隧道レポート 金沢市夕日寺町の廃隧道(夕日寺隧道) 最終回

所在地 石川県金沢市
探索日 2018.11.13
公開日 2019.04.15

夕日寺隧道 北口前の状況


2018/11/13 8:13 《現在地》

成し遂げた!
いまから約一時間前、この山の裏側で両掌を泥まみれにしながら必死に土嚢を穿(ほじく)った目的が、ここで果たされた。
人里から遠い北口は、辛うじて、本当に息も絶え絶えで、開口していた。
それはまるで、救援を信じる溺者が水面に出した最後の掌のようだった。

左の写真の場面に開口部があることは、はじめ絶望的に思えた。
だが、実際には中央部に右写真の開口部が残っていた。
土塊の山を登って近づかなければ、これには気付けない。まさに、最後まで諦めない心が大切だと訴える、少年漫画の熱血展開のようであった。

この北側坑口の外見的特徴を説明することは難しい。
南口よりはマシであるが、それでも全体の8割以上が土砂の下にあって、見える特徴は胸壁にある扁額を収める窪みくらいである。この窪みは南口にもあったが、やはり窪みがあるだけで肝心の銘板は見当たらなかった。
これは私の想像だが、安価な木板で代用していたのではなかったろうか。おそらく地元生産組合が管理者である農道か林道という、この隧道の慎ましやかな実態には似つかわしい風景だと思う。
しかし、扁額が現存していれば、せめて隧道名だけでもはっきりしただろうに、そこは悔やまれた。



とりあえず、開口という望ましい回答を得られたことで安心した私は、ようやく周囲をぐるりと見回してみた。
坑口前に立って振り返ると、そこは分岐地点であり、道が二手に分かれていた。
右はいま来た道で、左は結局私にも探索されず捨て置かれた最も哀れな廃道である。

そして注目すべきは、この分岐地点にあった林道標識だ。
おそらく左の道を指していると思われる位置に、「林道 夕日寺2号線 幅員3.0m」と書かれた古びた標識が突っ立っていた。
私はこの探索の中で「夕日寺1号線」の【林道標識】を見ており、その際に「2号線もあるのでは」と疑ったが、現実の光景となった。




右図で青く着色したルートが、発見された2本の林道標識の位置から推測される、「林道夕日寺1号線」「同2号線」だ。

おそらく、隧道はこれら林道の一部ではないと思う。
隧道を含む、図中で桃色に着色した部分は、林道ではなく農道だと考える。
根拠は、この区間に林道標識がなかったことが一つと、夕日寺側の入口(起点?)にあった【看板】に、「農・林道につき一般車輌の通行を禁ずる」と書かれていたことを挙げたい。
「農・林道」のうち、林道がこの夕日寺2号線を指しているとしたら、残るのは農道で、どこかに農道があるはず。それが図中桃色の区間だと想定している。(こういう推測は楽しいが、自己満足的でもある)

いずれにせよ、林道や農道はあくまでも林業者や農業者のための道路であって、公益が最重視されているわけではない。農林業の利害関係者が自ら建設、あるいは維持を行うのが、こうした道の原則的態度である。
したがって、こうした道路でしかアクセスできない柳橋川の谷間は、いまもそうだが、かつてもあっても関係者以外にとっては縁遠い土地であったろう。
中でも「夕日寺隧道(仮称)」の存在こそは、物理的にも精神的にも分かりやすい最大最強の関門であったと見る。

その姿よ、私の前に甦れ!!




夕日寺隧道 洞内探索



三日月状の開口部は狭く、高いところでも50cmもない。隙間と表現すべき開口部だった。
そして、空気の流れは感じられなかった。1時間ほど前の僅か数分間、
ここには何年ぶりに微かな風が吹いたと思うが、もう止んでいる。
本隧道は、この目で見たという最も信頼できる確度で、閉塞が約束されている。



隙間に照明を先行させると、ほとんど閉塞していた原因が判明した。
巨大な土嚢袋の山がそこにはあった。
やはり人為的に埋め戻されていたのだ!

おそらく、私が期待したような、「集落に遠い側は閉鎖しない」という類の手心は、加えられていなかった。
この全長160mほどのマイナーな隧道は、なぜここまで慎重に厳重に封鎖されなければならなかったのだろう。
いずれにせよ、私がこうして内部にアクセスできたのは、お膳立てされたものではなく、ほとんど偶然だったことが判明し、改めて緊張の色は濃くなった。

8:14 洞内探索開始!




坑口に積み上げられた土嚢の山を振り返る。
下にあるのが1トン袋で、その上に緑色の小さい土嚢を積んでいるという構成は南口と似ている。
しかし、南口にはない隙間が出来ていたのはなぜか。埋め戻している以上、封鎖する意図があったとは思うが、現状は開口していた。

単に積み方が南口よりも雑であったために、自然に崩れてこうなったのか。
なぜか道路線引き用の白スプレーが土嚢と一緒に残されているなど、現場は雑然とした印象があり、閉塞を行った作業者にも、「南口はしっかり塞ぐが、こちらは念入りにする必要はないだろう」というような意識があったのだろうか。

真相は闇の中だが、二度と人目に触れる想定のなかっただろう風景が、ここから始まる。




土嚢の山を下りた最初の一歩から、洞内は水溜まりだった。
私の靴の中はこの時点で既にぐっしょりだったので、意を決して踏み込んだ。

水溜まりの存在からも分かるとおり、洞内は非常に湿り気を帯びていた。
入洞直後のこの時点で湿度100%で、たちまちにカメラのレンズは曇り、1枚ごとにタオルで拭ってやらないとまともに撮影できなかった。
天井からは大量の水滴が滴り落ちていて、乾いた場所は全くなかった。
隧道は谷奥の鞍部直下であり、帯水層を貫いているのかもしれない。

内壁はコンクリートによって巻き立てられていて、この点は(素掘りより)幾分進歩的で贅沢なトンネルといえたが、無理にでも巻き立てを行わなければすぐに圧壊するほど地質に恵まれなかったことが想像しうるし、大量の湧水と、見るからに薄っぺらい凸凹の目立つ壁面を見ていると、この隧道には到底、コンクリートトンネルを評すべき「堅牢」という表現は当てはまらないと思った。

もう一点、特筆すべきことは、断面の小ささである。
南口から覗いたときにも感じはしたが、自分の身体を入れたことで実感した。まさに軽トラサイズの狭さで、車の通行を想定している隧道としては極小のサイズ感だ。
全国にトンネルマニアによって知られた“自動車ギリギリ”の極小トンネルがあるが、この隧道もそれらに比肩しよう。体感で幅2.4m、高さ2.4mくらいだ。



崩壊だ。

北口から30mほど進んだ地点で、天井の一部が抜け、崩れた土砂が洞床に小山を作っていた。
崩壊地の周囲は特に激しく出水しており、透き通った水が洞床に勢いよく弾けていた。

幸いにも閉塞には至っておらず、崩土を踏み越えての通行が可能だが、生々しい落盤の現場を前に、
この先 隊道 崩壊に付危険 通行止」という【看板】の訴えが、いよいよ真実味を帯びた。
水気の多い、いかにも質の悪そうな崩壊であり、復旧が断念されたとしても不思議ではない。

だが、ここでひとつはっきりしているのは、

崩壊に抗おうとした

という事実だ。



崩壊現場の天井は、なんというか…… もう……

ダメだった。

見てくれ! この破れかぶれの補強!

この崩壊現場、隧道完成当時から問題が予期されたのだろう。ここには他の場所には見られない補強用の鋼鉄製支保工(セントル)が、コンクリート覆工の内側に巻かれていた。

ここまでならばときおり目にする普通の補強だが、セントルとセントルの隙間で発生した落盤の空洞を塞ぐように、数枚の長い木板をセントルの下に固定するというイレギュラーな状況があった。
しかもその固定方法は、通常の土木工事の材料ではない鎖やロープといった日曜大工的な材料によっていた。結果、恐ろしく見栄えのしない形で木板が縛り付けられており……、そんなものでは当然新たな落盤を塞ぐ役には立たなかったので、木板を破壊して大量の土砂が洞床に山を作っていた……。

イメージとしては、あばら家の雨漏り屋根を、その辺の木っ端で塞ぐような素人土木だ。
これが万年一般者通行禁止として遠ざけられていた、関係者だけが通行した農道隧道の落盤補修の実態か……?!
人の本性が非常の時に顕れるように、この農道隧道の本性も、崩壊の間際に顕れたのか。
一事が万事ではないとしても、公道と呼ばれるような道路とは一筋違うと思わせられる、驚愕すべき風景だった。



崩壊隧道の内部で新たな落盤に巻き込まれ、閉じ込められる。
そのような、いかにも物語的な出来事は、ほとんど天文学的に低い確率でしか発生しない。
だから、崩れつつある落盤地点を乗り越えて、閉塞が約束されている南口へ向かうという、
人によっては無謀だと感じられそうな窒息的探索も、平気で行うことが出来る。

ただし、いくら確率が低いと分かっていても、気持ち悪いという気持ちはある。
稀に稀に起きる大地震が、いま起きないことを願っている。



落盤地帯を過ぎると、とりあえず見通せる範囲に崩れは見えなくなった。
しかし、とにかく断面が小さいため、コンクリートの圧迫感が半端ない。
洞内は僅かに上り勾配であるようで、この先は洞床の水が引いている。
しかし、相変わらず天井からの水の滴りは激しい。



路面の水が引いて、おそらくこのシーンに限って言えば現役時代と変わらないだろう。あるべき出口が見えないことを除けば……だが。

それにしても、このように小さな断面の隧道で、全体にわたってコンクリートが巻かれているのは結構珍しい。
大抵は、坑口付近など特に「悪い」部分だけを巻き立てて、残りは素掘りのままか、せいぜいコンクリートを吹付ける程度ということが多い。
力学的にも、小断面のトンネルは、大断面のものに較べて遙かに強く、ここまで念入りに巻き立てられているのは、よほど「悪かった」のだと思う。

既に入口から80mほどは進んでおり、見えない出口までの中間地点に差し掛かっているはず。
土被りが最大となる地中深くを通行しているはずなのに、未だに壁から水が垂れているのも不気味だった。



←こんな補修、さすがに反則!

これは、酷い。 酷すぎる。

コンクリートの巻き立てが1帖くらい剥がれていて、隠されているべき地山が露出していた。
きっと薄かろうとは思っていたが、5cmもなさそうな巻き厚を目の当たりにして、さすがの私も沈黙を禁じ得なかった。
いや! それだけならばまだ良かったが、このつっかえ棒はアウトでしょ!

つっかえ棒に支えられている、2帖分くらいの大きなコンクリート壁面片が、いまにも落ちてきそうになっているし、見たらいけないものを見た気分……。



おおっ!
遂に乾いてきたぞ、壁が。
ようやく分厚い帯水層を突破出来たのか。

この人間にも感じられる洞内の平穏への変化を、野生動物は敏感に感じ取っているのか、これまでは全く見当たらなかったコウモリたちが現われ始めた。
多くも少なくもない、数十匹という微妙な数だった。しかし、洞床に糞の堆積がまだ少ないところからして、ここをねぐらにするようになって数年も経っていない印象だ。
いまは試住期間のようなもので、本格的にコロニー化すれば、いよいよ人間はここへ立ち入ることが難しくなるだろう。この狭さでコウモリ地獄化するとキツいです…。




この写真は北口を振り返って撮影した。
おおよそ120mは離れたと思われる北口の頼りない明りが見える。
また、いつの間にか勾配が変化していて、上りだったはずが下りになっていた。
かなり微妙な勾配だが、峠を抜く隧道のセオリー通り、ちゃんと拝み勾配になっているようだった。

ところで、気付いただろうか?
この隧道が、実は地図に描かれているような、直線ではないということに。
なんとも微妙な感じに、左右に蛇行……というか、ブレている。
測量がまずかったのかと思うが、素掘り隧道にありがちな、曲がりなりにも巻き立てられたトンネルでは珍しい、思わず苦笑いのブレブレ軸線だった。




洞内歩行動画。

このトンネルの中では最も平穏な辺りで撮影しているので、普通?のトンネルっぽいが、

世界から切り離された暗闇である。



そしてまた、内壁が濡れそぼっていく。
薄っぺらなコンクリートは、無数の亀裂によって白い格子状の模様を描いていて、もはや地山を抑える力などないと自白していた。
この変化に、出口だった場所が近づいていると分かったが、代わりに見えて来たのは、予期された壁だった。

1時間前、カメラを射し込んで覗くだけだった空洞に、肉体を持った私が辿り着こうとしている。
探索の勝利に酔った。
この行為で経験以外の何を得たかは分からないが、経験を得る以上の目的も特にない。経験したいから、ここへやってきたのだ。




8:22 《現在地》

“覗きカメラ”では、行き先が謎だったぶっといパイプだが、ここに来た者だけが答えを見ることが出来た。

行き止まりである。
やはり土嚢によって封印されていた。
その先は南口の地上であるはずだが、【土で埋め】戻されていて、地上からは全く窺い知れなかった。(ここを掘れば貫通できそうだ)

そもそも、ここにパイプを埋め込んだ目的だが、謎だ。



最後は、ここ。

私が掘り返そうとしていた場所なのだが……

U字のコンクリートが置かれてる!

外からはその存在に気付かなかったが、1トン袋と小さな土嚢袋の間に障害物として置かれていて、掘り返しを鉄壁に阻止していた。
私が手の力だけで掘り返そうとしていたのは、改めて無理筋だったのだと思い知らされた。

しかし、よ〜く目をこらして欲しい。
私の努力の爪痕が、一つだけ残っていた。
緑色をした小さなシダが見えるでしょう? あれは私のほじくり作業で紛れ込んだとしか考えられない。
「だからなんだ?」は、言わないで。


このように、隧道は集落に面する南口が、特に念入りに封印されていた。
二度と誰も来ないだろう壁をしっかりと目に焼き付けて、私もここを後にした。
そして、タイムオーバーしまくった本探索を終了させた。





ミニ机上調査編 〜トンネル建設誌〜


御所隧道(仮称)の発見者かつ情報提供者であり、間接的には私の夕日寺隧道探索のきっかけを作った地元在住ぶるにゃん氏が、2019年3月31日にメールで教えて下さった1冊の文献の存在は、これまで疑問形で書かねばならないことが多かった夕日寺隧道(仮称)について、初めて「歴史」として語られる内容を明らかにする、とても画期的なものだった。

文献のタイトルは『長江谷物語』といい、夕日寺公民館が、公民館創立50周年および金沢市編入65周年の記念として平成14(2002)年3月1日に発行していた。
ぶるにゃん氏曰く、御所隧道の正体が夕日寺隧道ではないかと考えていた時期に、金沢市立図書館で見つけ出したという。
この本の中に、住民の回想録の一編という形で、夕日寺隧道の歴史が収録されていた。
回想者は石原勇蔵という人物で、回想の表題は、「土地貧乏に泣いた夕日寺」である。
このタイトルから、あなたはどんな物語を想像するだろう。

以下、回想録を3章に分けて引用する。
まずは第1章、物語であれば「前史」というべき内容だ。
なお、一緒に掲載した地図は、同年代の夕日寺地区が描かれた、昭和5(1930)年の地形図である。


土地貧乏に泣いた夕日寺

夕日寺町の農地の60%以上が、峠(犬山峠)を超えた山の向こうにありました。
山を超えて肥料を運び、稲や野菜を運ぶのは大変な重労働でした。
町民の夢は、何とかしてトンネルを作りたいというものでしたが、何分にもお金と労働力が問題になります。
何年も、何十年も、口を開けば「トンネル」というのが挨拶代わりでした。

『長江谷物語』(金沢市夕日寺公民館)より

「おはよう!」 「トンネル掘り日和だな」 「今年は掘れるかな?」 「トンネル掘りたいな〜!」
……みたいなやりとりが、日夜繰り広げられていたというのか。

何十年ものあいだ、真剣にトンネルを欲していた夕日寺町住人たち。その熱意の根源は、日常を便利にしたいという万人に共通する欲求であった。
かつて、夕日寺地区の農地の6割以上が、峠を越えた山の向こう、すなわち柳橋川の谷間にあったという。
後の記述に出てくるが、この谷間を地元では「後谷」と呼んでいたそうだ。まさに集落の後背にあって、その生活を支える、生産の拠点を思わせる名付けである。
だが、その不便な立地のために、単純に考えても夕日寺住人の労働の6割に、山越えの往復が付属したと思われる。

集落と後谷を隔てる、「犬山峠」と呼ばれていた峠は、【石頭(いしなづこ)】という奇妙な名の石仏があった、レポート内では「旧道」と表現した地点に他ならない。
集落からは70mほどの上り下りであり、さほど遠いわけでも険しいわけではないが、それは涼しい日に軽荷を背負って一度歩いただけの者が持つ暢気な感想だ。毎日通ってみなさいよ。もしこれ以上に峠が険しく遠ければ、新たな集落が柳橋川の谷に誕生したことだろう。


長い忍耐の時代を乗り越え、トンネルが実現に至った経緯は、次の通りである。

昭和22年、ついに念願のトンネル工事着手の日がきました。80万円の予算で、白峰村の加藤さんが受け取り、素掘りで開始されました。
工事中ほどで、犠牲者を出す落盤事故があって、県にお願いしてコンクリート巻工法に転換。高さ2.7m、巾2.7mのトンネルが完成した。総額250万円。
トンネル前後の取り付け道路は、町民総掛かりで、ツルハシとモッコで3年をかけ、昭和24年竣工したのでした。工事代金は農協よりの借り入れで、10年間をかけて返済しました。

『長江谷物語』(金沢市夕日寺公民館)より

日本中が敗戦に打ちひしがれていた昭和22(1947)年という時期に、夕日寺の住人たちはトンネル工事に着手したという。
たとえ目の前の生活は苦しくとも、関係者には未来の希望を象徴するような輝かしい工事だったのではないだろうか。
だが、そんな喜びに水を差す事故が起きてしまった。

「犠牲者を出す落盤事故があった」という短い記述だ。
その現場が洞内のどこにあたるのか、ただ1箇所だけ厳重にセントルが重ね巻きされていた、いままた激しく崩壊している【あの場所】が脳裏に浮かぶ。
また、廃止された隧道が、今日だいぶ念入りに封鎖されていることの心理的要因として、犠牲者を出すような事故が起きていた苦い記憶があるのかもしれない。

落盤の起きた危険な隧道をそのまま完成させることは出来ないと判断されたようで、内部の全体をコンクリートで巻き立てる大掛かりな補強が行われた。この補強工事については、「県にお願いして」とあるが、技術的な支援を求めたものか、資金的な補助を求めたものか、その両方であるかは定かでない。ただ、時期的にも、この道が受益者が限られる農道であったことから見ても、大きな支援は得がたかっただろう。

この工法の変更が大きく響いたのか、当初は80万円であった予算は、完成時には250万円まで、3倍以上に膨れ上がっていた。
もっとも、この時期には激しいインフレが起きており、昭和23年の企業物価指数は22年の2.6倍に、24年は23年の1.6倍にという具合であったから、仮に事故が起きていなかったとしても、工事を請け負った白峰村の加藤某が、竣工時に笑えていたのか心配だ。

実際、夕日寺町としても資金の窮乏を来たした模様で、トンネル前後の道路を新設する工事については、「町民総掛かりで、ツルハシとモッコで3年をかけ」て、ようやく完成に漕ぎ着けたとしている。
当時まだ勤労奉仕ということが日常的に見られたとはいえ、専業の建設会社もあったなか、敢えて手弁当の工事を行わねばならなかった事情は推して余りある。本来なら、生業である農業に専念したかったはずなのに。
まして、トンネルの南側の道は平坦な地面に作られたものではなく、険しい崖を削る難路である。
封鎖されてから真っ先に崩壊が始まっている【この道】は、戦後間もない素人土木の形見であったのだ。 道理で……きついわけだった。



『長江谷物語』より転載。

刮目して見よ! →→→

撮影時期は定かではないが……、同書に掲載されていた、在りし日のトンネルの姿である!
私はこの記事で、初めて坑口の全貌を見ることができた。

小さな白黒写真なので、現地で憶測を呼んだ扁額の有無は見分けられないし、南北どちらの坑口なのかも分からない。既にかなり経年した姿に見えるが、高さと巾が等しい丸っこい断面形には間違いなく見覚えがある。

注目は、坑口脇に掲示されている何かの看板だ。
文字が潰れているが、2行目に「立入禁止」と書かれてあるのは間違いないと思う。
現役時代から部外者は立ち入り禁止であったことが分かる。
もっとも、私などはこれを見ても嬉々として立ち入ったであろう。
入らないことなど考えられない、一部のトンネルファンには垂涎をもたらすオーラが、この写真にはある。


こうして、苦い工事の末に、トンネルを含む(おそらく)農道の全線が完成したのは、昭和24(1949)年であった。
そして、回想の最後には、トンネルの活躍と、開通から50年余りを経た平成14年における“現状”が述べられていた。


後谷への道が完成し、村人はこれまでの苦労を語り合い、新たな思いで農業に励んだ。
しかし、やがて米あまりの時代が押し寄せ、機械器具や肥料代に圧迫されて、農業から離れる人が増えることになった。
今は、草や雑木でボウボウとなり、再び農地として生き返ることはあるまい。

『長江谷物語』(金沢市夕日寺公民館)より

この短い記述からは、かつて農業の未来を信じ、その振興に役立つトンネル建設に熱中した日々からの離別が感じられる。
したがって、本トンネルをして、時流を見誤った末の虚しい失敗土木だと捉える向きもあるかもしれない。私はそう思いたくないが。

農協から借り入れたという工事資金は、10年間で返済したと書かれていた。耕作にはそれだけの着実な実りがあったのだと思うし、その程度には繁栄の時間的猶予があったことは、歴代の地形図に描かれている農地面積の変化から伺える。

昭和28年(内容は前掲した昭和5年のものと同じ)から43年の間に、トンネルによってアクセスされる後谷の農地は大幅な減少を見ている。これは米余り問題だけではなく、金沢が急激に都会化するなかでの農業の衰退もあっただろう。 しかしその後、平成12(2000)年版にあっても、ほぼ同じ広さの農地が描かれている。実際は地形図が細かい変化を反映していなかった部分もあるだろうが、平成9(1997)年の航空写真にもまだ20枚くらいの水田が後谷に存在しており、この頃までは盛んに耕作が続けられていたのだ。

もし、昭和24年という早い時期にトンネルが完成していなければ、後谷の耕作地は、ここまで生きながらえただろうか。
否! …………だと言いたいところだが、まあ分からない。
むしろ逆に、昭和40年代くらいまでトンネル完成が遅れていたら…、そこでもっと大きな断面のトンネルが行政の手で作られていたとしたら…。
厳しい世相の中で苦労して作られたトンネルは、施設として明らかに貧弱で、特に断面が非常に狭小であるため、大型農業機械の搬入の妨げになるなど、現代農業の障害となったことが疑われる。
断面の小ささは、当初は素掘りを想定していたものが、落盤事故のため急遽巻き立てを追加したせいかもしれない。


改めてネットを検索したところ、平成18(2006)年頃にここを探索した貴重なレポートを見つけた。
車輪部こちらレポートだ。

当時から既に【この看板】があり、南側の道路は封鎖されていた。しかし藪化はまだ進んでいない。そして辿り着いたトンネル南口――、閉塞工事は行われておらず、探索者を素直に迎え入れていた!
そこには、先ほど掲載した「現役時代の写真」で坑口脇に置かれていた看板が、坑口前を塞ぐA型バリケードに【これの原形】と一緒に並んで設置されいて、書かれた内容も読み取れた。予想通り、「●●につき関係者以外立入禁止 不慮の事故があった場合一切責任は負いかねます 夕日寺町生産組合」と書かれていた。ただ、看板がひしゃげていて、最初の2文字(農道?林道?)が読み取れなかった。
隧道内部の様子も当然紹介されているので、ぜひ見て欲しい。
【落盤】もいまほど酷くなかったことなど、私が紹介した光景と較べても、いろいろな発見がある。

この車輪部のレポートによって、トンネルを閉鎖する最終的な工事は、ここ10年ほどの間に行われたことが分かった。
これに『長江谷物語』の記述や航空写真から分かることをまとめると、次のような終幕の歴史が判明する。

平成10年代に後谷の耕作地が全て放棄され、トンネルを含む道路はバリケードで「通行禁止」とされた。
そして平成20年代、トンネルの両坑口を土嚢で埋める閉塞工事が行われた。非公式的な通行もなくなり、前後の道の廃道化が急激に進んだ。

なお、今回の夕日寺隧道の文献的後ろ盾を持った「解明」は、頼る文献が未だに見つかっていない御所隧道に対しても大きな示唆を与えている。
二つのトンネルはともに「長江谷」(金腐川)の隣り合う集落に付随しており、かつ集落と「後谷」にある耕作地を結ぶという立地条件も同じだ。
夕日寺が昭和22年の着工と判明したが、果たして御所隧道はこれより古いのか新しいのか。そこははっきりしないものの(素直に考えれば前者だろうが)、重要なのは、いっときでも地元の話題を独占した土木事業には、しばしば伝播がおこるということである。
範をとって、模倣して、競争のために、様々な背景が考えられるが、夕日寺での解明は、より謎の多い御所を調べる手掛かりになるのは間違いない。


最後に、今回の探索を通じて私が一番強い印象を持ったことを書きたい。
夕日寺の人々は、自らの暮らしを支える後谷へ通じるトンネルを、自費で開削し、守り、使い続けた。そして最後はきっと、自らの判断で終わらせた。
現代は道路にまつわる制度も複雑化しており、利害を持つ人の意思が、実際の道路の成り行きに反映されている部分を判断しづらいが、利用者を限った農道という、公道ならざる存在であったが故に、最後まで関係者の思惑が色濃く反映されたように思う。
金沢の郊外にひっそりと眠る、農耕トンネル。普段なら探索の対象にはなりづらい種類の道だったが、味を知ることが出来て嬉しかった。

完結


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