千頭森林鉄道 千頭堰堤〜大樽沢 (レポート編3-1) 

公開日 2010. 6.27
探索日 2010. 4.21


[千頭営林署林道系統図] …千頭営林署資料 (昭和30年代初頭のものと思われる) 本稿紹介区間を黄着色



千頭林鉄本線の探索は、この区間から奥が全て佳境となる。

区間の始まりである千頭堰堤(千頭ダム)は、千頭土場から23.3km地点、沢間起点から数えても20.6km地点であり、並の林鉄であれば既に終点があっても不思議はない長途を経て辿り着く場所である。
だが、最盛期の千頭林鉄は、これよりさらに21km奥地の柴沢へ達していたし、末期となる昭和40年代初頭であっても、12.5km先の栃沢まで線路が敷かれていた。
つまり、千頭林鉄全体から見れば、ここはまだ中間点に過ぎない。

そして、実際に踏破を行うというオブローディング的視点に立つときは、この千頭堰堤こそが全体を2つの領域に分かつ存在といえる。
すなわち、林鉄廃止後も大半が車道として転用された“以南”と、転用されることなく速やかに廃止されていった“以北”である。
これまで紹介していたのは“以南”であり、これより先が“以北”…、生まれ変わることなく消えていった、より濃厚な廃線区間なのである。

言うまでもなく、踏査難度がここから跳ね上がる。
「南アルプス」という言葉を聞いて緩やかな山容を想像する人はいないと思うが、実際に登山者が目にするのは稜線や、或いは高い山腹に付けられた現在の林道からの眺めであって、谷底を通行することを常とした林鉄跡の現状は、彼らのレポートに登場することもほとんど無い。
それゆえ谷底の風景は、一部の遡行家や釣り人を除いて、知られざる存在といっていい。

“知られざる風景”。
それは、私にとって一番のご馳走である。
私が千頭林鉄の探索を企てたのも、そもそも、それがまだあまり解明されていないと思ったからで、二大テーマは大間川支線(「日本の廃道」で連載中…【試し読みする】と、本線の千頭堰堤〜柴沢間だった。
そして実際の探索としては、平成22年4月18日に大間川支線を、21日に本線の千頭堰堤以北の探索を行った。





「千頭森林鉄道30年のあゆみをふりかえって」

大樽沢(おおだるさわ)は、当時の林鉄路線図によると、千頭堰堤の次の停留場であった。
区間距離は4.3kmであり、途中駅は描かれていないものの、途中から「1321m」を併記された索道の記号が分岐している。

これは本編中にも少し登場する「天地索道」で、全長1321m(1375m説在り)高低差383mをワンスパン(途中支柱無し)で行き来し、昭和26年の建設当初「東洋一」と言われた大索道である(なお、現在でもこの記録が日本国内で抜かれたことはない)。

また歴史的に見ると、この区間は一度に建設されたのではない。(左図にカーソルオン)
歴史解説編<2>」でも述べているとおり、沢間〜千頭堰堤の区間は、昭和5年から8年にかけて第二富士電力が寸又川専用軌道として建設している。ついで千頭堰堤から2.6kmの延伸線も、昭和9年5月に同社が建設した。
そして千頭堰堤完成後の昭和13年12月、これらが全て帝室林野局(後の東京営林局)に譲渡され、千頭森林鉄道と呼ばれるようになったのである。
さらに帝室林野局は戦時下の木材大増産の目的のため、昭和16年から20年にかけて千頭堰堤先2.6km地点を起点に、小又川沿い奥地柴沢へ向けて18.1kmの延伸を行った。大樽沢に停留所が設けられたのはこれ以降のことである。




右図は現在の地形図で、本稿が取り上げる千頭堰堤〜大樽沢までを含む。
図の全域を通じて険しい山岳と深い峡谷がひしめいており、堰堤以北で車道として描かれている道は2本しかない。
これらは林鉄廃止に前後し代替として千頭営林署が建設した、寸又左岸林道<とその支線の日向林道である。
加えて幾筋かの破線の道(徒歩道)が描かれており、その一部は寸又川に沿い、または渡河して右岸の山林に分け入っているが、これらの道の現状は探索を行うまで全く事前の情報を得られなかった。

また基本的に無人の地域であるためか、地名もわずかしか書かれていないが、「大樽沢」の注記が右上隅の寸又川左岸に注ぐ支流に認められる。
図中から川に沿って距離を測ると、千頭堰堤から大樽沢までおおよそ5kmであり、前掲の「路線図」にあった区間距離4.3kmと近い。
従って大樽沢停留場は、現在の地形図上の大樽沢付近にあったと想定して行動した。

図にカーソルを合わせた際に赤くハイライトする箇所があるが、「赤線」は軌道跡と思われる破線の道を示している。
また「赤矢印」は、現時点では軌道跡の確信は無かったが、破線の道に隧道が描かれているという“気になる地点”を示している。
いずれにしても、途中には軌道跡が完全に地図から消えている箇所があり、その踏破の困難を予感させた。




これからこの区間のレポートを開始するが、探索後の感想を一言だけ前借りしよう。


この区間は千頭林鉄“奥地”探索の入口にして、惰弱を嫌う屈強な門番である。





千頭堰堤先の廃道化


2010/4/21 7:29 《現在地》【路線図】【広域図】 

寸又峡温泉(大間)を朝方に出発してから、軌道跡を転用した狭い車道(中部電力の管理道路)を辿ること10km、自転車の私は1時間半ほどで「千頭堰堤」に辿り着いた。
この間「大間〜千頭堰堤」のレポートは現在作成中です。

延々20kmもの軌道(寸又川専用軌道→千頭林鉄)が、この堰堤の建設を目的として敷かれたという、由緒ある建造物。
現在も中部電力の現役施設だが、無人管理になっている。

大間からここまでの10kmには多数の隧道と橋があり、地形も険しかったが、勾配は緩やかで舗装されていたこともあり走破自体は楽だった。とはいえ、10kmという距離が私の心に重くのし掛かった。
今回の探索の実質的スタート地点はここだが、既に集落から10kmも離れているという事実が重いのだ。

そんな心境もあってか、私の前に初めて現れた千頭堰堤の印象は、川と言うよりも山を背負っているような、重厚かつ窒息感のある風景だった。
現在地の標高640m(大間は530m)に対し、背後の山並みは1400mを越える。太陽がもうだいぶ登っているにもかかわらず、まだ堰堤の半ば以上が山の影に沈んでいることからも、谷の深さが感じられた。




道は堰堤にたどり着くと、そのまま鋭角に折れて堤上路となる。

この路面が濡れているのは、今朝方まで雨が残っていたからで、車内の私をヤキモキさせた雨だった。
しかし、結果的には好天が約束されたような今の空模様である。
気温も15度前後で、まさに探索日和を思わせた。

が、当時の私の心は、この路面のように暗澹たるものがあった。
その原因は、プレッシャーである。
10kmを背負ったプレッシャーもあるが、これから事前情報のない林鉄跡を辿るというプレッシャー。
しかもどこまで進めるかは分からないが、往復しなければならないという行程上の制約もある。
そして、南アルプスの林鉄が容易でないことは、一昨日の大間川支線探索で嫌と言うほど味わっているのであるから、なおさらである。

敢えて望んだとはいえ、戦場に赴く兵士の心は、常に穏やかではないのである。




チンダル現象によって、空よりも緑よりも深い蒼(あお)を湛えた千頭ダム湖。
建造当時の堤高は64mであり、水面は堤頂の路面から5mも下らないところに張り付くように存在している。
遠くの喫水線を見ても緑を直に濡らしており、満水のようである。
ということは、この水面下には60mも70mもの水深が潜んでいるのだろうか。

と思ったが、実はそんなことはなく、たいして深くはないらしい。
このダムは上流からの堆積が進んでいて、有効貯水量の98%以上が土砂に占められているらしいのだ。
それでも、発電所の取水専用のダムということで、機能上は別に問題ないらしいが。




堆砂率について読者さまからご指摘がありましたが、堆砂率98%というのは本文中の「有効貯水量の98%が土砂に占められ…」ではありませんでした。
正しくは、こちらをご覧下さい。 wikipedia:ダムと環境:ダム堆砂の現状
不正確な情報でご不便をお掛けしましたことをお詫びいたします。

堤上路の長さはすなわち堤長であり、178mある。
堤高64mという数字と合わせて見ても、現在の水準からとれば灌漑用といっても通じるくらいの規模だが、大正時代に計画され、昭和10年に完成したという時期を考慮すれば、重力式コンクリートダム黎明期の巨大ダムといえる。

それまでまともな道が一本もなかった山中に索道と軌道を敷設して、資材と人員の運搬を行い、この巨大で精密なダムを建造した事業を、偉業と言わずなんと言おう。

堤上路は幅3m弱と狭いが、そこにはかつては枕木とレールが敷かれ、林鉄が通っていた。
今風に言えばスラブ軌道だったのか、路盤の詳細は不明だが、当時の写真は残っている。





『RM LIBRARY 96』より転載

これは昭和37年6月に橋本正夫氏が千頭林鉄に乗車し千頭〜大根沢間を往復した際に撮影された写真の一枚で、千頭堰堤上で大間側に振り返って撮影したものだが、おおよそ営林署の仕事とは関係の無さそうな人々ばかり写っており、不思議な感じを受ける。(記事の中では触れられていないが、一種の接待用の列車だったのかも知れない)

それはともかく、この風景は千頭堰堤上で間違いなく、確かに軌道が敷かれていたことが分かる。
堤端の手摺りは現在の鉄製欄干とは異なっているが、奥に見える塔のような建物は現在もある排砂ゲートだ。
また、当時は観光名所として今より著名であったのか、いかにも観光向けのような照明が点々と取り付けられていることも注目される。




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最後まで舗装されていた堰堤までの道(右岸)に対し、堰堤後の道(左岸)は、最初からいきなり砂利道になっているようだ。

それでも、まだガードパイプが続いているのが見えるから、道は続いているらしい。
地形図だとここから破線の道であるが、まだ自転車で進めそうだ。

なお、地形図にもあるとおり、この堰堤左詰の狭い空き地からは、山手に登る道が分岐している。(地形図)
これは1kmごとに200mも登るという大変急な歩道だが、日向林道および寸又左岸林道と接続しており、登山者の利用があるらしい。
私も奥地に望む際のルートとして検討対象としていたが、「自転車を持って登るのは嫌だなぁ」というのが、下から見上げた感想だった。




分岐地点となる広場の様子。

そこにはダムを照らす巨大な投光器のほかに、2つのモニュメントが存在していた。

なお、背後の石垣の上に歩道が登っていく。
最初のうちが特に急坂のようだが、それなりに踏み跡はしっかり付いているので、迷うことは無さそうな道だ。




2つのモニュメントのうち、目立つように手前に置かれているのは、「千」「頭」「堰」「堤」という陽刻の金属プレートが填め込まれた、コンクリート製の柱だった。

面白いのは、文字の部分を雨から守るように、昔の郵便ポストの投函口のような庇(ひさし)が付いていることである。
その効果かは分からないが、やや薄気味悪い感じに石灰分が表面に析出し、白く流れたような汚れを作っている。
また、この意匠の他は平凡な碑であり、さほど芸術的という印象も受けないのだが、実は名のある彫刻家の「作品」である。



碑の裏側もシンプルで、上下2枚のプレートを納めるような凹みがあるだけである。
しかもプレートが現存するのは下の1枚だけであるが、そこには2人の著名人の名前があった。
(現場で誰と分かるほど学がない私は、帰ってきてから調べたのだが)

湯浅倉平書
朝倉文夫刻

湯浅倉平は、大正〜昭和初期の政治家で、静岡県や岡山県の知事を務めたほか、後年は警視総監や内大臣を務めた人物。

朝倉文夫は、同じく大正〜昭和の彫刻家で、「東洋のロダン」とも称されたほどの才能の持ち主。上野駅グランドコンコース内にある「翼の像」などを手がけているほか、無類のネコ好きであったらしい。

残念なのは、この碑が建立された経緯も時期も、2人がなぜ建碑に関わったのかも分からない点である。
湯浅が静岡県知事であったのは大正3〜4年の僅かな期間であり、千頭堰堤の建設よりは幾分早いのだ。
唯一言い得ることは、かつて堰堤が華やかな観光の舞台であったということか。




少しスカしたモニュメントの奥に一歩引いて、しかし実際にはそれ以上の存在感を醸していたのが、ご覧の碑である。

こちらは「慰霊碑」と刻まれており、造花や酒が供えられているのに加え、しめ縄まで巻かれている。

具体的にどのような慰霊の碑かは刻まれていないが、台座部裏の記年「昭和十一年一月建之 株式會社 間組」を見て一目瞭然。
明らかに堰堤や軌道の工事に関わる殉職者である。(堰堤や軌道の建設は間組が中心になった)




さらに碑の裏側には、殉職者と思しき12人の出身地と氏名が列記されていたが、出身地の内訳は、右から順に…

新潟県人1、富山県人1、
秋田県人2、静岡県人2、
山梨県人2、福島県人1、

 そして… 慶尚南道人3。

殉職者の多くが県外出身者であり、なかでも慶尚南道(キョンサンナムド)は韓国南東部の地域である。
堰堤建設は韓国併合後であり、見慣れた県名の隣に韓国の行政区名が書かれているのは、強烈に時代を感じる。

そして、探索中の慰霊碑遭遇では毎度のことだが… 黙祷。





堰堤の通過と「観光」に5分を要し、

7時34分に再び出発。




ここではその具体的な違いは述べないが、林鉄の規格としても、ここまでの区間が一級線であったのに対し、これから先は二級線となり、低規格化する。
もっとも、その違いは蒸気機関車の時代には大きかったが、千頭林鉄の活躍した昭和の林鉄においては、さほどではなかったようだ。

そしてなにより、いま目の前の道が急激に“廃道然”としはじめた事とも、関係は無いはずである。
これはもっと単純に、堰堤までが今なお管理された道であり、これより先はそうではないというだけだ。

もはや、路面の轍は風前の灯火といった風であった。
私は不安な表情を隠そうともせず、ゆっくりとペダルを漕いだ。




堰堤から100mをほぼ何事もなく平和に過ぎると、道は湖のカーブと歩調を合わせて右方向に90度折れる。
そして、早くも「湖」と呼ぶことの限界が現れてきた。
堆砂率98%超というのは本当らしく、底が見えるほど浅くなっている湖は、すぐ先で巨大な白州を見せて干上がったようになっている。

今のところ穏やかな河川風景であるが、道の法面はゴツゴツした岩場であり、それも次第に高低差を増してきているのが分かる。
徐々に小さな倒木なども増え始め、轍は苔色に変わり始めていた。

その瞬間が刻一刻と迫っているのは、もはや疑いなかった。





7:39 《現在地》

堰堤出発から僅か5分後。200m地点。


自転車から “試し” に一度降りた。



そして先を見通して、決断。


サヨナラだ。




自転車放棄を決定した私は、すぐさま気持ちを切り替えて徒歩探索を開始した。

今度こそ、本当の始まりである。

そう理解した。


歩き始めてすぐだった。

路盤が、無かった。

路盤が、無かった。

無くなった路盤の代わりというわけではないだろうが、僅かに続いていた踏み跡は至って自然な感じでスロープを描き、完全に水の引いたかつての湖底へ新たな進路を求めていた。

これで早くも路盤放棄か?







地図にない!!!