※このレポートは、平成24(2012)年に公開した「隧道レポート 太郎丸隧道(仮称)」の続編となります。先にそちらをお読みいただくことをオススメします。
2012年の探索にて撮影した「太郎丸隧道」内部
皆様は今から9年前にレポートした太郎丸隧道(仮称)を覚えておいでだろうか。
さほど古くは見えないコルゲートパイプの坑口より内部に入ると、そこにはコンクリートの柱を坑木に見立てた素掘りの隧道が山の反対側まで続いていた。全長はおおよそ100m。断面は自動車の通行を容れない小ささで、内部には泥の堆積や水没があったが通り抜けは可能だった。
この隧道もさることながら、隧道へ通じる東側の道は酷い藪に覆われていて、自転車での走破には大きな苦難があった。だが、大汗成し遂げて辿り着いた西の麓にある太郎丸集落で偶然出会った一人の古老から、衝撃的な事実を告げられる。
「旧隧道があった。」
2012年の探索にて発見した旧「太郎丸隧道」西口
即座に山へ戻った私は、古老が教えてくれた目印を頼りに捜索し、辛うじて開口していた旧隧道を発見する。
内部は凄まじい悪辣さで落盤閉塞し、東口は巨大な地すべり地に呑まれていた。
地形図に描かれていた太郎丸隧道を探索しに行ったら、古老の証言から図らずも地形図にない旧隧道を発見できた。たいへんな大満足で現地を後にした私だったが、帰宅後、さらなる喜びが待っていた。
太郎丸在住の読者SKIPE氏から、平成17(2005)年に発行された太郎丸集落史『太郎丸の歴史を探る』の複写をお送りいただいたのである。
この資料によって、町史には記述のなかった2世代の太郎丸隧道の来歴を知ることが出来、レポートでは解説編としてまとめた。
その内容をごく簡単にまとめると、太郎丸集落と、東の山を越えた外山の谷を結ぶ、品沢沿いの山道が古くからあった。
この道は、太郎丸の住人の多くの生業であったボヨ(薪)出しのための生活路であり、昭和後半年代の砂防工事によって外山の谷沿いに自動車道路が整備されるまで、集落と外山を結ぶ山道は日常的に使われていた。
この山道の改良として、“おそらく明治30年代”に、従来使われていた切り通しの下に旧隧道が掘られた。
さらに大正末頃、この旧隧道の西に繋がる荷車の通れる道が整備された(旧道)が、東側は引き続き古道を人の背で運ばねばならなかった。
全線の荷車による交通を目指すとともに、崩壊が激しく毎年のように崩落した土砂の運び出しをしなければならなかった隧道を切り替えるべく、昭和32(1957)年に新道の建設が上小国村の失業対策事業としてスタートした。この工事に太郎丸集落の住人は無償の義務人夫を出すなど全面的に協力した。その要となる新隧道(全長103m)の掘削は昭和33年8月に着工し、34年8月に貫通した。前後の道路整備も含んだ、太郎丸〜渡場間全線の開通は、昭和37(1962)年であった。
開通後、この道路はボヨ出しのほか、農作業、山菜採りなどにも大いに活用されたが、やがて坑木が朽ちてきたので町の補助を受けて坑木をコンクリート製に置き換えたり(昭和49年から)、坑門部分をコルゲートパイプに補修したり(昭和56〜57年)と、太郎丸集落の主導で大切に維持してきた。
その後、外山の砂防工事に伴って自動車道路が整備されたことで、太郎丸隧道は利用者が減少し現在に至っている。
以上が2世代に及ぶ太郎丸隧道の歴史であり、ここに現地探索と机上調査が調和したレポートが完結した。
……かに思われた
が、
補足的な意味で入手した旧版地形図が、最後の最後で大きな謎をもたらすことに。
右の2枚の旧地形図を見較べて欲しい。
1枚目は昭和41(1966)年版で、2本の隧道が描かれている。
北側のものが、昭和34年に貫通した新隧道、南側は明治30年代に開通したとされる旧隧道である。
この地図は、内容に問題がない。
だが、チェンジ後の2枚目の地形図……、当地を描いた最古の5万図である明治44(1911)年測図版なのだが、
なぜか、この地図にも2本の隧道が描かれている。
問題は、新隧道の位置にも既に隧道が描かれていることで、新隧道は昭和34年に貫通したというここまでの机上調査の結果と明らかに矛盾する。
明治時代から、こんなに近接した位置に2本の隧道が並行して存在していたとしたら、それは大いに不思議だし、2世代のトンネルについてかなり詳細に記述していた集落史『太郎丸の歴史を探る』に、このことに対する言及が全くないのは不自然に思われた。
そこで、私はこういう結論を出すしかなかった。
「明治44年の地形図は、誤りである」――と。
地形図の誤りや不正確性を疑わせる要素は、これら2本の隧道が妙に長く描かれていること(それぞれ500mくらいありそう)や、前後の道が不自然に直線的な徒歩道であることなどからも感じられるところであって、少なくとも後の新隧道の位置に描かれた隧道については何かの誤表記だと考えると述べたうえで、2012年12月31日にレポートを完結させていた。
あれから9年が経った。
私はこの間に一度も再訪しなかったし、次第に太郎丸は記憶から遠ざかりつつあった。
だが、2021年10月某日、再び太郎丸の住人から1通のメールが届いた。
そのメールは、こんな書き出しであった。
私は長岡市小国町太郎丸在住のN(著者注:仮名)と申します。 先日、同じ太郎丸地区のHさん(仮名)という方から、「山さ行がねが」様へ情報提供してほしいという依頼を受けましたので、代理でメールを送らせていただきました。
それは太郎丸在住のN氏を通じた、太郎丸住人H氏からの新たなる情報提供であった。
メール本文には、H氏がワープロソフトで作成された原文(一部手書き)が添付されていたほか、N氏からの補足説明もあった。
添付された原文のタイトルには、「太郎丸の2本の明治隧道について」と書かれていた。
右の画像は、H氏の原文の文末部分(住所や氏名は加工しました)である。
私は、タイトルとこの文末を見て、即座に姿勢を正した。これは心して読まねばならないと思ったからだ。
さて、それではさっそく情報提供文を皆様と一緒に読み進めよう。内容は7つの項目からなっていた。
1番から順に見て行くが、最初からいきなりクライマックスであるから、覚悟して欲しい。
なお、特に重要な新情報の部分に下線を引いたが、文章は一切弄っていない。私からの姑息な隠し事はなしだ。私はこの情報だけをまるっと貰って再訪探索を試みた。
1.
「こむしご」の旧隧道(通称=じゅうぜんの穴)は太郎丸の重左エ門の故小林由太郎氏(明治9年〜昭和2年)が専門の職人を自費で雇って明治30年代の後半には完成していたと伝わる。
同じ方法で法末の丑松隧道(洞門)は明治28年に完成している。
重左エ門当主は現在、由太郎氏のひ孫の代で旧長岡市内に在住 している。
じゅうぜんの穴はおおよそ長さ約22間、高さ約7尺、幅5尺程度だったと云われる。
昭和34年、この下に集落主体で「新こむしご隧道」が完成するまで利用された。
小さい隧道だったが、新隧道の工事では東側への工事用通路としても貢献している。
私は昭和23年生まれです。中学1年頃入りましたが中ほどで落盤していて通れなかった。
次の2項目以降を読むとよりはっきりするが、この“「こむしご」の旧隧道(通称=じゅうぜんの穴)”は、これまで私が把握していなかった、そして集落史『太郎丸の歴史を探る』にも記載されなかった、“第三の隧道”である。
「こむしご」という地名は、集落史に登場していた「コモシゴ」と同一のものと考えられ、新旧道の西側分岐地点一帯を指すと考えていた。
私が現地で一切想定しなかった“第三の隧道”が存在していた。
その規模は、長さ約22間(約40m)、高さ約7尺(約212cm)、幅5尺(152cm)程度だったと云われているそうだ。
この数字の通りであれば、とても小さな隧道である。
昭和34年頃までは利用できたが、昭和23(1948)年生まれのH氏が中学1年生の頃、つまり昭和36年頃には、中ほどで落盤していて通れなくなっていたらしい。
この時点で、9年前には全く探していない第三の隧道を探しに現地を再訪することは確定した。
しかし今は読み進めよう。2つ目の項目を。
2.
荒れ放題の旧品沢隧道は集落誌発刊後、丑松隧道より早い明治25年の完成と判明した。
工事の主体は不明だが(素人では無理)集落で専門の職人を雇ったものと推測される。
西側入口右上の藪の中には、荷を積んで旧峠道から滑り落命した愛馬を偲んで建てられた馬頭観音の小さな石碑があり、集落誌編纂委員会で現地確認している。
穴さらい(崩土の片付け)が大仕事で、断面も当初の倍以上になったと云われており、ぼよ満載の大八車が楽にすれ違うことができた。私も小学3年〜5年まで追分から隧道へのぼよ上げ、隧道から家までの大八車運搬の手伝いでこの隧道を何回も往復した。
この時期は人も多かったが、広くて涼しい隧道で食べるアルミ弁当が美味かった。
この内容は、集落誌が「旧隧道」と呼び、私もそのように呼んでいた隧道についての説明である。
H氏はこれを旧品沢隧道と呼んでおり(この名称については後述する)、集落誌では明治30年代の完成ではないかと不確定な表現だったものが、集落誌発刊後に「明治25年の完成と判明した」としている。
“じゅうぜんの穴”よりも古い可能性が高いようだが、“じゅうぜんの穴”については「明治30年代の後半の完成と伝わる」という表現だったから、厳密にどちらが古いかははっきりしないというべきかも知れない。
いずれにしても、明治30年代には既に太郎丸と外山を結ぶ2本の隧道が存在していたことになるのだろう。
そして、H氏が小学生3〜5年生、つまり昭和31年から34年頃における隧道の記憶が語られている。
毎年の崩落と穴さらいの結果、断面が非常に巨大になっていったことが書かれており、これは壊滅した後である9年前に私が見た状況とも合致していた。
集落誌にも出ていたが、やはりこの隧道の西側は荷車(大八車)が通れたが、東側はそうはいかなかったようだ。
それにしても、小学3年といえば8歳くらいだが、薪(ぼよ)を運ぶ手伝いをしていたというのだから、その勤勉に頭の下がる思いがする。
右図は、ここまでの内容によってアップデートした地図である。
ところで、ここでやや唐突に登場した印象がある「旧品沢隧道」というネーミングについて考察したい。
まず、品沢というのは、地形図などには出てこないが、太郎丸からコモシゴへ至る谷筋の名前である。
そして、いわゆる「旧隧道」が「旧品沢隧道」と呼ばれているのであるから、「新隧道」は「品沢隧道」というのが正確なのではないかという印象を受ける。
これまで一貫して「太郎丸隧道(仮称)」と呼んできた、昭和34年生まれの新隧道だが、(仮称)が付かない名前は「品沢隧道」ではないかと思う。
これは9年前のレポートでも小さな文字で触れていた内容だが、全国の市町村道にあるトンネルを網羅した『平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)』には、旧小国町分として、所在不明なトンネルが2本掲載されていた。
それぞれの記載名は「シナザワトンネル(昭和34年竣工、全長91m、幅3m、高さ記載なし)」と「ミズヨシトンネル(竣工年不明、全長130m、幅2m、高さ2m)」であり、おそらく漢字表記は「品沢トンネル」と「水吉トンネル」であって、これらはいわゆる「太郎丸隧道(仮称)」と「丑松洞門」を指すものと結論づけて良いと思う。
太郎丸隧道(仮称)の正式名称は、品沢隧道である。
本稿タイトルも、太郎丸隧道(仮称)を改めて品沢隧道(トンネル)とすべきところだろうが、これまで多くの探索者に太郎丸隧道として識別されてきたところであるし、修正は見送ることにした。
最初に読み進めていたときの私は、この辺で早くも情報の濃密さにクラクラしたが、まだ2つしか読んでいないぞ。
3つ目の内容へ、行ってみよう。
3.
2本の隧道(品沢と、じゅうぜんの穴)は外山のぼよ出し、田んぼ、炭焼きの往来を楽にした。利用者は関係者多数の品沢隧道が圧倒的に多く、じゅうぜんの穴は本人のほか少数だった。
旧峠道の掘割は、「こむしご」の方が大きく、雪解けに外山堰堤右岸からよく見える。
2012年の探索で撮影した旧隧道上の掘割り
ここが私にとっては意外性の大きな部分だったが、明治時代に生まれた2本の隧道は、長らく共存したという。単純な新旧の更新関係にはなかったのである。
しかし、毎年の穴さらいを集落の青年団が行うなど、関係者が多かった旧品沢隧道の方が利用者が多く、“じゅうぜんの穴”の利用者は、これを建設した小林由太郎氏(屋号が重左エ門)のほか少数だったそうだ。
そして、どちらの隧道も、昭和34年に新隧道(品沢隧道)が開通したことで、利用されなくなったのだ。
巨視的にはほとんど同じ峠のように見える狭い範囲に、並行する2本の明治隧道が誕生し、それらが長らく共存したというのは、ほかではあまり聞いたことがない珍しい利用実態のように思う。大いに興味深いところだ。
そして、それぞれの隧道の付近にあった、より古い道の跡である掘割りは、「こむしご=じゅうぜんの穴」の方が、旧品沢隧道上部のもの(右画像)よりも大きく、現在でも雪解けの時期に外沢の砂防ダム右岸の道路から見えるという。
この部分の証言は、“じゅうぜんの穴”を実際に発見する手掛かりとしても重要ではないかと思った。
これは私の勘として、掘割りと目指すべき隧道の位置関係は、そう大きく離れていないと思うからだ。
4.
昭和30年代、集落〜新こむしご隧道〜追分までの山道は計算された勾配で作られた。戦時中の亜炭坑道掘りの経験者も数人いて、隧道は集落普請で完成した。この道路の完成で、耕耘機+リヤカーを使って追分から家まで直接荷を運べるようになり楽になった。
これは、いわゆる新隧道、これまで太郎丸隧道(仮称)と呼んできた品沢隧道の建設当時の逸話である。これをH氏は「新こむしご隧道」と呼んでおり、「こむしご」の旧隧道=じゅうぜんの穴と位置が近いことを示唆している。本隧道については集落誌に非常に多くの情報があり、新情報の提供を目的としているH氏の情報は相対的に少ない。
5.
国土地理院の明治27年版地図では「品沢」も「こむしご」も隧道ではなく掘割の峠道である。
明治44年版には(延長は長めですが)両方の隧道が記載されています。
これは間違いではありません。正確なのです。明治の隧道が2本存在したのです。
これは私がレポートの最後で呈した疑問であり、……というか事実上それ以上考察する匙を投げてしまったのだったが、これまでの1〜4の情報がはっきりと物語っているとおり、明治44(1911)年版の地形図に2本の隧道が描かれていたのは、「これは間違いではありません。正確なのです。明治の隧道が2本存在したのです。」ということになる。
この部分は、原文中唯一大きな文字で表示されていて、読み始めた時点で私の目に飛び込んで来た部分だった。
だが、1〜4を読む前だと、簡単には信じられなかった。
しかし、もはや信じないほうが難しいくらいに、説明を尽くされてしまったのである。
信じるしかないと、私は思った。
右図は、H氏の情報から推定された、明治44年版地形図に描かれた2本の隧道の正体である。
太郎丸の真実は、オブローダーの探索経験より導かれた常識的な経験則より外れたところに存在していた!
なお、国土地理院の5万分の1地形図には、当地を描いた明治27年版はなく、同年に発行された20万分の1地勢図はあるが、この小縮尺で2つの峠道の状況が読み取れたとは思えない。これは、集落誌に書かれている「明治27年の更生図(=公図)」にある表記のことであろうと思う。
6.
現代版では、2本の旧隧道が消えて、昭和34年完成の「こむしご」新隧道を記載している。
太郎丸集落がこの隧道まで含んで山道を維持してきたのは、昔から集落内を流れる水が少なく、外山に生活用水ダムを要望していた時期があり、隧道を導水管路に利用する考えがあったことと、隧道東口までバイクで行って外山の山菜採りで長年利用してきたことによる。
20年くらい前までは毎年、町内の業者が自作したコンクリート支保柱などで補強を続けていた。
昭和60年頃までは追分まで道普請の範囲だったが、現在は隧道の西口までである。
2012年の探索で撮影した隧道内のコンクリート支柱
太郎丸集落と現在ある品沢隧道との関わりの経過が述べられている。
ここにも集落誌になかった新情報が多く含まれている。
先日もこんなエピソードをどこかで読んだ気がするが、比較的最近まで生活用水の導水管路を敷設する構想があったことも、隧道と隧道までの道を集落で維持し続けてきた理由だという。
単純な隧道への愛着や哀憫の心境だけではなかったところに、リアリティがある。
至れり尽くせりな豪華情報のフルコースも、いよいよ次でラストである。
7.
私も集落誌編纂委員でした。委員には長老衆も半数居たのですが出版されてから「じゅうぜんの穴」の記述がない事に気づいた次第で大変残念です。
今年3月に「山さいがねが旧隧道」を拝見してから、重左エ門家の縁者を訪ねたり集落の今は亡き多数の長老衆から聞いていた話、自分の体験などを記述した。
令和3年9月30日 長岡市小国町太郎丸●●●●●● ●●
一介の通りすがり探索者の気ままな訪問記に目を通し、ここまで骨を折って下さったH氏および、情報提供の手伝いをして下さったN氏への感謝は、語り尽くせないものがある。
私はいまだかつて、これほど使命感めいたものを持って、レポートの更新を行ったことはないだろう。
当サイトが、集落誌同様に末永く検索者の用に供せられるべく、私の死後にもサイトが長期的に公開されるための手続きを考えたいと思っている。
もはや、私に託された「じゅうぜんの穴」について語るべき使命の大半は済んだと思う。
その実在性は、もはや疑うべくもないであろう。
ただ一点、現存性においてのみ、私の仕事すべき畑があると感じた。
今から私はオブローダーとして地を這い、「じゅうぜんの穴」の現存状況の確認、および位置の特定を目指したい。
― 太郎丸、再訪 ―
この集落の人々は、その情報により、何度も何度も私を惹きつけた。