※このレポートは、隧道レポート『大沢郷の小戸川隧道(仮称) 最終回』から続いています。先にあちらをお読み下さい。
その時、私の体に電撃が走った!!
『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より転載
ずいぶんな書き出しだが、「その時」とは、2018年11月26日の12時30分頃、秋田県立図書館の閲覧室で読んでいた『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』に、右の画像の記述を見つけた瞬間である。
ズドーン!!
まさか、あの立倉トンネルに、旧隧道があったとは!!
長年暮らしてきた“自宅”に実は屋根裏部屋があったことを知ったような衝撃だった。
これは、今すぐ見に行きたいし、実際に行ける案件じゃないか?!
私の脳内にあるオブローダー・コアがフル回転で計算する。
現在時刻は12:35で、現在地である秋田市山王から大仙市の立倉隧道付近まで約50kmある。高速道路を使えば1時間以内で着ける。だが一旦探索道具を取りに秋田市内にある自宅(秋田の実家)へは戻らなければならない。カメラを持たずに探索しても仕方がない。自宅が逆方向なので、経由すれば60kmと少し。準備の時間も合わせて2時間以内ってところだろう。探索開始14:30、日没まで1時間50分くらいある。狭い範囲で小さな隧道を探すくらいならば、間に合いそうじゃない?
よし、決行しよう!
そう決断した私の行動は、実際に早かった。
図書館よさらば! と風の速度で走り出したかったが、複写や借り出しなど諸手続きを音の速度で済ませてから、光の速度で脱出した。
そしてこれをしながら…は、危ないから一旦立ち止まって、スマホでメールを書き書き!
subject: 緊急探索
大仙市大沢郷の立倉隧道に急隧道があった可能性が浮上したんで、今から見に行ってみようと思う。場所はここ。 https://goo.gl/maps/QqGhMRxSR4k
13:46 送信 ッと。
微妙に誤字っているのが緊迫感あるでしょ(笑)。
このメールの送り先は、“小戸川隧道(仮称)”を一緒に探した秋田市在住の探索仲間である ミリンダ細田氏 & 柴犬氏 に加えて、最近待望の単著本『廃道を歩く』を上梓したトリさんにも送信した。この人、ふだんは東京在住なんだけど、何の巡り合わせか、この日はたまたま秋田県内(しかも大仙市付近)にいることを知っていたのだ。
なお、メールには特に「一緒に行こう」というようなことは書いてないが、もし同行したいならば大歓迎である。もっともノロノロしていたら日が暮れるから、すぐ「行きたい」と返事してきた人と一緒に行く。
果たして、実家に戻って準備をしている僅かの間に、メールを送った3人全員から返事があった。
まず細田氏は、分かってはいたけれど、仕事中で参加できず。いただいたエールは、「ファスト・ルック ファスト・ロック ファスト・アタック ファスト・キル」。 いつもながらのセンスでやられた(笑) たぶん「見敵必殺」と言いたいのだろうな。 やらいでか!
次いで柴犬氏は、なんとこれが参加できるという! 平日だけど彼の仕事のシフトでは、たまたま休みにあたっていたか。ラックマン!
トリさんは、当然参加するそうです(笑)。 あなた、お母さんとお墓参りにきてたんじゃないのか?! まあいいけど。 しかもこの時点では、大仙市の大曲駅付近にいるというトリさんが、もっとも目的地に近いことが判明。
その後のやりとりで、秋田市組の私と柴犬氏は13:30に秋田北ICで落ち合って、私の車1台にまとまって出発。14:30に現地最寄りの“片倉集落”で、トリさんとも合流して探索スタートということにした。
やまいがだかつてない電光石火の探索行動――
名付けて、“FLLAK作戦” 開始!!
(当初、作戦名の“F”を“first(ファースト)”としていたが、読者さまから“fast(ファスト)”ではないかとのご指摘があり、ミリンダ細田氏に真意を確認したところ、ファストが正しいと分かったので、訂正しました!)
こうして結成された私たち “第二次大沢郷で隧道探し隊” は、現地へ向かったのであるが、さすがにこんな勢いだと、読者諸兄を置いてけぼりにしてしまいかねない。
ほとんどの読者さまは、未だ「立倉トンネル」と言われても、ポカンとみかんを入れて欲しそうに口を開けていらっしゃるはず。
本編に入る前に、立倉トンネルに関する概要の説明と、机上調査で得た(あまり多くない)情報の解説をしたい。
左図は(だいぶ小さくて申し訳ないが)、前回(今回の5日前)に探索した“小戸川隧道(仮称)=南沢長根の洞門(仮称)”と、今回探索する“立倉トンネル”の位置関係を示している。
いずれも栩平(とちひら)川の流域にあり、両者は直線距離で約4km離れている。
立倉トンネルがある峠は、明治22年から昭和30年まで存在していた仙北郡大沢郷(おおさわごう)村の南端付近にあり、越えれば同郡南楢岡村であった。
昭和の大合併以降は、それぞれ西仙北町と南外(なんがい)村となり、平成17年(平成の大合併)には遂に大仙(だいせん)市の一員として統合された。
旧大沢郷村を明治22年に誕生させた近在の7つの近世村のうちで、最も南にあって役場に遠く、最も山深かったのが、円行寺(えんぎょうじ)村だ。立倉トンネルの麓でトンネル名の由来になった立倉集落は、この村の一部であった。『角川日本地名辞典秋田県』は、円行寺村について、「山道により郡内の南楢岡や由利郡方面にも通ずるが完全な山村
」と書いており、全般に交通不便だった旧大沢郷村の中でも、立倉集落一帯は際だって不便だっただろう。
右図は、立倉トンネルがある峠道の全体像を示している。
旧大沢郷村と旧南楢岡村を隔てる山域は、標高こそ高くないがなかなか肉厚で、峠道の全体は約5kmにおよぶ。その間の集落は南楢岡側へかなり下ったところに寺沢があるだけだが、落合まで行けば土地が開けて、景色も大きく変わる。
もっとも、立倉から峠へ行くだけならば600mそこいらだから、近いといえる。
私はこの道を一度だけ全線通して自転車で走ったことがある。平成13(2001)年4月19日のことで、当時は廃道探索目的ではなかったのだが、既にトンネルが「通行止め」であったことを覚えている。
廃道探索目的での再訪は、レポートにもしている平成15(2003)年7月24日で、立倉集落からトンネルまで行って戻っている。
今回の探索は三度目で、15年ぶりの訪問となる。
この間にトンネルの「通行止め」が解除されていないとしたら、その荒廃の度合いは熟成が進んでいることも予想される。しかしあくまでも今回のメインターゲットは、「立倉トンネル」ではなく、その存在が急に示唆された、初代・立倉隧道である。
これまでの2回の探索で全く存在に気付けなかったことから考えても、普通に道を走っていたら見つけられないもののようだ。
右図は、昭和9(1934)年版と昭和44(1969)年版の地形図の比較である。
今回は図書館で全ての版をチェックしているが、立倉にトンネルの記号が描かれるようになったのは、昭和39年改測版からということが分かった。ここに掲載している昭和44年版は、前後の道も含めて、昭和39年版とほぼ同じ描かれ方である。
“南沢長根の洞門”が描かれていた昭和9年版では、この峠にトンネルは描かれていない。破線の徒歩道があるだけだ。
当時もし存在していたとしたら“初代隧道”だろうが、描かれなかったのは、まだなかったからなのか…。昭和28年版も表記は変わっていなかった。
改めて、冒頭に画像として掲載した『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』のトンネルに関する記述は、以下の通りだ。
これを読む限り、昭和39年の地形図に描かれているのは、昭和23年に掘られた2代目ということなのだろう。
それ以前からあった初代隧道は、いつ作られたものであるとか、誰が作ったかといったことは書かれていないが、とにかく2代目より「上に位置」していたという。
「上」と言われても、なかなか漠然としているが、経験上、昭和9年の地形図に描かれている徒歩道の峠道に沿って探すのが良かろうと考えた。
それはそれとして、同じ日に図書館で読んだ『西仙北町郷土誌近代篇』に、以下のような記述や写真があることは無視できない。
『西仙北町郷土誌近代篇』より
昭和48年8月25日、大幹線林道(大沢郷地内)完成竣工式を挙ぐ。44年度より継続事業とす。事業費2億1300万円延長11235m(内トンネル123m)巾員4m。(47年度完了)
さて、これはどういうことなのか?
私が2001年と2003年に訪れた「立倉トンネル」が、この「大幹線林道」という道のものであることは、右の写真からしても間違いないはず。
まさかまさか、3代目なのか?!
おそらくは、2代目の立倉トンネルを改築したものが、今のトンネルだと思うが、このことも現地を見てちゃんと確かめたいと思う。
……いやぁ… 侮れないなぁ……。
私の中で10年以上捨て置いていた立倉トンネルが侮れない。
灯台もと暗しというのかなー。(実際、昔に攻略を終えた道には、こういう“抜け”がたくさんありそう。)
『西仙北町郷土史資料(大沢郷編)』より
ちなみに、大幹線林道については、たびたび引用している『郷土史資料』『郷土誌』ともあまり情報がなく、妙に大仰なネーミングが外部でも通用する正式なものなのかも疑問である。おそらく事業主体は西仙北町だったのだろう。県や国からの補助は受けたかもしれないが、町が計画して整備した林道だったと思う(国の林道事業名にはこういうものがないので)。
情報が少ないなりに、その整備の主目的は想像できる。
林道といいつつも、主目的は林業開発ではなくて、旧大沢郷村(林道開通当時は西仙北町)の南部、円行寺地区の生活道路であったかと思う。
右図は、『郷土史資料』に掲載されていた地図だが、大幹線林道が県道(図の上端付近に見える)と同じ太さで描かれている。
前述したとおり、円行寺地区は旧大沢郷村の中で最も山深く、中心部との交通がすこぶる不便であった。
そこで、既に国道や県道が通じていて交通至便な南外村との間に、大型自動車が通れる山越えの林道を開くことで、大沢郷南部の生活環境を改善しようと考えたのだと思う。
そしてそれは、一度は確かに実を結んだのだろうとも思う。
開通から30年も経たないうちに、この林道の要である立倉トンネルは、通行止めになったわけだが…。
まとめると、今回の立倉トンネル再訪で確かめるべきことは、次の二つだ。
- 初代隧道の現存の有無を確かめる。
- 2代目隧道と現在ある立倉トンネル(3代目?)の関係性を確かめる。
1がメインミッション、2はサブミッションとといったところだ。
それでは、本編いってみよう。