隧道レポート 太郎丸隧道(仮称) 第二次探索 後編

所在地 新潟県長岡市
探索日 2021.11.18
公開日 2022.01.11

 ”じゅうぜんの穴” その内部へ


それではお待ちかねの洞内探索だが、最後の坑口前観察を。
最大の印象は、スケールの小ささにある。
しかも、大きな坑口が崩落で小さくなってしまったというよりは、もともと凄く小さな坑口が、崩落でますます小さくなってしまった感じだ。

荒々しく派手に崩れている感じではなく、落葉に覆われた土と、そこに根付いた草や木によって、百年以上前に穿たれた大地の小さな傷が、静かに癒されようとしている。
この大きさといい、土の匂いといい、まさしくケモノの巣穴のようだ……。

とはいえ、この穴の小ささは、事前情報の通りでもあった。
H氏の情報に、「じゅうぜんの穴はおおよそ長さ約22間、高さ約7尺、幅5尺程度だったと云われる」と書いてあった。
すなわち、長さ約40m、高さ約2.1m、幅約1.5mということになる。

“じゅうぜんの穴” 入洞!




奥行きがある!not ケモノ穴。

開口部は本来の洞床よりも高い位置にあり、崩れた土砂の斜面が、開口部からは見通せない洞床まで下っている。
この部分は狭く、人が立ったまま入ることは出来ない。地面に腰掛け、尻セードの動きで足から洞内へ進入した。
このとき、強烈な土の香りが鼻を突いた。この籠もった匂いは、明らかに通風のないことを物語っていた。
H氏が昭和36年頃に入り込んだ時にも、内部に大きな落盤があって通り抜けられなかったとのこと。
やはり、貫通は望み薄なのだろうが、それでも入洞可能を確かめられたことは、大きな収穫だ。




写真は、足が洞内の平らな地面に着いたところで、振り返って撮影した。

手を伸ばしただけでは届かないが、まだ遠くないところに外はある。
穴は上向きだから、地面が見えず、空が見える。
地表に生えた平凡な植物を透かした空だ。
……なんだか、生き埋めにされる人が最後に見る風景みたいだなと、あまり面白くないことを連想してしまった。

そして、この次の写真ではいよいよ、開口部からは見通せなかった洞奥部とのご対面となるわけだが……。
思わず、この“振り返り画像”をクッション的な意味で入れたくなる状況だったといえば、私の心情の一端が伝わるだろうか。

まあ、これを見て欲しい…↓




これはいったいどういうことなんだ…。

異常に天井が低い!

…………。

ハッ!! まさか。
いや、そのまさかなのか。
H氏の情報に、気になる一節があった。
利用者は関係者多数の品沢隧道が圧倒的に多く、じゅうぜんの穴は本人(小林由太郎氏)のほか少数だった。」
これはまさか、小林家は伝説の小人族の末裔であり、それ故に、彼らだけがこのサイズの隧道を常用できたということなのか…?!

面白くない冗談はさておき、この状況には正直、強烈に嫌なものを感じた。辟易した。だって、四つん這いにならないと進めないほど天井が低いのである。

入口を見て、“ケモノの巣穴のようだ”とは評したが、まさか洞内でもケモノムーブを強要されるとは…!
しかも、やっぱり出口らしい光は全く見えないし……、そのうえ微妙に下り坂で、余計に気色が悪い。
よく見るまでもなく、洞床の柔らかな土の上には、ガチでケモノの足跡らしき穴が無数に付いているし………。
もしもこの状況で、眠りを妨げられてご立腹のBearが奥から迫ってきたら、私はどうしたらいい?

四つ足での前進を、開始します…。



洞内が狭すぎて、ヘッドライト一つで照明は十分に事足りた。
圧迫感が、もの凄い。これ以上狭くなって苦しむ前に、早く方向転換をして帰りたいよ…。
もう閉塞壁が、見たいです。

案の定、ケモノの糞が洞床には散乱していた(内容物が植物の種が多く、ハクビシンとかアナグマだろうか)。それを可能な限り避けながら匍匐するのだが、天井のカマドウマを避けるところまで意識を向ける余裕はない。ぴょんぴょんしないで鎮まっていてくれよと祈るばかり。首筋にだけは入り込まないでね。なおコウモリは皆無。飛行するのには狭すぎるんだろう。

明治の隧道が2本、同じ山に併存していた。
まるで同年代の姉妹のような2本だが、廃止後に自然消失へ向かうプロセスは、まるで逆方向のようだ。

便利を求め少し大きな断面とした“旧隧道”は、四周の壁の崩落が加速度的に進行し、現役時代には毎年の排土作業を必須にしたうえ、廃止から時を経た現在では洞内に巨大な竪穴ホールを自然生成。それが地表にまで貫通しそうになっていた。まさしく崩落の殿堂と化していた。もちろん、閉塞済。

一方で、この“じゅうぜんの穴”は、ボヨだしに活用するには限界ギリギリと思える小断面であり、その末路は、旧隧道のような拡大的かつ自壊的な崩壊には向かっていない。おそらく外部から雨水と一緒に少量ずつ持ち込まれた土や砂によって洞床が次第に埋没し、相対的に天井が異常に低くなるという、縮小的かつ埋没的な崩壊へと向かっていた。 そしてこちらもおそらく、閉塞済……。

先ほどの開口部に対して私が持った感想……「大地の小さな傷が、静かに癒されようとしている」……ということが、洞内にも起こっていたのだ。
今はまだ辛うじて四つん這いで進める高さがあるが、数十年後には、天井のスレスレまで土砂が堆積してしまうかもしれない。
こんなに断面が小さいと、地圧的にはとても安定していて、崩壊する余地はあまりないだろう。

あまり恵まれない地質に大小の素掘り隧道を放置した際の末路は、拡大と縮小に寄っていく。そんなことが実験的に確かめられる状況であった。




うっ…!

水没してるやん…。

閉塞っぽい隧道が、洞奥に向って下り坂だったので、不穏な空気はあったのだが…、
洞口付近に水の流入する気配がなかったので、ちょっと予想外の展開……。

こ れ は … … …




嫌すぎる水没だ。

それほど深いわけでないが、立ち上がって進めない洞内でこれは、辛い。
特に、水没が始まっている地点は、断面がそれまでよりも一回りほど狭くなっていて、
どうしても四つん這いの状態で水面に全身を浸かって進む以外に方法がない状況。

肉体的には不可能な行動ではないのだが、首から下げた一眼レフカメラや、
腰に着けた大量の予備バッテリーやサブカメラ類を入れたポシェットなど、
水没が苦手な装備品が、全て水に浸かるリスクがある。
(あと、水中にたくさんの水没した糞が見えるのも萎えた…)

一応、ウェストバッグ内の道具は、ジップロックに入れる程度の防水処置はしているが、
そこまでして前進する見返りがあるかを、考えると……



見返りはない。

……という結論にならざるを得ないだろう。

目測でおおよそ15m先に、天井まで積み上がった土砂の壁を視認した。

天井部分は見えないが、落盤によって完全に閉塞しているものと判断する。

水面の反射で水深が分かりづらくなっているが、最大でも45cmくらいではないかと思う。

もしも、この閉塞壁を目視できなければ、荷物を減らして突入しただろうな……。




全天球カメラによる画像がこちら。

この1枚で、“じゅうぜんの穴”の立ち入り可能範囲が全て写っている。
私はどうにか中腰姿勢でカメラを構えているが、この先にさらに天井の低い部分が見えると思う。
水没との組み合わせは、はっきり言って最悪だ。

西口の開口部から私が到達した地点までは約10m、
そこから目測で15mの水没領域があり、落盤閉塞壁に達している。
すなわち、西側からの残存洞内延長は25m程度とみられ、
事前情報にあった全長約40mには足りない。
これは、昭和36年頃にH氏が目撃した閉塞壁そのものかもしれない。



結局のところ、現存する洞内には、本来の天井の高さを保存している部分は全くなかった。
理由は洞床を埋め尽くしている大量の土砂の存在で、表面にある水流の痕跡や、傾斜を見る限り、西口がこの土砂の供給源とみられた。
おそらく最近ではないように思うが、西口を巻き込む大きな土砂崩れが発生し、既に閉塞していた洞内へと大量の土砂が流入してしまった。閉塞隧道だから当然土砂が排出される機会はなく、今日に至ったものと思われる。

天井や側壁は、供用当時とあまり変化していないように思う。すなわち、幅1.5mの人道スペックだ。
全体的に粘土質で堅くないから表面が風化し、ノミやツルハシの痕は見られなかった。
この土砂の流入さえなければ、閉塞壁まではよく原形を留めた状態にあったのかもしれない。

西口からの洞内探索終了、地上へ戻る。
穴の内部を知ったことで、この穴が今日まで残っていたことの希少性が、より実感を持って理解された。
きっかけとなったH氏からの情報提供を含めて、やはり奇跡のような出来事に巡り逢ったのだと思った。いわゆるひとつの、僥倖。




 奇跡よもう一度! 東口の捜索を開始する


15:30 《現在地》

“じゅうぜんの穴”の東口を捜索するにあたって、最大のヒントは既に発見した西口の位置である。
さらに、全長が約22間(約40m)であったというH氏の情報も、参考になる。
話はいたってシンプルである。
再び“切り通し”を越えて、東側の斜面を捜索すれば良い。
西口は切り通しから15mほど下に口を開けていたから、東口も同じくらいの高さにあるだろう。

だが、この捜索が一筋縄で行かないことは、最初に切り通しに着いた際に見下ろした東側斜面の地形と藪の濃さから、容易に想像できた。
この写真は、再び辿り着いた切り通しから見下ろした東斜面だ。
既に述べたとおり、切り通しを出た途端に、あるべき古道の道形は消えており……、斜面全体が大きな地すべり地形であることを疑わせた。



私は、この東斜面を慎重に下りながら、東口の捜索を始めた。

全体的に灌木が密生しており、手掛かり足掛かりには事欠かないが、落葉が堆積した急斜面は滑りやすく、横方向に移動することは非常に難儀であった。
切り通しの位置を起点に、地中に眠る“じゅうぜんの穴”の位置や方向を、脳内で立体的にイメージしながら、道なき斜面を動き回った。
まさしくそれは、捜索という言葉の原点に立ち返ったムーブであった。

最も重視すべきことは、高さである。
西口は切り通しから15mほど下にあった。ならば東口も同程度に高さにあるべきだ。差があっても10m以内である。
そういう考えから、切り通しから最初の数メートルは意識を低く、そこから次第に意識を深めながら“濃い”高さへ入っていった。

10mくらい下った時点で成果はなし。
そして、下るにつれて斜面は扇状に拡散し、捜索すべき等高線の長さは増えた。
前述の通り横移動が難しいため、私に汗をかかせた。



最も期待が持てる、切り通しから15m近い高さの領域に入ると、目を覆いたくなる惨状だった。

惨状とはいかにも大袈裟な表現をしたが、地面に存在する最大でも1.5m四方ほどの穴を見つけたいと思う捜索者にとって、人の背より丈のある密生したススキの藪が、どれほど大きな障害であるかを想像して欲しい。
私は、絶望の二文字を突きつけられる思いがした。

せめて古道の形跡があれば、そこを足掛かりに捜索する気持ちになっただろうが、この斜面は植物の密度だけは濃いものの、私にとっては張り合いのない空虚な空間だった。




切り通しから15mくらいの高さから下は、とにかく尋常ではない草藪だった。
灌木でさえ育つことが難しい、圧倒的“草”の密生だ。
草のくせに、背丈がある。

私は早々に、探索の第一対象を切り替えた。
ピンポイントに坑口を見つけることは断念し、東口に通じていただろう東側“じゅうぜんの道”の痕跡を見出すことを優先した。

だがその方針転換も、「私には二の矢がある」というような思考の結果ではなく、藪による圧倒的数の暴力の前に、一番欲しいものから無理矢理に目を背けさせられただけのことであった。
もはや、横方向に移動しながらピンポイントに穴を探すというローラー作戦は破綻していた。私は逃げ腰となり、重力の助けを頼って下り始めたのだ。
そのことに、“じゅうぜんの道”を探しているという言い訳を与えただけであった。




そもそもの話。

この斜面に隧道は残っていないのではないか。

先に捜索に成功した西口とは明らかに地形の様相が異なっていた。
この東側は、斜面全体が一つの大きな曲線の中にあった。
その曲線は、スプーンで抉ったようなと表現すべき形をした、
典型的な地すべり跡の地形であった。

いま私が立っている場所が、もしかしたら坑口跡なのかも知れないとは思った。
だが根拠は、単に周囲よりも少し植生が薄いことと、大きめに凹んでいるという2点だけ。
加えて、既に発見した西口との位置関係にも矛盾がないことか。

全然穴は空いていないので、確信は持てない。




15:41 《現在地》

もう、期待度の“濃い”高さは、過ぎてしまった。

これは切り通しから高さにして約30m下った位置から、今降りてきた斜面を振り返って仰いで撮った。

穴も、道形も、何も、見つけられない。


西口が、このような位置(→)にあったことを思えば、

もう完全に下りすぎていると分かるが、

引き返して斜面内を探し回ることには、期待が持てなかった。

残っていそうだけども藪が濃いから見つけにくいというのではないのだ。

地すべりのために消滅して、残っていないと思った。

地形を変えるほどの地すべりの中で痕跡を残すには、あまりにも小さすぎたと思う。

9年前に捜索した旧隧道の東口も、同じような地形に呑まれていた…。



切り通しから30mほど下ったが、外沢の底はまだ結構遠くに見える。
この先は次第に緩傾斜になり、見るからに隧道があるような地形ではない。
谷底まではあと60mほども落差があり、そこを直接下って行く道も残っていない。

この外沢は、“じゅうぜんの穴”をはじめとする3本の隧道がこぞって目指していた、文字通り太郎丸集落の“外”にある沢だが、生業の面では明らかに“内”の存在だった。
はじめは薪の採取地としてこの辺りの山が活用され、やがて谷底にまで耕地が開かれて新隧道は耕耘機も通行するように作られた。
現在は3本の隧道とも使われていないが、耕作は部分的に続けられているようで、綺麗に刈り払われた水田が見えた。




明治44年の地形図を見ると、“じゅうぜんの穴”を東に抜けた道は、そのまま外沢の対岸まで真っ直ぐに描かれていた。
つまり、今足元に見ているこの谷を真っ直ぐ突っ切っていたということになるが、道形は全然見えない。また、隧道の位置が正確ではないこの地図が、どこまで正確に道を表現していたかも不明だ。

昭和41年の地形図には新隧道と、新隧道から外沢の左岸斜面を南下していく新道が描かれているが、これとは別に外沢へ降りていく道も存在する。
この道もまた眼下を通行していたはずだが、やはり見当らない。藪に完全に覆われて隠されているのだろうか。



そもそも、先ほどの写真のこの位置(←)に、9年前に自転車と一緒に辿った新道が存在しているのだが、まるで見えなくなっていることに恐怖した。

言いたくはないが、東口の捜索は失敗だ。
いや、即座に前言撤回する。捜索は、“ほぼ成功”だ。
現存しないことを、ほぼ確かめたのだから。
現存しないことを完全に確かめろというのは悪魔の証明になる。私の考えでは、現存しないと結論を得たので、東口の捜索はこれで終える。
仮に、藪がない地表を見られたとしても、結論は変らないだろう。

なのでこれから帰還するが、この帰還の道となるのが、9年ぶりとなる新隧道だ。
これが依然として貫通していることは、先ほど【一瞥のうちに光を確認済】だ。
その光を通していた東口が、このすぐ傍にあるはずなのだ。



15:42 《現在地》

ここが道路です…。

【9年前も藪道】で私と相棒(自転車)を苦しめたが、おそらく完全放置の9年間は、ますます道の性根をゆがめ、荊棘を深くさせた模様。
とてもじゃないが、自転車を押したり担いだりして通り抜けることは出来なくなっている。歩くのでもいやだ。

地形的にも私の記憶としても、新隧道東口は、ここから振り返ったところにあるはずだが……。




この画像に新隧道東口が写り込んでいるが、撮影者は気付いていなかった。

こうして見返しても、なかなか気付けないと思う。

写真の左下の辺り……。




おわかりいただけただろうか?

……わかった?

あるはずだと確信していて、かつ9年前に一度訪れているにも拘わらず、こんなに見つけづらいのである。

したがって、正確な位置が分からない“じゅうぜんの穴”の東口をこの広い藪の斜面の一点から見出すことは、仮に土砂崩れで消失していなかったとしても難しいに違いない。隧道に通じる道形を見出すことが第一手だろうが、まずそこが果たせなかった。全く道が残っていないというのも普通に考えれば不自然なのだが、斜面全体が流動してしまって、細かな起伏が失われたのだとすれば納得がいく。



あった。

新隧道こと、品沢隧道の東口。

9年前に訪れた時は、土砂崩れに巻き込まれてまだ時間が余り経っていないような荒れた地表の雰囲気があったが、今回は非常に緑が濃かった。
もう一度大きな崩落があったら完全に埋れてしまいかねないという当時の懸念はどうにか回避しているが、鬱蒼とした緑の海にほぼ呑み込まれている。
新たな崩壊も起きているようで、9年前にはなかった樹木が坑口脇に生えていた。

現状は、太郎丸の人々がかつて手塩を懸けて守った隧道の証しである、昭和50年代に増設されたコルゲートパイプのおかげで、辛うじて閉塞を免れている感があった。

そして、肝心の洞内はといえば……



健在。

水位が少し下がっていて、むしろ通りやすくなっていた。



オマケとして、この隧道を東口から西口へ抜ける約2分間の歩行の模様を
動画で撮影してみたので、どうぞご覧ください。

この一度目にしたら忘れがたい姿の隧道には、
まるで父と母のような2本の明治隧道が存在していた。
そのことを知ってから通り抜けるのは初めてで、新たな感慨があった。

自ら汗をかいて作り出した隧道を、末永く慈しむ。
そんな太郎丸住人の愛情に包まれ、“子”の隧道、今なお健在である。




15:52 《現在地》

隧道を抜け、相棒を拾い、黄昏れの道を走り下った。

太郎丸集落に到達し、探索を終了。




“じゅうぜんの穴”は、確かに実在した。その規模は、H氏の情報の通りだった。

オブローダーの常識を越えたところに、隠れた真実があった!

H氏およびN氏、および太郎丸の関係者皆様に、感謝します。


 【最終補記】 レポート後にH氏との文通により得た追加情報について


このレポートを公開後、またしても感激する出来事があった。
レポートの完結日は2021年12月2日であったが、それから1週間も経たない同月8日に、私に1通の手紙が届いた。メールではなく手紙が。
差出人のお名前は、忘れるはずもない……、本編における再訪探索のきっかけとなる情報をくださった、太郎丸在住H氏からの手紙だった。
こんな書き出しで――。


この度は遠路はるばる太郎丸への再遠征、そして「じゅうぜんの穴」の実在を全国に発信していただき、感謝しております。  ありがとうございました。

これは嬉しい!!!
なんと光栄なことだろう。もうレポートを読んで頂いたうえに、直接に感想を貰えるとは。
こんなに嬉しいことは、そうそうあるものではない。

私としても、もちろんこの熱量には応えたい。そう思い、すぐに返信の手紙を書いて、その日の終わらぬうちに投函した。
そしてまた、1週間も経たないうちにお返事を頂いた。
こういう形で、私は図らずもレポートの完結後に、H氏と数度の文通を行った。

私が即座に返信したのは、お礼を言って貰えて嬉しかったからだけではない。むしろお礼を言うべきは私だ。
実は、H氏が下さった手紙には、私のレポートを読んだうえでの“新情報”が含まれていた。
それは恐ろしく中身の濃い手紙であった。

【最終補記】と題した今回の追記では、H氏との数回の文通でもたらされた新情報を紹介するものである。
再訪においても謎が残った点(たとえば埋没したとみられる「じゅうぜんの穴」の東口の位置や、その顛末)に関する新証言や、私がずっと勘違いしたままレポートを書いていた事柄に対する修正を含む、とても重要な内容である。
ぜひ、長大となった本シリーズの総仕上げとして、読んで頂きたい。




【新情報 その1】  新旧の隧道の正しい名称について

まずは、過去のレポートの修正点だ。

再訪前にいただいたH氏からの情報提供について、私が誤って解釈した箇所があった。
それは、現地に存在している3本の隧道のうちいわゆる「新隧道」である昭和34年生まれのトンネルと、「旧隧道」である明治25年完成の隧道をそれぞれ、H氏や集落の人々がどのように呼称しているかという名称の問題である。

私は、これらの隧道の正式名は、どちらも「品沢隧道」であると解釈して、その区別のために、H氏が旧隧道を「旧品沢隧道」と書かれたのだと考えていたが、H氏の意図としては、既に使われていない隧道という意味で旧を付けただけであり、集落では旧隧道のみを単に「品沢隧道」と呼称して、新隧道については「こむしご隧道」と呼んでいることを教えて下さった。

建設者であり維持者でもある地元の方々の呼称を重視したい立場から、以後はこれらの隧道の呼称を右図のように改めたい。

なお、再訪の本題となった「じゅうぜんの穴」については、集落でもこの名前を使って呼んでいるようだが、立地に照らせば「旧こむしご隧道」というのが相応しいだろう。



【新情報 その2】  H氏が目撃した「じゅうぜんの穴」の状況について

今回の再訪探索で発見した「じゅうぜんの穴」西口の内部状況

さて、おそらくここからが、多くの皆様もぜひ知りたいと感じていた内容だと思うのだが、今回の再訪探索によって確認できた「じゅうぜんの穴」の過去の姿についての新情報をお伝えしたい。
それも伝聞ではなく、H氏自らの体験談である。
ちなみに再訪前のH氏の情報提供では、「私は昭和23年生まれです。中学1年頃入りましたが中ほどで落盤していて通れなかった」と書かれており、私はここから計算して、昭和36年頃には中ほどで落盤していて通れなかったのだと判断したが、このことのより詳細な情報である。

中学1年時は中ほどで崩土が当時の私の背丈の1.5m程度、東口に0.5m程度あり他に崩落はなく、天井、壁、床もきれいな状態で東口も見通せました。
最後に入ったのは昭和47年の簡易水道水源調査のついでに「面白い隧道があるよ」と職場の同僚2人を同行しました。中ほどの崩土はかわりなく、そこまで行きました。東口は上の1/2位が開口していました。西口や内部も変わりなく、品沢隧道よりは格段に地質に恵まれていると思いました。

上記証言の通り、昭和23年生まれのH氏は中学1年(昭和36年頃)のときだけでなく、昭和47年(24歳頃?)にも「じゅうぜんの穴」を訪れていて、しかもそのどちらでも、現存する西口はもちろん、今回の再訪でも発見できなかった「東口」についても、開口を確認されていた!

私は再訪の結果も踏まえててっきり、“昭和36年当時既に落盤していて通れなかった=当時既に東口は埋没済”と思っていたが、そうではなかったのである。
また、昭和47年当時までは、中央付近に(おそらく現状の閉塞地点である)大きな落盤があった以外全体的に洞内の保存状況は良くて、現在のように立って歩けないほどの大量の土砂が西口から流入していることもなかったようだ。

(それにしても、「面白い隧道があるよ」と言って会社の同僚2人を誘い廃隧道を見にいくあたり、H氏は “こちらの世界の偉大な先輩” であることが明らかだ。これについては、ご本人の弁がまだあるのでお楽しみに…ニッコリ)


この新証言を得ると俄然気になるのが、私が激藪の中で見つけることの出来なかった東口は、果たして本当に存在していないのかどうかという点だ。
H氏が訪れるたび、東口は埋没が少しずつ進んでいたことが窺えるので、現存していないとしても不思議ではないだろうが、アノ激藪の中で、小さな開口だったなら、私が見逃してしまった可能性もあるだろう。
事と次第によっては再再訪を必要とする重要な部分であるが、文通の結果、東口についても証言を得られた――


【新情報 その3】  行方不明である「じゅうぜんの穴」の東口について

「じゅうぜんの穴」の東口については平沼さん(←ヨッキれんの本名です)の推測した場所で間違いありません(3mくらい埋没?と思います)。
品沢隧道よりは地質が良いため、穴は入り口、床、壁も長い年月を経ても、崩落は進まずほぼ元のままでしたが、中越地震による大崩落で現在のような形状になってしまいました。
17年前の平成16年10月23日夕方、町で20分間に震度6強、震度6、震度6強と3回も大揺れした中越地震により山(特に東側)は一瞬で大崩落し、形状が一変したものと思います。

隧道はおろか、道形と言えるものを何一つ見出すことが出来なかった東口の斜面は、中越地震によって一瞬で形を変えてしまったのである。高さ2mにも満たない東口が残らなかったのは、無理もなかった。残念ながら、「現存しない」がファイナル・アンサーである。


「じゅうぜんの穴」、失われた東口の跡地はここだった

そのうえで、埋没した東口の跡地は、私がレポート内で辛うじて怪しみ――

いま私が立っている場所が、もしかしたら坑口跡なのかも知れないとは思った。
だが根拠は、単に周囲よりも少し植生が薄いことと、大きめに凹んでいるという2点だけ。
加えて、既に発見した西口との位置関係にも矛盾がないことか。

――と書いた、右の全天球画像に注記した窪みで間違いないという。

現存せずは残念だが、心残りはなくなったように思う。この情報も本当にありがたい。

しかしそれにしても、H氏は最新の状況についても詳しい。詳しすぎる?!  だがそれもそのはずで……。


【新情報 その4】  H氏が、隧道の最新の状況にも詳しい理由

実は私は(2021年)4月末にゼンマイ取りで西口に行き、開口を確認しています。
万が一、プロの平沼さんが来てくれたとしても、切通しの下にあり、すぐに見つけてくれると思い、持参した紅白のポールは立てませんでした。

参りました!!!

“プロ”であるかはさておきオブローダーとして、ちゃんと西口を発見できてマジで良かったよ(ホッ)。
そして発見時に紅白のポールがそこに立っていたら、私はきっと口にはせずとも、内心とてもがっかりしただろう。
まったくもって、H氏の先回りには参りましたです。地元の方には、やはり敵わないという良い例になった。

閑話休題。
次の内容も、私を含め多くの方が期待されていたことだと思うのだが、地元に「じゅうぜんの穴」の古い写真や図面などの資料が残っているかについてだ。


【新情報 その5】  「じゅうぜんの穴」の古い写真について

写真などは水道局の保存期間をとうの昔に過ぎており、集落にもありません。
(じゅうぜんの穴を掘った)重左エ門家は旧長岡市内へ転出、中越地震による住宅全壊で2回も引っ越しが重なっていて関係するものはまったく残っていないとのことでした。

とのことで、残念ながら写真や新たな一次資料の発見は難しそうだ。
しかしそれにしても、中越地震がもたらした影響の大きさは、報道されない所にも広く深く激変を与えていたことが、改めて実感される。




最後に、今回の「じゅうぜんの穴」の公開に至った最大の立役者であるH氏が、なぜこんなにも熱心に隧道を調査されたかについて、ご本人の弁を紹介したい。

私は昭和47年小国町越路町水道企業団(上水道事業)の設立から主に施設、工事に携わり、平成10年事務局長を拝命、長岡市との合併で長岡市水道局小国営業所長として奉職、平成19年に59歳で退職、以来今日まで農業組合法人「稲穂の会」に所属し水稲でボチボチやっております。旧簡易水道の横穴水源隧道調査から始まり、昔の土木工事を見て歩くことが趣味になりました。公務で平成10年に当時の山古志村の手掘隧道(、中山、水路、雪中、羽黒)や当時中里村の瀬戸口隧道(2本)を案内してもらったりと、とにかく好きでした。


ここにも一人、古いトンネル、古い土木構造物に魅せられた、大きな先人の姿があった。

この度のH氏をはじめとする太郎丸関係者の多大なご親切に応えるべく、私も次代に記録を伝えるお手伝いをしたいと思った次第。

追記は以上です。





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