神奈川県道701号 大山秦野線 最終回

公開日 2009. 3.27
探索日 2009. 3. 2


陸地測量部5万分の1地形図(昭和2年鉄道補入版「藤沢」「秦野」)

峠までレポートしたところで、この県道の素性を示す古地形図を紹介したい。

右の図は昭和2年鉄道補入版という地形図で、実質的には明治末の状況を示している。
明治9年に県道指定を受けている「県道65号大山秦野線」であるが、図中には確かに県道を示す幅の広い二重線で描かれている。
ただし、二重線のうち一方は破線であり、これは”山行が”ではお馴染みとなった「荷車を通ぜざる部」というやつだ。
つまり、人や馬は通れても、クルマは通行が出来なかったと言うこと。

次に「寺山」というところに注目して欲しい。
当時はまだヤビツ峠へ向かう現在の県道70号は存在せず、ここに三叉路は無かったことが分かる。
今でもこの交差点には県道701号を優先していた形状の痕跡が残っていた。【写真】

そして、後の県道70号が存在しなかった当時、大山秦野線の終点はもっと秦野に近いところにあった。
地図の下に消えてしまっているが、当時は秦野市街地の中央にある「大町四つ角」までこの道に属していたようである。
さらに余談だが、この頃はまだ善波峠(国道246号)は県道でさえなかったのである。

続いて現在の起点である大山側を見て欲しいが、この位置は現在も変化していない
だが、現在は「道路台帳」を除いて、地形図や市販の道路地図でこの位置を示しているものはない。
まさしく、幻の起点である。
その存在が、私をこの探索に突き動かしたと言って良い。そこがどんな場所なのか、私でなくても気になるはずだ。

なお、現在は伊勢原市大山になっているこの一帯も、県道起点のすぐ下に「役場」の記号が有ることから分かるとおり、昭和29年以前は中郡大山町という独立した行政体であった。
県道起点の交差点は大山町の中心的な交差点であり、当時のルールに則れば「道路元標」が建てられていたかも知れない。


そして、現在の地図。

黄色い線は、道路台帳から転記した県道のラインであり、こうやって見ると【一部の道路地図】が県道色で塗っている「歩道」でさえも、道路台帳の正確さの前では“嘘”であったことが白日の下となる。
道路台帳の標準縮尺は数百〜数千分の1というものであり、2万5000分の1の地形図でも全く敵わない正確さを以て「道路の全て」を所轄しているのである。
様々な工事や事業の基礎データでもあるわけで、その正確さは当然の要求であろう。

それだけに、目に見えない道を把握しようとする我々オブローダーにとっての魅力は大きいが、同時に完璧な答えを知ってしまうがため妥協が許されなくなるという、諸刃の剣なのである。

ともかく、現在地からしばらくは浅間山林道が県道701号である。
問題は、その先だ。
林道を下れば簡単に済みそうだが、果たして県道の現状はどうか…。

不安だ…。(特に破線さえなくなる終盤が)





浅間山林道との重複区間


2009/3/2 8:06 

いより峠(不動越)から30mほど尾根伝いに西へ進むと、そこを浅間山林道が通過している。
この林道は全線鋪装されており、県道70号と611号を「大山林道」を介して結んでいる。
自動車交通不能である県道701号の代替路であるわけだが、浅間山林道の出入り口には重い鉄のゲートがあって、自動車は入れないように規制されている。
このことからも、県道701号の需要の少なさが伺えるのである。

そして、県道701号はここから大山側へ830mほどの区間を、林道と重複する。
だが、残念なことに峠の付近に県道の存在を匂わせるものは何もなかった。
もとを辿れば県道を拡幅して林道の一部に編入した筈だが、本当に県道は無味無臭だ。




交差点の周辺を一通り撮影した後、速やかに大山側へ下り始める。

この日はすばらしい晴天だったが、時間が早いせいか木陰の峠は寒くて休憩するのに適さない。
また、これは少し意外だったが、ここにはケータイ(au)の電波が無かった。
秦野市街からそう離れていない山上だが、都会と思っている場所が不感地帯だと、なんか得した気持ちがするのは私だけだろうか。




300mほど緩やかに下っていくと、山側に少し広げられた路肩に多数の野仏が密集しているのに気付いた。

辺り一面は平凡な杉の植林地であり、淡々とした林道(県道)の状況と合わせて歴史を匂わせるようなものが皆無なだけに、これは意外な遭遇である。

新調されブレーキの利きが抜群になった愛車に、スリップするほどの制動を与えた。




新しい地蔵、古い地蔵、首無しの地蔵、庚申碑、梵字の刻まれた供養碑など、新旧の野仏が狭い場所にまとめられている。
林道の改修に合わせて集合させられたに違いない。
このうち右にある地蔵の台座の部分が、道標石であることに気付いた。(画像にカーソルを合わせてね)

中央に大きく「いほりこへ」とあり、おそらく「いより峠」にあった道標石だと判断される。
さらにその左右には、「右 小田原 道了 道」「左 大山 大瀧 道」と彫られている。
小田原へ下る道というのは、おそらく尾根伝いに南下する道であったろうから、【ここに建っていたのだと想像】する。

【原寸大画像で解読する】




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林道からのサヨナラ


8:14 《現在地》

ほとんど標高を減らさずに山腹を北進してきた県道だが、この尾根上の分岐地点を右折し林道と分かれる。
そして、堰を切ったように起点めがけて下り始めることになる。

もう期待していなかったが、やはり県道を匂わせるものは何もない。

ここまでの林道と重複した830mは、前後を“自動車交通不能区間”に挟まれた“通行可能区間”という、全国的に見ても珍しいもの(同様の例が山形県道3号にもある)だったが、当然それは何ら宣伝価値があるものではなく、むしろ自治体としては隠しておきたい汚点なのだろう。




この分岐にも、小さな石の祠とともに石標が建っていた。
しかし、風化が進んでいることと、何より筆跡が達筆過ぎるため、私には解読できなかった。
おそらくは道標石ではなく歌碑や句碑の類だと思われるが、御協力いただける方は下のリンクから解読をお願いしたい。

【原寸大画像で解読する】

本碑に刻まれているのは、松尾芭蕉の句

  雲雀より 空にやすらふ 峠哉
                    (惣連)

とあるようです。惣連とは、江戸時代の俳句同好会のようなもので、彼らが建立したものと思われます。

掲示板に寄せられた情報より




地図を見て予想は付いていたが、やはりまともな車道ではあり得ない。
もの凄い急坂が杉林の掘り割りを下っている。
下りとはいえ、油断の出来ぬ急坂だ。




むーおーー!

凄まじくバンピーだ!
ただでさえもの凄い急な下り坂なのに、洗掘による多数の溝が路面を蛇行している。
しかも、相変わらずオフローダー達が楽しんだ跡地は、縁がヌルついていて敵わん!
(林道は出入り口が閉鎖されているので、登ってきたオフローダーはどうしてもここを通らねばならないわけで、仕方がないとも思えるが…)




古道然とした掘り割りの蛇行路になった。
右に左に、捻りこむような急カーブが続く。
この線形、確かに地形図に描かれた直線的な道ではなくて、道路台帳にある九十九折りが正解だった。




そばにゴルフ場はない分、風致は大山側に軍配が上がるが、見晴らしは利かない。
道が大山宿坊街の広がる鈴川の谷へ落ち込んでゆくにつれ、林間に見える向こうの山はどんどんと高度を増していった。





道と言うよりも、溝である。

この道の断面を形容するには、乳房の断面という表現が適している。
勃った乳頭の部分が溝で、車輪の付いた乗り物はどうしてもここに落ち込まざるを得ない。
だが、溝は深く、自転車の場合は回転するペダルが支えてまともに下ることが出来ない有様だ。

股の間にサドルを挟み、両足でピョンピョン跳ねるようにして、ようやく下っていく。
人前には出たくない恥ずかしい姿だが、幸いこんな状況の歩道を歩こうという人は少ないらしく、登りも下りも誰とも出会わない。
ある意味、「自動車通行不能区間ながら通行止めではない」この道は、モーターサイクリストの天国と化しているといえる。




8:31 《現在地》

ピョンピョンすること15分、腰と掌が痛くなってきたところで、再び舗装路に遭遇した。

これは、一般車両も通行することが出来る大山林道だ。

この15分で標高を一気に100m減らして、目指す起点までの高低差は残り80mとなった。
直線距離なら400mにも満たない。


いよいよ起点に向けての最後の下りとなるわけだが、むっふっふっふっふ。

 来たよ来たよ。

 …最後にキタ。

やっとオフローダーからローダーになれそうだ。

道路台帳が教えてくれる県道の次手には、しっかりガードレールが立ちはだかっている!

 その向こうは…… 





最後に (^o^) が


ガードレールの下を覗くと…
キタ――――!

やっと来ました。
廃道でゴワス。

しかも、現役県道であるはずの廃道。
私の中での価値は高い。

問題は、どうやってあそこへ下るかだが…。




強引にった!

新車、一発目の転落劇であった。

意外にこの落差は大きく、担いだまま下ろうとすると足元がおぼつかなかったのだ。許せ。

私は、林道の路肩下4mほどの廃道敷きへと着地。
いよいよ県道701号最後の区間が、最高の雰囲気で始まった!




道の作り自体は今までと大きく違わない。
あまり手入れのされていない印象の杉植林地の底に、浅い掘り割り道が続いている。
だが、そこには一切の轍、踏み跡も見られない。
林道によって寸断されたため、ここだけが人の目から遠ざかってしまったのだろう。
“走れる場所”に対しては貪欲なオフローダー達も、ここにはまだその毒牙を伸ばしてはいない。
地図にない道の面目躍如たる光景だ。

これでも、図面上では現役の県道701号なのである。
これが登りであったり、長距離が想定される場面であれば、こんなに楽しんでいられないだろうが、今回は気楽だ。
せいぜい500mも行けば、起点に辿り着けるハズ。




“忘れられた起点”へ続く“忘れられた区間”、その第一の反転カーブが現れた。
小さな沢に行く手を遮られ、やむなく切り返す感じである。

そして、カーブの先に…




切り返した先も、同じように林間の浅い掘り割り道が下っていた。

が、その傍らに…

なんて柔らかい景色なんだろうッ…

これはまさに街道の雰囲気だ。
現役の県道でありながら利用者皆無の現状は、“忘れられた街道”を現出せしめた。

県道701号、地味に美味しいぞッ。 癒されるぅ〜。




どう見ても、街道だ。

「街道調査報告書」持ってこい!! って感じである。

ところで、地元に詳しい読者さんからこんな情報をいただいた。
この県道の前身である「坂本道」の歴史はとても古く、表玄関となる子易口(現在の県道611号「大山板戸線」)が開ける前から大山参道として使われていた道だそうである。
また、その起点も秦野どころではなく、足柄峠を越えて遙か駿河の国にあったのだという。

歴史の中で利用度を徐々に減じてきたこの道の「指定区間」は、最初は県境(国境)を越えるほど長かったものが次第に短くなってきたのだと考えられる。





ただの石祠だ。

普通は路傍に見付けてもチラ見程度だが、廃道沿いにあると嬉しさが倍加する。
それが、この道の生きた時代を物語る、何よりも確かな痕跡だからだろう。

しかし、祠の正面はなぜか道路ではなく、谷の方を向いている。
また、隣にも祠の台石らしきものが残されている。
辺りが植林地であることを考えれば、一度は移設されているのだと考えた方が無難だろう。

また、こんな祠の多くには、“読むべき情報”があることを忘れてはならない。
一礼の後、跪く。




安政六未歳五月吉日
   宮 ● 立
   増田源之進
   石工人 ●助

安政6年は、西暦1860年である。
歴史の教科書にある出来事としては、桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺された年だ。
横畑や峠の近くにあった道標石が建立された文政5年(1822)からは40年近く経っている。

まさにどっぷり江戸時代に漬かった道だ。
県道としての記念物は何もないのに…。

【原寸大画像で解読する】




8:43 《現在地》

次の切り返しもまた平凡な植林地の一角であったが、一方は谷に面していて、そこから滝の音が聞こえている。
また、細いビニルパイプが何本も地面を這っている。

ビニルパイプの根元を辿っていくと…




小さな滝があって、見下ろす位置に水神の祠が。

ビニルパイプはみな、滝の上から引き込まれている。
その存在は、言うまでもなく麓の集落が近づいてきた証だ。


ところで…、滝と言えば何か思い出さない?

 【峠の道標】

あそこには、この道の“行き先”として「大山 大瀧 道」と書かれていた。
その「大瀧」とは、この滝のことではないだろうかと思った。




数本の水パイプと一緒になって、いよいよ道はこの無名の沢の中へと入っていく。
この沢が鈴川にぶつかる地点が、目指す県道の起点。
あとは本当に僅かな距離だと思う。

道路状況も、水源管理の人がたまに入っているらしく幾分改善した。
しかし、車両の轍は全くない。




水パイプの一部が破損し、すごい勢いで水が噴き出している。
道もひたひたにされていて、いやーん。

そして、そのまま道も沢の中へ入ってしまうのかと思いきや…。




キタ――!
石垣だー!!

石垣が、上にも下にもあるぞナモシ。

全く原始的な、自然石の空積み石垣。
まるで馬車道さながらの道幅で勾配も緩やかだ。

おそらく、起点側からの車道化は、ここまでだったのだろう。

「いより峠」に対し、車道はほとんど太刀打ちが出来かったと思える短さだ。
それに、これは一体いつ頃の施工なんだろう…。




施工時期の分からないものとしては、さらにこんなモノが…

沢の対岸の大岩に穿たれた、栗の形の小さな祠。
苔の色合いが美しい。




家だー!!
橋だー!!!

沢沿いを下ること約150m。
石垣が現れて50m。
横畑集落を離れて以来、久々の民家が見えてきた。

それにしてもこの橋。
とてもクルマなど通れない木の板橋である。
幅も1mくらいしかない。






左から下りてきた舗装路が、最後に県道を乗っ取った。
振り返ると(↑)、確かにこれは分かりづらい入口。


そして、前方の明るいところをときおりクルマが通り抜けていく。
県道611号に違いない。
あそこが、県道701号の“幻の起点”ということだ!




ずらずらずらずらずらずらずらズラーッ

…っと並んでいるのは、講を作って大山詣でをした人々の寄進した碑・碑・碑!
碑が垣根を作っている!

そして、こんな重々しい垣根に囲まれているのは…




こんな古風な旅館!

「旅館大滝荘たけだ」の看板を掲げている。

また、「大滝」だ!
やっぱり、さっきの滝が大滝だったのだと、ますます確信を深くする。

それはそうと、今は旅館の顔をしているこの宿だが、昔は「宿坊」と呼ばれる参詣者のための宿だった。
各宿坊には「先導師」(御師)と呼ばれる主がいて、遠方から訪れた参詣者に宿を提供するとともに、寺院に通じ参詣の便宜を図ったという。
最盛期の江戸時代中期には、大山全山で160もの宿坊があったという。(現在は50ほど)

垣根に刻まれた参詣者の出身地を見ると、関東一円に及んでいる。
が、この宿に関しては特に、東京都北部の葛飾や埼玉県内の地名が目立つ。
また「□□市」と刻まれたものが少なくないことから、明治以降のものだということも分かる。




8:53 《現在地》

旅館大滝荘の玄関前がある南面を県道701号が通り、東面を現代の大山街道である県道611号が通る。
すなわち、この大滝荘の角が両県道の交差点で、海抜220mの県道701号起点である。

見たかった場所に辿り着いた。

そこには信号も青看も無く、交差点というよりは旅館の入口に過ぎない感じだ。
しかし、右にも左にも行けるようなロータリー形状になっていて、少なからずかつての賑わいを連想させるではないか。

期待したとおりの… イイ感じだ。




県道611号側から見た交差点。

やはり県道701号の存在を示すものは、何も見あたらない。
しかし、間違いなくここが起点である。

また、手前の橋は霞橋という橋だが、銘板から沢の名前は分からなかった。




狭い“ロータリー”の部分にも、背中合わせで2枚の記念碑が安置されている。
そのうちこれは「登山参拾度」の碑。

昔の日本人は、他に行楽先があまりなかった事もあるが、本当に信心深かった。
裏側の碑もやはり度重なる参詣を記念する碑であった。

そして、最後に車と垣根の間の狭いところで見付けた石碑が、この県道探索の締めくくりとなった。




左右の画像は同じ石碑の正面と側面である。

(←)
県道711号に面する正面には、「身禊大瀧」の文字。

やはり、下ってくる途中で見た滝が「大瀧」なのだ。
参詣者は入山する前に身を清めるため禊(みそ)ぎを行う習わしがあったが、それをこの滝で行ったのだろう。
今日では県道とともに忘れられつつある滝だが、かつては重要な信仰の場だったのだと思う。

(→)
そして県道611号に面する側には、「是より小田原」の文字が刻まれていた。
この場所が古くからの分岐であった証拠に、大満足。




自動車の通れぬ“無能県道”大山秦野線の正体は、
江戸時代さながらの風景が今に残る、希有なる県道だった。