2018/11/26 14:56 《現在地》
まだ辛うじて立倉トンネルが通り抜けられることを確認した私は、すぐに西口へ引き返した。
懐かしいトンネルとの15年ぶりの再会は、崩壊という悲劇的な展開を用意していたが、お陰で得られたものもあった。それは、立倉トンネルの構造が判明したことだ。
同トンネルは、素掘りのトンネルを鋼鉄のコルゲートパイプで巻き立てただけのものだったことが、崩壊によって明らかになった。
この探索の目的の一つに、昭和48年に完成した現在の立倉トンネルと、「感佩之碑」に昭和28年の完成が記されていた先代のトンネルの関係性を解明することがあったが、昭和40年代にはじめて建設されたにしては不自然過ぎる構造が判明したことで、もともと素掘りであった先代のトンネルを拡幅して、さらにコルゲートパイプで覆工するとともに坑門を設置したものが、現在のトンネルだと考える説が有力になった。
「感佩之碑」によると、先代のトンネルは全長80間(145m)高さ8尺(2.4m)幅9尺(2.7m)という規模であったといい、対する立倉トンネルは全長123m、幅4mとされている。
先代のトンネルを拡幅改良する時点で、前後の掘り割りが開削されて、全長が20mほど短縮されたと考えると辻褄があう。
この2世代のトンネルの関係性を述べた記録は発見されていないが、我々は改築による代替わりだと判断した。
これで目的の一つは解決し、残る探索目標は、『郷土誌資料』に存在が示されていた“初代隧道”の発見へと絞られた。
こちらは、現在の立倉トンネルよりも高い位置にあったと書かれているくらいだから、別のトンネルということがほぼ確定している。私はその捜索を1日も待ちきれなくて、図書館を飛び出して、ここへやってきた。
右図は、最新の地理院地図と昭和9(1934)年の地形図の比較である。
前回の冒頭説明でも書いたとおり、初代隧道は一度も地形図に描かれたことはなかったようだが、私の経験上、その在処として最も有力視されるのが、旧来の峠道の経路上である。
道から遠い位置に新たな隧道を切り開くことは、準備の工事量が多くて大変だ。個人や集落が中心となったような比較的に小規模な隧道工事ならば、在処は旧道の近傍である可能性が非常に高いと考えられるのだ。
この峠における旧道の峠の位置は、現在のトンネルを基準に考えると、その直上より少しだけ北側、南北方向の主尾根と東西方向の枝尾根がクロスする位置のように見える。
新旧地形図の比較において、この程度の位置の違いは誤差の範囲内でしかないのだが、旧道が枝尾根に沿って上り下りしているという地形的特徴を無視すべきではない。
立倉トンネルのすぐ北側にある枝尾根が、旧道の在処だった可能性が高い。
我々は、現場での限られた時間の中でそのように判断し、次なる探索ルートを――
ここ(矢印)に定めた!
この急斜面の笹藪が旧道だったとは考えておらず、もっと手前に現道との分岐地点があったと思われるが、
それを探すために少しでも戻ることは、時間が惜しい。
だからここからの強引な直登で、古道の峠があったと思われるあたりの尾根を直接目指すことにした。
14:57 直登開始!
かなりの急斜面に挑む直登中、仲間たちを振り返って撮影した。
地の底に見えるのは、立倉トンネルの未亡の坑門である。
その左側の山肌が黒く見える部分は、陥没して洞内まで貫通した縦穴だ。
また、柴犬氏が手をかけている錆色の構造物は雪崩防止柵。トンネルの周りの斜面に多数設置されていた。
14:58 《現在地》
斜面をまっすぐよじ登ることわずか1分、先頭を歩いていた私はスギ林に達した。同時に傾斜がやや緩やかになり、四つ足の姿勢でなくても歩けるようになった。
このとき、前方のスギ林の地面に、浅い掘り割りのような窪みが一本走っているのが見えた。
これは道かも知れない。
目当ての古道か、スギ林の作業道か、前者である可能性が高い気がした。
いかにも歩きの道と思える、狭くて急な掘り込みだったが、一朝一夕のものには見えなかった。
奥には既に主稜線が見えている。
隧道が穿たれているとしたら、もうこの近くなければならない。
この場所で見つけられなかったら、手掛かりを失ってしまうだけに、えらく緊張した。
「切り通しが見えるぞ!」
思わず大きな声を上げていた。
古地形図から予測した位置にドンピシャで、おそらく人為的に削り取られたものだろう峠の切り通しが、時代の経過を窺わせる嫋(たお)やかな鞍部の姿で見えてきたのだった。
足元の道はいまいち不鮮明だが、薄暗いスギ林を抜け出して、空を背景に切れ込む峠へ向かっているようだった。
旧道の峠の近くに、隧道はないのか?
ここじゃ、ないのか?!
「有ったぞー!!」
私がさらに大きな声で二度目の叫びを発したのは、隧道が有ったからだった。 隧道が、有った!
町史的な郷土誌にはなぜか書かれず、その元となった郷土誌資料にだけ短い記述が残されていた、立倉トンネルの初代隧道は、真実だったのだ。
ただし、より正確な表現を用いれば、ここに隧道があったことが確かめられたというべきだろう。
無論それは、痕跡によって。
現存については、残念ながら過去形を使わざるを得ない。
しかし正直なところ、それは――5日前の探索を踏まえれば――出発の時点で覚悟していた。きっと柴犬氏も同感だろう。
これは気弱な敗北主義ではなく、大沢郷を知れば知るほどに、そういう予想が理論的だと考えるようになった。
人は隧道を大切に想っても、この地はそれを許してくれなかった。そういうこともある。
5日前の再現のような、峠直下の閉塞した坑口跡風景だった。
成長したスギの木が坑口跡の正面に林立していて、長い時の経過が窺われた。
“南沢長根の洞門”と比較して、この“片倉洞門”(仮称)は、
坑口跡の凹地形の規模がより大きく、地山の岩盤が露出している部分がある。
この岩盤の露出は、表土を貫通して岩盤に深く穿たれていた隧道の存在を暗に示す痕跡だ。
沢の源頭でもないこの場所に、自然の地すべりでこのような地形が現われることは考えにくい。
峠の反対側の地形を見てみないと断定は出来ないが、ここから峠を潜る隧道の長さは30mくらいだろうか。
“南沢長根”のものよりは遙かに長そうである。土被りもだいぶ大きい。
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全天球画像で“片倉洞門”の片倉側坑口跡地を撮影した。
この広い視野の中では、よほどよく見ないと坑口跡の窪地の見分けがつかないと思う。
目印は、稜線にある峠の切れ込みだ。その真下に隧道の凹みがある。
予め場所を知っていれば、直登によって現道(という名の廃道)からわずか1〜2分で辿り着ける場所だったが、
事前情報なしの探索中に偶然見つけられる可能性は、皆無だったと思う。それが15年のブランクとなった。
ここに明確な隧道跡を見出したことで、私のテンションは本日のマックスを更新した。
開口していなかったことはもちろん残念だが、自分が選んだ資料の中から探索の種を見つけ出し(Look)、
探索の計画を建て(Lock)、オブローディングによって辿り着き(Attack)、成果を得る(Kill)ことの喜びは、
どんなに難しい廃道の踏破にも勝る、私にとっての最高の甘美であった。
また、この喜びを真に共有できる者たちが私の仲間としてここにいる。彼らにも感謝したい。
次に我々は、まだ見ぬ東口跡地を確定させるべく、行動を開始した。
この種の探索のセオリー通り、隧道の直上の尾根を乗り越えて、最短距離で反対側を確認しに行きたい。
幸い、この隧道の直上には、隧道の開設以前に使われていただろう古道の切り通しと思われる掘り込みが顕著に残っており、またそこへ通じる古道跡らしい平場も微かに残っていたので、簡単に峠を究めることができそうだ。
古道は、隧道の西口跡を右下に見下ろすように高巻きながら、かなりの急勾配で峠の切り通しに達していた。
私は開口への一縷の望みを胸にして、坑口跡の窪みの最も高い部分へ寄り道して入り込んでみた。
するとそこには、かつて坑口を作るために人が切り開いた岩盤の一部、素掘りの坑口の“額”にあたるのではないかと思われる垂直に近い岩肌が今なお露出しており、その下の柔らかい崩土の山の足触りは、根気よく切り崩す仕事の末に埋没した隧道内部へとアクセス出来るのではないかという“夢”を、私に見させた。
おそらく完全に圧壊してしまっていると思われた“南沢長根の洞門”と比べれば、遙かに空洞の存在に期待が持てる地形をしており……というか、現在でも地中に空洞が残っているのは、ほぼ間違いないと思われる。ただ、辿り着く術がないというだけで……。
15:07 《現在地》
確かな隧道の痕跡を踏んでから、さらに古い道の痕跡である峠の頂上に立った。
遠目の第一印象よりも遙かに深く刻まれた切り通しは、名も知れぬこの低山の峠が、
大勢の人々を通わせた時代が長くあったことを偲ばせるに十分だった。
歴史を見れば後に繰り返される隧道開鑿への熱は、先触れのように、ここにも宿っているように見えた。
私の気持ちは、この静かな峠の頂を究めることで、さらに高揚した。
前の通行人が歩いてから、どれほどの時を空けて、我々はこの地を踏んでいるのだろう。
そんなことに思いを馳せられる、真に静かな峠の静謐を破る一瞬は、本当に独占的で贅沢な時間である。
そしてこの時ならぬ夜明けの窓のような峠の景色を前にして、私はある男の姿を想った。
佐々木六郎。
半世紀以上前、この峠に立って墜道開鑿を決意したと語られる男の名。
ここは佐々木六郎翁、望郷の峠である。
彼が見た景色を見たいと思い立った私は私は頂上で止らず、そのまま四つ足で脇の急な掘り割りをよじ登った。
見下ろす峠の切り通し。
向かって左が既に埋没した坑口跡を発見している西側だ。
峠の西側は昼なお暗い高いスギ林であるから、日没1時間前の傾いた太陽が作る長い影は、既に峠の切り通しを取り込んでいた。
対する東側は冬枯れした明るい広葉樹の森であり、山の陰に日は遮られているが、西側より明るく解放的に感じられた。
平成17(2005)年までは、ここが西仙北町と南外村の境だったわけだが、その頃までここに往来があったはずもなく、実質的には昭和30年に消滅した旧大沢郷村と旧南楢岡村の境として、古老にのみ記憶されている景色であろう。
右の写真は、峠の一番高いところから眺めた、東側(旧南楢岡村)の景色だ。
山しか見えない。
左の写真は、同じ地点から眺めた、西側(旧大沢郷村)の景色だ。
やっぱり、山しか見えない。
(ずっと遠くに見える太平山を除けば)いわゆる険しさは皆無であるが、これは実に笹森丘陵らしい風景だ。日本各地にある丘陵と名のつく土地の景色は様々だが、この丘陵は真に丘陵的で、間違っても山地とは名付けられなかろう。
碑文には、昭和27(1952)年に戦災の都会を逃れて郷里へ帰って間もない佐々木六郎翁が、この峠から村を眺めて、「郷土の発展には交通の確保しかない」と考えたことが、彼がほぼ独力ではじめた隧道開削のきっかけであったと書かれていたが、実際にこうして同じ景色を眺めてみると、村の家々が見えるどころか、道すらも、耕地すらも、人の作ったものはなにも見えなかった。
ただただ蜿蜒と続く山の筋しか見えない。しかし、確かにここには数多の大沢郷の集落が横たわっていて、通学に片道2時間を費やしたと語る人々が暮らしていた。
こんな派手さが全くない眺望にこそ、翁の決意を誘った、土臭いリアリティがあるように感じられた。
これは決して明日の希望を彷彿とするような、そんな前向きになれる峠の眺めではない。
こんな目立たず、地味で、人が住んでいるのかも定かではないように見える広大な土地に、いったい誰が進んで手を差し伸べようか。そんな余裕のある者がどこかにいたか。誰もいやしないのだ。
ならば、そんな郷里に生きようと強く決意する人が、それをするしかないだろう。
まさに、東北地方の寒村という言葉の持つイメージが、この景色である。
この何も秀でない地味な景色を使って、力ある政治家を説得することは容易ではない。
ならば、最初は私が掘って見せるしかないかもしれない。
……48才の働き盛り、彼はそんな風に考えたのか。
地味すぎる峠を相手に、杯を酌み交わしたい気分になった。
急がねばという気持ちはありつつも、ここで時間を過ごさずに、どこで過ごそうかという心地よさがあった。
だから、おそらく仲間たちは峠で大人しく休んでいるだろうと決めつけて、5分ほど一人で尾根付近を歩き回ってから、切り通しへ戻ったのだった。
柴犬氏は律儀に待っていたけれど、じゃじゃ馬がいなくなっていた。
15:14 《現在地》
切り通しに戻ってみると、トリさんがいなくなっていた。
柴犬さんに聞くと、先へ行ったみたいだという。
抜け駆けしたな。
初代隧道の東口を早速見に行ったのだろう。
私はいつもこんな感じで最終的な決着を勿体ぶるが、トリさんはせっかちである。白黒付けに行ったのだ。そのうえ、一番乗りで成果を享受しようというのだ。さんざんクマが怖いといいながら、単独で。今までの探索でも、私は何度か彼女の後塵を拝している(笑)。
遅ればせながら、我々も後を追う。
峠の東側の下り口は、見渡す限りに雑木林が広がっていて、実に軽やかな眺めだった。
しかし、道らしいものは、切り通しを抜けると、あれよという間に消えてしまった。
もとから簡単な造りの歩き道は、長期間の放置によって完全に痕跡をなくしていた。まるで道が見当たらないので、私と柴犬氏はトレースをすぐに断念し、雑木林の斜面をまっすぐ東へ向けて下りはじめた。
トリさんの姿はまだ見えないが、そんなに遠くまではいっていないだろう。
少し前に見た西口跡から始まる、地下の見えざる坑道の進路を想像する。
地表の立体的な地形と、想像上の地中直線を、脳内で照合する。
直線が峠を越えて再び地表へ現われる地点が、目指す東口となる。
この程度の隧道の長さと土被りの大きさであれば、捜索は造作もないことだった。
下りはじめて間もなく、進行方向真っ正面の急斜面密林の向こうに、大きな窪地が見えてきた。
窪地の周囲だけが緑っぽく見えており、笹が深く生い茂っているようだが、自然の窪地や谷ではなく、隧道東口の跡地だろうと思った。
底を目指して、さらに下る。
トリさん、いた!
彼女は前方20mほど先のブル道のようなところに立っていて、例の巨大な窪地を眺めていた。
窪地を挟んで私の反対側に立っているトリさんからならば、この窪地が本当に坑口跡であるかどうか、そしてそれが開口しているか否かが、既に目視できているはずだ。
何が見えるのか、大きな声で聞いてみた。
以下は、このとき私の後方にいた柴犬氏が作動させていたアクションカムに録音されていた、3人のやりとりである。柴犬氏が書き出してくれた。
私もふだん何をしゃべっているのかなんて記録をしていないから、文章にすると不思議な感じがするのだが、臨場感があって面白いので、紹介しよう。
奇跡が起きた。
廃隧道が開口していたことをもって奇跡というのは、普通なら少し大袈裟だ。
だが、このときの私の中では、紛れもなく奇跡の顕現であると信じた。
このレポートのこの場面に辿り着くまで、皆様にご覧頂いた様々なシーンが、この展開を奇跡たらしめている。
奇跡は、この探索と関わりを持った4人を、最後の最後に祝福した!
東口は、開口していた!!
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