に八峰トンネル、第二タコジリトンネル、穴床前トンネルという3本のトンネルがあまり間隔を空けずに連続していたのだが、これらが全て封鎖されていることが問題だった。
65mと短い八峰トンネルは良いとしても、次の長さ377mある第二タコジリトンネルを迂回して、最奥の穴床前トンネル(822m)へ辿り着くことは、地形上極めて困難だったのである。


だが、それで私は諦めなかった!

2018年5月28日、初めてシーカヤックを実戦投入した第2次北海道遠征の最終日(5日目)に、この難攻不落を謳われた旧道(穴床前トンネル)への海上からのアプローチに挑戦したのである。


この左の画像を見て欲しい。
練習のためにどこかの湖で撮影した……わけではなく、この日の現地海岸の海況がこれだった。

空と海の境目が曖昧に見えるほどの穏やかさである。べた凪という言葉で片づけるのさえ申し訳なくなるほどの究極的に良い海況に恵まれた探索となった。(大袈裟でなく数年に1度の海だと思う)
不慣れなカヤッキングに立ち向かう私に、大自然が優しさを施してくれたような環境だったが、実は既に時遅く、この4日前に挑戦したカヤック初実戦投入探索時には波が高く、下手くそな操縦のため撮影機材の半数を水没で失うなどの酷いミスを犯していた。




これほどの好条件に恵まれた私のカヤック作戦は、下手くそな操縦ながらも無事成功した。

右写真は、この日の最終到達目的地であった穴床前トンネル前の旧国道を海上から撮影した。
そこは第二タコジリトンネルとの間に挟まれた長さ100mほどの短い明り区間だったが、その全体がタコジリシェッドという名の覆道に覆われていた。
旧道も防災に対して決して無防備だったわけではなく、むしろ開通当時の常識の中では十二分に備えた道であったのだが、豊浜トンネル事故はその常識の限界を指摘するものとなったのだった。

この撮影後、狭い海岸から上陸して、タコジリシェッドの前後のトンネル坑口がいずれもコンクリートで密閉されていることを確かめた。
それは十分に予想されていた結果だが、やはり穴床前トンネルに立ち入る術は残されていなかったことを理解した。
それでも結果には満足して、帰宅した。


お い お い ?!

もう探索の結末を書いちゃったのかよ。この探索をレポートするんじゃないのかよ?
そんなツッコミが入りそうだが、この探索はレポートしません! 没になりました!
なぜ没になったかを次に説明する。
そして、今回紹介したい“真の探索”の話へと移っていきたい。

探索からの帰宅後、カヤック投入というビッグイベントを勿体ぶる気持ちもあってレポートの執筆をなんとなくしないまま時間が経過していたが、カヤック探索の前の月に探索していた兜岩トンネルの旧道のレポートを執筆し、順次公開している最中であった2021年7月20日に、驚くべき情報が、匿名の工事関係者を名乗る方から寄せられた。

なんでも、“とある事情のために”、この情報提供があった時点(すなわち2021年7月)では、兜岩トンネル旧道に存在するオコツナイトンネルの起点側と、ツブダラケトンネルの終点側のコンクリート封鎖壁が、撤去されているというのである。
加えて、狩場トンネル旧道にある、八峰トンネルの両坑口と、第二タコジリトンネルの両坑口、そしてなんと穴床前トンネルの起点側坑口も解放されているというのだ!

将来的にずっと解放されたままである保証はなく、“とある事情”がなくなれば再び封鎖される可能性があるとのことだったが、この状況の変化によって、私のカヤック探索は穴床前トンネル到達への必須行為ではなくなった。残念ながらこのレポートは没であろう。

とはいえ正直なところ、これらの3本のトンネルに入れるようになったというだけだったら、そこまで再訪へ心は動かなかっただろう。これらのトンネルの内部に興味はあるが、昭和50年ごろに完成した2車線の国道トンネルというのは、たぶん特別に変わった構造物ではないだろう。そのことは、本当は封鎖されていたのに偶然立ち入れてしまったオコツナイトンネルを見ても、想像できることであった。




…………


……いやすまん。

この匿名の情報提供メールの後半部分を読んだ時点で、

即座に翻意!

実は、穴床前トンネルは、“特別に変わった構造物”であった。

何が特別に変わっているかは、このレポートの中でお伝えする。


では、参ろう。

2023(令和5)年5月12日実施、第2次狩場トンネル旧道探索の始まりだ!



 本編の前に……現「狩場トンネル」の南口を紹介


2018/5/28 17:19 《現在地》

本編の前に紹介しておきたいものがある。
ここは後に没となってしまうカヤック探索の直後に訪れた、狩場トンネル南口と茂津多トンネル北口の間にある駐車帯だ。
地名としては穴床前といい、旧道にあったトンネルの名はこの地名に由来しているのだろう。

かつて工事作業基地の一つが置かれていたこの穴床前には、茂津多国道の開通記念碑が存在する。
写真中央に見えている自然石のオブジェがそれだ。
背後に聳える高い岩山が茂津多岬で、その基部を貫く1974mの茂津多トンネルが開通したことで、後志と檜山が初めて海岸伝いで結ばれることになった。




光沢のある巨大な自然石の前面に埋め込まれた黒御影石に、「茂津多岬 昭和51年11月 国道開通記念 北海道開発局長 倉橋力雄」と刻まれている。
また、碑台の側面に埋め込まれた白御影石のプレートには、「国道二二九号茂津多道路開発促進期成会」の構成員の名前が、会長の瀬棚町長、副会長の島牧村長をはじめ、協賛者を合わせて20以上も刻まれていた。
この碑を見ていると、いかに地域に待望された道路であったかが伝わってくるようだった。




続けて紹介するのは、狩場トンネルの南口だ。

冒頭に説明したとおり、現在の狩場トンネルの南口は、旧道時代の穴床前トンネルの南口と同じ場所にあり、新旧道は洞内で分岐していた。
厳密にはこの坑口はトンネルではなく、トンネルに繋がる全長42mの穴床前覆道の坑口である。覆道だから断面も四角い。坑口の上に見える斜めのコンクリート壁は落石が道路に散らばるのを防ぐためにあり、実際の地山は40mほど奥から始まるわけである。
そしてこの覆道の存在は、旧道の開通当初から変わっていない。

(→)
坑口には、現在のトンネル名である「狩場トンネル」の扁額が取り付けられているが、この狩場トンネルというネーミングも、実は旧道時代から使われていたもので、扁額も当時から変わっていない。
先ほどから旧道のトンネル名は穴床前トンネルだったことを再三書いているが、実は旧道時代から利用者に対しては狩場トンネルの名前が案内がされていた。
なぜそうなっていたかというと、この位置から連続していた穴床前覆道、穴床前トンネル、タコジリシェッド、第二タコジリトンネルという4つの構造物を統合して、全長1347mの狩場トンネルと呼称していたためである。

(←)
そんな訳だから、同じ坑門に取り付けられている銘板も、「狩場トンネル」となっていて、竣工年は旧道のものである1976年11月を表示している。全長も旧道時代のデータだ。
あまり気にする利用者はいないのだろうが、現在の実際のトンネルの長さは1648mであるから、この銘板は正しくない。
単純に長さが違うだけでなく、この銘板にある1347mという長さの大半は、ここからは行くことができない、封鎖された真っ暗な旧道部分の数字である。(それを考えるとなんかゾクゾクしない?)


 穴床前トンネル時代の坑口写真
2023/5/19追記


『北海道の道路トンネル 第1集』より

右の写真は、『北海道の道路トンネル 第1集』に掲載されていた、現役当時の穴床前トンネル南口である。

前述の通り、この坑口は現在も狩場トンネルの南口として利用されている。
だが、現在の坑口(2枚上の写真)と比較すると、全体の形状としては確かに同じものだと分かるのだが、坑門を飾っていた石タイルが撤去されていたり、背後の地山が隠されるほどのコンクリートの落石防止擁壁が増えていたりと、一見すると同じ坑口とは思えないほど変化していた。

それでも、掲げられた扁額と銘板は変わっていないというのが、そこにトンネルとしての魂が宿っているようで面白く思う。
旧道時代から狩場トンネルを名乗っていたおかげで撤去を免れたのか、あるいは新道が同じ名前を継承したからであるこかは分からないが。



トンネルに入ると最初の42mは覆道なので四角い断面で、その先から普通のトンネル形をした元・穴床前トンネル――現・狩場トンネルが始まる。

入口からパッと見える範囲は直線が続いているが、よく目を凝らすと見える奥の方でネオンライトが右に曲がっているのが分かる。
実はそこが、新旧トンネルの分岐地点だった。
距離としては坑口から約300mである。


17:23 《現在地》

ここが新旧トンネルの分岐地点(洞内分岐地点)。

それまで直線だったトンネルが突然右に曲がっていくのでとても分かり易い。
坑口から約300mの位置である。
元の穴床前トンネルはこのまま直進して、約500m先にあった出口へ通じていた。当時はここから光を見通せたに違いない。




よく見ると、確かにこの場所からトンネルの壁の質感が新しくなっているのが分かった。
穴床前トンネルから狩場トンネルへ、ここで移り変わるのである。

私はこの日のカヤック探索で、この壁の向こう側に眠る旧トンネルの出口を地上から見ることには成功した。
だが、“今回”の読者様からの情報提供によって、改めてこの壁の裏側に足を踏み入れることができると判明したのである。それが今回の本題だ。

なお、トンネル内分岐は残っていないが、それでもここに分岐があった名残は存在していた。
新旧トンネル接合部の近くに、新トンネル用の銘板が取り付けられていたのである。
そこには、「狩場トンネル」の名前の他に、「1999年8月着工〜2003年2月竣工」「延長1647.3m(新トンネル延長1343.9m)」などの多くのデータが収められていた。





 この区間が廃止となった原因、危険の核心部へと迫る……


2023/5/12 4:43 《現在地》

おはようございます。
現在時刻は午前4時40分過ぎ、一応日の出の時刻は過ぎているが、東に高い山を背負って西へ開けた島牧の海岸の朝日はまだ見えない。
でも明るくなってきているので、本日一発目の探索として、新情報を携えた狩場トンネル旧道へのリベンジマッチをスタートする。

写真奥にある坑口が現国道の狩場トンネルの北口で、手前の赤い矢印の位置から旧道へ入ることが出来る。
そして探索の第一歩に当たるこの部分で、早くも“前回”(2018年の探索を指す)との違いがあることに気付いた。

写真だと遠いので分かりづらいと思うが、矢印の位置にはガードレールがない部分があって、そこから旧道へすんなりアプローチ出来るようになっていた。“前回”は、このようなガードレールの切れ目はなく、旧道に入るにはるとガードレールを跨ぐ必要があった。



ガードレールの切れた部分には新たに車止めが置かれていて、旧道への進入を邪魔していたが、その奥に控えている旧道の路面もまた、前回とは別物となっていた。

前回は、旧道の路面の舗装が剥がされていて、そこへ二度と車が出入りすることはないのだと思われる状況だったが、今回は、ガードレールの切れた部分からスロープ状に旧道の路面へ至る砂利敷きの新たな路面が造成されていて、車止めさえ退かせば、再び自動車が旧道に出入り出来るように“整備”されていたのである。

一度は完全廃道という運命を受け入れたはずの旧道が、何らかの目的を得たことで再び(一般の利用者向けではないとしても)道として息を吹き返しているのは、間違いないようだ。




おおーっ!!

旧トンネルの閉ざされていた坑口が、マジで再び解放されている!!

タレコミがあったとおりである。

しかも1本だけではない。短いトンネルの奥にもう1本別のトンネルが見えており、そっちも開口している!
手前は八峰トンネル、奥は第二タコジリトンネルなのだが、前回はどちらも塞がれていた。
だからこそ、わざわざカヤックを持ちだしてこの先へ進んでいる。
もちろん今日はそんな手間をかける必要はない! オールフリーだ!!!



現道を離れて完全に旧道の敷地に入ると、旧道本来のアスファルト舗装に戻った。
この旧道、前回はわざわざガードレールを乗り越えて来るのが虚しいほどに、一瞬で八峰トンネルの封鎖坑口へ突き当たって終わる区間だったが、今回はその坑口があまりにもあっけらかんと無防備に開口していた。

開口という極めて大きな変化はあるが、それ以外の変化は今のところあまり感じられない。
例えば、坑口や路面の老朽化している部分が補修されているような様子はない。本当にただ、坑口を塞いでいたコンクリートの壁が撤去されただけという感じ。
工事関係の車が日常的に出入りしている気配も感じない。そもそも、旧道の入口には重い車止めが置かれているのだ。鍵を開けて入るのとは違い、関係者にとっても車の出し入れは気軽ではないはず。




八峰トンネル北口。

“北海道開発局標準型トンネル。”
勝手にそう名付けたくなるくらい、北海道の海岸沿いにある旧トンネルでよく見るデザインの坑口だ。その主な特徴は、コンクリートタイルで描かれたアーチ模様、横幅を大きく使う切文字タイプの扁額、控えめな笠石の意匠といったところである。

この旧道にある3本のトンネルはいずれも昭和51年生まれであり、廃止された経緯も単純な老朽化やトンネル自体の低スペックではない。
したがって、もしもここがもう少し安定した地質だったなら、まだまだ普通に現役で頑張れたトンネルだろうと思う。




『北海道の道路トンネル 第1集』より

これは昭和63(1988)年に北海道土木技術会トンネル研究委員会が発行した『北海道の道路トンネル 第1集』に掲載されていた、現役当時の八峰トンネルの北口(現在地)だ。
廃止後に撤去されてしまった上部の扁額、坑門左の銘板に加え、現道がそこに割り込んでくるまでは、坑口の左側に落石防止擁壁があったことが分かる。

現在は失われた銘板の内容を、同書記載の各種データから再現すると、次のようになる。

八峰トンネル
1976年11月
小樽開発建設部
延長65m 幅員6.00m

なお、平成元年に小樽開発建設部が発行した『後志の国道』の記述によると、このトンネルの建設当時の名称は、第一タコジリトンネルであった。
写真の奥に見えているトンネルは第二タコジリトンネルなので、ここに第一と第二が連続していたのであるが、完成後、第一タコジリトンネルはこれ単体で八峰トンネルと改称され、第二タコジリトンネルはその先に連続する覆道や穴床前トンネルど合体して狩場トンネルと呼ばれるようになったのである。

ちなみに、タコジリという地名の由来は不明である。アイヌ語由来ぽくはない語感だが…。そして、八峰(はちみね)という大仰な感じのネーミングの由来も分からない。



生まれて初めて、八峰トンネルへ足を踏み入れた。
僅か65mの短いトンネルだが、前回来た時には律儀にも両方の坑口が完全に封鎖されていて、中の様子をうかがい知ることは出来なかったのである。
もし前回の姿を知らなければ、何の変哲もないただの旧トンネルとしか見えなかっただろう。

一度は完全に人の世界から切り離され、密閉された真の闇へと落ちていた空間が、再び人の世界の“何らかの事情”によって、通り抜けられるトンネルとなっている。
だがそれも永続的なものであるかは分からない。呆気なく再び封鎖されるのかも知れない。




八峰トンネルの出口に近づくと、2018年5月28日にべた凪の海を渡って上陸した、私にとっては思い出深い明り区間が見えてきた。
旧トンネルの解放という予想外の展開がなければ、この旧トンネルに挟まれた明り区間は、今よりも遙かに訪れづらい場所だったのである。

そして、この一度は孤立状態となっていた明り区間の路上にも、前回からの変化が見て取れた。
黒い大きな土嚢が、山側の車線を塞ぐようにしてたくさん並べられているのが見える。あれは前回なかったはず。



八峰トンネル南口を振り返って撮影。

このトンネルの外は海上へ突き出した小さな岩の岬になっていて、そこに道らしいものはないものの、ちょうど磯場が平らな波蝕棚になっているために、そこを通って歩いて迂回することが出来る。
私は前回、わざわざカヤックを使ってここへ上陸したが、八峰トンネルだけならその必要はなかったといえる。だが、次の第二タコジリトンネルの先にあるもう一つの孤立した明り区間へ行くためには、私にはカヤックが必要だったのだ。




4:46 《現在地》

八峰トンネルと第二タコジリトンネルの間にある約200mの明り区間は、三方を険しい岩崖、残る一方を荒磯の海に囲まれた、孤独な旧道空間だ。
明り区間の中ほどは、トンネルでもおかしくないと思えるくらいの深い切通しになっていて、道の両側が鋭く切り立っている。

チェンジ後の画像は孤立していた当時のもので、前述した土嚢の山はやはり、トンネル解放後に持ち込まれたものだった。
その外、路上の様子にも少し違いがあり、【廃道後に堆積しつつあった土砂】が今回綺麗に除去されていた。



せっかくなので、ボツになってしまった海上探索時に撮影した画像より、
海上から撮影した現在地一帯の明り区間の全体像を紹介する。

海上から眺めると、大きな岩山が旧道の大半を見えなくさせているのが分かる。
この裏側に旧道の大きな切通しが存在する。また、右に見える第二タコジリトンネルの
上部にある岩山の険しさと高さにも注目して欲しい。このトンネルの地形が、“問題”とされた。



第二タコジリトンネルの北口前に山と積まれている巨大な土嚢。

これが置かれている理由について、私は二通り考えた。
一つは、甦らせた旧道を落石や土砂崩れから護るために積み上げた“防災目的”。
もう一つは、別の場所で発生した工事残土を一時的に保管する“一時保管目的”だ。

土嚢そのものに設置目的などの情報源がなく、どちらかは分からない。
ただ、これだけの土嚢を置くためにわざわざ旧道のトンネルを解放するという大掛りな作業をしたとは思えないので、前者の説の方が説得力がある。

それに、ちょうどこの土嚢の背後は、旧道の現役当時から崩壊を危険視されていた、極めて険悪な岩山になっている。

この岩肌には旧道時代に設置された落石防止ネットが大量に残っており、滝のような偉容を誇っているのだが、この様な旧来式の防災施設を大掛りに設置しても防ぎきれない規模の崩落が、こことよく似た地質・地形条件の場所で連続して発生したことが、この旧道が放棄された直接の理由である。

もう少し具体的に述べると、平成8(1996)年に発生した豊浜トンネル岩盤崩落事故を受けて行われた開発局管内のトンネルや覆道の緊急点検の結果、平成9(1997)年2月に新たに42箇所のトンネルや覆道が「対策を必要」と診断された。事故以前からリストアップされていた4本と合わせて、計46本のトンネルや覆道が、豊浜トンネルのような崩落事故が発生するリスクが高いと評価されたのである。

そしてこの中には、同年の8月に本当に大崩壊を起こす第二白糸トンネルを始め、島牧から瀬棚にある多くのトンネルや覆道もリストアップされていた。右図でトンネル名を黒く囲った4本のトンネルが、このときに要対策と評価されたものである。

そして最終的に、これらの要対策トンネルを全て回避するようなルートで、3本の長いトンネル(白糸トンネル、兜岩トンネル、狩場トンネル)が整備されたのであるが、狩場トンネルに対応する旧道においては、第二タコジリトンネルだけがリストアップされていたことに注目したい。

これを見る限り、前後の八峰トンネルと穴床前トンネルは、この第二タコジリトンネルの“とばっちり”で廃止されたと言えなくもないだろう。
また、だからこそ、穴床前トンネルの南口から300mほどは今も狩場トンネルとして現役で居続けられているとも言えそうだ。

余談だが、兜岩トンネルで迂回されることになった旧道のオコツナイトンネル(これも要対策トンネルだった)も、廃止後本当に崩壊しているのが2018年の探索で確認されたので、開発局のこのときの緊急点検は、非常に災害予知力の高い的確なものであったように感じられる。

いま再び“何らかの事情”のために、崩壊が危険視され封印された第二タコジリトンネルが甦った。
それでも一般の通行は許可されていないので、万が一大崩壊が発生しても、大きな人的被害となる可能性は低いだろうが、通行する関係者が巻き込まれるリスクはある。その可能性を少しでも減らすために、これらの土嚢は積んであるのではないだろうか。

ここは、崩落のリスクが実証されているにも等しい、とてもとても、危ない道なのだ……。




『北海道の道路トンネル 第1集』より

『北海道の道路トンネル 第1集』に掲載されていた在りし日の第二タコジリトンネル北口の写真に、今回撮影した画像を重ねてみた。
坑門右側の“ひび”の位置に面影がある。

現役当時の写真は望遠で覗いているようで、遠近感が圧縮されているために、すぐに地山へ潜っているように見えるが、実際は坑口から50mくらいまでは落石対策の長い覆道であり、地中へ入るのはその先からだった。
ここまでやっても、豊浜級の岩盤崩壊のリスクは回避出来ないと評価されているのだから、本当に恐ろしい。

なお、既に説明しているとおり、このトンネルは現役当時から利用者に対しては狩場トンネルの名前で案内されていたので、扁額もそのようになっていた。
この扁額や、やはり写真に写っている銘板の片割れが、現在の【狩場トンネル南口】【扁額】【銘板】である。
同時に設置された扁額と銘板であっても、片方は生き残り、片方は廃棄されたわけである。

したがって、第二タコジリトンネル単体の銘板というのは元から存在しなかったと思われるが、判明しているデータは次の通りである。

第二タコジリトンネル
1976年11月
小樽開発建設部
延長386m 幅員6.00m



それでは、第二タコジリトンネルへ突入!

ここを抜けた先は、かつてカヤックでしか到達出来ないと考えた、区間最後の明り区間である。

皆さまに、私の“没”となった探索の悲しみを理解しろとは言わないが、心して味わってもらいたい。




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