2010/4/19 9:13 《現在地》
ひっそり森に佇む“森ガール”のような小屋は、近付いてみると意外にごつかった。
大きな煙突を持つ小屋の正体は、おそらく炭焼小屋なのだろう。
年季は入って見えるが廃墟ではなく、軒先に切り出されたばかりの丸材が散乱しているところを見ると、今も頻繁に炭焼人が通っているようだった。
道は小屋の前を通り、大木をくぐってから、石垣とコンクリートで谷留された清流を橋を架けずに踏み越えて、先へ進んでいた。
このうち少なくとも大木と石垣は、軌道時代からのものであろう。
沢を渡るとすぐに、小さな案内板が立っていた。
そこには、「沢口山 猿並平コース 登山口」と書かれている。
大間集落から入ってすぐの古道分岐地点に登山道の案内板があったが、その登山道の2つ目の案内板がこれである。
登山道とはここで分かれるので、軌道跡の道は誰も行き先を教えない独行となる。
もちろん、望むところだ。
良い気持ち〜。
天気と時期の両方が最高にいいな。
真夏だったら、晴れていてもこんなに爽快ではなかったろうし、視界も木の葉にだいぶ遮られただろう。
4月中頃の大井川上流の山域は最高だな。
この4日間の探索中、雨が降った3日目以外はずっとそれを感じていた(ちなみにこの日が2日目)。
おっと、話が少し逸れた。
軌道跡の道はこのまま緩やかに上りながら、山腹を素直になぞって進む。
あと500mほどで正面の尾根を抜く隧道に出会えるはずだが、そこまで険しさとは無縁の旅を愉しめそうだ。
前回私は、【この写真】にこんな事を書いている。
先に大間集落が控える広々とした谷間に入る。 この谷は現在の寸又川の河床から50mも高い所にあるが、非常に勾配が緩やかで、おそらく大昔の寸又川の蛇行する河道跡なのだろう。
今、振り返り気味に見下ろしている谷が、“それ”である。
こうして上から見ると、ここに蛇行する大きな川が存在していたことが、より納得出来ると思う。
遙か大昔の浸食がまだ余り進んでいない頃には、険しい千頭や南アルプスの山々も、このような緩やかな山容を描いていたのであろう。
浸食により早い時期に寸又川の流れがここを通らなくなったため、この穏やかな谷地が山中に孤立して残ったのだと思う。
“大間”という名前は、ぴったりだ。
上の位置から平穏に200mほど進み、それから再び振り返ったのがこの写真だ。
引き続き軌道跡の勾配は緩やかであるが、谷の自然勾配に逆行しているため、実際以上に急勾配に見える。
それに、谷底との比高もあっという間にこんなに増えた。
幾ら千頭林鉄が当初より強力な内燃機関車を用いていたとはいえ、大量の木材を牽引して“逆勾配”をよじ登るのは容易な事ではない。
地形的に何としても逆勾配を避けがたいとしても、その距離と勾配の度合いが少しでも緩和されるよう、熟考の末に生み出されたのが現在のルートであるに違いないのだ。
ほんと巧みだと思う。この路線の位置。
勾配と曲線をかなり自由に扱える道路とは違う、キツイ制限の中に生まれた線形は、かように繊細で壮観だ。
そこで前を見れば、こんな景色。
左の谷はどこまでも深くなっていく感じに見えるが、それを見下ろして進むのも、あと僅かだと思う。
既に最初のうちあった轍は途絶え、瓦礫や枯れ枝が散乱する廃道状態ではあったが、それでも歩行に困難を感じる場面は全くない。
軌道跡に沿う電線は健在のようだから、それと林業の関係者が、この道を最低限守り続けている感じだろうか。
藪は全くないので、自転車でもアドベンチャラスに走破出来そうだった。
まあ、隧道の向こうが“ああ”だから、オススメはしないけど…。
大間集落から間もなく1kmになろうかというところ。
これまで縦(ほしいまま)にしていた絶景は、遂に鬱蒼とした杉林に取り上げられてしまった。
しかし、これもまたある意味で“林鉄冥利”に尽きた車窓風景である。
さて、それはそうと…。
距離的にもう そろそろ かと思うわけだが……。
そう思った矢先に、やっぱり来た。
何か来た!
これはもう、ほとんど決まりだろ。
前方50mほどの所に白い標柱(赤矢印)が立ち、さらにその20mくらい先の山肌の窪んだ所に、何か背の高い構造物の上部が見えている(黄矢印)。
決まりだろ〜〜!
心躍らせて、まずは白い標柱へ近付いてみると…
こっ、これはッ!
終点 大日山隧道
これは私が初めて見る標柱であり、言わんとしている事の全ては把握出来ない。
つまり、ここが何の「終点」なのかがまず分からない。
それに、これが軌道時代の物なのかどうかも不明である。
しかし、確実に言えるのは、このすぐ先に控えている物の“正体”だ。
それが隧道であることはもはや驚くに当らないが、名称が判明したのは大きい!
味気ない仮称「大間東隧道」は、ここへ自ら足を運んだものに、今その本称「大日山隧道」を告白したのである!
大日山隧道、
いま、満を持し、
出現!
それにしても、何だこの坑口の庇(ひさし)?
坑口前には何か場違いな金属製の什器状の物も置かれているし…。
洞内には、電線も引かれている??
9:26 《現在地》
大日山隧道西口。
庇が取り付けられているのは(よく見ると雨樋まである)、洞内を通路以外の何かに再利用していた名残と思われる。
大きな樹脂製の板が坑口前に倒れているのは、扉だったのか。風よけだったのか。
いずれ、進入を妨げるものは無くなっている。
坑門自体には目立った装飾はなく、笠石状の凹凸があるだけの千頭林鉄標準型だが、両側の翼壁が目の細かい石垣であり、多少目を引く。
隧道上部の山腹にも周囲と同様に植林された杉が林立し、尾根は何とか見通せる程度。
それでも地形図上の比高は約80mもあり、見た目よりは随分高い印象だ。
【昭和37年地形図】を見ると、前に分かれた古道の峠も、隧道直上からさほど遠くない所にある。
「大日山」という隧道名の謂われも、おそらくは古道の峠にあるのではないか(大日堂がありそう)。
いずれ確認しなければ。
さしずめ今の問題は「隧道が抜けているかどうか」だが、
坑口から向こうの光は見通せなかった。
↓↓
や、やばい…!
なんか、場違いな扉が見えるぞ……。
と、とりあえず入ろう。
そうして洞内へ進入するとき、
ちょっとした光の加減で、
私は“ある重大な事実”に気付いた。
それが何であるかは、少し後に分かる。
洞内は、意外なことに舗装されていた。
しかし、車道のようなアスファルト舗装ではなく、コンクリート舗装であった。
辺りにはプラスチックの籠や什器などが置き去りにされ、この隧道に訪れた2度目の“死”を演出していたが、その2度目の“生”の正体を、これらに混じって散乱していた小さな容器が教えてくれた。
これって、一部廃隧道の常連…キノコ培養壜(びん)だよね。
育てていたのはエノキかシメジかはしらないが、とても牛乳を詰めて呑む気にはなれないプラスチックの壜が、20ほど残っていた。
確かにこの隧道、いかにもキノコの生育に向いた環境に思える。
暗いのは当然だが、じめじめもしている。
壁や床が雨でも無いのにびしょびしょだ。
そうこうしているうちに、呆気なく扉へ到着。
耳を澄ましてみても、向こう側に生きた人がいる気配はない。
不毛な気分になりながら、半ば義務的にドアノブを握る。
結果は言うまでもなく、
閉扉施錠。
…そうだよな。
光だ!
隧道自体は無事貫通している。
それに期待通り、結構長い隧道だ。
あと150mくらいはあると思う。したがって、全長は180mほどか。
相変わらず洞床はコンクリート舗装だが、壁面は素堀になり、天井には蛍光灯が20m間隔くらいで取り付けられていた。
しかし扉の存在からも分かるとおり、この舗装や照明は、通行の便を図っていたというより、キノコ栽培場の整備の一貫であったろう。
え?
扉をどうやって抜けたのかって?
そ、そりは……。
←こういう状態だったのれす(笑)。
これでは、“わるにゃん”どころか、“わるクマ”や“わるんちゅ”でも容易に立ち入れてしまう。
もはや扉の役割を果していないが、腐朽で自然にこうなるとも思われず、不思議であった。
この扉の異変には、坑口でうろうろしている最中に気づいたが(だってこんな光が見えていたから…)、実際に通り抜けるまでは、何か罠があるのではと疑っていた。
流石に扉がこういう風になっているとは、普通思わない。
前進再開。
ほぼ中央くらいまで来たと思うが、ここで再びコンクリートの巻き立てが復活した。
ここにも什器がポツンと置かれていた(坑口前に倒れていたのはこれだな)が、全体的に扉のこちら側には、あまりキノコ栽培の遺物は残っていなかった。
さほど大々的にやる前に撤退したような印象を受けたが、あなたが過去口にしたエノキやシメジにも、実はこの廃隧道で育ったものがあったかも知れない。
残りは30mほど。
再び素堀に変わっているが、比較的最近まで利用されていたせいか、或いはそういう安定した場所を再利用に選んだものか、全くと言って良いほど壁面の崩れやひび割れ、それらに付随する洞床の散乱物などは見られなかった。
地盤的に非常に恵まれた、安定した隧道なのだろう。
そのため、この隧道は前後の軌道跡と共に、電線の敷設路として現役利用されていた。
先ほど“2度目の死”などと書いたが、撤回する。まだ死んではいないようだ。
9:36 《現在地》
おおよそ10分で推定全長180mの隧道を通り抜け、我が自転車が待つ東口、すなわち寸又右岸林道「上」に口を開ける坑口へ辿りついた。
林道から見上げた眺めからもある程度予想出来ていたことだが、この東口は谷の中に口を開けているため、土石流の被害を受けている。
坑外に堆(うずたか)くなった土石が、今にも洞内まで雪崩れ込んで来そうだ。
隧道内部は抜群の安定感だっただけに、この坑門の存否が、全体の明暗を決しそうである。
外へ出る。
←大日山隧道東口。
この坑門は坑道の方向に対して直角ではなく、斜めになっている。
これは、坑口前の路盤が急カーブを描いているためだが、そのお陰で隧道自体は完全な直線である。
縦断線形の点から言えば、この隧道が大間〜沢間間のサミットになっており、ここ(標高550m)から沢間(標高380m)までは、10km近い緩やかな下り坂である。
坑口に大量の土石をもたらした、極めて急峻な谷。→
坑口直上の岩盤の一部は、オーバーハングさえ見せる。
穏やかな杉林であった西口とは大いに異なる山容であり、寸又川の浸食力の凄まじさを思い知らされる。
谷を今度は見下ろしている。
寸又右岸林道は、おおよそ15mの下方。
寸又川の明るい谷底に至っては、実に130〜150mの下方である。
下から見上げた感じより、林道との高低差が大きく感じられる。
それは、林道を見るときに必ず谷底が見えてしまう事から来る、精神的なプレッシャーもあるかも知れない。
また思っていた以上に谷は険しく、ここを通って林道へ下降するのは、リスクが高い(無理?)感じがする。
ま、まさか、隧道を通り抜け出来たのに、林道へ下りられずにENDということは…。
…なんか、嫌なゾクゾクが……。
この状況では、前進するより無い。
この荒れ果てた谷を横断して、次の電柱が待つ対岸へ…。
電柱があると言う事は、どこかしら林道と行き来出来る場所があるはずだ。
それを追求することは、最後に残された軌道跡を探索することであった。
木の根なども利用して、なんとか谷を横断。
そこで坑口を振り返ったのが、次の写真。
かっこいい!
巨大な岩盤に直に掘り付けられた隧道だ。
繰り返しになるが、西口との印象の違いが凄い。
なお、岩盤の凄まじいスケールのせいか、一緒に写っている
個々の物のスケール感が、おかしくなっている気がする。
その最たる例が中央左に生えている、“ひょろっ”とした枝の少ない木だが、
これ、間近だとこんなんだからね。
2本目の電柱に到着。
さらに先にも、もう1本見えている。
そこまでは、なんとか辿っていけそうだ。
しかし、それより先はどうだろう。
妙に明るいのが、気にかかる。
私は既に知ってしまっている。
林道の山側に軌道跡が分岐する余地など、全くなかったと言う事を。
3本目の電柱に到達。
そして、電線はここで軌道跡を捨てていた。
次の電柱が立っている林道脇の広場は、まさに私が自転車を残してきた場所ではないか!
こんなに近くにいるのに、手は届かない!!
前進するにつれ、林道との比高は確実に縮小してはいるが、それは安穏とした軟着陸への接近を意味していない。
両者の早急な邂逅がもたらす結果は…
軌道跡の死!
遂に進路を林道に奪われ、路盤を中空に散逸させてしまった。
もはや逃げ場はない。
だいぶ近付いたとは言え、それでもまだ林道の電柱のてっぺんが、眼下に見える高さである。
9:42 《現在地》
大日山隧道西口に続く軌道跡は、林道上に電柱3スパン分だけ残っていた。
この写真がその全てであり、おおよそ150m程度である。
…さて、どうしたものか…。
結局、思案の末、
3本目の電柱の所から、斜面を滑り降りて林道へ脱出した。
逆に辿るのは、さらに難しそうである。
林道側から見た、軌道跡の消失点。
軌道跡は林道建設の犠牲になったとしか言いようがないシチュエーションである。
軌道を林道へ改築する際、それまでの大日山隧道ルートを止めて谷底の大間林道と接続させるため、「アカイシトンネル」からこの辺りまでの軌道跡を、最大で10mも掘り下げたことが想定される。
両者の本当の接続点はどこだったかを考えながら、アカイシトンネルまでさらに100mほど林道を歩いてみた。
僅かな時間の後、見覚えのあるアカイシトンネルが現れたが、結局林道と軌道跡の高低差が始まる地点(=分岐点)を特定出来るような痕跡は見あたらなかった。
その後自転車を回収し、「沢間〜大間」の一連の探索は、
約2時間半という短時間で終了した。
(実は前回紹介した「南アルプス山岳図書館」の訪問や撮影は、
この後の自動車の回収時に行ったのだが、レポートでは一部時系列を変更した)