2010/5/18 17:06 《現在地》
現国道の平倉トンネル脇から旧道を下ると、この平倉隧道に着く。
現在は村道として使われているが、無理矢理拡幅したような扁平な断面形は、かつて国道の通行量を有していた名残りといえるだろう。
また、後補の延伸部分以外は内壁に凹凸があり、素堀にコンクリート吹き付けの仕上げらしい。これも時代を感じさせる。
平倉隧道
全長:210m 車道幅員:5m 限界高:4.7m 竣功年度:記載無し(実際は…後述…) 覆工あり、路面コンクリ舗装済「道路トンネル大鑑」(隧道データベース)より転載
本隧道の謎は竣工年度である。
リストに記載がないが、一体いつ頃出来たのだろうか。
でも、とりあえず謎解きは後回しにして、くぐってみよう。
入口から出口を見通せなかったが、それもそのはずで、中央付近が右に大きく曲がっていた。
しかもこの曲がっている所は「待避所」になっており、前後20mほどの区間が、まるで“つちのこ”のように膨らんでいた。
大型車同士がすれ違える広いトンネルは予算的に作れないが、カーブのせいで見通しが悪いので、そこに待避所を作ったのだろう。
もっとも、村道となった現在はこの膨らみが活用されるような交通量は無いようで、乾いた土が堆積していた。
また、なぜか待避所周辺の照明のみ消灯しており、そこが広いこともあって、ヘッドライト程度だと不安を感じるほど暗かった。
探検気分は盛り上がるが、個人的に広いトンネルの方が足元を掬われそうな恐怖を感じて苦手。
初っ端の洞内分岐。
つちのこ待避所。
たった210mの隧道だが、それだけでは終わらなかった。
なんと、中土側の出口付近にもまた横穴が口を開けていたのである。
一体これはなんのための穴だ?
当然入るよ。
なるほど。
横穴は短い通路を介してすぐに地上に繋がっていたが、その先には姫川第三ダムが見えた。
どうやらその管理用通路らしい。
このまま外に出てみる。
そこには明かりの通路の他に、人一人分しかない細い雪中通路があった。
しかし現在は使われていないらしく、施錠された鉄格子に加えてドラムカンが入口を塞ぎ、その上で陶器の狸の置物が「立入禁止だよ」と言わんばかりに手を上げていた。
これは万全すぎる備え。
流石の私も、いつもの“にゃんこ”も、悪さが出来ない。
中部電力が管理する姫川第三ダム。
高さは8.6mと大きくないが、下流の姫川第三発電所に送水するための取水用ダムである。
完成は昭和30年とかなり古い。
そしておそらく、平倉隧道もこのダムとセットで作られたのだと思われる。
ダムが出来るまでは、いま私が立っているこの場所が国道で、山を削って反対に回り込んでいたのだろう。
昭和28年の地形図に隧道が描かれていないことや、隧道の断面が昭和中期の電源開発に伴う付け替えトンネルに共通するスタイルであったことも、それを支持する。
この先は中電の管理用地で立ち入れない&見通した感じ特に何も無さそうなので、引き返した。
平倉隧道の南口には、隧道と同じサイズの洞門が接続されている。
銘板の文字の配置に遊び心を感じる(「平」「倉」「トン」「ネル」って可愛いな)が、「小谷村誌(社会編)」によると竣功は昭和55年と意外に新しかった。
平倉隧道の探索はこれで終了。
さらに旧道を南下すると、すぐに 姫川第三ダムを象徴する風景 が現れる。
湖面を跨ぐ2本の橋。
手前の橋には銘板が無く名前は分からないが、姫川支流の中谷川を渡っている。
そして目を引くのは奥の橋で、姫川の本流を渡っているその名も「姫川橋」だ。
世界最初期の現存する“RCローゼ桁橋”として、平成14年に「推奨土木遺産」の指定を受けた名橋だ。
…なにやら工事中のようだが…。
<より詳しく知りたい人のための補足説明> ←飛ばしてもOKよ!
★中谷川合流地点の道路の変遷★
姫川と中谷川が合流する地点の歴代地形図を下に並べてみた。
それぞれに細かな変化があり面白いので見較べて欲しい。簡単に解説も入れた。
![]() 大正元年版 | ← 大正元年版では、 昭和5年版では → |
![]() 昭和5年版 |
![]() 昭和28年版 |
← 昭和28年版では 最後に現在の版では、 → |
![]() 現在 |
中谷川河口部に架かる旧道の橋から、上流側に現国道の橋を見る。
橋は向かって左にある平倉トンネルと一連のスノーシェルターに覆われており、ドライバーには橋の存在が認識されないかも知れない。
またよく見ると両岸の橋台には空洞があり、通路のようになっている。
姫川第三ダムで水位が上昇する以前の道はあの高さに有った可能性があるが、時代的には離れており関連性は不明だ。
17:10 《現在地》
中谷川の橋を渡ると、この“複雑な交差点”に突き当たる。
旧国道は右折して姫川橋を渡るが、ちょっとだけ左へ寄り道してみよう。
左折するとすぐに現国道との交差点がある。
左は糸魚川、右は大町方面である。
そして直進する道は、小谷村の奥座敷的な温泉地である小谷温泉へ続く県道だ。
長野県道114号「川尻小谷糸魚川線」という路線名の通り、終点は糸魚川市だが、途中に長大な不通区間があって繋がってはいない。
その入口には真新しいトンネルが口を開けているが
(交差点の三方がトンネル)、
坑門の背後に何か見える…。
うは。
これは大胆な所に坑門を作ったものだ。
旧道は新たなトンネルの坑門そのものによって、ぶった切られている。
哀れ旧道。
新トンネルは「山住トンネル」という名前で、銘板は随分と凝った作りになっている。
まず字体が洒落ているし、その上に小さく「中谷郷」と入れられているのは、中谷川沿いの一帯をかつて中谷郷と呼んで小谷郷と区別していたことに由来するのだろう。
このトンネルはちょうど中谷川流域の玄関口なので、相応しいように思われる。
あとちょっと気になったのは、「中谷郷」の「中」の字に“カギ”のような出っ張りが2つ付けられていることだ。
おそらくこういう字体があるのだと思う。
手元にある明治の旧地形図「中野」の題字にある「中」の字も、全く同じ字体になっているので。
こっからはオマケなので、さらっと行く。
私はまず現道の山住トンネルをくぐって、反対側へ回り込んだ。
トンネルの長さは401mで、竣功は平成18年とごく新しい。
そしてトンネルの中はものの見事に片勾配で、当然のようにオール上り。ハード。(400mの高低差は40m弱)
ミニ“釜トンネル”の苦渋を味わったが、あまり共感は得られなそうなので、さっさと振り返って旧道へ。
こちらも旧道は可哀想な感じに切り詰められている。
現トンネルのエラが張っていて、近くからだと旧道の存在にも気付けない。
400mの現道に対応する旧道の長さは約400m。
現トンネルは地表の災害を避けるために地中を通っているだけなので、距離はほとんど変わらない。
そして旧道のほとんどは一連の長い洞門(スノーシェッド)に覆われている。
支柱が少し細く華奢そうに見えるこのスノーシェッドには名前があり、「小谷村誌(社会編)」によると、「山住」と「山住2号」というらしい。
この上流側にあるのが山住スノーシェッド(全長251m)で、昭和37年に小谷村で最初のスノーシェッドとして建設されたそうだ。
国道よりも先に整備された辺り、いかにこの地点が雪崩の難所であり、また迂回の利かない生活の動脈であったかが伺える。
釜トンネルとは、旧道のシチュエーションもとてもよく似ている。
向こうだと梓川が流れていたところに、同程度の規模の中谷川があり、また大きな砂防ダムが滝を落としているところもそっくり。
旧道自体もそっくりで、道幅や延々と下っていくところ、スノーシェッドの雰囲気などが一致する。
ただし、この山住の旧道にはトンネルはない。
その点では地味だが、生活との密着度という意味ではより重要な役割を演じてきたのが、この「中谷郷」の入口を守る山住スノーシェッドだった。
山住スノーシェッドは、そのまま鋼鉄製の「山住2号」スノーシェッドに接続している。
こちらは全長が84mで、昭和61年に完成している。
新しいだけあって、道幅もいくらか余裕を持たされているようだった。
スノーシェッドを抜けると、そこはもう見覚えのある場所だ。
例の、ぶつ切りにされてしまった旧道である。
こちらから見ると、ぶった切りされた状況がよりはっきりと分かる。
旧道の路面は盛り土に呑み込まれてしまうが、この盛り土の中に山住トンネルの坑道があるのだ。
おそらく雪崩が来ても直接坑門まで届かないよう延伸したのだろうが、お陰で旧道は惨めな状態になった。
これにて寄り道は終了だ。
小谷村最古のスノーシェッドは、静かに朽ちるのを待っていた。
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17:24 《現在地》
さて、今回の国道148号の旧道巡りは、時間的にも行程的にもこれで最後のフェーズだ。
現在鋭意“回春”工事中の姫川橋を渡って、1km先の中土駅を目指す。
交差点には、まだ国道時代の青看が残っていた。
ただし唯一の行き先を消されてしまい、全く無用の長物に…。
頑張って消された文字を凹凸から読み取ろうとしたが、上段の「糸魚川」という大きな文字しか分からず。
下段は不明だ。単にローマ字かな?
昭和12年完成(小谷村誌は昭和14年としており2説有るようだ)の3連RCローゼ桁橋である姫川橋は、この形式の現役橋として古いだけでなく、当時の日本が置かれていた鉄不足という状況で、長い頑丈な橋を架けるための先進的な技術導入であったことと、設計者(中島武)が長野県内に同様の橋を複数架設しており地域性が認められるなど、色々な理由で土木遺産としての高い評価を受けている。
確かにコンクリート製のローゼ桁の橋はあまり見ないし、道幅が狭いので独特の重厚感があってカッコイイ。
まあ、国道として見ると、前後とも直角カーブになっているなど、かなり危ない橋ではあるのだが…。
探索時はたまたまコンクリートを剥がして補修する工事の最中であり、RC(=Reinforced-Concrete(補強されたコンクリート))構造の根拠となる鉄筋が、コンクリートを巻くように埋め込まれている貴重な様子を見ることが出来た。
素人目には鉄筋の表面に錆もなく綺麗なように見えたが、大々的な補修が必要なくらい劣化していたのだろう。
「小谷村誌(社会編)」は、昭和の初期に相次いで小谷村の県道橋(当時はまだ県道だった)が永久橋化された事を次のように書いている。
昭和にはいると自動車やバスが徐々に普及し初め、県道もそれにあわせて改良を余儀なくされた昭和の不景気と重なったため、実情ははかばかしくなかったが、小谷村域では昭和7年に小谷橋、12年に親沢橋、14年に川尻の姫川橋と東橋がコンクリートの永久橋になるなど進展が見られた。
このうち、小谷橋は本レポートの冒頭で渡った橋であろうし、親沢橋は今回区間ではないが、姫川橋と同じく中島武が設計したRCローゼ桁橋として現存、土木遺産に指定されている。
さて、工事のために余計狭くなっている橋(そのため大型車通行止めだった)を渡ると、直角カーブになっており、すぐに洞門が始まる。
昭和58年に完成した川尻洞門である。
川尻洞門は短く、これを抜けるとしばし左に川を見つつの明かり区間となる。
そしてここに、川を背にした好ましい大きさの慰霊碑がある。
慰霊碑ということは中央に大きく「南無阿弥陀仏」と陰刻されていることで分かるが、両側の小さな文字を読むと、これが「昭和六年五月廿三日」に「平村借馬新井與作」という人物の「遭難之地」であることが明らかとなった。
時期的には春の長雨で増水した川に落ちたのか、背後に川が迫っているせいで余計そういう想像が働く。
なお平村借馬は、現在の大町市平(たいら)にある借馬(かるま)地区の事だろうか。
現在地からは25kmくらい離れているが、同じ糸魚川街道で結ばれている。
さらに進むと、長いトンネルから出て来た大糸線の線路が並走するようになる。
しかそそれも長くは続かず、それぞれがトンネルと洞門に呑み込まれる。
旧国道の洞門は名前が凄まじく、何が凄まじいのか上手く説明できないが、とにかく凄い迫力(名前がね)。
その名も、おげんびし洞門
ググッてみても何のこっちゃい、意味不明。
ご存じの人がいたら教えて欲しい。
洞門自体も結構イケイケで(何が?)、コンクリートの梁の表面に鉄板を貼り付けて強度を増やしている辺り、“老骨に鞭打つ感”がよく出ている。
全体的に作りがゴツゴツしていて、しかも洞内にクイックなカーブも備え、旧国道上にあったことを思えば十分に萌える物件だ。
毎度「小谷村誌(社会編)」によると、全長は146m、竣功は昭和60年………?
って、ほんと?
意外に新しいんだな。 とてもそうは見えないが…。
うねる洞門の途中からは、姫川の雄大なカーブとその向こうの山に挟まれた、池原下の集落が見えてきた。
水際に見えるトンネルは、発電所の排水路だろうか。
大糸線の中土駅はこの集落にある。
旅の目的地への接近が、まず一拍置いて遠望から入るというのは、好きなシチュエーションだ。
そして洞門を出るなり、このごちゃごちゃした立体交差。
高さ制限バーに高さ制限標識に徐行の標識に地名の標識にYKKエクステリアの看板に、これらが背景斜面にへばり付くように建つ家並みと同時に現れたもんだから、「突如街に出た」という感じが強い。
たまらん!
17:37 《現在地》
そして無事に中土駅に到着。
駅前には高さ制限バーを兼ねる(と思われる)アーチがあり、「ゆっ」「くり」「ゆ」「こ」「う」「小谷村」の文字が掲げられている。
いま流行(?)の「ゆっくりしていってね」を先取りしている。
つうか、「ゆこう」に時代を感じる。
だが、私はゆっくりしてはいられない。
これといって語る言葉の思いつかない駅前と駅舎を一瞥した私は、すぐに来た道を戻りはじめた。
しかも、全速力に近いくらいの勢いで。
時系列的には、「番外編」に続きますが、
レポートとしてはこれで、完結です。