御所隧道(仮称)の発見者かつ情報提供者であり、間接的には私の夕日寺隧道探索のきっかけを作った地元在住ぶるにゃん氏が、2019年3月31日にメールで教えて下さった1冊の文献の存在は、これまで疑問形で書かねばならないことが多かった夕日寺隧道(仮称)について、初めて「歴史」として語られる内容を明らかにする、とても画期的なものだった。
文献のタイトルは『長江谷物語』といい、夕日寺公民館が、公民館創立50周年および金沢市編入65周年の記念として平成14(2002)年3月1日に発行していた。
ぶるにゃん氏曰く、御所隧道の正体が夕日寺隧道ではないかと考えていた時期に、金沢市立図書館で見つけ出したという。
この本の中に、住民の回想録の一編という形で、夕日寺隧道の歴史が収録されていた。
回想者は石原勇蔵という人物で、回想の表題は、「土地貧乏に泣いた夕日寺」である。
このタイトルから、あなたはどんな物語を想像するだろう。
以下、回想録を3章に分けて引用する。
まずは第1章、物語であれば「前史」というべき内容だ。
なお、一緒に掲載した地図は、同年代の夕日寺地区が描かれた、昭和5(1930)年の地形図である。
土地貧乏に泣いた夕日寺
夕日寺町の農地の60%以上が、峠(犬山峠)を超えた山の向こうにありました。
山を超えて肥料を運び、稲や野菜を運ぶのは大変な重労働でした。
町民の夢は、何とかしてトンネルを作りたいというものでしたが、何分にもお金と労働力が問題になります。
何年も、何十年も、口を開けば「トンネル」というのが挨拶代わりでした。
「おはよう!」 「トンネル掘り日和だな」 「今年は掘れるかな?」 「トンネル掘りたいな〜!」
……みたいなやりとりが、日夜繰り広げられていたというのか。
何十年ものあいだ、真剣にトンネルを欲していた夕日寺町住人たち。その熱意の根源は、日常を便利にしたいという万人に共通する欲求であった。
かつて、夕日寺地区の農地の6割以上が、峠を越えた山の向こう、すなわち柳橋川の谷間にあったという。
後の記述に出てくるが、この谷間を地元では「後谷」と呼んでいたそうだ。まさに集落の後背にあって、その生活を支える、生産の拠点を思わせる名付けである。
だが、その不便な立地のために、単純に考えても夕日寺住人の労働の6割に、山越えの往復が付属したと思われる。
集落と後谷を隔てる、「犬山峠」と呼ばれていた峠は、【石頭(いしなづこ)】という奇妙な名の石仏があった、レポート内では「旧道」と表現した地点に他ならない。
集落からは70mほどの上り下りであり、さほど遠いわけでも険しいわけではないが、それは涼しい日に軽荷を背負って一度歩いただけの者が持つ暢気な感想だ。毎日通ってみなさいよ。もしこれ以上に峠が険しく遠ければ、新たな集落が柳橋川の谷に誕生したことだろう。
長い忍耐の時代を乗り越え、トンネルが実現に至った経緯は、次の通りである。
昭和22年、ついに念願のトンネル工事着手の日がきました。80万円の予算で、白峰村の加藤さんが受け取り、素掘りで開始されました。
工事中ほどで、犠牲者を出す落盤事故があって、県にお願いしてコンクリート巻工法に転換。高さ2.7m、巾2.7mのトンネルが完成した。総額250万円。
トンネル前後の取り付け道路は、町民総掛かりで、ツルハシとモッコで3年をかけ、昭和24年竣工したのでした。工事代金は農協よりの借り入れで、10年間をかけて返済しました。
日本中が敗戦に打ちひしがれていた昭和22(1947)年という時期に、夕日寺の住人たちはトンネル工事に着手したという。
たとえ目の前の生活は苦しくとも、関係者には未来の希望を象徴するような輝かしい工事だったのではないだろうか。
だが、そんな喜びに水を差す事故が起きてしまった。
「犠牲者を出す落盤事故があった」という短い記述だ。
その現場が洞内のどこにあたるのか、ただ1箇所だけ厳重にセントルが重ね巻きされていた、いままた激しく崩壊している【あの場所】が脳裏に浮かぶ。
また、廃止された隧道が、今日だいぶ念入りに封鎖されていることの心理的要因として、犠牲者を出すような事故が起きていた苦い記憶があるのかもしれない。
落盤の起きた危険な隧道をそのまま完成させることは出来ないと判断されたようで、内部の全体をコンクリートで巻き立てる大掛かりな補強が行われた。この補強工事については、「県にお願いして」とあるが、技術的な支援を求めたものか、資金的な補助を求めたものか、その両方であるかは定かでない。ただ、時期的にも、この道が受益者が限られる農道であったことから見ても、大きな支援は得がたかっただろう。
この工法の変更が大きく響いたのか、当初は80万円であった予算は、完成時には250万円まで、3倍以上に膨れ上がっていた。
もっとも、この時期には激しいインフレが起きており、昭和23年の企業物価指数は22年の2.6倍に、24年は23年の1.6倍にという具合であったから、仮に事故が起きていなかったとしても、工事を請け負った白峰村の加藤某が、竣工時に笑えていたのか心配だ。
実際、夕日寺町としても資金の窮乏を来たした模様で、トンネル前後の道路を新設する工事については、「町民総掛かりで、ツルハシとモッコで3年をかけ」て、ようやく完成に漕ぎ着けたとしている。
当時まだ勤労奉仕ということが日常的に見られたとはいえ、専業の建設会社もあったなか、敢えて手弁当の工事を行わねばならなかった事情は推して余りある。本来なら、生業である農業に専念したかったはずなのに。
まして、トンネルの南側の道は平坦な地面に作られたものではなく、険しい崖を削る難路である。
封鎖されてから真っ先に崩壊が始まっている【この道】は、戦後間もない素人土木の形見であったのだ。 道理で……きついわけだった。
『長江谷物語』より転載。
刮目して見よ! →→→
撮影時期は定かではないが……、同書に掲載されていた、在りし日のトンネルの姿である!
私はこの記事で、初めて坑口の全貌を見ることができた。
小さな白黒写真なので、現地で憶測を呼んだ扁額の有無は見分けられないし、南北どちらの坑口なのかも分からない。既にかなり経年した姿に見えるが、高さと巾が等しい丸っこい断面形には間違いなく見覚えがある。
注目は、坑口脇に掲示されている何かの看板だ。
文字が潰れているが、2行目に「立入禁止」と書かれてあるのは間違いないと思う。
現役時代から部外者は立ち入り禁止であったことが分かる。
もっとも、私などはこれを見ても嬉々として立ち入ったであろう。
入らないことなど考えられない、一部のトンネルファンには垂涎をもたらすオーラが、この写真にはある。
こうして、苦い工事の末に、トンネルを含む(おそらく)農道の全線が完成したのは、昭和24(1949)年であった。
そして、回想の最後には、トンネルの活躍と、開通から50年余りを経た平成14年における“現状”が述べられていた。
後谷への道が完成し、村人はこれまでの苦労を語り合い、新たな思いで農業に励んだ。
しかし、やがて米あまりの時代が押し寄せ、機械器具や肥料代に圧迫されて、農業から離れる人が増えることになった。
今は、草や雑木でボウボウとなり、再び農地として生き返ることはあるまい。
この短い記述からは、かつて農業の未来を信じ、その振興に役立つトンネル建設に熱中した日々からの離別が感じられる。
したがって、本トンネルをして、時流を見誤った末の虚しい失敗土木だと捉える向きもあるかもしれない。私はそう思いたくないが。
農協から借り入れたという工事資金は、10年間で返済したと書かれていた。耕作にはそれだけの着実な実りがあったのだと思うし、その程度には繁栄の時間的猶予があったことは、歴代の地形図に描かれている農地面積の変化から伺える。
昭和28年(内容は前掲した昭和5年のものと同じ)から43年の間に、トンネルによってアクセスされる後谷の農地は大幅な減少を見ている。これは米余り問題だけではなく、金沢が急激に都会化するなかでの農業の衰退もあっただろう。
しかしその後、平成12(2000)年版にあっても、ほぼ同じ広さの農地が描かれている。実際は地形図が細かい変化を反映していなかった部分もあるだろうが、平成9(1997)年の航空写真にもまだ20枚くらいの水田が後谷に存在しており、この頃までは盛んに耕作が続けられていたのだ。
もし、昭和24年という早い時期にトンネルが完成していなければ、後谷の耕作地は、ここまで生きながらえただろうか。
否! …………だと言いたいところだが、まあ分からない。
むしろ逆に、昭和40年代くらいまでトンネル完成が遅れていたら…、そこでもっと大きな断面のトンネルが行政の手で作られていたとしたら…。
厳しい世相の中で苦労して作られたトンネルは、施設として明らかに貧弱で、特に断面が非常に狭小であるため、大型農業機械の搬入の妨げになるなど、現代農業の障害となったことが疑われる。
断面の小ささは、当初は素掘りを想定していたものが、落盤事故のため急遽巻き立てを追加したせいかもしれない。
改めてネットを検索したところ、平成18(2006)年頃にここを探索した貴重なレポートを見つけた。
車輪部のこちらレポートだ。
当時から既に【この看板】があり、南側の道路は封鎖されていた。しかし藪化はまだ進んでいない。そして辿り着いたトンネル南口――、閉塞工事は行われておらず、探索者を素直に迎え入れていた!
そこには、先ほど掲載した「現役時代の写真」で坑口脇に置かれていた看板が、坑口前を塞ぐA型バリケードに【これの原形】と一緒に並んで設置されいて、書かれた内容も読み取れた。予想通り、「●●につき関係者以外立入禁止 不慮の事故があった場合一切責任は負いかねます 夕日寺町生産組合
」と書かれていた。ただ、看板がひしゃげていて、最初の2文字(農道?林道?)が読み取れなかった。
隧道内部の様子も当然紹介されているので、ぜひ見て欲しい。
【落盤】もいまほど酷くなかったことなど、私が紹介した光景と較べても、いろいろな発見がある。
この車輪部のレポートによって、トンネルを閉鎖する最終的な工事は、ここ10年ほどの間に行われたことが分かった。
これに『長江谷物語』の記述や航空写真から分かることをまとめると、次のような終幕の歴史が判明する。
平成10年代に後谷の耕作地が全て放棄され、トンネルを含む道路はバリケードで「通行禁止」とされた。
そして平成20年代、トンネルの両坑口を土嚢で埋める閉塞工事が行われた。非公式的な通行もなくなり、前後の道の廃道化が急激に進んだ。
なお、今回の夕日寺隧道の文献的後ろ盾を持った「解明」は、頼る文献が未だに見つかっていない御所隧道に対しても大きな示唆を与えている。
二つのトンネルはともに「長江谷」(金腐川)の隣り合う集落に付随しており、かつ集落と「後谷」にある耕作地を結ぶという立地条件も同じだ。
夕日寺が昭和22年の着工と判明したが、果たして御所隧道はこれより古いのか新しいのか。そこははっきりしないものの(素直に考えれば前者だろうが)、重要なのは、いっときでも地元の話題を独占した土木事業には、しばしば伝播がおこるということである。
範をとって、模倣して、競争のために、様々な背景が考えられるが、夕日寺での解明は、より謎の多い御所を調べる手掛かりになるのは間違いない。
最後に、今回の探索を通じて私が一番強い印象を持ったことを書きたい。
夕日寺の人々は、自らの暮らしを支える後谷へ通じるトンネルを、自費で開削し、守り、使い続けた。そして最後はきっと、自らの判断で終わらせた。
現代は道路にまつわる制度も複雑化しており、利害を持つ人の意思が、実際の道路の成り行きに反映されている部分を判断しづらいが、利用者を限った農道という、公道ならざる存在であったが故に、最後まで関係者の思惑が色濃く反映されたように思う。
金沢の郊外にひっそりと眠る、農耕トンネル。普段なら探索の対象にはなりづらい種類の道だったが、味を知ることが出来て嬉しかった。