隧道レポート 旧蒲原町のガード下のトンネル 後編

所在地 静岡県静岡市清水区
探索日 2014.4.18
公開日 2015.5.20

ナニコレ、トンネルっつうか、ループだよね?


2015/4/18 12:43 《現在地》 

最初に下側の坑門を見た時点で、これをループ道路だと気づける人はまずいないだろう。
第二城山隧道という正式名称をもつ、しかし現地には何らその名前を伝えるものが無い長さたった13mのトンネルをくぐった先で、初めてそれと気づくのである。

私は今回、情報提供を受けてここへ来ているので、さすがにループであることを知っていたのだが、それと知らずに近付いていたらと思うと口惜しい。
だがしかし、私が情報提供を受けずにこの場所へ“ありつく”可能性は、極めて低かったとも思う。
なにせ、このループは私が普段利用している地理院地図や市販の道路地図には描かれておらず、せいぜいグーグルマップをはじめとする極めて大縮尺なスケールがある地図で確認出来る程度であるうえ、この部分をそれほどの大縮尺で見る動機付けが思い付かないのである。

これはやっぱり、吉川さんありがとうと言うよりないだろう。



それにしても、コンパクトなループだ。

今までこんなに旋回半径が小さなループを見た憶えが無い。
横須賀市の“のの字橋”もかなり小さいが、それでも内側にミニ公園が入るくらいはあるし、現在は旧道になってしまった七里岩ループもさすがに2車線道路だけあってこれよりは大きい。今まで私が見た最小は神奈川県三浦市の町道にあるものだが、ここはさらに小さいと思うので、私の中では歴代最小ループ道路である。(歩道及び公道ではないものは除く)。

また道路の線形は、ループはループであるが、かなり渦巻きに近い形のループである。
そのことも、旋回半径を非常に小さくしている原因である。

このように、後述する“古さ”を含めて相当に奇抜かつ希少なループ道路であるが、それが何の因果か東名高速の下に隠れている。
(東名の工事がループの成因ではないかと考えたくなる立地だが、そうではないことを確認している。後述する。)
今までマイナーな存在であったのも、ここが市道(元は町道)というマイナーな道路であること以上に、東名の存在によって並み縮尺の地図には描かれなかったことが大きいだろう。



非常に激しく登るループ道路の終盤では、頭上にある東名高速との余裕がなくなり、最後の最後で頭をつかえそうになっている。
トンネル直前のこの風景と見較べれば、ループ道路でどれだけ強引に高度を稼ぎ出しているかがお分かりいただけよう。
ループの効用は確かに活きているのである。(通常のつづら折りでは絶対に実現出来なかったほどかと問われれば、「?」だが)

面白いのは、2.6mの高さ制限の標識が設置されている場所が、高架に付属している管理用の歩廊だということだ。高架自体というよりは、この管理用の歩廊の位置が問題になっている。
もう少し位置を変更してくれれば、2.6mよりはもっと余裕が持てるはずなのに、市町村道如きに天下の高速自動車国道はそこまで譲歩しないのかも知れない(笑)。

なお、ここの2.6mという数字も、微妙に直前のトンネルの2.8m制限より厳しくなっているが、この20cmの差が問題になるようなクルマは、そもそもこの道に入り込まないであろう。



名前も知らない東名高速の橋の下、橋台から橋台までの全部の幅を使って一つのループ道路が収まっている。
カーブも坂も急なので、前後が1車線の割に道幅だけは余裕を持たされているが、それでもキツキツの立地であることが良く感じられる。
東名高速の建設が決まったときに、この古いループ道路を取り壊すことなど平然と出来そうだったのに、良く耐えたと思う。
もし知っている人がいたら、その頃の経緯を伺ってみたいものだ。




路肩から見下ろす蒲原の街並みと海。
下に直前の道が見えるので、ループの落差が分かると思う。

本当に狭い海岸沿いの平地に家屋が密集している。ここにループ道路を作ったのも、街を圧迫する背後の山をスマートに上り下りしたいという抑圧への反発心が原動力か。などと根拠の無いことを考えたが、良く地形を観察すると、このループは小さな谷の中に収められていることが分かる(だから東名高速は橋で越える)。これは今日の全国に見られる多くのループ道路と同様の立地である。ループ道路の利点は、谷の両側の斜面を効率的に利用しながら高度を稼げる点にあるのだから。
(この規模ではそんな利点より、トンネルを作る手間の方が多そうだと思ったのはナイショだが)




2.6m制限の圧迫感を如実に感じながら、ループの出口へと上り詰めると、

その先にはもう1本の東名高速(上り線)が待ち受けていた。

そしてその先には、“アレ”の気配が。



振り返るループの姿は、藪の濃さを少しだけ想像力で補えば、

まさしく、螺旋の穴に落ちゆくような厳しさを感じさせる。

これは、背後に霞み見える市街地との高低差を、どんな手段を使ってもクリアしたいという意志を感じる眺めであり、

この時点で私も感じるものがあった。この小さなループは、伊達や酔狂(=遊覧目的)ではなさそうだと。

そしてもっと好きになる。




とても真面目な古トンネル、第一城山隧道。


2015/4/18 12:45 《現在地》

ループを上がってすぐに、前のと同じくらい小さな断面の、しかし今度は至って真面目に山を貫くトンネルが現れた。

こいつは地形図にも描かれているので存在は知っていたし、それがかなり古そうだということも外見から即座に分かったが、まさかループを構成するトンネルと同じ時代のものだとは全く思わなかった。それを知ったのは帰宅後の机上調査である。

なお、坑門の写真からは誰もそういう印象を持たないと思うが、ここは喧騒の坩堝である。
チェンジ後の画像は、坑口前でそのまま振り返ったもの。
ここには東名高速の上下線からひっきりなしに放たれる自動車の走行音が、地形の関係からか集約しているような印象であり、オブローディングに没頭しづらい環境だ。
こいつは、外見では分からない不遇さを持った古トンネルである。



耳を爆音に侵されながらも、この重要な遺物を見逃す事は出来ない。
上の写真の矢印のところに、平然と、あるいは忽然と置かれていたモニュメント。そしてそこに刻まれた、堂々たる右書きの隧道名である。

“ 第一城山隧道 ”

先ほどのループトンネルが、まさかこいつの“第二”なのか?
確かにそう考えた時期が私にもありましたが、俄には信じられなかったので、その確信は机上調査までお預けとなった。

それはそうと、このモニュメントの正体は、見るからに本物の扁額だ。目の前の坑門から取り外されたものが、処分されずに、かといって元に戻されもせず、ここに置かれているのか。

また、この扁額の隧道名の脇には、かなり小さな文字で、「静岡縣知事鵜澤 憲」と彫られている。鵜澤憲という人物の名前を私は初めて目にしたが、彼は24代の静岡県知事(官選)を昭和6(1931)年の5月から12月までの短期間務めている。

ループの先に、県知事の名前が彫られた扁額……??? う〜む、この道の素性がよくわからない。



今度は、ガード下と同じく2.6mの高さ制限が設けられている。
こんな短区間で2.8mと2.6mの使い分けに意味があるとも思えないが、別に統一しなければならない道理もないので、気にした方が負けだろう。

第一城山隧道の坑門は、かつて扁額が収められていたであろう上部が、新しいコンクリートで打ち直されているのを除けば、おそらく竣工当初の外見を良くとどめているものと思われる。
目立った意匠があるわけではないが、煉瓦に近いサイズでカットされた小ぶりなコンクリートブロックを、二重にしてアーチ部分の巻き立てに使用しているから、材質的にはコンクリートブロック・トンネルである。
昭和6年の県知事の名前が扁額に刻まれたトンネルに相応しい素材と言える。

以下は、資料により判明したこのトンネルのスペックである。

第一城山隧道 竣工 昭和9(1934)年、全長 59m、幅 3.1m、高さ 3.1m  「平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)」より



第一、第二でこれほど様相が異なるトンネルも珍しいと思う。
跳ねっ返りの妹と、落ち着いた姉といったイメージ?

それはともかく、第一隧道は直線であり、勾配も僅かに上っている程度だから、今さらこのくらいの狭隘トンネルには驚かない私にとっては、常識的な通行の対象に過ぎない。
中ほどまで進むと地上の喧騒も急激に遠くなり、ぽつんぽつんと点灯する古ぼけた白い照明によって陰影の強調されたコンクリートブロックの壁面に、幾何学的な美しさを感じ取ることが出来た。
この手の古い狭隘トンネルでしばしば見かける天井や壁面の傷跡(無理に大きなクルマが通ろうとして付けた接触痕)も見あたらず、長い年月を比較的静かに(後半生の騒音は気の毒だが)過ごしてきたことが伺える。
幹線道路として使われていたわけでは、どうやら無さそうである。



わずか60mほどの隧道が貫く山を挟んだだけで、全く別の場所に来たかのように感じるのは、あのもの凄い高速道路の音が、意識しなければ聞けないくらいに小さくなったからだろう。

そんな第一隧道の北口には、果たして南口に横たえられていたあの荘厳なモニュメントが、しっかりとその玉座に収まって私を見下ろしていた。

やはり扁額はこの位置にあってこその威厳であると、それは確かにそうなのだが、悲しいかな、今度は坑門の下半分が旧態をとどめていないのである。
南口や洞内の壁に見られたコンクリートブロックのアーチが見えず、見るからに扁額がある上半分とは毛色が違っていた。
跳ねっ返りの妹と、落ち着いた姉のイメージを無理矢理ここでも使うならば、実は姉は正体はフランケンシュタインの怪物で… などというのはあんまりなので、多少不格好になっても改築を受け入れて頑張る老隧道を素直に応援したい。



12:48 《現在地》

東海道から脇道へ折れて、ループとトンネルなどイベント盛りだくさんの道を進むことおおよそ450mで、突然広い道と突き当たった。

この道は、私が辿ってきた道と目的を同じくする道であり、その新道と呼べる存在だ。
蒲原の中心市街地と、その裏山の高台上に存在する善福寺いうお寺を中心とした善福寺集落を結ぶ道である。
かつてそこは袋小路の集落だったが、現在はその先に広域農道が延びて旧富士川町方面(富士市)へ通じているから、そこそこ交通量もある。

私が辿ってきた古き道の役割も、ここまでであった。



一応、正面の配水場と現在の道の間に旧道よろしく残っているものの、車止めで封鎖されており、めげずに進んでも、ほんの100mほどで写真の通り、現道によって進路を奪われ、完全に行き場を失って消えてしまった。

この先を私は辿っていないが、善福寺集落まで残り700mほどの区間も概ね失われているようだ。


今回の現地探索は、これにて終了。
この後は、帰宅後の机上調査の成果をお伝えする。



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机上調査編: 古きループ道路の正体は?


日本有数の交通の要衝とも言うべき東海道は蒲原の狭い土地で、文字通りの意味で「隠され」ながらも、しっかりと現代を生き残っていた小さなループ道路や、それを構成する2本のトンネルたち。

その姿にはもちろんのこと、素性にも大いに興味を惹かれた私は、(簡単にではあるが)資料にあたって、由緒を探ってみた。
まだ分かっていないことも多いが、現在までに判明した内容をまとめておこう。




まずは、レポートの中でも紹介した第一・第二城山隧道のデータの出所についてだが、当サイトでもお馴染みの「平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)」に前掲のデータとともに掲載されていたのである。
この資料は平成16年度時点の国道、都道府県道、市町村道のトンネルのデータリストであり、そこに記載されている時点で、当時2本のトンネルが蒲原町道(この資料の作成当時はまだ蒲原町だった)に所属していたことが確認出来た(現在は静岡市道であろう)。

データの内容で一番驚いたのは、第二城山隧道という名称で、現地では単にループ道路を構成するための立体交差という風にしか見ていなかったものに、ちゃんと隧道としての命名がなされていたことであった。
そしてそれと同じくらい驚いたのが、その竣工年の古さであった。
2本の隧道とも、昭和9年竣工と記されていたのである。


ところで、私は現地探索中にこうも疑っていた。

「ループ道路が出来たのは、東名高速の建設工事の結果なのではないか。
 もともとは、普通のつづら折りで高度を稼ぐ道だったのではないか」 と。

だがこの疑惑は、東名高速が建設される以前の航空写真、例えば右に掲載した昭和36年版のそれを見ることで簡単に解消することが出来た。

見て分かるとおり、そこにはちゃんと小さなループを描く道が映り込んでいたのである。
東名高速が開通する前後で、この道のルートは特に変化していないようであった。

これで、昭和初期の開通当初からここにはループトンネルが作られていたことが、ほぼ確かめられたと言える。
残された謎は、扁額に県知事の名前が刻まれた隧道を持つ道が、当時、どのような経緯で建設されたのかである。
高度を稼ぎ出すのにループトンネルという当時はもちろん、今日でも珍しいセレクトをした理由も、分かるかも知れない。





「蒲原町史 第三巻」に、この道の由緒に関する重要な記述を発見した。次の通りである。

この道路の始まりは、昭和六年に開始された地元森林組合による善福寺林道(約一三八〇メートル)であり、その後、善福寺地区周辺と山間地の開発を背景に、一部ルートの変更や第一浄水場までの延長が行われ、林道から町道へ切り替えられている。

この記事自体は、町道善福寺線が平成元年から13年にかけて国の補助事業で改良されたことを紹介したもので、その改良後の道路が本編の最後に登場した立派な2車線道路だった。したがって今回探索した道は、蒲原町道善福寺線(現在の名称は静岡市道善福寺線?)の旧道というのが正しいようである。

「蒲原町史 第二巻」掲載の平成7年末時点における蒲原町道のリストにも町道善福寺線は記載されている。
当時の全長は2011mで、幅員は一番広い場所が19.2m、狭い場所が2.9mとなっていることからして、全線開通前の新道と今回探索した旧道を混ぜたデータのようだが、ともかく当時の路線名については確認出来た。

引用した文章の中身に話を戻す。
それによると、昭和6(1931)年に地元の森林組合が建設をスタートした善福寺林道という道が、町道善福寺線の始まりであったそうだ。
残念ながらそれ以上の情報は記載が無く、ループやトンネルについても全く触れられていないのだが、昭和6年に任期を限る県知事の名前が扁額に刻まれていたことから見て、少なくとも第一隧道については昭和9年ではなく、昭和6年には完成していた可能性が高いと思われる。その後、ループ部分の道も作られ、昭和9年頃に全線が開通したのではないだろうか。
時期的には時局匡救土木事業が全国で盛んに行われていた頃にあたり、林産物搬出のための林道を作ると同時に、失業者対策としての土木工事であった可能性が高い。(さすがにその目的で、わざわざ手間のかかりそうなループ道路にしたとは、思わないが)

これは私が考えているだけで裏の取れた話しではないが、この道に沿って蒲原町の水道施設が存在する(浄水場や配水場がある)ことと、ループ道路が関係する可能性を疑っている。
たとえば、水道施設の建設にはたぶん鉄管なんかも使うだろう。それも膨大に。そんな長尺物を運ぶのに、つづら折りの坂道は具合が悪いのではないか。ループの方が良かろうと思う。 (現在、この方面についても調査中である)
他にも、城山という名前の通り周辺は蒲原城跡であり、ハイキングコースなども設定されている風光の土地なので、観光道路として幾らかお洒落にループ道路を作った可能性も考えているが、乗合自動車が通り難そうな小ささなので、これはどうかな。

なお余談だが、ループする道路の歴史は本邦に限っても意外に古く、愛媛県の夜昼峠にある千賀居隧道は、明治38年に完成した煉瓦造りのループトンネル(トンネル自体は直線の短いものだがループ道路の一部を構成する)として知られている。
第二城山隧道と同年代のものとしては、三重県の矢ノ川峠にも昭和9年にループ道路を構成するトンネルが開通している。
もっとも、千賀居隧道も矢ノ川峠の隧道もちゃんと土被りがあり、その上を道路が通っているので、外見的にはちゃんと「トンネルらしい」のだが、城山第二隧道ときたら、本当に上には道路しかないので、隧道と呼ぶ事を素直には受け入れがたいものがある(笑)。





このほか、歴代地形図なども見て見たが、5万分の1の縮尺ではループ道路はおろか第一隧道でさえ描かれていない有り様なので、役立たなかった。

そんな具合でして、今のところはループ道路をここに建設した理由について、はっきりした事は分かっていない。
そもそも、道路の線形の決定に「これしかない」というような解答は無いので、単に当時の設計者の検討の結果ということ以外に何も答えがないのかもしれない。
ループ道路としては非常に規模が小さく(それが逆に珍しいが)、構造物としては極めて短い隧道を1本作っただけであるから、長く語りつぐような難工事ではなかったとも思うが…。


こんな風に誕生の経緯に謎を残すミニループトンネルは、今日も今日とて、東名高速の下で爆音のシャワーを浴びている。



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