久々の“早川シリーズ”だ。
3000m級の南アルプス山脈に抱かれた、全国屈指の純山村、山梨県早川町(はやかわちょう)。
町名と同じ名の川に沿って延々57kmも続く山梨県道37号南アルプス公園線が、この沿道に長細く連なる同町の絶対的生命線である。
それだけに、この道路の整備に対する地域の注目度は代々極めて高く、各所に改良と換線の名残を見ることが出来る。
今回紹介するのは、早川町西之宮にある白石(しらいし)トンネルの旧道だ。
右図は、同トンネル周辺の新旧地形図の比較だが、明らかに、トンネルの位置が変化しているのが分かるだろう。
このことは探索の事前に把握していたので、旧トンネルがあろうという期待感を持って私は現地を訪れることになった。
探索日は平成23(2011)年1月2日で、以前紹介した角瀬トンネル旧道、保隧道、その次の探索となる。
道としてのストーリーは上記2編とあらかた共有しているので、これらの前作を先にご覧頂いた方が、今回の探索は分かりやすいかと思うが、わざわざ読みに戻る手間は不要である。どこにでもありそうな旧道として、フラットに楽しんで貰えれば十分だ。
2011/1/2 7:57 《現在地》
保隧道跡探索の最後の場面から10分後、私は保(ほ)集落にいた。
保は、町内に40ほどもある集落(しかし町の総人口は1000人弱に過ぎない)の中では大きな方で、昭和31年に5村の合併で早川町が誕生した、その前身の一つである都川(みやこがわ)村の役場所在地だったところだ。ちなみに合併当時の人口は、都川村だけでも約1300人あったから、その後の過疎化の深刻さが分かる。
そして、保バス停があるこの写真の位置が、おそらくかつての役場前であり、新旧道の分岐地点でもあった。
今回の本題からは外れるが、ここで分岐していた新旧道のことを少し説明する。
以前のレポートでも紹介したが、明治末の地形図を見ると、当時の“里道”は、草塩集落から保集落まで、早川の左岸を通っていた。
これが昭和初期の地形図では、ずっと右岸を通過するように変化しており、途中に保隧道が登場しているのであった。
現在の県道は、このルートをベースにしている。
旧ルートにあった保で早川を渡る橋だが、現在も同じ位置に架かっていた。
銘板などが全くないので、橋名も竣工年も分からないが、古めかしいコンクリート主塔に支えられた、車道用としては究極レベルに狭い吊橋だ。
手前の道も含めて、ほとんど軽自動車専用のサイズ感で、全長は約100mあるが、最大重量制限はわずか2トンしかない。
草塩集落の裏玄関である橋だが、表玄関である草塩橋(14トン制限)と較べて、脆弱ぶりが際立っていた。
8:03 《現在地》
保集落を出ると、すぐに家並みが途絶え、左山右谷の道となる。
このとき、谷底を流れているのは、さっきまでの早川本流ではなく、その支流の保川である。
そして、集落を出てすぐ、またしても極めて狭い道が右に別れ、その道は即座に保川を渡って対岸へ向かっていく。
この狭い橋は保川橋という名前で、分岐地点に車止めのポールが立っていることからも分かるとおり、人道橋である。
銘板によれば、平成6(1994)年に竣工したばかりの新しい橋で、まるでサイクリングロードのような風体だが、対岸に渡っても、どこかへ通じていることはない。渡って10mほどで行き止まりという、対岸の山林にアクセスする役割だけを持った橋だ。
この奇妙な橋、実はこれまた、明治時代のルートをなぞる位置に架かっているのだった。
左図を見ていただければ、明治末頃の里道は、この場所で保川を渡って、それから保川と早川に挟まれた白石の細い尾根を乗り越えて、早川上流へ伸びていたことが分かる。
対して、昭和初期の里道は、ここではなく少し上流で保川を渡り、そこから白石の尾根を隧道で抜けて、早川の上流へ向かっていた。
これが、この場所での探索対象、旧白石隧道だ。
明治のルートを維持しようとする謎の勢力があるかと思えるような橋の存在。橋の先のルートも気になるが、目に見えるような道はなかったし、車道でもなかったと思うので、スルーして旧白石隧道の探索へ向かうことにした。
8:11 《現在地》
明治ルートを対岸に見送ってからほんの数十メートルで、また道が二手に分かれる。
今度は誰が見ても新旧道だと分かる景色で、旧道の行く先が資材置き場のような使われ方をしていることが、ここからも見通せた。
ここで別れる新旧道はすぐ先で再び交差するのだが、交差の前に保川を渡る。
渡った直後、ここから正面に見える低い尾根を、白石トンネルで潜る。
新道が白石トンネル、旧道は白石隧道であるが、「トンネル」と「隧道」だけでは区別が付きづらいので、「旧白石隧道」と「白石トンネル」と表現しよう。
旧道は保川の川縁を弓なりにカーブしており、直進している新道(=現道)との間に空き地が出来ていた。そこは平らに均され、資材置き場のように使われていた。
旧道は2車線の幅があり、うっすらとセンターラインも残っていた。
しかし、途中に幅員減少の警戒標識が途中に立っていて、次に現われるだろう保川を渡る橋か、その先の旧白石隧道の両方、若しくはどちらかが、狭隘だったことを伝えてきた。
チェンジ後の画像は、この旧道の行き着く先だ。
保川を渡る橋は、架かっていなかった。
その直前で行き止まりになっていた。
橋がないので、現道へ戻って進むと、保川を渡る橋は万年橋という名前だった。
うっかり銘板を撮影し忘れたので、竣工年を思い出せないが、この橋の開通が旧橋を亡き者にしたのは間違いないだろう。
橋上から下流方向を見ると、使われていない巨大な橋台が川の両岸に相対していた。
これが旧万年橋の遺構である。
旧万年橋は、おそらく上路トラス橋だったと思う。橋台にある橋桁を乗せるための切り欠きの高さがとても大きい。
なお、橋梁史年表には、「昭和35(1960)年架設、全長28m、木桁橋」というスペックの万年橋が、早川町所在の同名の橋としては1本だけ記載されていた。もしこれが事実なら、今の橋は少なくとも3代目の橋で、少し下流に架かっていた明治ルートの橋(現在の名前は保川橋)を先代と見なすなら、4世代以上の世代交代が行われていたことになる。
こうして保川を渡れたり渡れなかったりする2世代の道は、橋の直後に斜めに交差し、それぞれの世代の隧道へ向かう。
正面に見えるのは現道の白石トンネルで、目指す旧道トンネルは左のフレーム外に見切れたところにあった。
旧白石隧道へ向かう旧道は、県道から白石集落へ出入りするための生活道路でもあるので、健在である。
にもかかわらず、入口に(予告という表現抜きで)「全面通行止」の標識が立っているので、“道路標識絶対守るマン”は白石集落へ行くことができない。
察しの良い人ならばお分かりの通り、この「全面通行止」は、すぐ先に待ち受けている旧白石隧道のためにある。白石集落は無罪だ。
真新しい轍を外れ、矢印のように進むと……
8:14 《現在地》
キタ いや、 来てない…!
旧白石隧道、無念の完全密閉である。
……前回の旧道にあった保隧道も完全密閉だったので、嫌な予感はあったが、残念。
これでも、坑門の外観を留めているだけで、良しとすべきかも知れない。
間近に寄って、観察してみよう。
あからさまに閉塞しているために、ロープを超えて間近に寄ってみようとする人は、多くないかも知れない。
意匠的にも、特に凝った要素を持たない平凡なコンクリート坑門であり、一瞥のうちに済まされてしまいがち。
サイズ感にも特筆すべきところはなく、1.5車線程度の道幅は、旧道のトンネルとして、もっともありがちだった。
……あれ? いったい何をレポートすれば?!
そんな気持ちを抑えて、坑門の上と右側にある扁額及び銘板のチェックへ。
トンネルの顔が坑門ならば、名刺は扁額だ。
御影石製の扁額に左書きの「白石隧道」が、崩された達筆な書体で刻まれていた。彫りが深く、線も太いので、小さい割りには迫力があった。扁額の大きさに対して文字が大きいので、窮屈な印象もなきにしもあらず。
この堂々たる筆跡の主は、扁額に一緒に刻まれていた小さな文字より判明した。
「山梨県知事 天野久」……と。
天野久(あまのひさし)氏は、私が知る限り、おそらく日本で一番多く扁額に名前が刻まれている人物だ。
といっても全て山梨県内のトンネルなのだが、ある期間に建設された県内のトンネルの相当数に彼の名が刻まれているので、山梨県だけとはいえ、おそらく全国で一番多く扁額に名の刻まれた人物であると思う。
天野久氏が知事として山梨県政に君臨した昭和26年から昭和42年までの16年間、彼は県主導の総合開発計画を策定して、新笹子トンネルや富士スバルラインなどの交通網整備を土台に、多くの大規模開発を行った。
中でも野呂川林道の建設を基幹とした野呂川総合開発は代表的事業で、功績ともされている。野呂川は早川の上流(南アルプス市・旧芦安村内)の呼称である。そして、野呂川林道の整備と、早川沿いの県道整備は一連であり、白石隧道の建設も、その大きな流れの中で行われたと考えて良いのだろう。
……一見して、閉塞、つまらなそう、という印象を受けたにもかかわらず、そこにあった扁額1枚……扁額に刻まれていた天野久という名前だけで、ご飯3杯は行けるみたいになってしまったのが、おかしかった。彼こそは、土木重視の政策や毀誉褒貶の多彩さも含め、昭和の“三島通庸”の一人だと思っている。
この扁額とは別に、坑門の向かって右側に取り付けられていたのが、写真の銘板だ。
こちらは縦書きで、「昭和三十五年三月三十一日竣功」と刻まれていた。
年度末日の開通というところに何か政治的な匂いを感じる気もするが、確かに天野久氏が県知事として在任していた最中の竣功年であった。
古さも、外観からの想定の範囲内と言ったところだろう。
しかし、先ほど掲載した昭和3(1928)年の地形図にも、既にこの位置に隧道が描かれており、昭和35年に行われたのは、それ以前から存在した隧道の大改修だったのだろう。
(いま思えば、現地でのこの判断は誤りだったのだが……)
ちなみに、『道路トンネル大鑑大鑑』巻末のトンネルリストの記載内容は、次の通りである。
白石隧道 一般県道奈良田波高島停車場線
延長104m 車道幅員4.5m 限界高4.5m 竣功年度昭和34(1959)年 覆工あり
『道路トンネル大鑑』巻末トンネルリストより
今となっては、上記のデータから、この壁の向こうに隠された内部を想像するしかないようだ。
幅は普通車同士がぎりぎりすれ違える程度でしかなく、時代を考えれば普通だったろうが、狭隘。
竣功年が銘板と違うと思うかも知れないが、竣功年度という表現になっているので、間違っていない。
トンネル内には照明もあったようで、なぜそれが分かるかと言えば、坑門の左側に小さな制御箱が残っていた。
次回は、現道のトンネルを通って、反対側の坑口を見よう。