道路レポート 国道360号 飛越トンネル旧道  第4回

公開日 2014.7.20
探索日 2014.5.31
所在地 岐阜県飛騨市〜富山県富山市


「一時撤退」。

この便利な言葉のお世話になるのも、この道ではいい加減これで最後にしたい。

たった3kmの旧国道探索において、既に2回も撤退を余儀なくされている。
それは状況的にやむを得なかったし、物理的に絶対突破出来ないというわけではなく、正面突破よりも良い方法があると思うから一時撤退しているわけだが、そうは言っても私の心の充足という意味では、こんな細切れ探索の繰り返で満たそうというのは難しい。

今度旧道に立つときこそは、がっちりと相手の首根っこを押さえつけた探索をしてやりたいと思う。

というわけで、次に目指すは未踏領域と立体交差をしている現国道「飛越橋」だ。
今度は間を空けず、すぐさま行動開始!!




南からアウト、北からアウト。 しからば…


2014/5/31 12:20 《現在地》

戻って来た。現国道に。右に見える下り坂が、直前まで探索していた旧国道だ。そして今度は現国道を前進する。

前方にあるのは加賀沢橋で、橋の先に見えるトンネルは加賀沢トンネルという。
橋が県境で、こちら側は富山県富山市加賀沢、向こう側が岐阜県飛騨市加賀沢という。県境を挟んで大字の名前が同じという少し珍しいことになっているのは、県境が国境であったよりも昔の時代、加賀沢という一村であったのかも知れない。

探索本題とは直接関わりが無いが、そんなことが気になった私は帰宅後に古い地形図を確認してみた。すると昭和27年の地形図には、富山側が西加賀沢、岐阜側が東加賀沢という名でそれぞれ10軒ばかりの家々が描かれていた。ちなみに東加賀沢集落の所在地は、加賀沢トンネルが貫いている山肌一帯だったらしい。



加賀沢橋からは、目線の高さに高山本線の第一宮川橋梁を望見する。

そして鉄橋は、その背後の川沿いを通る旧国道をほとんど完全にブラインドしていた。
もし鉄橋が無ければ旧国道はここからよく見えるはずで、万才橋や大決壊の状況も一目瞭然だったろう。(確認していないが、高山本線の車窓からは、それらが大変良く見えると思う。)




鉄橋を渡り、そのまま加賀沢トンネルへ突入する。
工事銘板によれば全長432m、平成12年6月竣功(開通は飛越トンネルと同時の平成12年8月)という、片側に広い歩道を持つ現代的なトンネルであるが、実際には432mを走っても出口は現れない。 それが、このトンネルの大きな特徴なのだ。



フル・カバード・ブリッジという個性。

地図を見なければ、ここは単にトンネル同士をスノーシェッドで連結しただけに見えるかも知れない。
だが、それでもよく観察すれば、地上の道にはありえない橋梁用の欄干が外壁沿いに設置されている事に気づくだろう。
おそらく道路構造令に準拠するためには、欄干を外壁の鋼鉄壁で代替するわけにはいかないのだろう。

この鋼鉄のスノーシェッドこそ、宮川と県境と旧国道を一挙に跨ぐ「飛越橋」である。
現地には橋名を語る銘板も親柱も見あたらないが、手元の道路地図に注記があった。

そして私にとってはこの場所が、この探索で一二を争う正念場だった。

ここから壁の外へ出たい!!



来たッ!!

長さ100mほどの橋上スノーシェッド区間内に一箇所だけ、

外光が大きく差し込んでいる横穴があった!!!

上部に「避難口」の表示が出ていたが、私にとっては目的外使用の僥倖である!



「かならず 施錠して下さい。」

………。 

だ、 大丈夫か?

ここから出ていって、そのまま締め出されたりしたら結構ショックなんだけど…。

自転車を扉の前に残していくので、万が一道路管理者がやって来たときにそれを見て配慮をしてくれる事を期待しよう。

まあ、おそらく実際にはこんな心配は杞憂で、常に開けっ放しなんだろうけれど…。




これは余談だが、飛越橋に連続している飛越トンネル。

このトンネルの工事銘板が目の届く場所に置かれていたのだが、そこにはなぜか坑門の銘板に掲げられている名前とは別の「小豆沢トンネル」という名が刻まれていた。しかもそのすぐ上に、チョークで書き足した「飛越トンネル」の文字。

稀にこのように、工事銘板と坑口の銘板とでトンネル名が食い違うことがある。
前者は工事中の仮称で、開通時により親しみやすい名前に変更した場合などが考えられる。




まるで、私を誘い込む虎穴の如くに開け放たれていた鉄扉をくぐり抜け、

太陽が照りつける明るい世界へ。

扉の外に待ち受けていたのは地面ではなく、畳一枚ほどの広さの金属製の足場であった。
紛れもなく、自分が橋の途中から外へ出たという事が感じられる場面だった。
そしてその狭い足場の中央には、地面へと通じる梯子があった。

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大決壊に挟まれ孤立した中間部分への挑戦


12:26 《現在地》

おおっ!

梯子の真下には、私にとっては故郷の馴染みさえ感じる事が出来る
路面という“いつもの”世界が広がっていた。
それも、今にひょっこり車が現れても不思議では無さそうな路面。

だが、私は既にこの道の前後の有り様を、知ってしまっている。
ここは絶対に車なんて現れるハズがない、死んだ道なのだった。




簡単な作りの梯子を慎重に下り、路面に立つ。

←岐阜側   富山側→

自転車を降ろせば普通に走れそうな旧道が、右にも左にも続いていた。
心を揺さ振られたが、梯子の上の穴に自転車を通す事はほとんど無理なので、諦めて歩く事にする。

まずはついさっき撤退したばかりの富山側へ行ってみよう。



旧道を歩き出して最初に私を喜ばせたのは、旧道そのものではなく、振り返って眺める現国道の姿だった。

飛越国境を跨ぐ飛越橋の勇姿は、国道を通行しているだけでは絶対に拝むことが出来ないものだ。




前進を再開すると、まもなく高山本線との立体交差が現れた。

立体交差の前後に高さ制限バーが設置されており、制限高は3.6m。
この数字が、平成12年までの国道360号の“限界”だったのである。
また、立体交差の前後は道路拡幅が難しかった為であろう。明らかに道が前後区間よりも狭い。
さらに、蛇行する山腹と鉄道橋脚との狭い隙間を通るため、見通しの悪いカーブになっていた。

これまで見てきた旧道も、幅1〜1.5車線の山岳道路で、現代の基準から見れば“酷道的”であったが、中でもこの立体交差部分は顕著な“酷道”で、未だ現役であったなら全国の酷道ファンがカメラを向けたことであろう。

なお、道路を跨ぐ鉄道橋の名前は第二宮川橋梁で、既に登場した第一橋梁によく似た上路ワーレントラス鉄橋である。そして橋に続くトンネルが道のすぐ上に大きな口を空けており、こちらは全長1kmオーバーの唐堀隧道という。これらはいずれも昭和7年からの鉄道構造物である。トンネルから漏れる冷気が見えない滝となって道路を横断しているせいで、ここだけ気持ち悪いほど涼しかった。



鉄道をくぐってなおも進むと、いよいよ遠方の川縁に見覚えのある赤茶けた大決壊が見え始めた。

だが、その手前にも中規模の路肩決壊が待ち受けていた。
この写真の地点は道幅の3分の1程度がそっくりと崩れ落ち、路肩にあったガードレールが空中に架かっている。
うっかり薄暗い時間に自転車で踏み込んだりしたら、最悪のトラップになりかねない場所だ。

その決壊部に露出した僅かな土から、桃色の可憐な花をたくさん付けた桐の木が元気に育っていた。桐は生長が早いと言われるが、幹は直径10cmほどになっており、決壊からの経過時間を活き活きと育ってきたのであろう。

これは素朴な1本の樹木であるが、その無垢な生命力は、人が放棄した道路を自然へ還す力強さを感じさせた。



道幅の3分の1が消失した決壊現場だが、決壊によって生じた新たな路肩の下にあったのは、明らかに人工的な石垣であった。

それは丸石練り積みという、コンクリート擁壁が主流になる以前の一般的な工法の擁壁だった。

決壊が起きるまでは地中に隠されていたに違いない擁壁。
まるで、偶然の土砂崩れで地表に出現した遺跡のようなノリだが、その正体は、道がより狭かった時代の古い路肩擁壁であろう。

すなわち、ある時期までは現在の3分の2ほどの道幅しかなく、その分だけ川幅も広かったのだろう。
だが、我々の土木技術の進歩は、より頑丈で巨大なコンクリートの擁壁をここに設置することで、悠久以来の大河へ果敢に挑み、一旦はそれを制しもしたのであった。



路肩決壊現場の少し先には、すっかり土砂で埋もれてしまった暗渠があった。
そのため小さな沢が運んできた土砂が路上にあふれ、横断するまでに至っていた。

人が治すことを止めた道は、自然が振るった暴威の痕に溢れていた。



12:33 《現在地》

そして、飛越橋から旧道を歩き出してわずか7分、300mほどで、

一度は憧憬の中に見た大決壊対岸の末端部へと辿りついた。



「横断不可能」という先の判断は、間違ってはいなかったと思う。
改めて反対から眺めて見ても、やはりこの決壊を川に入らず越える事は出来ないと思った。

この路盤の決壊は、廃道というレベルをも超越し、道そのものを跡形も無くしてしまう寸前まで追い詰めていた。
護るべき道など既に無いのに、崖の中腹に取り残されてしまった落石防止擁壁が憐れに見えたが、

近付いて慰めてはあげられない…。




そして、忘れてはいけない。


私がこの地点へ来て一番嬉しかったのは、

万才橋 の本当の姿を知る事が出来たことだ。


見よ! 廃道の名橋!



迂闊にも渡っている最中には気づかなかったのだが、朝通った無名の橋と同様、この万才橋もまた流麗なコンクリートアーチ橋だったのである。
しかもその優雅なシルエットは、まるで橋が自らを飾り付けたかのようなに緑のツタによって覆われ、人工物と自然とが高度に調和した廃道の粋とも言うべき美を醸していた。
これには私も大喜び! 夢中になって目線を送った。そして観察。

橋の規模は前よりも遙かに大きく、高さもある。
アーチのライズ比もさらに小さく、より技術的に洗練された姿をしていた。
そこにはコンクリートアーチ橋としては後期に属する昭和42年の技術力を感じた。
しかしその極限に近付いたスリムさの代償として、橋の路面までもがアーチ形に撓った、いわゆる“太鼓橋”となっていたのには大変驚いた。
(これだけ曲がっているのに橋上で異変に気づかなかったのが不思議だ)

車道の橋でこれほど顕著な太鼓橋は珍しい。
美しいだけでなく、技術的にも貴重な橋ではないのだろうか。
願わくはもう少し近いアングルで仰ぎ見てみたいが、それはまた何時かの楽しみに取っておこう。


…それにしても、橋がある場所は大決壊のギリギリ隣である。
もう少し川の流れが違っていたら、この橋も連れて行かれたかもしれないのだ。
……残って良かった、運にも恵まれた名橋である。