隧道レポート 旧白骨隧道と旧旧隧道 最終回

所在地 長野県松本市
探索日 2021.12.24
公開日 2022.03.05

 旧々白骨隧道 ……だと考えられる穴へ


2021/12/24 11:37 《現在地》

これが旧々白骨隧道か!

見つけはしたが辿り着けなかった南口よりはマシだが、やはりとても小さな隧道だ。
人が立って歩けるのかどうかも怪しい感じがする。まさか、しゃがんで歩くことが基本である隧道なんてあったとは思えないが、現代人と、この隧道を利用していた時代の人間の体格差が、いくらかはこの疑問を埋めてくれると思う。

だとしても、小さく見えるが……。
そして、そんな極小断面の隧道の長さは、地形から計算して、おおよそ15m程度と思われる。
この上にある旧隧道が25mなので、それよりは間違いなく短い。

地形的に、隧道を掘るか、崖を回り込む桟橋を架けるか、あるいは対岸へ一度渡ってから戻るか、このような3択の選択があったと思うが、旧旧道の設計者は、最初の選択肢を選んだのだ。後者二つを選んでいたら、もうなにも残ってはいなかったと思う。



この坑口を見た瞬間、直感的に、辿り着けそうだと思った。

しかし、これが思いのほか大変だった。
凍り付いた斜面を登りながらトラバースして行かねばならないのだが、下の樹木がない部分は凍った岩であり、ここを移動するのは、慎重に慎重を重ねても転倒しやすい状況だった。

一度穴よりも高い位置まで上ってから、立ち木に捕まりながら穴へ下って行こうと試みたりと、少しばかり試行錯誤を要した。
しかし、この後に及んで辿り着けませんでしたという結果だったら、私はこのレポートを封印してしまっただろう。




穴を見つけた時点で既に15mも離れていなかったこの距離を埋めるのに、5分近く掛かりはしたが、最終的には慎重に距離を詰め……

いよいよ穴と同じ高さへ辿り着く。
穴へと通じる、旧旧道と呼ぶべきわずかな平場の一端に、手が届く。

ここまで来れば、あとはひたすら願うのみ。

穴の貫通!

隧道であったということを、貫通で証明して欲しい!




どうなのよ?!

とりあえず、奥行きは感じるッ。

だが、貫通しているかはまだ分からない!


つうか、異常に小さくないか、穴も道も……?



ああっ!

これは、貫通しているぞ……!

しかし、さすがにこれは異常ではないのか?
穴に通じる道の狭さは、崩れたせいだとしてもだ、
穴の手前の片洞門になっている部分の天井も、異常に低い。
立って進むことができないのである。中腰姿勢を強いられる。

あまり狭いために、私の中には、この期に及んで、ある疑いが起こってしまった。

(……これって、温泉の引湯管を通すための穴だったりしないよな?……)

そのような施設があったという話は聞いたことがなかったが、
白骨温泉との位置関係を考えれば、あったとしても不思議はない気がする。
もちろん、旧々隧道であって欲しいとは思っているが……、
中腰姿勢でしか通れないトンネルとか、あり得るのか?




間違いなく貫通している!

だが、内部水浸しっぽい…。

この最後の数メートル、穴の引力に引き寄せられるようにして、怖さを感じず進めれば良かったが、
正直、私は恐くて仕方がなかった。穴の前の片洞門は、全体的に風化した脆い岩盤であり、
掴めるような場所がどこにもないのに、道幅が40cmくらいしか残っていない。
背負ったリュックが壁にぶつかった弾みだけでも、5〜6m下の湯川へ押し落されそうな怖さがあった。
元より立って進める高さがないので、四つん這いに近い低重心姿勢で、慎重に前進した。



11:42 

坑口へ到達!

これまで出会った全ての隧道の中でも稀な小断面、低天井だが、形は間違いなく人工的だ。

洞内は片洞門の天井を引き継ぐ形で始まっており、この入口の天井が特に低い。

あとでここで撮影した全天球画像を掲出するので、それで私の身体とサイズを見較べて欲しい。

このまま一気に洞内へ入るぞ!




黄色い水浸しだぁー!

貫通しているのは良いのだが、この隧道、かなりの グロ!

洞床の黄色い水浸しの元凶は、このわずか15mばかりの狭い洞内の壁の
大半部を茶色に染めた、タールのような湧出物にある。
この名前を口にするのは随分と久しいが、古い読者なら懐かしかろう
“黄金様”の再臨である!



グッポ… ギュッポ… キュッポ…

足が、付かなくなってきた……!

洞床が底なし沼っぽいことに恐れおののきつつ、感じたことがある。
それは、隧道の天井が、私が立ち上がれるくらいには高いということだ。
外の片洞門よりも天井が高い理由は、外は崩土で路面が嵩上げされていたからか。
特に入口部分が狭かったのは、その影響が大きかったのだろう。

天井が低すぎるから、ここは旧旧隧道ではなく、引湯管を通すための穴では
ないかという疑いを持ちかけたが、それについては、洞内の天井の高さを見て、一応払拭できた。
たしかにここは、人が歩いて通れる隧道だったのだと思った。

しかし、現状は、最悪だ。



隧道の山側の壁と天井の全体から、線を描いて大量の地下水が零れ落ちている。
この大量の湧水が含む何らかの鉱物や不純物が、壁と洞内を赤茶色の世界に変えている。
こんなにも壁から水が出ているのに、両側の坑口からは目立って水が流れ出してはいない。
これでは洞内が水溜まりになるのは避けがたいわけである。




あっ!やばい。

足が付かない。 この次の一歩。



…どうしよう?


私は、悩んでしまった。

この先に、踏破すべき未知のルートが存在するなら、
覚悟を決めて両足を氷水に浸ける選択をしたかも知れない。
いくら底なし沼と思えても、溺れるほど深いはずはないのだから。

しかし、ここで両足を捧げて得られるものは、残り10mばかりの
『見えている洞内』を踏破できるというご褒美だけだ。しかも、【地上へ出た】ところで、
未知の道はないし、その先へ進めないことも分かってしまっている。


・・・・・・・



グロすぎ撤退。


これはちょっと、足だけじゃなくて、精神も犯されかねない。

ここだけは、“白骨”じゃなくて、“赤肉”の世界だ……。

地球の中って、こんなにグロいんだぜ……。嫌いにならないでくれよ?

経験上、火山地帯や温泉場の近隣の隧道内で、このような湧出物をよく目にする。
そして今回も、その条件にばっちりあたった立地だった。


まあ精神云々というのは冗談なのだが、
この腐った氷沼に下半身を捧げて得られる対価を考えると、突入する気にはなれず。
貫通していることが分かったので、もう十分だ。




11:46 (入洞4分後)


ハァ ハァ ハァ…


何とかギリギリの所で泥沼から引き抜いてきた両足を崖に投げだし、しばしの放心。




(↑)動画をどうぞ。



(↑)全天球画像もどうぞ。

いやー、ちゃんと排水さえしていれば、ほとんど崩れず貫通はしているから、
まだ使える隧道ではあるんだろうが、ここを湯治客なんかが歩いていた風景を想像するのは……、
さすがに難しいな。前後の道もほとんど残っていないし、そもそもここに道があったことさえ、
情報提供がなければ、私はたぶん気付けなかったろう。そのくらい、陰に潜んだ存在だ。


苦戦に次ぐ苦戦だったが、どうにか任務は達成できたな。

穴はあったし、それもたぶん、旧々隧道だった。

あとは、机上調査でケリを付けたい。



現地探索、終了!




 ミニ机上調査編 〜記録が乏しい旧々隧道〜 


今回遭遇した旧々白骨隧道とみられる谷底の隧道だが、全長は15m程度で、幅1.5m高さ2mほどのおそらく人道以外では使用できない超小型断面の素掘り隧道であった。
この隧道はいつ、いかなる経緯で建設されたものなのか。
これを文献から確かめることが、帰宅後の机上調査における最大の目的となった。

しかし、これが一筋縄では行かなかった。




結論を先に申し上げると、現時点で、この隧道の正確な建設年や建設の経緯は、いずれも不明である。

現在把握している中で、この隧道の存在を最も明確に表現している“文献”は、本編の冒頭で紹介した、昭和6年要部修正版5万分の1地形図「乗鞍岳」(→)だ。

この図には、湯川沿いの道に2本の隧道の記号が描かれているが、おそらくこのうちの片方が、今回探索した隧道なのだと思う。
もう1本描かれているので、そちらがどうなっているのかは気になるところだが、未探索である。

なお、これも冒頭で解説したことだが、歴代の地形図を確認すると、これより一つ古い版である大正元(1912)年版には、これらの隧道は描かれておらず、また次の改訂版である昭和28(1953)年版だと、旧白骨隧道が描かれるようになり、やはりこの2本の隧道は消えてしまう。
これらのことから、旧々隧道は、大正元年以降、昭和6年以前に誕生し、昭和28年以前に廃止されたと判断できるが、旧白骨隧道は『道路トンネル大鑑』に昭和15年竣工とあるので、これも合わせると、旧々隧道の廃止は昭和15年と考えられる。

このように、ごく限られた版の地形図にのみ描かれていた隧道であるが、これ以外に、当隧道の存在を明記した文献は、未だ発見されていない。
とはいえ、直接的な記述がないとしても、旧々隧道が旧々道に属していたと考えられる以上、この旧々道が整備された記録を見つけることが、次善の方策と言えるだろう。
この方向では、いくらかの記録を見つけることができた。





これまで当サイトで何度もお世話になっている『安曇村誌 第三巻 歴史下』には、村内で最も著名な温泉地だった白骨温泉について、かなりの情報量がある。そしてこの温泉が非常に険しい山中にある以上、その歴史を語る上で交通に関する内容は欠かかせない。

同書によると、白骨温泉(古くは白船温泉が正式な名前であったらしい)は、かつて鎌倉が政治の中心地であった時代、安房峠を介して北陸地方と関東地方を最短で結ぶ鎌倉街道の通り道にあたっていたそうだ。

当時の道は、険しいV字峡谷が続く梓川の渓谷を避けるように、その南岸の中腹以上を通っていた。
右図は、中世からの古道をおおむね継承していた明治初期の交通路の状況を、信州と飛騨を結ぶルート(赤線)と、そこから分かれて白骨温泉へ至るルート(桃線)に分けて、現在の地図上に重ねて表示したものだ。

当時は、険しいV字峡谷が連なる梓川沿いを通ることはできず、南岸の山腹や尾根上をいくつもの峠を越えて移動していた。その途中にある大野川や沢渡(さわんど)などの山間集落は、鎌倉街道に由来する。白骨温泉を代々管理していたのも、大野川の人々であった。


『乗鞍岳麓 湯の里白骨(白船)―その自然と民俗―』より

鎌倉時代から下って江戸時代に入ると、信飛間の交通路は野麦峠が正式なものとされ、安房峠の通行は禁じられたため白骨温泉の利用者も少なかったが、明治になって交通が自由になると、一度入ればその年は風邪もひかないと言われるほど薬効豊かな白骨温泉は人気を取り戻し、松本や木曽方面からは無論、安房峠を越えた飛騨地方からも多くの湯治客が訪れたそうだ。
左の写真は、明治37(1904)年当時の白骨温泉の風景である。この頃には既に多くの旅宿が建ち並び繁盛していたことが分かる。

当時、温泉を訪れる者の多くが、湯川渡近くのセバ谷で本道から分かれて、湯川西方の山中にあった白骨道を一里ほど辿って達していた。
険しい峡谷であった湯川沿いの道はまだ無く、当然、白骨隧道も存在しなかったはずである。
以上が、明治初期の状況だ。

しかし、明治時代後期の出来事として、村誌には次のような注目すべき短い記述がある。

明治40年に沢渡から湯川沿いの道が開かれたが、荒れ道であった。

『安曇村誌』より

湯川沿いの最初の道が、明治40年に切り開かれたらしい。
だが、これに関する内容は上記の一文しかなく、その実態も、「荒れ道であった」ということしか分からない。
誰がどういう目的で建設したかなどの情報がなく、隧道の有無についての記述もないが、湯川沿いの最古のルートということで、この道こそが旧旧道の正体ではないかと、飛びつきたくなる。

が、私は、この道は今回目にした旧旧道ではないと考えている。
根拠の一つは、歴代地形図の表記にある(→)。

右図は、大正元年と昭和6年の地形図の比較だが、前者に注目すると、確かに湯川沿いの道が描かれている。
だが、その道は、後者にある隧道を2本持つ道とは、位置が少し違っているように見える。

また、道の表記も異なっていて、前者は小径(徒歩道)だが、後者は荷車が通れる里道のように表現されている。
正直、私が目にしたあの隧道を普通の大きさの荷車が通れたとは思えないが、この2枚の地形図が描かれた20年ほどの時間差で、道は世代を一つ新たにしているのではないかと思えるのだ。
つまり、明治40年に開通したという“荒れ道”は、いわば旧旧旧道にあたる存在だったと思うのだ。

もう一つ、この道が今回歩いた道ではないと考えるヒントがある。
それは、明治42(1909)年7月に白骨温泉を訪れた文筆家・河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の紀行『続三千里 上巻』に、この“荒れ道”を歩いたとみられる記述があるのだが、その内容を抜粋して紹介したい。沢渡から白骨温泉までの行程である。

再び元の道と同じ(梓)川沿ひを右に左に幾曲りして、遠い一里を来たところに茶屋がある。「元檜木峠茶屋つるや」とある。(中略)
今一里といふ処から、今迄にない急な上りになって、(同行者の)若者も我輩も同様に木の根に倒れかかって一息いれた。この新道は一里も近いといふが、もとの檜木峠を越した方が遙かに楽だと若者は頻りにつぶやいた。(中略)総て初めての我輩には新道も檜木峠も何の交渉がないので、ただ此辺の山々の、頂上から麓まで森林の保安の行届いてをるのを雲の晴間々々に美しいと眺めた。
六時近く漸く此地に著く。湯本齋藤泊。(中略)此日車程六里余、歩程五里余。

「続三千里 上巻」より(『明治文学全集56』所収)

明治42年当時、既に梓川沿いの道が沢渡までは延びていて(省略したが、この梓川沿いの道は、鉄線で吊った細い桟橋を恐る恐る越えるような非常な危道だったとある)、沢渡には桧峠から下りてきた茶屋が営業していた。つまり、既に桧峠越えは廃れはじめていたのである。そして、沢渡から白骨温泉までは、桧峠経由よりも一里も近い「新道」があって、2人はそこを辿っている。
しかし「新道」は凄い急坂道で、これなら桧峠の方がまだ楽だったと同行者は愚痴を言っている。
途中、隧道を潜ったというような記述はなく、白骨温泉へ到達している。

おそらく、碧梧桐が辿ったこの「新道」は、村誌に明治40年開通と出ていた“荒れ道”であり、大正元年の地形図に徒歩道として描かれているのもこの道だろう。
しかし、荒れ道ゆえ早く崩壊してしまい、代わりに今回目にした旧旧道が作られたのではないかというのが、私の推測なのである。
今のところ、これを裏付けるはっきりとした資料がないのであるが……。


明治中期から大正時代にかけては、この山間の地においても、湯治客達の足と共に車道建設の槌音が届きはじめる。梓川の峡谷を切り開いて下流側から徐々に車道の整備が始まるのである。
その強力な推進役となったのは、梓川の豊富な水量と落差に目を付けた梓川電力や京浜電力といった巨大な電源開発資本であった。

沿川の発電所建設に伴って、大正13年に奈川渡まで自動車が入り、間もなく前川渡へ延びた。
並行路線となった祠峠は廃れ、前川渡が白骨温泉への新たな玄関口となった。

松本方面から白骨温泉を目指す旅人の多くは、前川渡から大野川へ入り、桧峠の新道を通った。
この新道は遠回りだが勾配は緩やかで、足弱の旅人や牛馬も安心して通れる道だった。急勾配であるが距離が短い前川渡から桧峠への直登道も利用された。
明治末に一度廃れかけた桧峠に活気が戻ったのである。

左の写真は、平成20(2008)年7月にnagajis氏と2人で桧峠新道を走破したときのシーンだ。峠の東側は林道になっていたが、西側は放棄され完全な廃道だった。その道幅は1.8m程度で、勾配は緩やかだった。

また右上の図は、大正時代末頃の道路状況を描いたものだ。
図中の点線区間は、使われてはいたが、あまり整備されていなかったと思われる道を示している。
湯川沿いの道は引続き存在していたと思われるものの、隧道の開削は、まだ行われていなかったと思う。


昭和2(1927)年、電源開発用資材運搬道路として、沢渡から上高地まで古釜を通じて車道が延びた(昭和8年バス運行開始)。
これにより、中世からの長い歴史を有していた山腹の古道は廃絶し、梓川の谷底が新たな飛騨街道となった。
これを機に、沢渡で分岐し白骨温泉へ通じる自動車道の建設が計画されたのも必然であった。当初は林道白骨線と呼ばれていた道路である。

やがて沢渡から上高地にかけて自動車道が開かれると、現在の湯川沿いの道が開かれるようになる。そして、昭和11年には、乗合バスが天狗岩の上まで乗り入れ、15年にははんの木沢の上まで、そして27年には白骨(隧通し)までバス乗り入れとなった。
39年には、林道白骨線が県道に編入され、県道白骨温泉線となった。

『安曇村誌』より

『安曇村誌』より

白骨道に関する村誌の記述は、前述した明治40年の“荒れ道”の建設の次が、上記の内容になっている。
『道路トンネル大鑑』では、旧白骨隧道は昭和15年開通となっているので、沢渡から湯川沿いに登ってきた林道白骨線が“はんの木沢”という地点まで通じた際に、旧隧道が整備されたとみて良かろう。
太平洋戦争の影響もあったと思うが、工事は長くここで中断され、白骨温泉までの全線開通は昭和27年まで待たねばならなかった。県道になったのは昭和39年である。


『乗鞍岳麓 湯の里白骨(白船)―その自然と民俗―』より

左の写真は、昭和15年に撮影された、はんの木沢の道路終点と乗合バスだそうである。
これはいわゆるフォード車というやつだろうか。現代の感覚だとバスとは思えない車両が写っている。とはいえこのような車が通れたのが旧旧道でないのは間違いない。

また右の写真は、昭和40年代前半の(おそらく県道になったばかりの頃の)白骨温泉線の道路風景だそうだ。
旧白骨隧道の前後を除けば、当時の道と現在の県道は同じところを通っているのだが、もう同じ道とは思えないくらい未整備である。
未舗装はあたりまえとしても、転落防止柵も路肩工も法面工もなにもない、まさしくワイルドトラックス。現代では林道でもここまで野性的な道はなかなかないだろう。
これが半世紀の時を経て、1km以上も延々と覆道が連なるような、冬でも通れる堅ーい道路になったのだから、感慨深いものがある。


ともかく、村誌を読む限り、明治40年の“荒れ道”の次に整備されたのは、現在の県道白骨温泉線のもとになった自動車道ということになり、旧々隧道を残した道については、抜けているのか、全く触れられていないのである。
埒があかないので、村誌以外の文献にもあたってみたところ、昭和45(1970)年に安曇村の住人・横山篤美氏が出版した、『乗鞍岳麓 湯の里白骨(白船)―その自然と民俗―』という本を見つけた。

白骨の道は、梓川沿いに前川渡まで道が開いて祠峠越えが止み、のち、沢の渡(沢渡)から湯川を登るようになり檜峠が廃道になってからは、峠道を登降の苦労はなくなったものの、却って川沿いの崖路のため、崩落などの危険は増してきたのである。
雪に雨に、道の破損は相次いだし、牛馬の事故も絶えなかった。白骨の人たちにしてはその無事を祈らずにはいられなかったであろう。

『乗鞍岳麓 湯の里白骨(白船)―その自然と民俗―』より

このように白骨温泉への道の変遷を、簡潔にまとめている。
湯川沿いの旧旧道が存在する隙はありそうな記述ではあるが、全く明示はされていない。
残念ながら、白骨温泉を専門に扱ったこの本にも、旧旧道やそこにある隧道の話は、全く出ていなかったのである。

……なんとレアなものを、あづみのまる氏は見つけたんだ……。


ここに至り、文献捜索は手詰まりになってしまったが、改めて旧地形図(→)を眺めていて、一つ気付いたことがあった。

お馴染みの昭和6(1931)年版であるが、件の隧道表記の少し上流に、湯川から分岐する地下導水路が描かれているのである。
そしてこの地下導水路は、少し位置は違うが、最新の地理院地図にも描かれている。

湯川の水が導かれた先にあるのは、その名も湯川発電所である。
現在は東京電力系列会社が運用している(現役)が、その由来を調べると、運転開始は昭和3(1928)年11月であり、当時、梓川水系で梓川電力と熾烈な電源開発競争を演じていた京浜電力が建設した施設だった。

梓川電力は、本流上流の上高地大正池より地下導水路で沢渡に水を落とす霞沢発電所を昭和3年に完成させているが、京浜電力は、同じ年に支流湯川の上流(他数ヶ所)から地下導水路で沢渡に水を落とす湯川発電所を完成させていたのである。

大正池での導水工事のために最初の釜トンネル(古釜)が建設されたことは既に述べたとおりだが、同じような関係で、白骨からの導水工事のために、湯川沿いの(今回探索した旧々隧道を含む)道が工事用道路のような形で建設されたということは考えられないか。

残念ながら裏付けとなる文献は未発見(『京浜電力沿革誌』にも記載なし)だが、現時点ではこの説が一番可能性が高いと思っているのである。
旧々隧道は非常に小断面であり、工事用トロッコが通れたとは思えないから、あくまでも人員輸送や人背による軽荷物輸送を目的とした道だったかと思うが、それでも最短距離で沢渡と導水路現場を結んだなら、遠回りの桧峠越えにはない利用価値があったと思う。

昭和6年版の地形図に忽然と現れた、湯川沿いの道と地下導水路という隣接した存在には、何か関係がある気がする。
工事用道路だったのなら、長く使われなかったとしても不思議はないし、必然的に一般の利用者は相当少なく、記憶や記録にも残りにくかった。
不自然なほど文献にスルーされていること自体が、この道の特異な来歴を物語るものだったのではないか。

湯川発電所工事用道路説。

――これを私は提唱したい。





……以下、蛇足かも知れない。
依然として確固たる内容はないが、少しだけ悪あがきを。

いろいろと文献を探していて、昭和6年の夏に白骨温泉を訪れた人の紀行文を見つけた。
ルートは、上高地から梓川沿いの新道を湯川渡に下り、そこから湯川沿いを白骨温泉へ登ったようである。
昭和6年だから、まだ湯川沿いの自動車道は建設されていない。
当時の湯川沿いには、明治40年に建設されたという“荒れ道”があったはずだが、私の説だと、既にそれを置き換える形で湯川発電所工事用道路(=旧旧道)が作られていたのではないかと思っている。
ならば、これから紹介する紀行は、その唯一の歩行記録ではないかと期待されるものなのである。

なお、紀行者は古閑義之という人物で、文献のタイトルは『神経質 昭和6年11月号』(神経質研究会発行)という。
引用の区間は、湯川渡から白骨温泉まで。

湯の川の渡りは吊橋である。之で梓川を渡って湯の川に沿って白骨に向ふのである。さらば梓川よ、明日又あほふ。
湯の川は梓川よりずっと冷く、ずっと清い。白骨湯の方から流れてくるから湯の川と云ふのであらう。自分は温泉が流れに交って少しは温い水でも流れてゐるのかと思った。(←俺も思ったよ!)
湯の川の口で小学五六年生の女生徒の一隊が昼食を摂ってゐるのに出会った。(中略)
湯の川に暫く沿って登り、とてもよい一番すばらしい場所を発見して、其処で握飯を平らげた。(短歌略)
食後はゆっくり水と岩で遊んだ。汗のシャツも洗って岩に乾した。岩から岩へとんで何遍も水に落ちた。(短歌略)
此処で約一時間遊んで又登る。山のさま、水のさま、何処まで行っても尽きない面白さ。何れも写したいものばかり。
山清水は岩魚止(徳本峠沿いにある地名)のやうなうまいのは少ない。然し山水の南画のような姿態はずっとこちらが勝ってゐるやうである。(短歌略2首)
湯の川から約一里ぐるりと山をまわって、乗鞍岳、白骨温泉の岐路に来る。本宅温泉にしやうか、新宅温泉にしやうかと考へて……(以下略)

古閑義之「上高地紀行(二)」より(『神経質 昭和6年11月号』所収)

あの、隧道は見ませんでしたか?!


たいそう楽しげに湯川を探る筆致に、思わずそんな声を掛けたくなってしまった。

残念ながら、彼もまた、隧道の話はしてくれなかった。
たぶん、彼が歩いたのが、旧旧道だと思うんだけどね……。
同じ日に釜トンネルも歩いていて、そちらではいろいろと感激を述べていたので、それと比べれば湯川の旧々隧道は取るに足らないものだったのかな…。


最後にするが、白骨温泉はまこと文人墨客に愛された土地であった。
明治26(1893)年、日本近代登山の父といわれることになるウォルター・ウェストンは、平湯から安房峠を越えて白骨温泉を訪れている。
明治42(1909)年、先ほど引用した河東碧梧桐が来骨する。
大正10(1921)年9月、若山牧水が大野川から桧峠を越えて来骨し1ヶ月以上滞在、それから乗鞍岳を越えて平湯へ向かっている。
昭和2(1927)年8月、荻原井泉水が上高地を見たあとに来骨している。
昭和8(1933)年10月、斎藤茂吉の来骨あり。
与謝野晶子も戦前に2度ほど訪れているそうだ。
しかし、白骨温泉にとって最大の影響を与えたのは、大正14(1925)年8月2日に1泊した中里介山であったろう。
彼の不朽の名作となった『大菩薩峠』に白骨温泉を登場させ「五彩けんらんたる絶景」と評したことが、当地の長い繁栄を決定づけた。また副産物的に、それまで白船(ふね)と読まれることの多かった地名が、より印象的な白骨で固定化されたのであった。

彼らが残した文章の中に、もしかしたら、私が知りたい情報が潜んでいるかも知れない。
しかし、それを網羅するには、時間が足りないのである。


こんなにも愛された、こんなにも有名な温泉の膝元に、こんなに知られていない隧道が眠っていたということが一番印象に残った今回の探索であった。
もっと歩き易い時期になったら、旧旧道の痕跡が他にもないか調べてみたいと思っている。


 「旧々隧道」を謳った短歌が発見される  2022/3/12追記

本レポート公開後、大阪市在住の田中氏より、ある文献に関する情報が寄せられた。

昭和11(1936)年に東京のシビル社が発行した『泰山木(たいざんぼく)の花』という短歌集に、旧々隧道を歌った短歌が存在するのではないかというのである。
なお、『泰山木の花』の著者は、木下立安(きのしたりつあん)(1866-1953)という和歌山県の人である。鉄道技術に精通し、道路や鉄道の曲線設計に関する有名な著書があるほか、鉄道時刻表、新聞、書籍などを多数出版した出版人であった。そして歌人「木下蘇子(きのしたそし)」としても活動した。

さて、同書の目次によると、「松木驛より澤渡を經て白骨温泉に到る」と「白骨温泉よリ冷泉小舍を經て肩の小舍に到る」という、白骨温泉に関わる2編が収録されていることが分かる。
件の隧道に関係するとみられる短歌は、このうち前者の内容に含まれており、ズバリ次のような短歌である。

山路(やまみち)
 隧道暗(ずいどうくら)
  敢(あえ)て入(い)
 したたる水(みず)
  したたかに浴(あ)

『泰山木の花』より

この短歌、作品としてどのように評価されるかは私には全く分からないが、オブローダー的には非常に熱い。

残念なことに、この歌がいつ歌われたものであるかははっきりしていない。木下立安が白骨温泉を訪れた日が、現時点では不明である。
しかし、出版が昭和11年であることや、これより前のページに「丹那隧道竣成の頌(しょう)」という内容があることから、丹那隧道が完成した昭和9年よりも後だということが分かる。

旧白骨隧道が昭和15年竣工とはっきりしているので、それよりも前に白骨隧道を訪れて隧道を歌っているのだ。
しかも、この同じ編の3首前の歌が、「新(にい)はり道 石踏まずては あり(歩)きがたし あと一里なり ゆるゆるのぼる」というもので、白骨温泉に通じる(新はり道=新道)を歩いて行く場面の描写となっているのである。

この「あと一里」という表現からしても、これが湯川渡から湯川沿いに温泉へ登る新道(現在の旧旧道と考えられる道)を指している可能性は極めて高く、同時に、「石踏まずては歩きがたし」という表現から、新道でありながらも石の散らばる荒削りな道だったことが窺える。そして、その道に隧道があった!


改めて隧道が登場する歌の内容に戻るが、そこには私が遭遇した旧々隧道(→)の現状と強い合致が見て取れるのではないだろうか。

「したたる水を したたかに浴ぶ」は、あの水浸しの隧道の印象としてこれ以上なく相応しい。
現在と同じように、完成直後から大量の湧水があったのだろう。

さらに気になるのが、「隧道暗し 敢えて入り」という部分だ。
「敢えて」とは、何を意識しているのだろう。
そこを通らなければ先へ進めない隧道であれば、こういう表現をするだろうか。
もしかしたら、当時早くもこの隧道を回避する、例えば谷の中を飛び石伝いで進むような迂回路が存在したのかも知れない。
それでも敢えて隧道に立ち入ったからこそ、この表現になったのかも。
そしてこのような仮定は、昭和6年に編まれた古閑義之の紀行に隧道が登場しなかった理由にも通じる可能性がある。あくまでも仮定であるが…。


とにもかくにも、今回発見されたこの木下立安の短歌は、昭和9〜11年の湯川渡〜白骨温泉間に隧道が存在したことの証拠としては十分な説得力を持っているのではないかと思う。
田中様、ありがとうございました。



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