橋梁レポート 華厳渓谷と鵲橋  第1回

公開日 2008. 5.14
探索日 2008. 5.10


観瀑台とエレベータを結ぶ地下通路の途中にある、鉄の扉。
その裏側には、昭和25年頃に短期間だけ使われた、華厳渓谷歩道があるのだという。

だが、この旧遊歩道への侵入経路は、上下ともに堅く閉ざされている。
上流側入口の鉄扉は施錠され、地上へ這い出す隙間は微塵もない。
下流側からの侵入経路は、古河電気工業の管理道路になっており、侵入は不可能だ。

万事休すと思われたが、昭和5年に「華厳滝エレベータ」が出来る以前は、中宮祠から華厳渓谷へ歩いて下っていたという地元の証言が、親切な読者からもたらされた。
その古い観覧路を利用して鵲橋へ直接接近することが出来るのではないか。

私は、奥日光の観光について古い資料にあたってみた。



 ◆華厳瀧壺道という明治の歩道があった。

『郷愁の日光』(随想舎刊)という古い絵はがき集のなかから、「華厳滝」の頁の解説文を一部引用しよう。

かつての(華厳)滝見物は容易ではなく、はるか手前の断崖に突き出た岩上まで、危険な岩場を這い下り木にしがみついて眺めていた。
星野五郎平は十年の歳月を費やして、明治三十三年、滝壺への道を開いた。

明治道の出現である…。 

個人で開削… 滝壺への下降……  怪しい道だ。


続いて明治時代に書かれた『日光名所圖會』よりの引用。


星野五郎平翁(72)
日光市立図書館サイトより転載)
去る明治二十三年の夏の頃、土地の奇人五郎平なるもの、流石にこの名瀑をして飽ぬ眺めとかこたしむるが口惜しく、老の腰に鞭を加へ、勇憤一番未だ人跡到らざる径路を開き、打ち寄する浪の小皺に雫なす汗を拭ひつ、懸命百余日を費ひやして漸く名瀑観覧の新道を開拓し、瀧つぼを距る七八間の処に地面十数坪を作り、ここに五郎平茶屋なる風雅の茶亭を設け…(以下略)

…じーさん、 頑張りすぎだろ…。


再び『郷愁の日光』の「白雲滝」の頁から引用。

五郎平まり老爺が華厳瀧つぼに至る新道を開拓せんがため苦心惨憺のおり柄、ゆくりなくも新たに発見されたるの新瀧にして其状恰も白雲の天上に登る如き観あるに依り(以下略)

じーさんすげー!! 新滝まで発見してんのかよ!
すげーよ、じーさん!!


最後に、日光市立図書館サイトで公開している古写真「華厳瀧 白雲瀧 開祖者 星野五郎平翁」より、「華厳瀧壺道」と呼ばれていたらしいこの歩道の説明文を引用しよう。

中宮祠本道九丁前より南に折れて凡そ二丁行けば翁が宅を設けて観客の手荷物を預り(略)之より坂を下る事約二丁にして白雲瀧に出す瀧の中央に釣橋を架し之を鵲橋と云ふ橋を渡り一丁を歩めば即ち翁が茅屋に到て一の有名なる華厳瀧を見上げ得べし

翁は上の宅で手荷物を預かると、客よりも早く谷を下って下の茶屋でも持てなしをしていたのだろうか(←馬鹿な)。

それはさておき、中宮祠本道というのは現在の国道120号「第一いろは坂」である。そこから道が南に分岐して二丁、即ち約200m進んだところに手荷物の預かり所があった。ここから下り坂になり二丁で白雲瀧に着く。当時から鵲橋は吊り橋として架かっていた。さらに一丁で滝壺近い五郎平茶屋に着いた。
この行程を合わせると五丁、約540mの道である。




 ◆華厳瀧壺道を地形図に求める。



陸地測量部発行 二万五千分の一地形図「日光南部」(昭和8年)より

利用すべきルートの存在が判明したところで、具体的なルートを明らかにしたい。
使うのはもちろん地形図。
右図は、昭和8年の二万五千分の一地形図である。

そこには、過密極まる等高線と絵画的な崖地の記号に揉まれながら谷底を目指す、余りに頼りない破線の道が描かれている。(赤線)
五郎平翁が10年かけて単身拓いたという「瀧壺道」だろう。私が辿ろうとしている道に他ならない。
また、「見晴茶屋」という海抜1333.3mの標高点が打たれたピークに迂回する道もある。
これらに加え、間もなく瀧壺道の命運を断つこととなる昭和5年に完成したばかりの「華厳滝エレベーター」が、「昇降機」という文字表記で表示されている。





そして、現在の地形図。
これを使って、私は行動することになる。

80年前には描かれていた華厳渓谷に下る道は、完全に姿を消している。

しかし、よく見ると消し忘れのように橋の記号が残っている。
滝の記号と見間違えやすいが、それは明らかに橋の記号。

 どこにも繋がっていない橋の記号

ひとつは白雲滝の下に架かっているから、目指す「鵲橋」に違いない。
加えて、大谷川の本流に架かる橋がある。謎の橋だ。近くに建物の記号もあるが…、地図を見る限り、どうやっていくのか見当さえつかない場所。

ともかく、渓谷への降り口にあたる場所は判明した。
ここまで調べ、万全に近い体勢で私は現地へ向かったのだった。
そして、前回お見せした観瀑台に対するプレ探索を実施。
その成果は単に現地の地形の険しさを実感するに留まったが、明治古道「華厳瀧壺道」への挑戦は、その後予定通りに行われた。


  以下、本編。



道無き道標 失われた見晴茶屋 

 道無きみちしるべの導き


2008/5/10 15:15 

華厳滝の駐車場を出て東に進むと、すぐに町並みは途絶えて昔から「大平」と呼ばれてきた平坦な森が現れる。
国道はこの樹林帯をほぼ真っ直ぐ横断し、そののち大谷川(華厳渓谷)の浸蝕谷に捕らわれることになる。
そして、高低差300m、距離5km、数えるヘアピン28のいろは坂が始まる。

現在この「第一いろは坂」は下り専用の一方通行となっている。歩きならば逆走も構わないだろうが、チャリはそうもいかない。
しかし、翁が道を拓いた頃は当然対面交通(人力車や馬車が往来した)で、カーブの数も48あったとされている。




華厳滝駐車場から東に600m地点。
車輌転回所を兼ねた空き地が現れ、その先はセンターラインが無い。
頭上には、こちらからの一方通行を告知する標識が掲げられている。
長い下り坂を警告する標識群が、無惨に破壊されていた。
ここがいろは坂のスタート地点だ。

古き瀧壺道の入口は、この場所に存在している。
見たところ道はないが、動かし難い痕跡があった。




国道の南側路傍。

笹藪のなかに佇む石の柱。

これはいったい何だろう。




それは、翁の置いた道標石だった。

2m四方ほどの自然石で囲まれた壇の中央に、少し傾きながらもしっかりと建つ四角柱の石標。
いろは坂側の面には、「左 華厳瀧壺」の文字が、深くはっきり彫られている。
その下にはやや小さく、「白雲瀧 涅槃滝」の文字もある。

側面は「明治三十三年十月開鑿竣工 星野五郎平」の文字が読み取れる。
齢六十二で突如道を作り始め、七十二で完成させた星野五郎平。
当時、“奇人”よばわりされた鉄人爺。 開通にあたって、どんな誇らしい気持ちでこの碑をこさえたのだろうか。

爺よ、ありがとう!!
爺の道、これからしっかり使わせてもらう!!





そう宣言したのも束の間。 実際には「左」に道はない。

廃道になってはいるだろうと思っていたが、本当に踏み跡ひとつ無い。
呆然としていると、目の焦点がとつぜん霧の粒子に合った。霧を構成する成分である微細な水滴が、樺の疎林をゆったりと流れていた。
ときおり背後の道を車が駆けるが、眼前の濡れた林は拒絶するような静寂に覆われていて、一面の笹原に第一歩を踏み出すとっかかりが得られない。

…爺よ。 よもや道標の右左を間違えてなどおるまいな。
そんな弱気が顔を出す。

現在では右の国道が華厳滝への道であるわけで、事情を知らなければ本当に「左」は間違いだと思うだろう。
そもそも、ここに追分を示す道標石がある理由さえ理解されまい。





『郷愁の日光』所収の「戦前の絵はがき」より転載。

この写真は、大分昔のこの場所だ。

確かにここは追分だったことが分かる。

変わりがないのは右の道の緩やかなカーブの様子と、道標石だけ。
森の木々の様子も大分変化していることが分かる。

開発により道はあっても道標石だけが失われる例は多いが、道が無くなって後に標だけが残るというのは珍しい。
本当に、そっくり道だけが消えてしまったように見える。
一帯が国立公園内ということもあって、無秩序な開発が抑制されてきた賜物であろう。




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 見晴茶屋への迂回


慎重への接近は、何かしら道をなぞって行う必要があると考えた。
なぜなら、この大平から渓谷へと降りる入口は、間違いなく正しい位置を選ばねばならない。
地形図を見る限り、「瀧壺道」の進路には崖地の記号が一箇所だけ僅かに途切れている部分がある。
おそらくは、そこに谷底への下りがあるのだと思うが、推測で下ってしまう事は避けたかった。
プレリサーチで、ここは道以外を思うままに下れるほど生やさしい地形ではないという事を、実感していた。

そのため、笹藪に埋もれてしまい進路の定まらない瀧壺道をやめ、大分迂回にはなるが、見晴茶屋と古地図に表記のある海抜1332mピークを経由するルートを採ることにした。
そこには、傾斜地形ゆえ古道の痕跡ははっきりと残っていたからだ。
古地形図が正しければ、茶屋経由の道と瀧壺道とは渓谷への降り口で再度合流するはずだった。




15:19 入山開始。

現在の地形図では上る道のない1332mピークだが、古地図にある電光形の上り坂は鮮明に残されていた。

踏み跡はなくとも、道形があるならばある程度安心できる。
この山に限らないことだが、平坦部の藪は最も進路を失いやすい苦手なエリアだ。
たとえ迂回でも、道をなぞって進むことがいまは必要だと考えた。

また、地図から消えた「見晴茶屋」の跡地がどうなっているのかという興味も、当然あった。




見晴らし茶屋のあるピークと大平の比高は約40m。
南北に細長い、丘のような小山である。

地学はよく分からないが、これは男体山火山の流山(ながれやま)なのだろうか。
3回ほど道は切り返してやがて山頂に近づくと、大平には見られなかった巨大な溶岩塊が、まるでモアイ像のように地面から顔を出しはじめた。




15:24 ピーク到着

かつて茶屋がここにあったことを連想させる、かなり広いてっぺんだ。
しかし、建物の基礎などは残っていない。
そもそも、見晴茶屋という名前は地形図にあるだけで、ここにどんな茶屋がいつ頃あったのかなど、記録がない。

ピークでは霧による視界不良とその広さのため、気を抜くと方角が分からなくなりそうだ。
なぜかあたりは笹も生えない裸地で、疎林もより寒々しく見える。
実際にこの日は本当に寒くて、早朝には僅かな積雪を観測したというエレベーター係員の証言もあったくらいだ。

ここまで5分足らずの登りであったが、足だけが異常に疲れているというセルフコンディションを痛感した。
理由はさまざまあるのだが、ともかくそれを踏まえた行動を心がけねばならない。




30m四方ほどの広大なピークの片隅。
華厳渓谷側のまださほど急とも思えぬ縁の木に、モトクロッサーが被るようなメットが架けられていた。

大風が吹けば落ちてしまいそうだから、ごく最近のものだと思われるが、人の気配がまるっきり無い場所だけに気味悪く感じた。

…まあ、嫌な想像はやめよう。




現在地(見晴茶屋)から細長い尾根を南へ伝って、華厳渓谷に対する突堤のような先端へ道は続いている。

尾根上に多く見られる大きな樹花は、日光連山の春の名物ともいえる「アカヤシオ」である。
霧の中から浮かび上がるようにピンクの花弁が現れる様は、仙境に迷い込んだかと錯覚するほどに美しかった。

あぶないよね。




それにしてもこの日は生憎のガスが一日晴れなかったが、ここは名前からして、対岸の明智平にも匹敵するような大展望地なのだろう。

天気の良い日にまた改めて来たい場所だ。
最近の観光ガイドには載っていないので、きっと静かな散歩が出来ると思う。

今のところ、何一つ危険を感じる場面はないし、ガスさえなければ本当に清々しい山行だったろう。




何千年の時をかけ大谷川が浸食を続けた華厳渓谷の縁は、水面から300mも高い1332ピークの南と東の二辺を削り続けている。
さきほど、大平からピークまで40mほどだと書いたが、反対側の渓谷側には、300m落ち込んでいるのだ。

下の様子は霧のため窺い知れない。
でも、それで良かったかも知れない。戦意を奪われる危険がありそうだった。

よく見ると、渓谷側の縁には木の杭と有刺鉄線が巡らされていた跡がある。
遊歩道に有刺鉄線というのはずいぶん時代が古そうだが、ともかくこの先は立ち入り不可能の絶壁だと云うことだろう。




地形図ではひょうたん型と見えたが、南側のピークはさほどの高みを見せず、むしろ自然に肩が下がる感じで大平の渓谷との縁の位置へ下りはじめた。
やはり道は何度か電光形のカーブを描いている。

廃止後半世紀以上を経っていると思うが、山腹に鮮明な道形が残っていることやその勾配の緩やかさ、道幅の広さなどから、これはただの徒歩道ではなく、日光で盛んに利用されていた人力車も通る、著名な遊歩道であったと想像される。
いまでも全然通用する道だ。




下っていく途中、大平の地平面に似つかわしくない工場のような施設があるのを見付けた。
幾つもの水槽が見えており、地形図で確かめると「終末処分場」ということになっている。

人目に付きづらい大平の森の奥に、こんな施設があったとは。

残念だというのは率直な感想だが、仕方がないというか。必要なものだろう。
日光は観光地であると同時に人も大勢住んでいるし、そもそも観光客だってゴミや汚水を落としていくのだから。





 見晴茶屋への迂回


15:34 

再び大平の一角に下り着いたが、本当にすっぱりと左手の地面が切れ落ちていて…壮観な眺めだ。

悲しいのは、せっかく道を見失うまいと迂回をしてきたのに、「瀧壺道」らしき道形が見あたらないことだ。
そして、いままで辿ってきた道さえも、平原に出て消えてしまった。

私は一人、放たれてしまった。

結局、自力で降り口を探さねばならないようだ。 …とても恐れていた展開だ…。





  う わ……



この傾斜の中で、下るべき道を見つけだせってか…?

一度途中まで下ったら、もう簡単には戻って来れないし、横への横断も容易じゃ無さそう。

やはり、何かしら道形を見つけて下っていかないと…。




見える範囲では、このくらいの(?)傾斜だけど……。

屏風のように幅広い崖がこの下に隠されていることを、地形図ははっきりと教えていた。

闇雲には、下りたくない。




日光のダケカンバやシラカンバなどが原因不明のまま相次いで枯死した。

10年ほど前だろうか。もっと前かも知れないが、ミステリーとして語られた時期があった。
結局原因は分かったのだろうか?

大平の縁に近いあたりには、立ち枯れの巨木が多く林立している。

幻想的な情景も、下り口の捜索という正念場を迎えた私には響いてこなかった。
せいぜい、巨大なサルノコシカケっぽいきのこを見つけて、少し和んだ程度だった。




縁のあたりをウロウロしていると、周りと状況の異なる一角に出た。

コンクリート製の巨大な函のようなものが、谷底へ真っ直ぐと連なっていた。
目を凝らすと、函同士は太い鉄の管で結ばれているのだった。
始まりは縁の地中からだが、どうもこれは最終処分場から流れ出た下水路のようだ。

この管が渓谷の底まで、比高250mを貫いて続いているとしたら、なんとか下っていけるかも知れない。
いや、しかしそれは単に渓谷に下りると云うだけで、鵲橋にあたらないで終わるだろう。
それに、道ではない部分を進路とするのは、出来るだけ避けたい…。




下るべき口を見出せず、何度か50mほどの範囲の縁をいったり来たりした。

そして、それまで探していた場所からもう10mほど上流側へと移動したとき、眼下の山腹に、うねりのような不自然な傾斜を見つけた。



これは道か?!