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本編公開後、tapioca氏(X:@tapioca18)より、非常に興味深い情報を教わった。
なんと、この隧道の内壁には、“おかめ”だけでなく、“ひょっとこ”(らしき人面)も彫られているというのである!
“ひょっとこ”も、“おかめ”同様に古くから有名な縁起物のモチーフであり、「おかめとひょっとこ」を一対と見なして夫婦円満の象徴とする考えもあるようである――
というのは分かるとしても、まさかの“ひょっとこ”参戦となれば、内郷隧道は“第二おかめぼら”の二番煎じ感を脱して、“おかめひょっとこぼら”という真に唯一無二の存在となり得るかもしれないので、最新の房総半島遠征探索で実に17年ぶりに緊急再訪して確認してきた。
2025/2/6 11:56 《現在地》
17年前と同じように、内郷集落側からアプローチ。
写真は、広い市道から隧道へ通じる狭い市道が分れる分岐地点の様子だが、特に変化はないと現地で感じた。
ただ、こうして写真を同ポジで比較してみると、当たり前だが路面や壁の色合いには真っ当な経年が滲んでいる。
しかし問題は、隧道である。
最近、再訪でよくあるパターン――
あのかくしゃくとしていた道が最近すっかり衰えてしまって――を心配したが、心配は無用で、相変わらずの激狭な短い坂道の先に、隧道の暗がりが簡単に見えてきた。
それにむしろ喪われてるどころか、目新しいものがあった。
“矢印”の位置に真新しい手製の木製の道標があり、そこに、「←内郷やぐら群」と書かれていた。
一緒に小さな文字で書かれていた設置者名には「歴史の郷へ応援団三原」とあり、地元の歴史遺産を大切にする動きが活発になっているようだ。これはますます隧道の健在も確実だ。
すぐ近くっぽいので、脇道に逸れて見にいってみよう。
本当にすぐ近く、隧道へ通じる道路から北側へ30mほど離れた山際、すなわち隧道が掘られている山の同じ連なりに、“二五穴”のような気軽さで、“やぐら”の穴が3つ並んで開いているのが見つかった。大きなソテツが植えられており、以前は畑でもあったかもしれない。
なお、“やぐら”というのは、主に神奈川県鎌倉市周辺に多数存在する中世の横穴式墓地や祭祀場に対する呼称だが、東京湾を挟んで隣接する房総半島でも使われている。
私はもちろん専門外だが、なるほど確かに見覚えのある“やぐら”っぽい。
3つ並んだ“やぐら”の内部を覗いてみると、いずれにも複数の五輪塔が浮き彫りにされていた。
五輪塔の表面に梵字が刻まれているものもある。
南房総エリアに密着した地域ガイド活動のサイト「また旅倶楽部」の2018年の記事「月イチツアー「正木氏の郷」報告」に、内郷隧道と共にこの“やぐら”が紹介されており、15世紀頃に作られたと推定されるとのこと。
ここから私が言えることは、明治に道路トンネルが盛んに掘られる遙か以前から、この地域の人たちは穴を彫ることに熱心だったということだろう。
内郷隧道と直接関わる遺構ではないが、隣接している位置であり、この山の掘りやすさと彫りやすさは、祖先からのお墨付きだったのかもしれない。
12:02 《現在地》
“やぐら”を後に、隧道へ。
ヨシ! 隧道にも目立った劣化はなさそうだ。
照明もちゃんと点いている。
17年前には子供たちが通学や遠足で利用している話を聞いていたが、そんな本隧道のメイン利用者たちは代替わりしても利用を継続してくれているのだろうか。
ちなみに、“やぐら”の看板が新たに設置されていた中でも、隧道に関する案内物はなく、そのへんも変わっていなかった。
それではさっそく、“ひょっとこ”探しを始めよう。
どこにあるかは調べていないが、画像は見てきたので、同じものをこの壁のどこかから探し出せば良いのである。
短い隧道(67m)だから、そこまで苦労はしないだろう。
“おかめ”が反対側(東口)の出口付近だったから、もし対ということを意識したのなら、こっち側(西口)かも……?
12:02
いたーーー!!!
確かにこれは、どうみても“ひょっとこ”で間違いなさそう!
怪人ゾウ男でないなら、ひょっとこ確定!
そして、17年前の探索では岩を触って確かめなかったが、これが刻まれている辺りの岩質は、木の棒で簡単に傷付けられるほど柔らかくはない感じ。
隧道を掘るのに使ったものと同じ様な道具、つまり鑿(のみ)や鏨(たがね)に近い硬度の道具を用いなければ、ここまで深く鮮明な線を刻むのは難しいだろう。“子どものいたずら説”が否定されるわけではないが、通りがかりのいたずら書きのような気軽さではあり得ないと思った。
なお、ひょっとこの由来に、“おかめ”との関係はなさそうなのだが、昔から縁日のお面屋に両者が並んでいるのをよく見た気がする(実はこれは現実の記憶ではなくアニメなどで刷り込まれたものかも)。
多くの日本人の意識の中に、この両者が近しいもののように刷り込まれた時期が明確に出来れば、隧道の壁に両者が彫り込まれた時期を絞り込めるかも知れない。仮にその時期が隧道の開通以前であるならば、当初から存在していた可能性が除外できなくなる。
17年前の私の目が節穴だったという誹りは免れないが、当時はこの隧道を見つけたことだけでも新発見と舞い上がれるくらい情報に乏しい時代だったのでユルして下さい。
しかしこの発見によって、もともと賑やかだった“洞内マップ”が、ますます賑やかになるな。
同央部の防空壕跡を除けば、東口にばかりイベントが盛りだくさんだと思っていたが、西口にも東口の“おかめ”と対になる“ひょっとこ”がいらっしゃったのだ。しかも、右の壁と左の壁に振り分けられているのも芸コマだ。
ただ、これらが同一作者の手によるかどうかについては、断定的な材料がないうえでの推測だが、私は少し可能性は低い気がしている。
【ひょっとこ】と【おかめ】
の60cm四方程度というサイズ感は似通っているが、路面との高さが随分と違う(前者が大人にとってはやや低すぎる)のと、前者は輪郭と頬の膨らみが極端に強調されている作風なのに、後者は全体に彫りが浅い。もっとも、岩質が違っているようにも見えるので、それで作風も違って見える可能性も除外できない。
遠藤隧道のような“おかめ”シングルスから派生した“おかめひょっとこ”ダブルスなのか、最初からダブルスだったのか、謎は残る。
今回の17年ぶりの再訪のために、たまたま通りがかった南房総市丸本郷の市道沿いで、私は見つけてしまった。
「居酒屋おかめ」の看板を掲げたお店を。
ネット上の情報を見る限り、残念ながら閉業されている可能性が高そうだが……
お店の所在地は、ちょうど2つの“おかめぼら”のどちらからも同じくらい離れた位置だ。
もしや、このお店の女将さんは、2つの“おかめぼら”から……
つうか、マジで流行ってたことがあるのかもな、このエリアで“おかめ”が爆発的に。
南房総に知り合いのいる方は、いますぐ“おかめ”について問い合わせてみて下さい!
無事、入洞直後に情報のあった“ひょっとこ”を確保できたが、17年前の私の節穴さはホンモノだと分かったことで、他にも見逃しがあるとイケナイということで、洞内全体を再確認することにした。
……で、
“ひょっとこ”向いの
矢印の場所に。
「明治」
の2文字が刻まれているのを見つける。
この瞬間のゾクリとした震えは、忘れられない。
たぶん、17年前の私が解き明かせず、道路管理者さえ未だ知らない、この隧道が秘めたる開通年の手掛りを見つけた瞬間だった。
再訪直前に執筆した机上調査編では、少ない手掛りから、明治16年以前の竣功は間違いがなく、加えて、明治14年に安房郡長が吉田謹爾氏となってから本格化した枢要里道改修工事で建設された可能性があることを導き出していたが(つまり明治14〜16年竣功?)、直接的に言及した資料は発見ができなかった。
「開穴」
うっわーー! 出たよ…。
先に見つけた「明治」という文字の60cmほど左側に、さらに大きな2文字が横書きで…。
「かいけつ」と読むのか。
どちらも拙い字だったが、不思議といたずら書きだとは思わなかった。
岩に達筆に文字を刻むなんて極めて特殊な技能だし、そんなことよりも、現代人ならばまず思いつきもしなさそうな「開穴」という表現に、現代の作文を否定されたと思ったのだ。当サイトでも過去一度も用いたことがない表現であるが、意味は容易く想像できる。文字通りしかない。
トンネルを「隧道」と呼ぶことすらまだ一般的ではなかった明治以前、そのものに対して、「人が通れる穴」という素朴な認識を持つ人は多かった。「開穴」という表現に、そのような市井の認識を見た気がしたのだ。
だが、「明治」と「開穴」の文字の間に読み取るべき、あって然るべき、
肝心要の年数を示す数字が、なぜか極めて読み取り難い!(涙)
いろいろな角度からライトを当てながら、陰影を強調し、必死に読み取ろうとした。
こっちか〜? こっちなのか〜〜〜? いやこっち〜〜?
そしてついに……
「十五」
と読める線を見出した。
画像だと分かりづらすぎて、こじつけを疑われるかもしれないが、「五」は99%間違いないと思う。
その上の「十」は、文字の下半分が壊れて欠けた「十」の可能性が高いだろう。
消去法的にも、ここが空きだと配置が不自然だし、「二十」でも同様だ。
「年」はさらに読み取れず、かすかに小さな「ニ」のようなものが見えなくもないが、これが「年」の文字の一部であるか、単に鑿の痕を誤認しているだけか、小さな文字で「壬午」と明治15年の干支を刻んだものの一部を読み取ったか、どの可能性もありそうだ。
いずれにしても、「十五」である可能性は8割以上あると思う。
明治14〜16年の可能性を疑っていた状況を掛け合わせると、これがドンピシャすぎて少々恐い。
……ゾクリ。
かいけつゾクリ!
壁の文字をまとめると、
「明治十五開穴」
と読み取れるものだった。
文字の配置も大きさも洗練されているとは言いがたい印象だが、逆にそれが素朴な手作り隧道の真実味があるというか、いたずらでこんな内容を書くとも思えないので、これが文献的には未だ解決していない本隧道の竣功年に関する“一次資料”だと考えたい。
こうして一度気づいてしまえば、「十五」の部分以外はなかなかに鮮明な文字であり、なぜいままで誰も言及しなかったのかと思われたかも知れないが、自己弁護を兼ねて書かせて貰うと、これは見えなくても不思議がない。
私も普段の注意力であれば確実に見逃していた。暗い隧道内だし、紛らわしい鑿の痕が壁一面にあって、適当に光を当てた程度だと【こんなん】だからね。 読める? 文字のある同じ壁面ですよ。そもそも、壁に何かあると思わないと、光を当てながら、その何かを探さないんだよ。
といった具合の西口での“ひょっとこ”だけではなかった大発見が、“緊急再訪”を銘打った本編で伝えたい内容の9割方だったが、せっかくなので、東口で待つ“おかめ”とも再会して帰ろうね。
もうちょっとだけ、新発見あるよ。
2025/2/6 12:10 《現在地》
洞央付近にはこれといった新発見はなく、17年ぶりの東口……愛すべき“おかめ”の元へ。
しっかりと刻まれた、とっても彫りの深〜いご尊顔、健在でありました。“おかめ”は不滅!
そして、この“おかめ”の向かい側の壁面にずらっと並んでいるのが、以前も報告した7基の石仏群である。
見ての通り、ずらっとした配置は微妙に等間隔ではなく、またサイズや岩の彫り込み、光背らしき意匠の有無などにも違いがある。
さらに、これは岩質の問題だが、手前の出口に近づくにつれて岩の風化が進んでいて、大きめの亀裂も生じている。
これらが同時に安置されたものでないことは以前の探索でも把握していたが、今回はこれら7体の石仏の配置と建立時期を整理してみよう。
何か見えてくることがあるかも知れない。
1番から7番まで、以下の表にまとめてみた。
番号 | 写真(クリックで拡大) | 銘 | 年 | 光背 | その他備考 |
1 | ![]() | 牛頭観世音 | 昭和二十二?■ | ― | 最も新しい? |
2 | ![]() | 牛■■世音 | (摩滅し不明) | ― | 最も風化 |
3 | ![]() | 牛頭観世音 | 昭和十七年 | 有 | 銘に色付き 左右に膨らんだ光背 |
4 | ![]() | 南無牛頭観世音菩薩 | 大正十一年 | 有 | 最大かつ深い光背 |
5 | ![]() | 南無牛頭観世音菩薩 | 大正四年 | ― | 瓶を奉納 |
6 | ![]() | 牛頭観世音 | 明治十八年 | ― | 瓶を奉納 |
7 | ![]() | 馬頭観世音 | 明治十■年 | ― | 表面ザラザラ |
こうして並べてみると、坑口に近い側が古く、奥へ行くに従って新しくなっていく傾向がある。
一部、摩滅していて建立年の読めないものがあるが、明らかな逆転は見当らない。
この法則性からいうと2番目に古そうな6番が「明治十八年」とはっきり読み取れるため、7番がさらに古いとすると、「明治十■年」の摩滅して読み取れない「■」は「五」であって、竣功と同時かもしれないと思った。
このように多数の牛頭観世音が、時期に法則性なく奉納された経緯については、前掲の「また旅倶楽部」の記事に、地元の方による……「牛を飼っていた家が多かったので、牛が死んでしまうと、ここに石仏を置いたんだよ」……という証言が掲載されていた。
牛馬の行旅中死に限定せず祀ったようにも読み取れる。日常的にこの道を通行していた牛馬であったろうか。
南房総地域のトンネルでは、他にも洞内に石仏を安置しているところがあるが(例【棚石トンネル】)、他の地方では滅多に見られないものであるから、これも地域の風習といえるかもしれない。
ところで、3番と4番にのみ光背という飾りが彫られているのであるが、次はその様子を見ていただきたい。
特に明確なのは4番の大正11年建立「南無牛頭観世音菩薩」で、その彫りの深さは前述の“内郷のやぐら”に匹敵する。“おかめ”よりも深く、10cm以上も抉り彫って、舟形の光背を表現していた。だが、私が問題にしたいのは、その隣にある3番の昭和17年建立「牛頭観世音」の光背だ。
こちらにも光背があるが、4番よりも新しいはずなのに、その深い光背の威光に遠慮したかのように、左側は浅めに、右側は深く掘られていて明瞭である。
そして、その形が明らかに……
“おかめ”だった。
正直、真摯な信仰の賜物であったとしたら、笑っては大変失礼だと思ったが、なにせこの向かいの壁の近くには“おかめ”がいるので、これはもう、“ダブルおかめ睨めっこ”にしか思えなくなった。
が、マジレスすると、「二重円光」(参考)という光背の一種と思われる。
たぶん、“おかめ”じゃない。
じゃないだろうけど、この下ぶくれの形を見た誰かが、そこに“おかめ”性を見出してしまい、ならばとホンモノの“おかめ”を向かいの壁に彫ったんじゃないかなんて。それが、この隧道が“おかめぼら”になった“発端”かも知れないなんて思ったり思わなかったり。彫ったんだけにね(笑)。
……ほんとこの人、いつまで“おかめ”の話をしているつもりなんでしょうね。いい加減「白砂川」の続きとか書けよっていうね……。
“おかめ”と“おかめ型光背”の位置関係はこの通り。
こうして見ると、光背の方はとても大きくて、かの遠藤隧道の“おかめ”ほどではないが、迫力がある。たぶん“おかめ”じゃないけどね!
で、真面目にそんなことを考えながら、周囲の壁を精査していると、最後の発見が待っていた。
“矢印”のところにも、明瞭に鑿痕と区別できる文字が発見されたのである。
何か書いてあるでしょ?
「イハイロ」
……ナニコレ?
古い右書きの文章だとしたら、「ロイハイ」??
私の想像力が足りないのか、全然分からない。
実は漢字二文字で「仈㐰」だったり? だとしても意味が分からないが、右書きであれば「㐰仈」で、「㐰」は「信」の異字体なので、「信仈」という人名である可能性があるかもしれない。
文字自体は明らかにそこに存在していて、字体の読み取りは容易いが、意味が全く解けないという、珍しいパターン。
どなたか、解読出来ませんか……?
といった具合で、再訪による新発見の報告は以上である。
発見した順序に忠実に紹介したので、最後がよく分からない文字で終わってしまって気色がワルいが、竣功年と見られる壁文字を発見した大成果が本題だったんだからね! 忘れないでよね!