現地調査では、平和な横浜の街の中にポツンと置き忘れられた、戦前のトンネル風景を堪能した。
そしてその5年後にもたらされた新聞報道によって、このトンネルが長らく管理者が不明の状態で使われている事を知った。
このレポートの仕上げとして、机上調査によって明らかになった事実を一通り並べてみようと思う。
はっきり言って、新聞報道だけでは分からない事も沢山あったのである。
例えば、トンネルの正式名。
例えば、トンネルが着工された時期。(新聞記事によると完成は昭和14年という)
例えば、トンネルは実際に旧日本軍によって、どのように使われていたのかという実態。
【I】 歴代地形図の変遷から、地域全体の変貌を読み解く。
現地調査では、基本的にトンネルそのものしか見ていないので、トンネルがある地域の変化を重層的に捉えるべく、歴代地形図の比較を行った。
こんな風に書くと難しい事をしているように思うかも知れませんが、ただ新旧の地図を順に重ねて比較して見ると、変化がパラパラ漫画みたいに見えて面白いという動機である。
まずは一番古い明治36年版と、その次の大正10年版を重ねて見たのが次の図だ。
古い2枚の地図の変化を見て貰うべく用意した右の画像だが、まず何よりも現在の地図とのあまりの違いに、私自身が驚いた。
ある程度予想が付いていたこととはいえ、埋め立てというのはここまで地域の印象を変えてしまうのか。
初回にも書いたと思うが、金沢区柴町の前身である久良岐郡柴村は、海に面し山に囲まれた、一つの独立した漁村であった。
その“漁村”の今日に至る変化を、数枚の地形図で追い掛けようというのが、この試みである。
そして肝心の明治36年版と大正10年版の違いであるが、地図から見て取れるこの20年間の変化は少ない。
探索の序盤に通りぬけた柴隧道の出現と、それに伴う柴村と金沢文庫を結ぶ車道の開通。これに尽きる。
残念ながら柴隧道についての机上調査はこれ以上行っていないが、横浜市道路台帳にある「大正2年竣工」という記録を裏付ける地形図の表記である。
長い間村に通じる唯一の車道であった柴隧道が、どれほど村の発展を助け、またも感謝されただろうかと思う。
…あの狭いトンネルが百年を活躍してきたのに、広いトンネルの方は……と、つい比較したくなる。
さて、次はいよいよ本題のトンネルが誕生したとされる戦時中と、戦後の地形図を比較する。
これは、昭和20年版と昭和41年版の比較である。
まず、昭和20年版についてであるが、
史実上は既に誕生していたはずの「柴燃料トンネル(仮称)」が描かれていない。
だが、柴地区の北部丘陵地帯とその東の海岸線(現在の長浜地区)一帯には、様々な見慣れぬ構築物が出現している。
特に大小の丸い形状をした多数の地形は、地図上からは正体が分からず少し不気味である。
そして結論からいうと、ここに旧日本海軍が土地を接収して建設した燃料保管施設が存在した。
もっとも、戦時中の地形図(特に軍事関係の施設)には、しばしば戦時改描と呼ばれる作為的な誤表記が行われていたから、この地形図が実際をどれだけ反映しているかは分からない。
実在していたはずのトンネルが描かれなかった理由が戦時改描なのか、単なる更新漏れかは分からないが。
そして、次の昭和41年版に初めて件のトンネルが描かれている。
地区の名前も今と同じ「柴町」に変わり、従来の柴隧道の道の他に海岸線の道路が出現して、交通も便利になった。
住宅が山際にまで建ち並び、既に“漁村”とは呼びにくい風景へ変化し始めている。
だが、「米軍施設」へと変わった北部丘陵と海岸線の一帯には、「日本国」とは別の時間が流れていたようである。
そして、この「米国」の飛び地だけを取り残して、「日本国」の発展は凄まじい勢いで進む事になる。
これから先の変化は、アニメーションでご覧頂くことにしよう。
明治36年→ 大正10年→ 昭和20年→ 昭和41年→ 昭和51年→ 昭和59年→ 平成13年 という順序で比較表示している。
昭和41年〜51年頃が漁村の雰囲気を残していた最後で、その後は京浜工業地帯の巨大な埋め立てに組み込まれて海が遠くへと離れていった。
ただ、少し感慨深く思ったのは、これほど海岸の地形が変化していても、明治以前からある柴の漁港が存続している事である。
埋め立て地に囲まれて、まるで掘り込み港のようになってはいるものの、ちゃんと海面が柴町地先の漁港まで引き込まれている。
平成の現代も、柴の漁村としてのルーツが完全に跡絶えたわけではないらしい。
トンネルの事に話を戻すが、基本的に件のトンネルの描かれ方は、昭和41年以降変わっていない。
昭和59年から平成13年の間にトンネル上部の地上一帯は先に米軍から返還されたものか、今の市民農場などがある区画の整備が始まっているが、全体的に見て米軍施設と称名寺がある一画だけ、往古の緑を留めている。
そしてこの状況は、平成17年に施設の完全返還がなされて数年を経過した現在も変わっていない。
地形図の変遷はお楽しみいただけただろうか。
ビジュアル方向から歴史を捉える試みであったが、トンネルそのものの実態はなかなか見えてこなかった。
続いては、図書館にある資料に目を向けてみよう。
【II】 図書館資料から、トンネルの素性を読み解く。
横浜市の図書館へ実際に行く前に、念のため「レファレンス協同データベース」(全国の様々な公立図書館に寄せられたレファレンスのデータベース)を「柴トンネル」という単語で検索したところ、何と、昨年(2013年)の7月に横浜市中央図書館に該当するレファレンス事例があった! →【リンク】
私は楽をさせて貰うことにした。
このレファレンスの質問者は、「柴燃料トンネル(仮称)」の竣工年が分かる資料が無いかという問い合わせをしており、それに対する図書館側が挙げた資料とその内容は以下の通りである。 (なお、質問者はこのトンネルを「柴トンネル」と呼称しているが、名称の根拠は挙げていない)
『金沢歴史年表』(横浜市金沢区役所政部総務課/編 横浜市金沢区役所 1978年) に、以下の記述がある。
1939(昭和14) 柴・長浜間の新トンネルが完成した。(昭和12年3月着工)
『かねざわの歴史事典』(金沢区生涯学習“わ”の会かねざわの歴史事典編集委員会/編) に、以下の記述がある。
【柴・長浜間トンネル】 昭和14年(1939)柴と長浜間に開削された全長約180mのトンネル。長浜側が海軍施設で戦後は米軍施設になったので、一般には利用できなかった。平成17年(2005)に施設が返還された。
『基地柴町の実態調査報告』(横浜市/編 横浜市 1968年) に、以下の記述がある。
昭和11年10月、金沢町が六浦荘村とともに、磯子区に編入された。翌12年3月9日、旧日本軍は、日華事変の遂行と戦争拡大に備え、艦隊燃料、食料貯蔵庫の必要性から当時柴町住民所有のこの土地を二束三文で買収し、登記したものである。
『金沢の100年』(内田四方蔵著) に、以下の記述がある。
昭和12年3月、海軍は艦隊燃料、食糧貯蔵庫のため、柴町住民から土地一帯を買収して登記した。これは長浜の土地約74町歩の強制買上げで、当時の柴町の約三分の二に当たる面積であった。
基本的に秘密主義であった軍事の事とはいえ、住民生活とも密着していた地域だけに、ある程度の記録が外にも残っていたのである。
これらの記述から、トンネルは昭和12年3月着工、昭和14年完成と確認が出来た。
さらに、トンネルの着工と、海軍による柴町一帯の土地買収が同時であることから、トンネルも海軍が建造したと考えて良いであろう。
ただし、この段階に至ってもなお、トンネルの正式な名前が出て来なかったのは不自然で、これはもう、往時から名無しであったと考えるべきなのか。
あくまでも軍事施設の出入口でしかなく、我々が考えるような「道路」ではなかったとすれば、そういうこともあるのかもしれない。
少なくとも、正式な名前を住民が見聞きするような機会は無かったようである。
さて、私のトンネルに関する疑問は徐々に解決してきた。
だが、地形図にしても新聞記事にしても、レファレンスに挙げられていた史料にしても、これらはあくまで、我々外部の人間の記録に根ざしている(と思われる)。
このトンネルが実際に使われていた状況を誰よりも知っているのは、当然、この施設を建設し利用していた海軍であるはずだ。
なんとか軍側の資料から、この施設とトンネルの実態を知る事が出来ないものかと、少ない時間で頑張ってみた。
ここまでは、新聞記事とかレファレンスとか、他人様に頼ってばかりだったから、最後くらい自分でも調べました。
【III】 海軍の史料から、施設の実態を垣間見る。
旧日本軍の内部文書は、「アジア歴史資料センター」で、デジタル化された様々な物を検索・閲覧する事が出来る。
そこで「柴+海軍」などのキーワードで検索してみたところ、関係する史料をいくつか発見した。
そしてその中に、私が特に見たかった当時の施設内の地図情報を含むものがあった!
これは、「柴燃料地帯保安移管準備調書 第三課燃料関係」と題された、横須賀海軍軍需部が昭和20年8月25日付けでまとめた帳簿資料である。
これは終戦時点における軍の財産をとりまとめ、GHQへと引き渡す物件の目録を作る準備資料であったようだ。
終戦直後に作成されたこのような資料は膨大にヒットする。
右の画像は帳簿の表紙である。
そして早くもこの段階で、これまでは分からなかった重要な情報を得た。
それは、施設の正式な名称である。
昭和12年に施設が開所した当初からの名称であるかは不明だが、この終戦の時点ではこう呼ばれていた。
柴燃料地帯――と。
軍に馴染みがない私などには、とても思い付かない独特のネーミングセンス。
燃料は分かるし、地帯も分かるが、「燃料地帯」という施設名はちょっと思い付かない。
当時は全国にこういう施設があったのだろうか。
ともかく、ここで判明した施設の正式な名称から、今回のレポートにおけるトンネルの仮称「柴燃料トンネル」を名付けた。
そして、表紙からページをめくってみると…。
これは表紙をめくった次のページ(p2)だ。
画像をクリックすれば大きな画像を表示するが、ちょっとだけ書き出してみよう。
原所轄 | 施設名称 | 所在・地点 (詳細添付別紙) | 格納物件概要 (詳細添付別紙) | 其ノ地点ニ配シタル警戒員数 (一直×直数) | 連合軍 接収状況 | 記事 |
横須賀軍需部 | 横須賀軍需部 柴燃料地帯 | 柴 別図 | 重油(一,〇〇〇屯) (四施設乙五号槽) 別図参照以下同 | 十二×三 | 未了 (保安隊警戒中) | 接収未済保安隊ニテ 警戒中以下同 |
( 以 下 略 ) |
このようなページが3ページ分あるのだが、「格納物件」の品名は、書き出した「重油」をはじめ以下のような物だ。
重油、ロテッサル油、一号外部鉱油、四号外部鉱油、一号内部鉱油、四号内部鉱油、代用二号内部鉱油、白○油、カストル油、硬化油、八号グリイス、木炭、倉庫、事務所、番舎、配電所、哨所、其ノ他(三棟)
様々な貯蔵品に加え、倉庫や事務所も挙がっているが、「トンネル」や「隧道」のような項目は見えない。
このことからも、トンネルは米軍に移管されていない可能性が高いと思われる。
そして、次からの2ページが一番の見どころだ。
これは全体の4ページ目にある「柴燃料格納略図」だ。
柴町の広大な土地を接収して建設したという「柴燃料地帯」の全貌が事細かに(フリーハンドで)描かれている。
そして、図の左上にはトンネルが存在する出入口通路が描かれているが、トンネルは描かれていない。
だが、これはトンネルが存在しなかったのではなく、記述を省略しているだけである。
そんなわけだから、トンネルに名前など付されてはいない。
さらに、この次のページが見ていて一番面白かった。
やはりフリーハンドで描かれた最寄り駅から柴燃料地帯までの案内図だ。
「湘南電車(現:京急本線)」の「(金沢)文庫駅」から、「金沢文庫(称名寺の異称)」の前を通って柴燃料地帯へ至るルートをガイドしている。
そしてこれは全くの偶然だが、私の探索と全く同じルートである。
地図には「隧道」が2本描かれており、この1本は柴隧道、もう1本が「柴燃料トンネル(仮称)」である。
これはトンネルが日本軍に使われていた最後の段階の地図ではあるが、ようやく隧道が当時の史料に描かれているのを見つけたのである!
嬉しかった。
右の図は、柴燃料トンネル(仮称)の南口部分を拡大したものだ。
「民家住宅」「柴入口哨所」「横浜市磯子区金沢町柴住宅」などの文字が書き込まれている。
周辺が戦前からの住宅地であったことがこれでも分かる。
せっかくなので、今の風景と比較してみよう。
当たり前だけど、改めて当時の地図と比較して見ると、
確かに同じ場所なんだなって分かるな〜。
それだけだけど、妙に嬉しい。
私の調査は、ここまでである。
「…え? トンネルの管理者の問題は調べないの?」
それは、行政の関係者にお任せします。
公開されていて誰でも(私でも)見られる史料だけで解決出来る様な問題なら、とっくに解決しているでしょう。
それに個人的に、米軍が関わってからの経緯には、自分で調べるほど興味がなかったりする。
あなたが新たな情報を手に入れたら、それを知りたいと思う程度には興味津々だが。
こことかここに米軍移管以降の事情がある程度書かれている。興味のある人はどうぞ。
私は思った。
トンネルは確かにこの柴の町に生まれていた。その時期と経緯も明らかになった。
だが、終戦の時点で既に、軍の財産としては計上がされていなかった疑いがある。
誰か、誰か。
この孤児(みなしご)を、これからはもう一人じゃないよ、今まで頑張ったねと、抱きしめてあげてくれないか。
私の手には少し大きすぎる。だから、市でも県でも国でも、もっと大きな誰かがいいだろう。
今のままでは、一度も愛されたことがないみたいで、あんまり可愛そうじゃないか…。