道路レポート 林道樫山小匠線  (山手川への脇道編)

公開日 2015.3.06
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

山手川廃村への道を選択する


2014/3/27 9:21 《現在地》

現在地である山手川出合は、小匠川沿い(現)最奥集落である小匠(こだくみ)から林道樫山小匠線を6.5kmさかのぼった所にある。
これまでの道のりの以下に狭隘であったかは、前回までのレポートをご覧頂きたい。

この山手川出合では、小匠川本流沿いに樫山へ向かう本線と、支流山手川沿いに山手川へ向かう道が分岐しており、この探索の目的地は樫山である。
だが、事前の歴地形図調査(第5回後段を参照)で、山手川にもかつては集落があり、樫山(かしやま)よりも早くに無人化していたことや、山手川沿いの道が昭和28(1953)年当時の地形図では、これまでの林道の続き(本線)として太く描かれていたことから、その現状について大きな興味を抱くに至っていた。

さいわい、まだ日暮れまでの時間には余裕があるし、この山手川への唯一の入口である現在地へ来ることもそうそうないと思ったから、それなりに時間がかかることを覚悟のうえで、樫山の旧枝村である山手川への侵攻…進行を決定した。



現在の地形図にも、ひとつだけ山手川集落が存在した名残がある。
それは、かつて廃村があった辺りの山上に描かれた神社と、神社に至る長い参道らしき尾根道(破線)である。
昭和28年の旧版地形図に集落が描かれていた場所は、神社西側の山手川左岸斜面一帯だったから、この無名の神社が山手川にゆかりのものである事は容易に想像出来る。
(かといって、この神社を訪れる計画はなかった。目的はあくまで旧版地形図にある車道ルートの現状解明だったので。しかし、今となっては神社の現状が気になる。誰か、以下のレポートも参考に、見てきてくれないか…?)

現在地(出合)から山手川廃村までの距離は、地図上で約2.5kmである。もちろん片道なので、結局往復するから倍の迂回になる。
また、現在の地形図では林道樫山小匠線の本線でさえ破線なので、山手川沿いの支線と思しき道も破線だ。約1時間前に寄り道した高野川沿いの道もそうだった。
そして前述したとおり、昭和30年代に樫山へ林道が延長される以前は、この山手川沿いの道が本線であったようだ。

ところで、これから向かう山手川については、樫山以上に情報が少ない。
町史にも近代以降の記述は無かったと思う(近世以前は未見)。
私の知る数少ない言及は、「角川日本地名辞典三重県」の「樫山(近代)」の項で、江戸初期の元禄郷帳に「樫山村枝郷山手川村」の名前があることが書かれている。
また、江戸後期の「紀伊続風土記」にも記述があり、現代語訳を「KEY SPOT」で読むことが出来る。
曰わく、樫山村は小匠村の西北西45〜46町にあり、その小名である山手川は谷を異にして本村の北東34町にあるという。
このように、、山手川が樫山村の枝村として古くからあったことは確かだが、その規模や生活ぶりなどへの詳しい言及は未だ見られない。
なお、現在も山手川一は古座川町の大字樫山に属しており、この大字の全部が無人になっている。




出合橋から見下ろす山手川(橋の銘板によると「山手ノ川谷川」)の清流。
すっかり晴天になっているだめに、うっかり忘れてしまいそうになるが、前日から今朝までは激しい雨が降っていた。
だから凄烈な渓水は、量を相当に増している。
そのわりに水が透き通っているのは、余り人の手が入らない上流の森が、素晴らしい水源涵養力を保持している故だろうか。
まだ雨が止んで半日と経っていないはずだ。

これから、この渓水の始まりの地へ近づいていく。




同じく出合橋上から、山手川への道を望む。

ここから見る限り、道の様子はこれまでの林道本線と変わりが無さそうだ。
昭和36(1961)年竣工の扁額を有する出合橋完成以前は、そのまま右から左へ1本の林道として続いていたのだろう。
(出合橋には旧橋の橋台跡があるが(前回参照)、樫山まで車道が通じたのは昭和30年代と思われる)



それでは寄り道開始。

山手川支線(仮称)の最序盤は、出合橋の高さと同じだけ山手川より高い所を走る。
地形が険しく、ガードレールも無い路肩の下で激流が岩を食んでいる。
轟々という音が、より水量が多い本流沿いより大きく感じられるのは、谷が狭いせいで反響が強いのか、単純に川が急だからかは分からない。
いずれにせよ長閑とは言い難い、緊張感のある最序盤であった。

とりあえず、目的の山手川廃村は結構遠いので、自転車で手間取るような崩壊が現れないことを祈る。




直後、妙に激しかった渓声の正体が発覚した。

対岸の崖を落ちる滝があったのである。
この滝は地形図になく、沢筋自体描かれていないので、増水時にのみ現れるのかも知れないが、案外に大きな滝である。

そして、単に滝があったと言うだけで終わらないのが、道路探索の楽しさである。
これは方々のレポでしつこく書いていることだが、道と切り離せない添景は、その道を通った人々によって記憶されていることが約束されている。
私はこれから向かう山手川の人々が、その集落生活の終期において(川沿いの道はおそらく昭和に入ってからのもの)頻繁に見ていた景色を、時間をおいて再体験しているのだ。
そう考えると、ただの滝にも愛着を覚える。



まだ経験値が圧倒的に不足している紀伊半島の自然環境についてだが、この数日間で確かに会得したことのひとつは、シダ植物の優越性であった。
多様なシダ植物が、山地地表の相当広い範囲を覆っているのを何度も見てきた。
その有り様は、東日本の山々で見飽きるほどに頻出する“笹藪”景観の代わりにあるのかも知れないなどと、根拠の無いことを思ったりもした。

少なくとも笹藪に較べれば与しやすいうえ、見た目的にも(新鮮さも手伝って)美しいシダ原野。
シングルトラックになりつつある路盤の両側に広がる青い世界に、しばし目を見開いた。
ここを自転車で疾走するのは、何とも贅沢な体験だと思った。
まだ支線は始まったばかりだが、本線に続き、MTBにはちょうどいい道だ。




本線上にもあった木造の桟橋が、ここにもあった!
木材の組み方もそっくりで、とても現代的とは言い難い道路の景観に癒やされる。

そしてここでは、コケの美しさにも目を奪われた。
コケが薄く積もった雪のように、地上のいろいろな所を覆っている。
桟橋の凹凸の多い木材の表面を巧みに覆ったコケは、道から流れる水滴を多分に含んで、糸のように谷へ零していた。
それこそ自然の濾過装置のようであった。



川の蛇行に沿って描かれたカーブをふたつほど過ぎると、早くも序盤という気配が消えて、本格的にこの道を走っている気分になった。
寄り道であることは忘れていないが、良い感じに没頭できていると感じる。

河床と路盤との高低差はだいぶ減り、青々とした流れが間近にあった。
高低差が減ることは、転落に対する安全面ではメリットになるが、余り水面に近付くのは得策とは思えない。
私がそんなことを心配してもどうにもならないのは分かるが、川に近付いた結果、早くも路肩を随所に削り取られて半分以下の幅になってしまった道を見て、言い聞かせるようにそう思った。

こんな状況で道全体が川に落ちていたら、法面の岩場は濡れていて高巻き困難で、自転車同伴は絶望となる。
いろいろ考えて、少しぴりぴりした。



更に進み、入口から500mの直前で、路傍に立つ見慣れない看板と出会った。

内容は、「ここから先」が王子製紙株式会社と王子木材緑化株式会社が所有する社有林だから火気厳禁かつ無断入林禁止というものだった。
立ち入りを制限されているのは「ここから先」としか書いていないが、「入林」禁止ということが書かれているだけなので、道路の通行に対するものでは無いと判断する。

いずれにせよこの辺りの山林は、長い歴史を誇る国内大手の製紙会社が、原材料確保のために所有しているようだ。
いずれは伐採するつもりがあって所有したのだと思うが、これからそれをしようとしたら、運材ルートの確保には相当の投資を要するだろう。



9:31 《現在地》
そして500m地点には小さな橋が架かっていた。

この橋は現在では珍しくなった土橋で、木造の桁の上に砂利が敷かれているために、路面だけだと橋と分かりにくい。
欄干も無く当然親柱なんてものがあろうハズもない。
なお、純粋な木造橋ではなく、桁は数本の鋼鉄(H鋼)だったので、案外近年のものなのかもしれない。

そして橋の傍らには朽ちかけた看板があった。
「古座川町 渡らないで下さい。」
この橋を指しているのは間違いないが、なぜ渡って欲しくないのかは不明である。
古座川町名義なのは、ここが実は町道である証しか?




最初の土橋を渡り、道が次なるステージに入ったと感じたのは、単に感覚だけではなかった。
地形図を見ると、入口からここまでは川がグネグネと蛇行していて、道もそれに倣ってグネグネしていたが、ここからの500mほどはそれがない。
地形が変われば、道の有り様が変わるのも当然のことであった。

ようやく日の光が射し込む程度には広くなった谷の幅と、少し離れてくれた流れに安堵を覚える。
そしてこの穏やかな日射しが注ぐ森の木立の中に、森の住人ではなかった“モノ”がいると気付くのに、少しの遅れがあった。

皆さまは、お気付きになられただろうか?

私は、もう少し前から見えていたのに、この撮影の瞬間までは気付かなかった。




あれは、もしや〜!




廃車体発見!

廃道で見つかる廃車体には、上下関係をもって厳然と区別されるべき2つのランクがあると思う。

上位は、その道が現役だった当時、真っ当な理由でそこにいた車が、廃道化によって置き去りになってしまった車。
下位は、廃道や旧道に不法投棄の目的をもって余所から持ち込まれてしまった車である。

翻ってこの車はどちらかと問えば、ほぼ前者であると断言出来る。
理由は単純で、車が相応に古いということである。

そして、上下どちらのランクであっても評価に値する点がひとつある。
それは、ここまで車を運転して来られたという過去の事実の証明である。




旧車好きの方にはおそらく興味深いと思われるエンジンルーム。車体が朽ちて自然と露出していた。

いささか狭苦しい運転席。窓ガラスは全て失われ、車内と野外の区別はもうない。

車種を特定したいと思って探したら見つけたエンブレム。「MITSUBISHI 360」の表示。

この道の偉大な先輩車と出会った私の愛車。この道も、ここへ至る道も、先輩は全てを知り尽くしていた。そしてここで眠る。

車体のエンブレムで車種名が「三菱360」と特定出来たので、帰宅後に調べてみたところ、この車種の販売期間が昭和36(1961)年から44(1969)年までだったと判明した。置き去りになった時期も、この期間から大きくは外れていないと思われる。
またこの車種は、全長2995mm、全幅1295mm、全高1400mmというミニサイズで、特に車幅の小ささは、現代の軽トラ(1480mm以下)と較べても、隘路に対して絶対的な強みがあったのだろう。あの狭い隧道もラクラク通じたというわけだ。小匠には相応しい車であったと思われる。

なお、廃車の周囲には家屋跡などは見あたらない。王子製紙のものらしい林が広がっているばかりだ。


ここまでの道が、古い車道であったことを現実に証明する廃車体の発見は、私にますますのやる気を与えた。
これだけでも、山手川への迂回を選んで正解だったと思う。
ついつい浮かれそうになる。

いや、現に浮かれていたのだ。

ツルッとタイヤが滑って、突然自転車ごとバランスを崩す。
慌てて足を付けて転倒は免れたが、冷や汗と共に我に返った。
見れば、足元の路面からすっかり土と砂利が消えていた。
これはもはや、路盤ではない。道の土台でしかない。

前方の高くなった川の流れを見限り、増水によって路盤は押し流され、岩場に刻まれた道形だけが残っているのだろう。
残ってくれていることに感謝しつつ、ここは念のため自転車から降りて通行した。
濡れたコケを纏った岩場は、半端無く滑りやすかった。
今後は注意しないと、滑って転んでそのままドボンにもなりかねない。

このカーブを皮切りにして、川と道の蛇行が再開する。
行程の上でも、そろそろ中盤戦である。



この辺りは、路盤に露出した滑りやすい石が多く、よりゆっくり慎重な速度で進んだために、

“次のシーン”への遭遇が、より贅沢なものになった。

このカーブの先に、刮目せよ!



美し過ぎる石垣に、思わず目頭が熱くなった。

最近は道路上での感情の起伏が、若い頃より、「喜怒哀楽」の「喜」と「哀」に近付く事が多いと思う。
昔は怒ってばかりだったのにな。廃道との競争と支配が最大の楽しみだったと思う。
あれはあれで楽しいが、この石垣の美しさを見たら、今の私は闘いよりもこちらを選ぶ。

奥は石垣で、手前はコンクリートの擁壁である。
この道にも、生きた長い時があったのだと実感する。
そしてその命脈は未だ完全には尽きずに、私を誘っている。



石垣の先には、それに似つかわしい2本目の土橋まで見えている始末。

この道は私を喜ばせることについて、かなり本気であるらしい。



9:44 《現在地》

そしてこの美しい石垣は、此岸だけのものではなかった。

対岸の森の中にも、立派な石垣の積まれている平場が見えたのだ。

そこが杉の植林地であることも考慮すれば、石垣は集落跡ないしは屋敷の跡だと思う。
しかし川の流れが激しいうえに、橋は残骸さえも存在しないので、近付く事が出来ない。

歴地形図調査のところでも述べた通り、山手川に至る道すがらにも、かつては集落があったようだ。
それは、明治44(1911)年の地形図に「クジヤ平」という注記と共に4軒ほどの建物が描かれている場所のことだが、現在地はまだそれよりも300mほど下流であり、かつ地形図の集落は此岸であった。
とはいえ近い場所なのは確かなので、この石垣が同集落のものである可能性は高いだろう。
昭和28(1953)年版地形図で、山手川に先駆けて地名の注記が消失してしまった、幻の「クジヤ平」に想いを馳せるには十分な痕跡であった。
(クジヤ平という変わった地名の由来が知りたい、鍛治屋平の訛りだろうか)



素晴らしい石垣道の“結語”よろしく待ち受けていた、2本目の土橋。

下に鋼材が隠されていることに目を瞑れば、そのまま前時代の林道風景といって良いだろう。

ここで渡る支流も、地形図には水線が描かれていないが、実際には驚ほどの水量を吐き出していた。
今朝の小匠ダム付近で私が見た光景(工事現場の破堤や、その後の林道水没…)は、全部こいつらが共同してやらかした悪事だったわけだな(笑)。
見事に乗り越えてきた私にいま踏み越えられる気分は、どうだね? かっかっか。
(私の中の「喜怒哀楽」の「怒」の炎も消えていないアピール)




垂崖と化した法面のコケを纏うた美しさ。
この渓流は、本当に素晴らしい緑色の世界である。
明治の高官が視察先でしばしば名付けた美称にならって、“碧玉渓”とでも名付けたくなるが、その程度で語れるものではない。なぜなら、この美景には絶対に必要な構成要素である道が、含まれていないからである。改めて私だったら、“璧路渓”を進呈したい。

それにしても、この辺りまでほとんど自転車から降りずに来られたとなると、廃道のように見えつつも一線を決して越えずに踏みとどまっている道に、一定の信頼を抱けるようになってきた。
この道には未だ利用者がいるのだろうと思える。
それはとても少人数ではあろうけれど、本当の廃道はこうも連続して“綱渡り”に成功しない。
これまであった危うい箇所のいくつかでは、完全に決潰断絶しているのが普通というものだろう。

右写真は、石垣の珍しい増し積みである。
水流が直撃する部分に、よりぶ厚く石垣を積んでいる様子がよく分かる。
こうした工夫が、洪水の多い川に対しても未だに道の機能を維持せしめているのだと、頼もしく思った。



9:48 《現在地》

迸る水音に囃されて、第3の橋が出現した。

入口から1.5km地点のこの辺りに、明治の地形図は「クジヤ平」の集落を描いていた。

支流の規模も、架かる橋も、山手川ではこれまでで最大であり、ひとつの区切りを予感する。

レポートも、ここで一旦区切りたい。