飯田線旧線 向皆外隧道 後編

公開日 2009.9.4
探索日 2009.1.25

埋没隧道を迂回



2009/1/25 7:34 

“渡らずの橋”と呼ばれる「第六水窪川橋梁」には、途中まで工事が進められながら、土砂災害により放棄された未成の旧線が存在していた。

南から北へこの3〜400mほどの旧線跡を辿ろうとしている私は、やがて鬱蒼とした杉林の中で致命的崩壊の現場となった「向皆外隧道」の南口に接触。
辛うじて開口している状態ではあったが、余りに禍々しさに進入を躊躇った私は、先にこの旧線の全貌を確かめることにした。



しかし、隧道を掘るほどの急斜面である。
山腹をへつって先へ進むことはすぐに出来なくなった。
やむなく一旦、眼下の水窪川の水際に下ることにする。

目線の高さに、対岸へと迂回した現在線が見えた。




杉の木立に身体を預けながら半ばまで下ると、傾斜がいくらか緩くなった。
そこは古い崖錐と思しき、苔生した岩礫混じりの安定斜面だ。
この場所が崩壊地形だということを思い知らされる地形だ。

そしてその瓦礫の中に、同じように苔生したコンクリートの巨大片が横たわっていた。
未成隧道の欠片に違いない。




7:36

天竜川の支流、水窪川の意外に穏やかな流れ。
水量の割に谷が広々として見えるのは、上流にあるダムのせいか、あるいは悠久の地殻変動によるものか。

何れにしても、幸いだった。
もし水量が多くて川を自由に徒渉できなければ、ここで進路を絶たれていただろう。
旧線跡の北側半分を探索することが出来なくなるところであった。

玉石の中州を経て、左岸の最も険しい岩場を30mほど迂回する。




そして再び浅いところを飛び石伝いに徒渉し、左岸斜面へ取り付くことにする。

探索時、向皆外隧道の長さを知らなかったが、地形的に見て長いものではないだろうと考えていた。
岸壁が許すようになったら即座に取り付こうとしたのは、そのせいだった。


それにしても、川の水がおそろしく澄んでいる。
右岸には、見える範囲だけでも相当沢山の家並みがあるし、まだ上流には旧水窪町の中心となる市街地が控えているのにもかかわらずだ。
砂利っぽい河床が浄化作用を発揮しているのかも知れない。




私の労作を見てくれ〜!

つなぎ合わせ方がトホホな感じだが、オブローダーならではのアングルで鉄道ファン垂涎の位置取りを決めてみたつもり。
でも、百戦錬磨の“彼ら”のことだ、きっと独自にこのポジションを見つけているに違いないとも思う。



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向皆外隧道北側の旧線跡



7:39 

うお…。


まだ、早かったか?

ぜんぜん路盤らしき平場が見て取れない。
何とかよじ登っていけない斜面ではないが(驚いたことに植林されている)、闇雲に登っていってもどうなることか。





秋田県に長く住んだ私にとって、杉の林は見慣れた山の姿である。
正直、本当の自然にはほど遠いことがありありと見て取れるその姿は好きじゃないし、楽しくもない。
だが、オブローダー的視点というか、ランドエクスプローラー(山河跋渉)的な視点でいえば、それは与しやすい山林といえる。
なにせ、基本的に下草は少なくて視界は良好だし、人手が入っていることが保証されているので、険しく見えても何とか歩ける場所があると言うことなのだ。

そんな思惑から、このまま路盤…つまり向皆外隧道のまだ見ぬ北側坑口が現れるまで、トラバースを続けることにした。





悲しい現実を受け入れなければならない。

苦しい告白をしなければならない。


北口坑口があったと思しき地点は、僅かに杉林の林床を平らげた直線の先に凹みとして特定されたが、あるべきものはそこになかった。

南口が、あれほど崩れているとはいえ巨大なコンクリートの筐体を伴っていたのとは対照的な、何もない…。
極めて弱げな痕跡。

この時初めて、もしかしたら隧道は貫通する前に放棄されたのかも知れない。
少なくとも、坑口が施工されるよりは前に廃止されたのではないかと、そう直感した。




あれはなんだ?

私のいる路盤跡から少し登ったところの山腹に、まるで折り重なるように築き上げられた大量の石垣を発見。
玉石練り積みのそれは、見るからに脆弱そうで、崩壊している箇所もあるにはある。
しかしそれ以上に大量の石垣が存在している。

もっと近づいて、或いは登って確かめたい気持ちも湧いたが、今回は見送った。
しかし写真を見直してみると、改めて大変な規模の“遺構”である。
杉が植えられていることを考えると、一帯の斜面が集落跡だという可能性もあるが…。




不明瞭な平場をいぶかしく思いながら北上していくと、間もなくやや広い場所に出た。
“出た”と言っても、そこは竹林で、むしろ動き回れる範囲は狭まった感じもする。

しかし、竹林というのもまた集落跡の存在を思わせる。

それにしても、こんな所でいまから55年も前に鉄道の工事が進められていたのだろうか。
坑口の南側もそうだったが、一度も開業に到らなかったせいか、或いは単純に廃止からの時間がたっているせいなのか、「久頭合」の旧線とは残存状況がぜんぜん違う。




さらに竹林の中には、不規則とも思える石垣が縦横に存在しており、一本の統一された路盤跡というものを特定できない状況に立ち至った。
あらためて、路盤工事すら完遂されなかったのではないかという気持ちをつよくする。
もっとも、55年である。
工事中止後にもう一度暮らしが拓け、また消え去るにも、十分な時間と言える。

写真は、そんな竹林の山際に寄って見上げた、険しい山腹である。
そこにも、乱れ積みされた石垣が累々と存在していた。
現在この一帯は、線路を歩いてくる他は水窪川を徒渉する以外に辿り着けない土地である。




7:44

やがて、「第六水窪川橋梁」から戻ってきた現在線にぶつかった。

南側の分岐地点には、旧線工事の明確な痕跡があったが、ここには見て取れない。
手前の平場にしても、路盤跡なのか、畑の跡なのかははっきりしないのである。

スッキリしないので、もうちょっと進んでみる。




合流地点(という表現は正確ではないと思うが)の直前の現在線には、例の“藤棚のようなもの”(掲示板で話題になっているが、正体不明?)があった。

そして、推定される旧線のラインは、現在線の中心線と完全に合致し、久頭合へと向かっていた。
(この奥に小さく見えている隧道は、久頭合のレポで最後に辿り着いた隧道の反対口である。)






向皆外隧道の北口が発見できなかった ≒ 閉塞確定


ますます嫌な条件を備えてしまった、“アレ”。

しかしもう、アレに潜るより他にすることが無くなってしまった。




向皆外隧道 内部探索



8:04 《現在地》

帰って参りました。

苔と亀裂と歪みに満ちた、坑口。

「どうせ入るんだろ。勿体ぶってないで入れ。」って思われてるかも知れないが、確かにその通りだ。

入るだろう。

口を開けているのだから、私は入る。


だが、ウダウダ言うくらいは許してくれ。
気の進まない穴もある。





坑口前風景を飛び越して、一気に入洞。

美しいよりも禍々しくて、何枚も撮影したくなる坑口ではなかった。


写真は、坑口から3mほど入った地点。

当然のように、誰かが入り込んだ痕跡は感じられず。
白っぽい土山に、杉の根が這い回っていた。
この場所が水に満たされる可能性はほとんど無いから、杉の頑張りは無駄だ。
しかし、それを嘲けても虚しいばかりだった。

一番虚しいのは、私のこの後だろうから。





嫌すぎる。


天井が嫌すぎる。


いま大地震が起きれば、この場所が私の墓穴になるのだろうなと、珍しくそんなことを思った。

こんな姿で半世紀も保っているのだとしたら、そう容易く崩れ落ちはしないのではないかという気持ちもあるが、最後に崩れるときはあっという間かも知れない。




身を潜らせられる隙間が無くなってくれれば、即座に引き返す。

その心の準備…マチ…は十分に出来てきたが、こんな状況で意外にも天井の隙間は続いた。

これが埋め戻しなのか、自然な崩土によるものなのかは、分からない。
土というには妙に白っぽいが、乾燥のせいだろうか。

そうだ。洞内には、一滴の水もない。
全てが乾ききっている。
そのせいか天井も汚れてはおらず、真新しいコンクリートの色合いを残していた。
未成の憐れだ。




進んだといっても、せいぜい10mだ。

おそらく、まだ地被りのほとんど無い、坑口の延伸部分の中だろう。

ついに行く手の天井が激しく破れ、そこからこれまでとは明らかに風合いの違う土色の土が、天井を満たしていた。


完全閉塞である。

おそらく全長50〜70mくらいと思われた(この後正確な数字はお披露目するが)隧道のなかで、私が辿れたのは10m程度。
完抜にはほど遠いが、現実的な到達地点としては、これが限界であった。




この写真を撮影した直後、カマドウマの如き素早さで洞外へ退散した。



全てが負の気に満ちた廃隧道。
そこは、かつてどのような災厄の舞台となったのだろう。
例によって『工事誌』の記述を拾ってみたいと思う。


向皆外ずい道は、水窪川左岸の山端を貫ぬく、延長45mの被りの薄いずい道である。
豊橋方坑口より23mのアーチを畳築したとき、たまたま第12、14号台風が連続して来襲し、地表が崩れ、これにつれ、ずい道もまた一部崩壊した。
この地山の移動は大規模なもので、既定の路線を建設することは、ほとんど不可能なため、線路を変更して第6水窪川橋りょう400.7mを新設した。

これが全体の概要である。

年号が書かれていないが、飯田線が水窪回りに付け替えられる最中の昭和29年の出来事だ。
そして、この隧道壊滅の直接の引き金となった台風12、14号というのは、前レポ「第一久頭合隧道」に変状を生じさせたのと同一の犯人である。
ただ、「久頭合」のほうは懸命の復旧工事と地盤改良によって、とりあえず開通にまでこぎ着けたのに対し、この「向皆外」は駄目だった。
そのまま放棄されてしまったという、大きな違いがある。

したがって、この隧道については例の「路線変更一覧」(鉄道廃線跡を歩く[)には収録されていない点に注意がいる。
読者さんの情報が無ければ一生気付かずに終わったかも知れないと思う所以だ。

続いてもう少し詳しく、「廃棄」に至るまでの顛末を見ていこう。
全文引用だと長すぎるので、有る程度抜粋する。


ずい道豊橋方坑口付近の切取りは、施工中特に異状もなく、29.3.18.坑口に達し、続いて導坑を掘進した。坑口附近は山側表土が崖錐であり、降雨のため再三の土砂崩壊があったので、将来の路線保安を考慮して、ずい道に接続し、落石おおいを設置することとした。この落石おおいは延長12.5mで内空断面をずい道と同じとし、アーチ部に鉄筋を挿入した。


早くも、現地では気付かず終わった“新情報”がもたらされた。

今回発見した坑口(→)は、本来のずい道そのものではなく、これに接続して建築された、同一断面の「落石覆い」だったというのだ。

現状を見る限り、工事銘板さえ取り付けられずに“終わった”落石覆い。
工事誌にも名前はない。
おそらく完成後にはずい道の一部となり、個の名前を持つことなく終わったろう構造物だ。


29.3.18.豊橋方導坑の掘削を開始したが、上記のような坑口の表土崩壊のため、坑口は埋没し、4.10.にいたり導坑の掘削を一時中止した。(中略)
その後落石おおいの一部施工に伴い、坑口付近の危険が少なくなったので、6.18.掘削を再着手し、10m進み 6.25.貫通した。

導坑掘削開始→坑口崩壊→落石覆い施工→導坑掘削再開→導坑貫通という流れが、3月から6月までの約3ヶ月の出来事である。
導坑が貫通した次の手順は、これを施工断面まで切り広げる作業だ。
また、切り広げが終了したところから、コンクリートによる覆工が同時に進められる。

だが梅雨のシーズンに入って、ふたたび不気味な“胎動”が記録され始める…。


29.6.7. たまたまずい道検測の際、ずい道上部地表の基準点が川手に110mm移動しておることが発見された。この時、直ちにずい道上部の地表一帯を調査したが、別に亀裂らしいものは何処にも発見されなかった。
 6月29、30の両日、51mm程度の降雨があり、当地方の各所に土砂崩壊があり、道路交通の支障等があった。


「坑口付近の崩壊」
7.1. 未明、坑口より約15mの所から川手の表土約50m3が崩壊した。その時、ずい道上部地表に多少の亀裂を発見したので、直ちにこれに粘土を充填し踏固めて雨水の浸透防止につとめた。

落石覆いの坑口前で発生した土砂崩壊が、隧道全体を廃棄へと追いやる破滅の序曲だった。




「崩壊による落石おおいの亀裂」

7.25. にいたり、前夜来の降雨のため、地盤に弛(ゆるみ)を生じ、約25m3の土砂が落石おおい上に崩落し、落石おおいに亀裂を生じた。

当然のことながら、現存する落石覆いにも、右の写真と同じ亀裂が残っている。

人為の介入をことごとく否定するかのような自然の猛威は、手負いとなった隧道を、さらに矢継ぎ早に襲う。


上記構造物の亀裂の観測調査を継続中、8.18. に来襲した第5号台風(降雨量193mm)により、ずい道上部の地表に数箇所に亘り、相当大きい亀裂が発生し、これはずい道出口より約30m辰野方の沢の上部まで続いた。
このため、導坑柱の傾斜、折損を起し、それと同時に、アーチ、側壁のコンクリートに無数の亀裂が発生、次第に拡大し、遂に剥脱を見るに至った。またずい道内の中心線は移動を生じ、ずい道断面も変形を来たした。

落石覆いに亀裂が生じてから1ヶ月足らずの間で、いよいよ隧道本体に破壊が生じた。
それでもまだ、地盤の変動を厳重に監視しつつ、導坑切り広げの工事は進められていたようである。

現在線のダム水没という厳然たる期限のある工事は、悲壮な覚悟をもって進められていたに違いない。

そして、運命の9月が訪れる。


前述のようにずい道内外に変状が発生したので、変状の観測を継続したところ、日増しに増大の傾向があり、この部分の施工を一時中止した。変状観測と併行して実施した弾性波式地質調査によれば、ずい道に平行して2本の断層があり、この破砕帯が辷(すべり)面となっているとの結論であった。
その後 9.14. に12号台風、 9.18. に14号台風と続いて来襲、地表の変状がますます増大し、地山全体が川に向かって辷り出し、その土圧のため、覆工コンクリートの損傷も甚しくなり、施工基面の移動と相まって、ずい道断面の変状はますます増大した。
この岩石地辷りは大規模なもので、向皆外ずい道豊橋方坑口附近より、(中略)約120m間が運動を起し、施工基面以下にも信頼しうる地盤を求めることができない。このため上記区間の線路を遂に放棄せざるを得ない状態に立到った。

9.25. に71k500m〜72k100mの延長600mの工事施工を正式に中止した。

【原寸図】

同頁に掲載されている上の断面図は衝撃的である。
そこには、落石覆いと隧道の接着部分附近の天井を突き破って洞内を充填した、崩壊土砂が描かれている。
我々オブローダーが、廃止されて何十年もたった隧道でたまに目にする光景が、こうして「工事誌」に記録されてしまっている歪さ…、ゾクゾクする。

この図によって、隧道が施工中に閉塞という最悪の変状にまで到ったことを理解したのである。
また、今回発見されなかった「飯田(辰野)方」坑口については、導坑のみだったことも分かった。
これは1.5m四方ほどの空間だったと考えられ、現状では地被りが深く、発掘もほとんど不可能と思われる。

それにしても、掘り進められていた途中の隧道が土砂の向こうに封印されているという状況には、非常な興奮を憶える。



「第6水窪川橋りょう」

「工事誌」は当然これで終わってはいない。
この後すみやかに工事は請負いから直轄へ切り替えられ、国鉄の威信をかけた「開通」への研究が進められる。

代替線としては、隧道案と橋梁案とが比較検討された。
隧道案は、より地被りの深いところに全長390mの隧道を掘り直すものであった。
しかし、これは残り8ヶ月という限られた工期内で未知の地質の中を掘り進むリスクが嫌われ、橋梁案が選ばれることになった。

橋梁案も、左岸の山腹に沿ったところを通る案と、「右岸に渡り更に左岸に渡り返す案」とが比較検討されたが、将来大規模な斜面崩壊があった場合のリスクを考え、工費は高くなるものの後者の案を採用したという。

そして全15連の連続プレートガーダーが設計され、冬の渇水期となる12月中旬に着工。工期ぎりぎりの30年5月中旬に竣功した。

勤勉で研究熱心な父達の日本人気質を思わず誇りたくなる、そんな「負けても勝つ」試合運びである。
このストーリーを知ったことで、現地ではただ侘びしく虚しいと思っていた「未成の隧道」も、少しだけ癒された想いがした。




最後になるが、廃道や廃線には何よりも物語が必要なのだと改めて思った実戦だった。
もし廃の憐れを慰められるとしたら、それは闇雲な突撃などによってではなく、歴史を知ることによってのみ可能なのかも知れない。
もっとも現状への理解なくして、歴史もまた遠い歌声に等しいのであるが…。