道路レポート 国道353号清津峡トンネル旧道 机上調査編

所在地 新潟県十日町市
探索日 2018.11.30
公開日 2019.04.25

瀬戸渓谷における人と道の苦闘史


改めて今回の探索を振り返ってみると、レポート5回分の最初から最後までに経過したリアルの時間は、わずか1時間15分ほどだった。
また、表題とした「国道353号清津峡トンネル旧道」という道も、全長は1km弱であって、距離のうえでも小粒といえた。
だが、この旧道の沿線で私が出会い、探索した道は、予想を超えて多彩だった。

現場で探索した道々を右図にまとめてみた。

まず、赤字と赤線で描いたのが、旧国道に属するものたち(1)だ。
個別の構造物を挙げると、瀬戸口隧道や片洞門が、これに含まれる。
『道路トンネル大鑑』には、瀬戸口隧道の竣工年が昭和29(1954)年であると記されている。

この区間が旧道になったのは、平行する清津峡トンネル(2)が昭和59(1984)年に開通したことによる。そして旧道化後は、全線が瀬戸渓谷歩道(3)として利用された。だが次第に荒廃し、現在は片洞門の北半分を除く大半が通行止め(事実上の廃止状態)である。今日の片洞門や瀬戸口隧道は、この遊歩道時代の風景を色濃く反映している。

片洞門の隣に平行するように、雪中隧道(4)の性格を持つとみられる非閉鎖の人道サイズ素掘り隧道(全長約150m)が存在する。情報提供者井之川氏が幼い頃に通行した思い出の隧道であるが、現地探索からは、片洞門との新旧関係性を判断できなかった。

レポートの最後に紹介したのが、瀬戸口隧道の隣に平行して存在している、旧々道(5)とみられる強烈な“へつり道”だった。
雪中隧道と同様、明らかに徒歩専用の道だが、現地では、両者が一連のものであったかなど、関係性を判断できなかった。

以上、(1)〜(5)の道が、瀬戸渓谷の核心部である前後わずか400mほどの区間内に並立して存在しており、難地形との戦いに明け暮れた複雑な建設史を想像させるものがあった。
本稿(机上調査編)の目的は、これら瀬戸渓谷を巡る5つの道の歴史解明にある。

そしてこの調査の主役となったのが、『中里村史 通史編下巻』(平成元年発行)である。
同書の交通に関する記述の量は、一般的な市町村史の平均値より遙かに充実していた。この充実ぶりこそ、かつての村民が交通の改善にどれほど熱心であったかを如実に物語っていたし、またそうしなければ安寧の明日を迎えられない、そんな厳しい生活環境を暗示してもいた。




第一章 左岸里道と右岸里道の競争

右図は、大正1(1912)年の地形図に見る瀬戸渓谷の一帯だ。

今回探索した清津川右岸の谷底近くを通る道は、まだ存在していない。
東田尻から角間に至る右岸の道路は、東田尻を出ると突如高度を上げ始め、穴沢の上流を横断後に再び急登し、最終的には河床から実に350mも高い尾根を超えて、ようやく角間へ下るように描かれている。

この右岸道路は、全体が「里道」として描かれているが、微妙に表記方法の違う部分があり、東田尻より下流は荷車の通行が可能であるが、それより上流は徒歩だけの通行であることが表現されている。
地図上の道を追うだけでも足が重怠くなりそうな、隣の集落へ行くにも命懸けを窺わせる、山間僻地の前時代的山道の姿が、ここにはある。

一方で、左岸にもやはり荷車の通行は出来ない里道が描かれているが、こちらは現在の地図にもほぼ同じ位置に道があることが注目される。
この左岸の道、レポートでは紹介しなかったが、探索している。
ここにあるのは、幅5m前後の舗装路で、おそらく十日町市の市道(旧中里村道)だ。雪のない季節は解放されており、一般車の通行が可能である。

左の写真は、瀬戸渓谷の上部を通過する、この左岸道路の風景だ。

この写真では周囲の風景が分からないので、チェンジ後の画像を見てほしい。同じ位置から見下ろした瀬戸渓谷の旧国道である。ガードレールのない路肩から、ほとんど直下に見るような圧倒的高度感で無人の谷底が俯瞰される。その比高は50mを優に超える。
逆に旧国道から見上げると、【こんな所】【通っている】のである。

右の写真も、同じ道から対岸である右岸を撮影したもので、ずっと下に今回探索した旧国道の片洞門が見える。
また、大正元年の地形図に描かれていた右岸の里道の位置を推定して点線で書き込んでいる。
これは清津川の急峻な河谷を避けるように、尾根の近くまで延々と高巻く、地形に逆らわないルートだったが、明らかに車道たり得ない高低差を持っている。
一方で、視座である左岸の里道は、河谷の中腹付近のトラバースに果敢に挑戦している。
中腹は、谷底付近よりはだいぶマシだが、それでも急峻な斜面であることに変わりはない。

この左岸の里道こそが、瀬戸渓谷の険阻に立ち向かった、最初の近代的道路であった。
次に掲載するのは、そのことを述べる村史の記述である。



県道魚沼線が開通すると、これに接続する道路を開削しようとする動きや、これまで人馬の通行ができればよかった程度の曲折の多い遠路を、短絡路にし、車両交通の便利な道路に改良しようとする動きが見られるようになってきた。
中魚沼郡で、その里道の改修に先鞭を付けたのが倉俣村であった。この道の改修についての詳しいいきさつは定かでないが、『中魚沼郡誌』に、
「明治22(1889)年より、6ヶ年の継続事業として、県道魚沼線を下船渡村字駒返より分岐して、字小出に至る、延長2里24町46間、幅9尺の里道を修削して竣工す、道傍碑を建てて其由を記す、人夫を要せしこと6446人4分、工賃449円96銭、外に530円の工費を要せり」
芋川・倉俣・重地・牧畑・深山坂・西田尻を経て小出へ至る道である。明治22(1889)年4月1日、これまで下船渡村の内であった小出分が倉俣村へ入ったことにより、清津川沿いに造成された路線であった。
『中里村史 通史編下巻』より

冒頭に県道魚沼線という名前が出ているが、これは現在の国道117号だ。明治時代には、魚沼三郡(中魚沼・北魚沼・南魚沼)を縦貫する路線として、仮定県道魚沼線と呼ばれていた。旧中里村域で最も早く車道化したのもこの道で、明治20(1887)年に清津川を横断する清津橋(木橋)が架設されたことで、中魚沼郡内の全線で馬車の通行が可能となった。
この県道魚沼線の開通を受けて、これと接続する旧倉俣村の清津川左岸沿い里道が改良されたというのが、上の記事である。その位置は右図に赤線で示した。

なお、「旧」が付く村名がいくつも出てくるが、これらの関係性も右図を見てほしい。
明治22年の町村制施行と同時に、清津川を境界とする倉俣村と田沢村が誕生した。昭和30(1955)年に両村が合併して中里村となり(翌年に貝野村の一部も編入)、平成17(2005)年の十日町市との合併編入まで存続した。
したがって、この時代の左岸の道路と右岸の道路は、所属する村が違っていた。当然、利害関係者も違っていたはずだ。

明治22年の倉俣村成立と同時に着工し、6年間もかけて完成された、全長約10kmにおよぶ、幅2.7mの堂々たる左岸道路は、郡誌にも掲載されるほどの大事業だったが、後にこの里道を差し置いて格上の県道となり、最終的に国道の座を射止めるのは、右岸の道路である。
次は、右岸道路の改良が始まったことを伝える記事である。


中魚沼郡で里道の新設や改修が盛んになったのは、明治40年、郡会の決議により、同44年までの5ヶ年間に町村が里道を新改修する場合、その工費の3割から5割を補助することを決議してからである。
明治40年、田沢村・貝野村・水沢村は共同提案で、下鰕池(しもえびいけ・松之山町)から貝野村のうち堀之内・宮内を経、田沢村の山崎から山地を過ぎ、十二峠を越えて石打村大字関(塩沢町)までの道路改修を郡役所に願い出る計画が始まった。しかし、当時川西線を県道とし、改修する請願や三村の歩調が必ずしもそろわなかったこともあり、せっかくの立案の実現されずに終わった。
この計画が白紙撤回されると、田沢村は、すぐに緊急村会を開会し、村が明治29年以来宿願としていた山地分縦貫道路を独自の計画で建設することを決定した。取りあえず第一期工事として山崎と東田尻間を改修することである。計画は、郡の補助金3割を申請し、沿道分々より1戸につき4人の義務割当人夫を出すこと、及び年間地租の20%を醵出すること、道路となる敷地代は沿道分々で負担するというきびしいものであった。
『中里村史 通史編下巻』より

左岸の倉俣村に清津川沿いの道路改修を先んじられた右岸の田沢村は、相当に対抗意識を燃やしたのであろう。
明治40(1907)年に至り、隣接する2つの村と共に、より大掛かりな新道工事を計画して郡会に請願することを考えた。このときの計画ルートは、現在の国道353号とかなり近いものであり、先見の明を示しているが、壮大すぎたのか、実現には至らなかった。失敗した理由の1つとして、「川西線を県道として改修する請願」があったことを挙げている。倉俣村を通る左岸里道との“県道昇格競争”が明確に存在していたのである。

だが、田沢村もこの機(時限付きの郡による補助制度)を逃せば次はないと必死だったのだろう、某土木県令が考えそうな、いや、それ以上に苛酷な徴用を住人に求める強権を発動して、強引に村内の右岸里道(山崎〜東田尻)整備を進めた。
上図の赤い実線が、このときに改修整備された里道、赤い点線は、改修が計画されたものの、このときは実行されなかった区間である。

ところで、本稿は明治維新以降、近代の道路整備について述べているが、もちろんそれ以前から人が往来する道はこの地域にも多く存在していた。今日は「十二峠」と呼ばれている峠も、信濃川と魚野川を短距離で結ぶ近道として、利用があったようだ。もとは「小黒峠」と呼ばれていたが、この地方に多い十二神社を峠に祀ったことから、いつしか名前が変わったようである。しかしこの道は清津川の渓谷に沿う行程が長く険しいうえ、豪雪地のために、その利用は限定的だったようである。この道の本格的な活躍が期待されるのは、車両交通が目論まれた近代以降なのである。

強権発動の末に、東田尻までの改修は成った。だが、それより奥地には瀬戸渓谷の険阻が控えており、既に述べたとおり、旧来の右岸里道は大変な大迂回を強いられる難路だった。そんなところに、左岸里道との競争を制しうる車道を開削することは、村の力に余る大変な難事となることが予想された。そこで、田沢村は一計を案じたのである。
その結果、私が探索した道の一つが誕生することになる。




第二章 最難関に突貫した田沢村の妙手


『中里村史 通史編下巻』より
東田尻までの道路改修は、拡幅と一部付け替えでよかったが、それより奥地、角間・葎沢(むぐらさわ)・倉下・土倉への道は、(中略)山坂越えの険路で、郡費補助の最低幅員9尺(2.7m)以上とすることは不可能に近かった。
折から明治41年11月、小千谷へ工兵第十三大隊が屯営し、実地演習をかねて各地で道路・橋梁の建設を手がけるようになっていた。郡内では42年秋、上野村(川西町)の道路工事のため実地演習に出動した約3000人の隊員が、わずか2日ばかりで上野・小根岸間の崖を切り開いて村民を一驚させた。このことを聞いた田沢村長は43年春、東田尻と角間の間にある瀬戸峡の岩場を開削して里道にするため、この工事を工兵大隊に依頼した。この工事にはさすがの工兵隊も困難をきわめた。場所柄から大勢の兵員を出動させることはできなかった。隊員の演習は小千谷兵営と高崎兵営を結ぶ軍道を開設することを名目にして、主として瀬戸口の断崖に道路を掘削する爆破作業であり、表30(右図)のとおり3ヶ年にわたり行われたが、当初もくろんだ道幅の道路の完工を見るまでに至らなかった。
地元では隊員の手伝いや慰労に労力・金円の協力を惜しまなかった。特に、道路開削で最も恩恵を受ける角間・葎沢・倉下・土倉では人夫を出して兵員とともに工事に当たり、賄いや諸世話に大変な労役を提供している。その数は明治43年の場合、人夫は、角間162人、葎沢76.5人、土倉35人、倉下16人、賄夫として角間41.3人、葎沢27.5人、外に会計担当者14人、合わせて414人余であった。年々の経費は、最も兵員の少ない44年の場合、総支出260円のうち工兵隊が演習費として138円余を支出、村の負担は121円余となっている。
工兵隊員による演習は大正元年で終わり、ようやく人馬の通れる程度の道が出来た。
『中里村史 通史編下巻』より

やりやがった!

……と、道路改修のライバルだった倉俣村長は思ったかも知れない。
やりやがったのである。
田沢村長、軍隊の力を借りる妙手に出たのである。
戦後にも自衛隊による演習を兼ねた依託道路工事が全国各地で数千件実施されており、有名な塩那スカイライン離島の道路など、民間では困難・不採算な工事で大きな力を発揮している。だが、戦前の日本軍による演習工事は記録が残っているものが少なく、総数も頻度も不明だ。その意味でも貴重な記録といえる。
(だが、小千谷と高崎を結ぶ軍道という工事名目は、さすがに無理がある…苦笑。ここを開通させたところで、その先に待ち受ける、これより何十倍も距離が長い上越国境の三国峠をどうするつもりだったのか。三国峠に車道が完成したのは戦後のことである。)

そして、上記の、明治43年から大正元年まで3年(合計27日間)にわたって工兵第十三大隊の依託工事として行われた「瀬戸口の断崖に道路を掘削する爆破作業」によって誕生したのが、私が最後に探索し、探索中最大の恐怖を味わった“へつり道”に他ならない!
なんと、この工事の写真が残っていた。
村史に1枚、さらに『写真集ふるさとの百年 十日町・南魚沼』(昭和56年/新潟日報事業社)に1枚、計2枚の写真が発見されているので、見ていただこう。



『写真集ふるさとの百年 十日町・南魚沼』より

『中里村史 通史編下巻』より

いかがだろう。
どちらの写真にも、私を恐怖させた瀬戸渓谷核心部の特徴的な垂壁が写っている。
いずれも右岸の工事現場を下流側から撮影しているようだ。

左の写真には、白い制服と制帽を身につけた軍人とみられる男性が写っているが、周囲は草むらの急斜面で、工事が始まった初期の風景かも知れない。

右の写真にも軍服姿の人物が大勢写っており、ハンマーのような道具を手にしている人物もいる。いかにも記念写真の感じだが、左端に見えるスロープ状の部分が建設された里道であろうか。とても車道といえる幅はないように見えるが、それでも左の写真よりは遙かにはっきりと道らしい。
このの現場は、おそらく最も険しい“へつり”を上流に抜けた辺り(現在の瀬戸口隧道北口付近)であろう。下に私が撮影した同位置と見られる写真を掲載した。



古写真で大勢の軍人が乗っている岩場が、いまも全く同じ形に存在しているのが凄い。しかし良く比較してみると、当時の方が河床は5mくらい低く見える。現在は川石の堆積が進んでいるようである。したがって当時の“へつり道”は、低いところでも河床から7〜8mの高さがあったことになり、高い所などは10mを余裕で越える。この高さなら、間違いなく私は逃げ出していただろう。

しかし残念ながら、2枚とも私が歩いた“へつり道”そのものを撮してはいないようだ。とはいえ、これに代る通路となる瀬戸口隧道の建設はもっと後のことだから、このときに“へつり道”が建設されたのは間違いない。
正直、まともな神経で作られた道ではないと思ったが(失礼ながらそう思った)、軍の演習を兼ねたというのは、なんとなく納得がいく。もう少し柔らかい表現をすれば、非日常的な感覚で作られた道だという気がしたのであるが、軍事演習はまさに非日常であろう。地元住人も工事に大勢協力したことが記録されてはいるが、それでも自分たちが使う道を自分たちだけで作るという、当時の一般的な道路工事像ではなかったのは確かだ。
(なお、右の写真のキャプションに、「清津川沿いに桟道を切り開いた」と出ている。この「桟道」という表現は村史にない。完成当時は桟橋によって路肩が広げられていたのだろうか。現状は全く痕跡がないが)

軍隊委託工事は、田沢村が炸裂させた妙手であり、先の強権発動的工事の直後でありながら、村民はこの工事にも尽力した。だがその効果は、残念ながら完璧とは行かなかったようだ。
村史には「当初もくろんだ道幅の道路の完工を見るまでに至らなかった」「ようやく人馬の通れる程度の道が出来た」と書かれているが、現状の道路風景を知る私にとっては、「だろうな」と頷くよりない。

しかしともかく、謎であったことの一つは、ここで解明した。
“へつり道”は、明治44年から大正元年にかけて軍の力を借りて建設されたものだった。
100年以上も昔に作られた道が、跡切れ跡切れとはいえ、未だに歩ける部分を残しながら、あんな川縁の絶壁に残存していることは、改めて「岩の硬さ」を実感する。これでは道幅を大きく取ることが難しかったというのも頷ける。そして、そんな堅い岩場を深さ100m以上も掘り進めた川の浸食力の偉大さと悠久さも思う。瀬戸渓谷はやはり、人には作り得ぬ天与の畏景であった。





第三章 右岸里道の完成と県道昇格

右図は、昭和28(1953)年の地形図である。
大正元(1912)年のものと比較すると、瀬戸渓谷の清津川右岸に新たな里道(しかも荷車が通れる)が、1本のトンネル(矢印位置)と共に登場していることが分かる。
大正元年に一応の完成を見た“へつり道”にこのような隧道はなかったので、これは瀬戸口隧道のように見えるが、『道路トンネル大鑑』は同隧道の完成を昭和29年としているので、この地形図に描かれているのはおかしい。

だが結論から言うと、これは瀬戸口隧道で間違いない。
右岸にある私が通った5つの道のうち第2番手に登場するのは、瀬戸口隧道と片洞門を持つ、現在の旧国道である。
再び村史の記述を拾おう。

その後(=工兵隊の工事の後)村独自の計画による隧道工事に取り掛かったのは大正6(1917)年からである。
まず葎沢から角間までの道路を整備し、ついで隧道開削に入り、大正11年、待望久しかった瀬戸口隧道は開通した。総工費のうち中魚沼郡から4割の補助を得ている。
この隧道は素掘りで、現代に至ってさらに拡幅され、現在の穴沢のトンネル(=清津峡トンネルのこと)が開通するまで利用されていた。
『中里村史 通史編下巻』より

淡々と書かれているが、村史にはこれより先に村内で隧道工事が行われた記述はなく、村で初めての記念すべき隧道だったと思われる。
大正11(1922)年の完成ということで、当初の想定より四半世紀以上早かった。
したがってその分だけ“へつり道”の廃止は早かったことになる。大変な難工事を切り抜けて完成した“へつり道”だったが、わずか10年しか利用されなかったとみられる。
私が歩いたときには、完成から106年、廃止から96年が経過していたことになるのだ。
この利用期間の短さは、“へつり道”がいかに問題の大きな道であったかを示していると思う。「こんな危ない道を孫に渡せるか!」と叫んだ爺さまもいたかも知れない。



『写真集ふるさとの百年 十日町・南魚沼』より

『中里村史 通史編下巻』より

現役時代の瀬戸口隧道を撮影した写真も2枚見つかっている。

左の写真は村史に掲載されていたもので、撮影時期は分からない。左側の岸に片洞門が見えており、その奥が瀬戸口隧道だが、遠いのでよく見えない。しかし今より谷が深く(河床が低く)見えるので、最近撮影されたものではないだろう。

右の写真は『写真集ふるさとの百年 十日町・南魚沼』に掲載されていたもので、キャプションに昭和30年代の撮影であると書かれている。現在の写真と比較してみると、手前の穴沢に架けられた橋が狭い木橋である点に違いがある。ただ、隧道自体の大きさや姿は変わらないように見える。あとで分かるが、これは改修を受けた後の姿である。
残念ながら、大正11年の完成当時の隧道の姿を撮した写真は未発見である。 


こうして大正11(1922)年、瀬戸口隧道の完成を以て、田沢村が尽力した右岸の里道は、清津川に沿う全区間(山崎〜葎沢)の改修がようやく完了し、先行した倉俣村の左岸里道と肩を並べる、あるいはそれを上回る評価を得たと思われる。
いよいよ県道昇格が期待される状況となった。

田沢〜十二峠〜石打間の県道改修請願は大正14年12月、田沢・外丸・下船渡・倉俣の四村長発願でなされている。この路線は、正規には大割野・湯沢線と記されており、請願書には改修を要望する理由として三つを挙げている。いわく、妻有南部郷(信濃川流域、現在の津南町周辺)と上田郷(魚野川流域、現在の南魚沼市周辺)を結ぶ唯一の路線であること、いわく、上越北線石打駅への連絡路として4里半の道程のうち2里余を開削するだけで改修を終え得ること、いわく、東頸城郡・中魚沼郡(飯山鉄道田沢駅)・南魚沼郡(石打駅)の三郡を結ぶ要路であることである。
この路線はついに実現されなかったが、その後も中魚沼郡と南魚沼郡の南部を結ぶ路線としてしばしば取り上げられており、大正年間には上越線の比較線として鉄道敷設路線として浮上したこともあった。その後、昭和6年、飯山鉄道株主総会でも鉄道敷設かバス運行かのいずれかを計画しなければならないと決議している。同年、中魚沼郡連行商業会の総会でも、六箇線・八箇線・田沢線のいずれかを南魚沼郡との連絡ととしてバスを運行させたいという提案をしているが、その中でもこの線が有力な比較線の一つとして取り上げられている。
『中里村史 通史編下巻』より

県道大割野湯沢線は、「実現されなかった」と出ているが、それは十二峠の車道整備についてのことで、県道昇格自体は大正12(1923)年4月に果たされたことが村史年表に記されていた。おそらく、大正9年の道路法施行時に一旦は中魚沼郡の郡道となり、郡制廃止によって県道昇格を果たしたのだろう。
ただ、前掲した昭和28年の地形図でも県道の表現になっておらず、相変わらず里道(町村道)のように描かれている。そのため、右岸道路と左岸道路のどちらが県道に昇格したのか確定出来ないが、戦後に右岸道路が改めて県道→国道と認・指定されることを考えると、このときに県道になったのも右岸道路だと考えて良いだろう。

大正14年の県道改修請願を、田沢と倉俣の両村が協力して発願していることも注目したい。
本来なら隣り合う両村は協力して道路整備に当たるべき立場であり、それぞれの村の幹線道路が一応の完成を見たことで、競争の必要が薄れたのかも知れない。
だが、結局この県道の改修は、県においてさほど積極的には進められなかったようで、十二峠の車道開通も戦後を待たねばならなかった。

両村の関係は雪解けを迎えたようだが、真に恐ろしいのは大地に降り積もる本物の雪である。
そのことを物語る数多くのエピソードが、村史には出ている。
私が探索した道がまた一つ誕生したのも、豪雪との関わりの中であった。




第四章 明け暮れた、雪との闘い

新潟県が豪雪地であることは誰もが知っているが、魚沼はその最たる地域で、近年は少雪傾向にあるとは言え、津南や松之山では3mを越える積雪深となる年が珍しくない。
村史は昭和20年の豪雪を例に挙げている。この年、十日町の中心市街地でも424cmの積雪となり、国鉄飯山線は2ヶ月間も運行不能となり、国道の除雪も行われず、生活必需品の運搬は人の足と橇(そり)に頼る耐乏生活を送ったという。

これは豪雪自体が災害に他ならないという例であるが、比較的に開けた十日町がこの状況であるとき、清津川の上流山間地では、言語に絶する雪との格闘が繰り広げられるか、あるいは真に忍従の日々を送っているかのどちらかであった。

昭和26年4月3日、倉俣村重地の人が瀬戸峡で雪穴に転落し凍死する。同年瀬戸口雪中隧道160mを掘削して竣工する。
『中里村史 通史編下巻』より

村史が多数の雪害の一例として列挙したうちの一つ、上記の短い文章が、今回探索した“雪中隧道”の建設された経緯を述べている。
これ以上の記述はなく、工事の詳細は全く分からないが、倉俣村の住人1人が昭和26(1951)年4月に田沢村の瀬戸峡県道で雪穴に落ちて亡くなった事故を受けて、次の冬が来るまでの年内に田沢村瀬戸口に雪中隧道を建設して、通行の安全を確保したということが読み取れる。なんとも人情に篤い厚い村政ではないか。

探索時点では謎だった雪中隧道の竣工年がはっきりした。
片洞門が先にあり(大正11年開通)、あとからそこに雪中隧道が作られていたのである。
村史にもはっきり「雪中隧道」との表現が使われており、隧道の正体については現地探索で言い当てていた。

なお、雪中隧道は村内にこの1箇所きりではなく、左岸道路の難所「倉俣へっつり」という場所にも、中里村誕生後の昭和33年に着工し、同42年3月に完成した全長271mの雪中隧道があることが出ている。
これらの雪中隧道は、除雪車が導入されて冬期間も自動車の運行が可能になるまで、昭和の後半でも各地で利用されていたのである。
したがって、情報提供者の井之川氏が、幼少の時期に御祖母に背負われ瀬戸口雪中隧道を通行したという記憶は、既に片洞門という車道が隣に開通していた事実と矛盾しない。

なお、雪中隧道の建設は、人々が雪を相手に行う対処行動の中で最も反骨に溢れた、いわゆる克雪精神の発露である。だが、現実には大半の場面で、より消極的な対処を取らざるを得なかった。村史には、道路の整備に関する記述にも増して、「雪との関わり」の事柄が多く述べられている。その中から瀬戸渓谷と関係が深い、いくつかの事例を引用して参考としたい。


『中里村史 通史編下巻』より
中里村の雪崩は、ワヤまたはワンヤ、ナゼまたはナデの2種類に呼び分けられている。ワヤは、新雪表層雪崩のことをいう。(中略)
ナゼというのは全層雪崩のことで、その発生をいうには、ツクという動詞を使う。降雪盛期の新雪が地肌から崩落するものと、早春になってから、沈降して硬く締まった岩盤のような厚い雪が、轟音と共に滑り落ちるものとに分かれる。(中略)
春先にツク方の硬いナゼは、真冬のそれにも増して恐ろしい。不幸にして、大量のこのナゼに直撃されてその下敷きになれば、骨は砕け、血を吐いて即死するほかはない。小出には、死者があったことを親類に報知するツゲに出た帰路、清津峡橋の東詰でこのナゼに襲われた二人連れがある。一人は絶命し、一人は重傷を負った。西田尻地内でも、西方の人が一人、このナゼの下になって死んでいる。清津峡への遠足の途次、角間のナゼイキ(雪崩が堆積した硬い残雪のこと)の中にできていたうろに入り込んだ児童二人と引率教師一人が、雪が崩れて圧死した周知の事件もある。水沢尋常小学校のこれらの死者を悼む慰霊碑が、現地に建てられているが、5月28日という晩春の日に発生した、自然のナゼと同一の性格の事故である。
『中里村史 通史編下巻』より

ここに述べられている、児童と先生の3人が亡くなった事故は、年表によると、昭和15年5月28日に発生している。そして、この事故を悼む慰霊碑があった現場は、今回探索した旧国道の路傍である。
だが、私はこの碑を見ていない。単純に見逃したのかと思ったが、実はそうではなかったことが判明した。
そのことを教えてくれたのは、他ならぬ井之川氏だった。

井之川氏から本編第2回に戴いた感想コメントより
旧353号の調査、大変楽しく拝見させていただいてます。調査依頼した井之川です。
私自身、ここが旧道になってからは一度も通った事がなく、今現在の状況に大変驚いてます。
上流の方からレポートされてますが、隧道手前の土砂崩れのちょうどその場所で、私が生まれる前くらいでしょうか、保育園の子供たち13人と引率の先生一人(私が小さい時祖母から聞いた記憶なので人数は間違ってるかもしれません)が雪崩に飲み込まれて亡くなった場所なのです。現場には慰霊のための小さなお地蔵さんが置いてあったのですが、土砂崩れに埋もれてしまったようですね。ちなみにこの区間は冬でも除雪されて自動車が通っていました。もちろんご指摘の通り雪崩の巣となってまして、頻繁に起こる雪崩に対して地元民は非常に苦労させられていました。

井之川氏によると、瀬戸口隧道の南口のすぐ前にある右写真の崩落現場が、この事故地であり、慰霊のための小さなお地蔵が置かれていたのだという。
確かに現状は路面が完全に埋没しており、いかなる慰霊碑があったとしても、ひとたまりもなかっただろう。
もしかしたら、発掘されてどこかに移転されているかも知れないが、旧道化後も同じ位置にあったとのことだから、その可能性は低そうだ。

災害の慰霊碑は、不幸な死者を悼むためだけにあるのではなく、生きる我々が危険を知り、学ぶために置かれることも多い。多くが事故現場に設置されるのは、そうした理由もある。だが、であるからこそ、こうして再度の災害によって碑が失われるケースは少なくないのだろう。

なお、災害復興科学研究所のサイトに、「日本の雪崩災害データベース」として、近代以降に全国で発生した雪崩災害の事例7940件が収集・公開されている。
このうち新潟県の発生件数は1886件と、2位である山形県の倍近い断トツのワーストワンなのだが(死者数1242人もワースト)が、旧中里村における雪崩は1911年から2000年までに発生した17件が記録されている(死者17人、負傷者3人)。この数自体は県内の他の市町村と較べて多い方ではないが、発生地点に目を向けると、5件に「瀬戸峡」と書かれているうえ、瀬戸峡がある大字名である西田尻や角間と書かれているものが3件あり、合わせると全体の50%近い8件までもが、瀬戸峡で起きた(負傷者や重傷者を発生させた)雪崩災害だったことが分かる。
まさしく、瀬戸峡こそは雪崩の巣、最悪の凶地であったことが、十分に理解される記録となっている。
だが、昭和37(1962)年の死亡事故を最後に、瀬戸峡での重大雪崩災害の記録は途絶えている。
これは、瀬戸峡における道路整備が、防災を含めたレベルで充実の域に達したことを表わしているのだと思う。

こうした雪崩災害のほかに人々を大変に苦しめたのが、大変な労力を費やさねばならなかったミチフミのことであった。
このことを述べている記述の一部を抜粋して当時の苦労を偲びたい。


『中里村史 通史編下巻』より
ムラの中のミチフミと同様に、標高のより大きいムラでは、より低い隣ムラまで、地籍上の境界を無視してフミオロス習わしであった。低い方からフミアゲルのは到底無理なためである。(中略)
ただし、小学校の所在地は、あちこちでミチフミに影響を及ぼしていた。津南町所平からは、田所小学校までは踏んだが、田代のムラまでは来なかった。重地では、倉俣小学校までを踏んだが、それを越えて倉俣のムラの上までは行かなかった。この区間は、倉俣で担当した。(中略)倉俣小学校の冬期分校が一ヶ月交替で開設されていた西方と西田尻では、その月に分校の開かれていないムラの方から踏んでゆく約束になっていた。(中略)
さらに、隣ムラへのミチフミを、一切省いていたところもある。瀬戸の隧道以前の角間と東田尻の間、角間と倉下の間、葎沢と倉下の間は、あまりにも長大な山道で、毎朝のように踏むなどは思いも及ばぬことであった。(中略)
隧道が掘られてからは、その入口までのミチフミがムラの仕事に加わった。隧道の入口付近は、至る所で絶えず雪が崩落してきて、雪が降っていなくとも、道は牛の背のようになり、甚だ歩きにくかった。それで、雪塊を除いたり、雪に段を刻んだりするにも、テゴシキは必携の品とされていた。
『中里村史 通史編下巻』より

いかがだろう?
現代の私たちは、このような環境に順応して生きていけるだろうか。私などは甚だ自信がないのである。
だが、当時のムラは共同体として極めて強固な存在で、互助の心意気に満ちていたのは確かであろう。
そのことを物語る、次のような「温まる」エピソードで、この章を締めたい。

吹雪を衝いて長距離を歩んできた者は、体が冷え切って、鼻水を垂らし、髭にまで雪が凍り付くなどしている。手早くヤマガサとミノとカチキだけを脱がせて、藁靴のままでニワのジロまで通ってもらい、一刻も早く火にアテルのが、迎える家人の心得である。「さあさあ、そのまんまフッコンで、早く当らっしゃいの、ほれ」と促す家人の好意に甘え、歯の根も合わぬ来訪者は、「ハチャ(それじゃ)」と挨拶もそこそこに、遠慮して膝行しながらジロに至る。そして、「さあ、モコー(前の方)へ出て、ワッツァバ(薪)に足、上げらっしゃいの」と勧められるままに、ジロの中に一本横たえてくれたワッツァバに、雪で凍ったスッペにハバキのまま、両足を載せて、家人が盛大にさしくべてくれるボヨの火に、シャガンだ(凍えた)手をかざし、熱い茶を啜り込んで、ようやく人心地を取り戻す。それから、湯気を立て始めたハバキをスッペの紐を、ゆっくりと解き始める。
『中里村史 通史編下巻』より

……温かい。




最終章 清津峡トンネル完成、道路無雪化へ

右図は平成18(2006)年の地形図である。
本編で何度も見たものだが、昭和28(1953)年版からの変化は多岐にわたる。というか、地形や左岸の道路の他には、変わっていないものがほとんど見当たらないレベルである。
瀬戸口隧道は新たな清津峡トンネルにその役目を譲り、破線の遊歩道として第二の生を歩んでいた(か、そろそろ廃止されていた)。
近代から現代への多くの変化を、この章で説明する。

まずは、村史年表に書かれている大正11年(瀬戸口隧道開通)以降の瀬戸峡関係の事柄を、以下に列記する。

  • 大正11(1922)年 10月 瀬戸峡のトンネルが開通する
  • 大正12(1923)年 4月 大割野湯沢線が県道として認定される
  • 昭和15(1940)年 5月28日 瀬戸峡雪崩事故で水沢小学校の教員一人児童二人が死亡する
  • 昭和16(1941)年 4月23日 清津峡(瀬戸の景・奥の景を統一)が名勝天然記念物に指定される
  • 昭和28(1953)年 6月15日 瀬戸のトンネルが改修され、山崎〜葎沢間に路線バスが開通する
  • 昭和30(1955)年 3月 田沢村と倉俣村が合併し中里村が誕生する 
  • 昭和30(1955)年 4月12日 高田松之山六日町線が県道となる
  • 昭和37(1962)年 8月 主要地方道高田松之山六日町線の十二峠開削工事が自衛隊により始められる
  • 昭和50(1975)年 4月 主要地方道高田松之山六日町線が国道353号に昇格する
  • 昭和56(1981)年 8月 国道353号の十二峠トンネルが開通する
  • 昭和57(1982)年 11月 国道353号線清津峡トンネルが開通する
  • 昭和58(1983)年 4月 越後湯沢行バスの運行が始まる
『中里村史 通史編下巻』より

既に述べた内容でも、昭和26(1951)年の瀬戸口雪中隧道の建設など、この年表からは漏れている事柄もある。しかし、(現行道路法下における)一般県道から主要地方道、そして国道へと道路の格付けが着実にステップアップし、歩調を合わせるように整備が進められた全体の流れは、これでよく分かると思う。
かつて軍が建設に協力した道の続きを作るのに、今度は自衛隊が現われるあたりにも、当地の工事環境の厳しさが十分に表れている。

最後は、清津峡トンネルの整備について述べた村史の本文を引用しよう。少し長いが、本稿の総括に相応しい内容になっている。

一般国道353号線は、群馬県渋川市を起点とし、新潟県柏崎市に至る全長113.4kmに及ぶ国道である。
この路線は中里村を縦貫し、国道17号線と国道117号線とを結び、魚沼地方で最も南に位置する地域の重要な生活幹線道路でもある。
しかし、村内でも東田尻から十二峠に至る道路は難所が多く、特に瀬戸峡は難所中の難所であった。記録に残されたものだけでも雪崩等による災難がいくたびか起こっている。
今までの道路は、大正年間、田沢村が数ヶ年の歳月を費やし、手掘りによって大正11年に貫通した幅員の狭い隧道であったが、難所であることに変わりはなかった。道路は迂回させようにも渓谷が国道に迫り迂回の方法もなかった。
昭和14年、県の手で素掘りのトンネルが改められ、難所解消が図られたがトンネルは狭く、自動車の通行がかろうじて可能な程度であった。
現在の十二峠までの道路は、昭和36年から38年にかけて自衛隊によって開削されおおむね完成した。昭和40年には猿倉トンネルが完成し現在の通過路線となった。

『中里村史 通史編下巻』より
そのうちの最大の難所の瀬戸峡は、昭和49年9月から57年11月にかけて国道353号線の改良工事として清津峡トンネルが掘削され、全長845.4m、道路の取り付け部分を含めて1252.4mの道路改良が行われた。調査期間を含め10年の歳月と16億7200万円の巨費を投じてようやく完成したものである。
清津峡トンネルの開通により、最大の難所が解消され、地域住民の生活向上、小・中学生の通学の安全確保とともに日本海側と太平洋側を結ぶ豪雪地域の幹線として重要な役割を果たすことになった。
『中里村史 通史編下巻』より

上記の引用は、途中に全く省略をしていないのだが、まーしつこいくらいに出てきたのに気付いただろう。
「瀬戸峡は難所中の難所だった。」「難所であることに変わりはなかった。」「最大の難所の瀬戸峡は…」「最大の難所が解消され…」

もう分かった。難所は分かったから、もう休め! 思わずそう言いたくなるレベルで、難所が続く。
ときに口に泡を浮かせながら、舌鋒鋭く議場に道路改修の必要を叫んだ、倉俣、田沢、そして中里の累代村長の姿が、目に浮かぶようなのである。
しかしともかく、彼らの願いは清津峡トンネルや十二峠のトンネルとして結実し、冬でも大型自動車が悠々と行き交うようになった。それは間違いない成果である。

細かく記述を見ると、例えば瀬戸口隧道が自動車が通れるように改修された時期は、年表だと昭和28年だが、本文は昭和14年となっていて、違っている。これはおそらく二度行われたのだろう。最初の改修では小型自動車の通行が可能となり、二度目の改修で路線バスが通れるようになったものと思う。

また、村史は平成元年の発行であるから、その後の平成時代における出来事は記録されていない。
村史には全く出てこなかった、旧国道を瀬戸渓谷歩道として整備した経緯や、それが次第に廃退に傾いた経緯は記録がないのである。ただ、これらについては、現地で見た看板などから知れる内容で間違っていないはずだ。




以上、1冊の村史の熱に触れた、机上調査の成果である。

これ以上の締めの言葉はしつこくなりそうだから、短く。

瀬戸峡は、君臨した。 人は、命を賭して挑んだ。 よりよく暮らすため。 以上!

井之川様、ありがとうございました。