道路レポート 林道樫山小匠線 第7回

公開日 2014.7.29
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

野趣溢れる、第2号隧道(仮称)




2014/3/27 8:56 

高野川の分岐地点を出発して22分が経過。
ここまで印象的な場面が多かったので、もう少し時間が経っているように感じていたが、実際はいいペースで進む事が出来ていた。
この22分で1.6kmほど樫山へと近付き、残り2.4kmほどである。

そしてここで、本林道2本目のトンネルが姿を現した。
ちゃんと貫通していることを願いながら、正面へ回り込む。



よっし!貫通確認!

第一印象は、“既視感”。
それもデジャブなんていう感覚的なものじゃない。
私は初めて来るこの隧道を、明らかに見て知っていた。(理由は後述)

そしてその次に感じたのは、長さと狭さだ。
無論、これらの印象は相対的なもので、今日の探索で出会ってきた隧道達に較べて、ということである。

ここまで本線と支線で一度ずつ隧道をくぐっているが、どちらも大変短かったせいか、道の狭さほどの隧道の狭さは感じなかったが。
だが、この隧道には闇の迫力を感じさせる長さと狭さある。特に狭さは、現役の道路トンネルとして特筆に値するものだ。
入口は結構な上り坂だが、洞奥に勾配のピークがあるらしく、出口の下半分が見えていないのも、余計に狭苦しさを感じさせた。




――そして、もしも

あなたが、ここまで四つ足のクルマで来た“勇者”であったとしても、

この先へ進む事は、絶対にしないほうが身のためだと思う。

きっと後悔するから…。(理由はやはり後述)

逆に、私を含む“それ”以外の訪問者は、灯りを付けて進んでOK。



隧道へ踏み込む前に、第一印象として述べた“デジャブを越えた既視感”の正体を明かしておこう。

左の写真を見て、ピンと来た?

この写真はレポートの前説に掲載したので、皆さまの中にも見覚えがあるだろう。
これは、今回の情報提供者であるおこぜ氏が、19年前の平成7年に、自ら乗用車を運転してこの道を完全走破した際に撮影した写真として、情報提供のメールに添付されていた2枚のうちの1枚だった。

ちなみに同氏によると、「中央部が盛り上がっているのは天井の崩落です。地面の筋は轍ではな く,自車の濡れたタイヤ跡です。」とのことであり、19年前と現在(右写真)との変化を知るという意味だけでなく、タイヤ痕と内壁の位置関係によって、完全素掘隧道としては稀に見る狭隘な断面が極めて明瞭に示されている点でも、大変貴重な写真である。




おこぜ氏が写真を添えて下さったことからも分かるとおり、この隧道は本林道を代表する“見どころ”である、また“難所”でもある。
特におこぜ氏のような自動車での通行は、相当の緊張と覚悟を強いられるだろう(まあ、ここに来る道中の方が転落の危険性などを考えたとき、より怖ろしいかもしれないが)

隧道の感じ方というのは、個人差が大きい。
閉塞した廃隧道でなければ冒険とは思わないような層には、これもまた“普通のトンネル”かも知れないが、世の中多数の現役で使われている一般的な道路トンネルに基準を置いた場合、強烈な“インパクト隧道”となることは疑いない。

私自身は後者の基準を重視しているので、この隧道には大いに興奮した。
自動車ギリギリの狭さ、手作り感のあるくっきりした勾配、素掘りの持つ迫力、生活道路としての実績、そしてなによりも(一応は封鎖されていない)現役であるということなどが、私にとっての高い評価点の根源である。



これは凄い出水!! 土砂降り!

隧道は目測で全長50mほどだが、小匠側から入って40mくらいで勾配が変わる。
それまでの結構な上り坂が「カクッ」と折れて、平坦かやや下る感じで樫山側の出口に続いている。
そしてその頂点(サミット)付近まで来た私を驚かせたのが、凄まじい天井からの水垂れであった。

ぜひ、動画でその勢いと音を確認していただきたい。

もちろん、これには今朝までの大雨の影響が大きいのだろうが、それにしても小さな土被りの隧道としてはビックリする出水の激しさで、隧道が地下水脈を貫通していることを思わせた。
その証拠とまでは言えないものの、出水地点付近の天井が前後に較べて2mくらいも高くなっていることも、過去に水脈と関係する亀裂が落盤を生じさせた可能性を示唆している。(写真)

私は水垂れのカーテンに自転車ごと突入し、激しいシャワーに快感を覚えた。
これぞまさに、この道を通行した証しを身に刻む“洗礼”である。
そしてその先の出口が、狭かった入口よりも明らかに狭いということを、無視することは出来ない。
これが断面の一定しない素堀隧道の恐ろしさであり、無理なクルマで通行すれば、洗礼以上の傷…スティグマをその身に刻む羽目になるだろう。



出口越しに見る、隧道の先の道。
その道幅は、これまで以上に狭く、また路面も荒れていた。
事実、出口から先に刻まれている轍は道の中央に集中していて、明らかにバイクと分かるものばかりである。
隧道直前までは確かに自動車の轍が見られたが、坑口前の広場が終点だったようだ。

あなたが自動車でここまで来てしまった場合は、この外の風景を見て、どうするか決めることになる。
まだ進めると判断するのか、隧道をバックで引き返すのか。
悪いことはいわない。
19年前には、おこぜ氏が身を以て示したように、確かに自動車による全線走破が可能であったのだが、今は無理で、しかもこの先にUターン出来る場所は無い。




9:00 《現在地》

もはや隧道というよりはケモノの巣穴のような、極小の2号隧道(仮称)樫山側坑口
自転車と大きさを比較していただきたい。
この坑口部が本隧道で最も狭い部分だが、現役当時、自動車でこちら側から入るのには勇気が要ったことだろう。
おこぜ氏は、勇者だったといわねばなるまい。

そして、この道が生活道路だった事実は何度でも強調したい。
ここまで乗り越えてきた数多くの難所は、この奥にあった樫山や山手川といった集落にとっての門戸であった。
幾ら険しい道であっても、外界へ通じる唯一の車道は、極めて主要な存在として暮らしに関わっただろう。
そもそも、第5回で考察した「明治44年以降、昭和27年以前」という開削の時期は、この道が村々の“自普請”により生み出された可能性を強く示唆するものだ。
現在でこそ「林道」だが、林道として建設されたと考えるには、この隧道の狭さは林産物の搬出にとって不合理なのだ。




坑口前の道路は、長年の土砂崩れによって微妙な盛り上がりの勾配を見せていた。
この場所の道は、常に路肩の浸食と落石による堆積に晒され、同じ形を長く保つことがない。
私が通ろうとしているこの時にも、増水した川の流れが路肩に連なる斜面を勢いよくなぎ払っていた。
土留めなんて言う、我が国では当たり前のものが、ここにはない。




振り返って見る2号隧道(仮称)。

素掘隧道といわれるものの中でも、ここまで野趣に溢れていて、見た目を整えようとした気配のないのは珍しい。
隧道そのものの造りだけでなく、直前の思いっきり撫で肩になった道や、これといって工夫した様子のない素朴な線形も、その印象を深くしている。
本当に、ぽっかり空いた山の口。




前進再開と思った矢先、自転車のトラブルに気づく。

後輪のディスクブレーキを動かすためのワイヤーが、摩耗のために弱り、切断寸前となっていた。
至急、所持していた予備品と交換する作業を行ったうえ、ついでに腰を落ち着けて朝食を摂ったので、おおよそ13分の休止となった。

9:13 再出発。



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自動車交通不能箇所と、山手川分岐地点


隧道を後に自転車で2分弱進むと、道はしばらくぶりに水面と近い高さになった。
道路が下ったというよりは、川が登ってきたのだろう。
相変わらず水量は多いが、川幅は小匠あたりのように広くはなく、渓流といえる範疇に収まってきている。
その代わり勾配は強まり、水面に見える波濤も、それに伴う轟音も大きくなった。

そんな道の傍を流れる川が、ワルさをしていた。
遠目に見ても、自動車は通れないと分かった。(隧道からここまでUターン場所は無し)
路盤が完全に決壊し、そこを木製の桟橋で連絡しているようだ。

これは、おこぜさんが自動車で通行した当時は無かった決壊で、同氏によれば、3年前の平成23年台風12号による紀伊半島大水害が原因らしい。
ちなみに、高野線(仮称)の決壊も同じ災害が原因だということだ。




路盤の決壊は、20mほどにわたって続いていた。
崩壊の規模としては、重機などを使えば十分に修復可能だと思われるが、
何年間も“二輪車が通れる程度”の補修しか受けていないという事実が、この道のリアルだった。

この瞬間、現在において小匠から樫山へは自動車で通えない事が確定してしまった。
これまでギリギリのところで廃道にならず頑張っている姿に愛着と共感を感じていただけに、
中盤からいよいよ終盤に入ろうかという場面でのこれは、少しショックだった。
もっと、どうにもならないくらいの大決壊ならば、また別の印象だっただろうが…。

ともかく、この道に入って初めての明らかな自動車通行不可能地点を過ぎることで、
道の状況が一気に廃道化へ転げ落ちる危険性があった。
しばらくは、状況の変化に特に注意しなければ。



決壊現場を自転車ならではの身軽さで走り抜けると、すぐに綺麗な路盤が復活。

特に荒れ果てている様子はないし、これ以降に新しい自動車の轍を見つけたならば、
それは樫山から来たものであることが確定する事になる。この先の道に安心したい私は、
路面上の轍探しに熱中したのだが、まだそれと分かるものは見あたらなかった。

それはそうと、地図によれば、そろそろ“町境”だ。



決壊現場から2分ほど進んだ所で、道よりも先に、川に変化が現れた。
見えてきたのは、とても分かり易い川の合流地点の光景だ。
高野川に続く小匠川の大支流、山手川との出合に到達したのである。

そして、この出合の直前(数十メートル手前)を、那智勝浦町と古座川町の境界線が横切っている。
林道樫山小匠線が越える唯一の町境で、ここを過ぎれば古座川町の大字樫山に入る。

市町村の境で道の管理者が変化し、そのために道の整備状況に格差が生じるというのは、良く見る光景だ。
この道の場合はどうだろう。
状況の変化に注目したい。




町境に到達。

ある程度予想していた事だが、路上には何一つ目印はない。
道路状況(道幅や整備状況)にも直ちに分かるような変化は無く、相変わらずの頼りなさだ。
ここが那智勝浦町にとっても、古座川町にとっても、あまり重視されない辺境であり続けたためか。

歴史を紐解けばこの境界の歴史は相当古く、江戸時代には既に同じ和歌山藩領の中にあって異なる組に属していたらしい。
それが明治22年の町村制によって明確な行政界となり(樫山や山手川は高池村→古座川町、小匠や高野は大田村→那智勝浦町と推移)、今日に至っている。

おそらく、現役当時からこの町境は利用者にとって“透明な存在”だったのだろう。
樫山や山手川には、長らく古座川町の集落でありながら、那智勝浦町からしか車道が通じていないう特殊な事情があった。
小匠川やその支流沿いに現在の車道が切り開かれる以前、それらの深い谷は流送による一時的な材木運搬路ではあったとしても、一般の交通路からは縁遠い存在だったと思われる。
それが明治以降の車道の開通により一変し、旧来の境界線の位置が一見非合理と思われるような状況になったものと推測される。
過去にこれらの集落が那智勝浦町との越境合併を望んだ事があったかどうかは確認していないが、議論された可能性は高い。




9:20 《現在地》

高野川分岐を出発して48分で約2.1kmを前進し、山手川分岐に到達した。

この場所の風景や雰囲気は、高野川分岐とよく似ている。
そもそも地形が鏡に映したようにそっくりで、支流である山手川沿いに支線らしき枝分かれがあるのも共通する。

違っていたのは、橋の前が鋪装されていたことだが、ここから先が舗装路なのかというと、そんなこともないようだ。
ともかく、久々に現れた“名前のある橋”を楽しもう。




4本の親柱に4枚の銘板がある。
最初に目に付いた銘板には、こんなふうに文字が刻まれていた。

山手ノ川谷川

地形図では単に「山手川」となっているが、随分と回りくどいような大仰な名前になっている。
山手川という地名は集落名が先なのか、この川の名が先なのか、思わずそんな堂々巡りを考えたくなる名前だ。




2枚目の銘板と、橋を渡った対岸の銘板の3枚目。

であいはし / 出合橋

まどろっこしい川名に較べて妙にシンプルに徹した橋名である。
シンプルすぎて、被ってしまっている。
今朝、自転車で出発して最初に渡った、小匠川の出合に架かっていた橋の名前も、全く同じ出合橋だったぞ。



そして4枚目の銘板には、気になる竣工年が記載されていた。

昭和三十六年八月竣成

高野川の出合に架かっていた栃の川橋が「昭和三十三年九月架設」だったので、数年のズレと表現の違いがある。

第5回で考察したように、昭和27年の地形図では、まだ車道が樫山まで到達しておらず、山手川が終点だった。そして、昭和40年の地形図で樫山へ初めて到達するのだが、これらのことは現地のこの銘板の内容と矛盾しない。すなわち、山手川出合〜樫山の車道の建設は、昭和36年の本橋の完成より本格化し、昭和40年以に全線が開通していたものと判断できるのだ。




さあ再び、

悩ましい

選択の時間だ。


樫山へ急ぐか

山手川へ寄り道するか→




地図を見る限り、樫山以上に隔絶された山中にあって、
当然のように樫山より早く無人化したらしき山手川廃村の現状は、
確かに気になるな。 気になりまくりんぐ。