道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道 解説編

所在地 東京都青ヶ島村
探索日 2016.03.05
公開日 2018.01.02

第一章 青ヶ島の道路整備小史


私が青ヶ島で過ごしたたった1日の最初と最後を共にしたのが、島の玄関口として不動の地位にある青宝トンネルの旧道であったことは、偶然ではなかったが、出来すぎているとも思う。
そして、一周約9km、わずか約6km2の島中のたかだか1.3kmに過ぎない道で、ここまで多くの文字数を費やして語りたくなるほどの“探索”があろうとは、「青ヶ島は凄い」と聞いていた私の想像をも越えていた。

本稿は、今回探索した旧道“残所越(のこじょごえ)”の歴史解説編を主とするが、同時に青ヶ島全体の道路整備の歴史についても概観を述べたい。
そうしないことには、小さな島内において代替路があまり存在しない道の存在意義を上手く説明することができないためである。
また、島内の陸上交通は島外との海上交通と不可分の問題であり、すなわち港や航路や新造船の整備とも深く関わる問題であるばかりでなく、島民の生活のほぼ全方位にも関わる事柄であるが、それら全てを結びつけて概説的に述べるのは私の手に余る。ゆえに島内道路整備に絞って解説しつつ、それ以外は特に関わりが深い事柄のみ最低限触れるに留める。

主な参考資料
  • 伊豆諸島東京移管百年史  (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)
  • 黒潮に生きる東京・伊豆諸島  (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)
  • 青ヶ島の生活と文化  (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)
  • 青ヶ島島史  (青ヶ島村/昭和55年刊)


I 明治〜戦前 島の三大拠点を結ぶ道の整備

右図は青ヶ島を描いた最も古い5万分の1地形図である明治45(1912)年版で、チェンジ後の地図は昭和10(1935)年版である。
いずれの地図にも島内各地を結ぶ“道”が描かれているが、その多くは破線の徒歩道(小径)であり、これらの時期は車馬が往来するような道路網は存在しなかったことが分かる。
本土では明治時代に馬車や人力車や鉄道といった“車両交通”が登場し、陸上交通は革新されたが、この小さな島に普及することはなく、物資の移送には人背や牛背に頼るという近世以前からの状態が長く長く続いていたのであった。

しかし、それは無理のない話であったろう。
明治27年に初めて公設の定期航路が開設された(東京から小笠原諸島に向う大型定期便線の寄港という形で)当初の便数は、わずかに年2便で、ほかに民間船や島が用意した便船での不定期の往来はあったとはいえ、本土との通信自体が稀であったから、新しい交通手段が導入される契機が少なかった。また何より、島の地形が車両交通の普及には余りにも不向きであったのだ。

当時の島外との通信がいかに少なかったかを伝えるエピソードとして、島民は大正や昭和の改元を、それぞれ1年近く知らないまま暮らしていたというものがある。このうち昭和の改元については、昭和2年12月に漂着した高知県の遭難漁船の船員によって初めて島に伝えられたそうだ。しかし、人口は明治期が最も多かった。記録によると、明治14年の島内人口は771人で、島の歴代上最大であったという(現在約170人)。右の地形図を見ても、今よりかなり多くの数の家屋が「休戸郷」と「西郷」に描かれているし、「池之沢」にもいくらかの家屋が描かれている(ただし、池之沢に沢山ある家屋に見えるモノの大半は岩の記号)。

そして、この旧態依然の状態から、今日使われている道路網が生み出されていく最初の大きな一歩は、三宝港の開設にあった。
右の2枚の地形図を比較すると、明治45年版では「三宝鼻」という岩礁が描かれているだけの島南西の海岸に、昭和10年版では大きく「三宝港」の文字と港湾を示す記号がはっきりと登場している。

私は現地探索で、島の唯一の集落と港が随分離れていることを不思議に思ったが、はじめからそうだったわけではなかったのだ。近世以前から使われてきた島の古い港は、集落に最寄りの島の北端部「神子ノ浦(みこのうら)」にあったのである。 (→「神子浦への廃道」(レポ未執筆))
だが、船の出入りにもっと条件が良い港の適地を求め、明治以来、島民は血の滲む努力をして再三いろいろな場所に船着き場を設けてみた。だがそれらはことごとく風波に押し流され跡形も残さなかったという。
そんな苦闘の末、ようやく行政の力を借りることで進められた、おそらく島の歴史で最初の大型公共事業と呼べるものが、三宝港の開設であった。

三宝港が、八丈支庁から派遣された日暮弥太郎を監督として建設されたのは、昭和7(1932)年ごろのことで、当時の石の割り方は石鑿で大石に穴をあけ火薬をつめて爆破させる方法だった。割られた石を広く平らに、あるいは斜めに敷いて作られた。その後ほどなく大風波によって押し流されてしまったが、とにかく三宝が港として神子浦に替るようになったのはそれからである。昭和40年ごろに大三宝(海に面して左側の岩壁)に長い突堤ができ、諸施設がつぎつぎにできた。 
『青ヶ島の生活と文化』より引用

『青ヶ島の生活と文化』より転載。

右の写真は、昭和34年当時の三宝港の景色であるという。
これは昭和14年とかの誤りではない。開設から20年以上たってなお、この港と呼ぶにはあまりにも貧弱な“船着き場”程度の施設が、島の玄関口であり続けていたのである。

当然、この港に接岸できたのは小型船だけで、八丈島との間に横たわる70km近い荒海を行き来できる船は海上に停泊せざるを得なかった。島と停泊する船を結んでいたのは、人が漕ぐ艀(はしけ)である(右の写真に写っている小舟が艀)。艀がタグボートに替ったのは昭和39年で、さらに旅客船が直接岸壁に接岸できるようになったのは昭和47(1972)年だった。さらに中型貨物船の接岸が可能となり、あらゆる艀作業が島から消えたのは、平成26年というごく最近の出来事である。そしてこうした進歩の多くは、三宝港の整備に費やされた膨大な土木事業の成果であった。

それはともかく、大三宝と小三宝という天然の大岩によって作られた小さな入り江を頼る初期の三宝港であっても、全く遮るもののない神子浦に較べれば波は穏やかだったし、頻繁に吹く北西風にも強かったため、新たな島の玄関口として発展していくことになった。そしてその過程として、出入りする物資や人員を安全に輸送できる、集落と港を結ぶ新たな道の整備は不可欠であった。


昭和15年村長に就任した奥山清市は、その後戦争記念道路として三宝道路を整備し、オタセ越にトンネルを開通した。すべて住民の無料奉仕によって作られた。昭和53年都道工事の際 トンネルは姿を消した。
『青ヶ島の生活と文化』より引用
三宝道路ができるまでは、部落から三宝へは東台所(標高約400メートル、新神を祀る神社がある)の脇から外輪山北西の尾根伝いに大凸部を回って行かねばならなかった。
『青ヶ島島史』より引用

『青ヶ島島史』より転載。

上記は、三宝港と岡部にある集落(岡部は休戸郷と西郷の総称)を結ぶ、現在も都道である道路が初めて整備された時の記事で、『青ヶ島の生活と文化』巻末の年表では昭和15年の出来事とされている。 (→「オタセ越の都道」(レポ未執筆))

右の写真はこの三宝道路にあったという、おそらく青ヶ島で最古のトンネルだが、人物と比較してもなかなか大きなものである。この道をどのような“車両”が通ったかは記録がなく不明だが、徒歩交通だけではなかったのではなかろうか。

また、先ほど掲載した昭和10年の地形図には、三宝道路開通以前の大凸部の尾根を通って村落と三宝港を繋ぐ小径が描かれている。しかし、わざわざ港へ行くたびに島の最高峰への登山を余儀なくされる(村落側からは大した高低差でないが、港側からだと400m以上ある)というのは、想像を絶する。それだけに、外輪山の中腹を横断する三宝道路の開通は、三宝港の活用には必須のものであったろう。


(青年団の)当時の代表的事業は、今に伝えられている「青年道路」の開通である。完成したのは昭和12〜3年頃と思われるが、現在も利用されている三曽根ヶ崎から残所尾畑までの約800mの道である。
『青ヶ島の生活と文化』より引用

そしてこれが、今回探索した残所越の旧道に関する記事だ。後ほど紹介する島の詳細な地図に、この記事に登場する「三曽根ヶ崎」や「残所尾畑」といった地名が記載されており、それと800mという距離から、そのように判断した。
ただ、残所尾畑というのは峠の頂上付近にある地名なので、峠からオタセ越の三宝道路と接続するまでの(現在壊滅的に崩壊している)区間は別に整備された可能性もあるが、記録がなく不明である。ただ、峠頂上までの道だけを整備する理由は特に思い当たらないので、別であったとしてもそう離れない時期に三宝港から池之沢へ通じる峠道の全線が完成したものと考えている。

この「青年道路」を整備した青年団とは、当時の島の慣習で小学校卒業後の若者ほぼ全員が加入した組織であり、道路の整備や補修、植林や畑の開墾などの土木活動をはじめ、芝居、演芸会、相撲大会などの文化活動など、様々な活動を行った。
昭和4年以降、島に寄港する定期船は月1便程度に増え、本土との結びつきが強くなっていく一方で、島外に流出する人も増え始め、島の人口は昭和10年当時452人であった。
また、それまで全国の中でも異例に町村制がなかった青ヶ島にも、昭和15年から普通町村制が施行され、東京都青ヶ島村が成立した。
太平洋戦争と島の関わりについては、終戦間際に米軍機の機銃掃射によって島民1名が亡くなっているほか、一部住民の本土疎開、島民や漁船の徴発、軍用船の寄港、通信兵の監視活動などの出来事があったが、空港を持ち得ない島内では大規模な軍事施設の建設は行われず、本土に較べ比較的に戦時ムードは薄かったようだと資料には述べられている。さらに戦後の食糧難の時期においても、もともと自給自足だった島であったため、配給米は余り気味だったという。


総じて、残所越の旧道に関する記録は少なく、昭和12〜3年頃に整備された「青年道路」に端を発したものであろうことくらいしか分かっていないのが現状である。
おそらく同時期に建設された「三宝道路」と連絡することで、村落(住居)と三宝港(交易)と池之沢(生産)という、島の生活における三大拠点間が、荷を付けた牛馬や荷車が通行できる程度に整備されたのだと考えている。そして、これらが昭和40年代に遅れてやってきたの自動車交通時代以降の道路のベースとなったのだろう。



II 戦後〜昭和40年代 一周道路の完成と自動車の出現

右図は、昭和51(1976)年版平成18(2006)年版の2万5千分の1地形図だ。
前回の昭和10(1935)年版からいきなり40年以上も新しい版であるが、なんとこの間一度も地形図は更新がなかった。地形図に詳しい方ならお分かりだと思うが、これは異例なことだ。
この時期になると、ようやく島にも自動車交通が普及し、島内を一巡する道路の整備が進んでいくのである。
また、三宝港の整備に伴い定期船の便数も順調に増えていき、島外の人間が(長期休暇を利用した)旅行感覚で訪れられるようになるのも、この時期からである。

この時期の青ヶ島に起きた大きな変革として、昭和31(1956)年に島で初めて行われた国政選挙がある。青ヶ島村はそれまで通信手段の不良を理由に、全国の自治体の中で最後まで国政選挙に参加することができていなかった。この年の人口は360人であった。
昭和41年もまた村にとって重要な変革の年で、村内に発電所が設置されて全村点灯が果たされた(24時間送電は47年から)。同年の人口は265人。
また、昭和40年に集落近くにヘリポートが初めて開設され、救急患者の搬送等に使われるようになった(平成5年から定期ヘリコミューター就航)。

戦後における道路整備の最初の大きなトピックは、それまで集落からは距離的に近くても、道が悪いために苦労が絶えなかった池之沢へ通じる「流し坂」の改良であった。常に温和で平穏な池之沢は、古くから島の生産地帯や水源地として生活に欠かせない拠点であったが、村落とのあいだを隔てる落差200mを越える「槍の坂」の険阻のため、往来に非常な不便があった。そこに新たな道が整備されたのである。

昭和30年2月、池之沢へ通ずる流坂の道路工事がはじめられた(村長・菊池梅吉)。工期は1ヶ年の予定で、80数万円の予算であった。翌31年7月に工事は終了した。昭和44年頃(村長・奥山治)、農道の開設が許可された。古来から使用してきた槍の坂は曲がりが多く、長い木材を運ぶことが困難であった。流坂は工事前まで急坂であるのが難点だったのである。  
『青ヶ島の生活と文化』より引用


『青ヶ島の生活と文化』より転載。

地形図上では、昭和51年版でもまだ流し坂は繋がっていないが、実際は昭和31年に完成し、昭和44年には東京都によって農道に認定されていたのであった。
そしてこの開通によって、島内を一周する車道(後の都道青ヶ島循環線)の基礎ができ上がったのである。

もっとも、右に掲載した昭和53年当時の流し坂農道の写真を見る限り、道はあっても路面に下草が茂っており、普段から自動車が通っているようにはとても見えなかったりする。
これは後の調査で判明したことだが、この流し坂農道を自動車が通行できるようになったのは昭和58年であったという。この段階ではまだ、自動車で島内を一周することはできなかったということだ。 (→「流し坂の旧道」)



明治以降島の道路は徐々に広くなり、新たに道路が切り開かれたところも部分的に少なくない(例えば、現在はないが、三宝港へ出る道路の途中にあったオタセ越のトンネルにしても、戦時中、奥山清市村長の時代に作られたものであったし、青年道路にしても以前に新設されたものであった)。しかし、昭和40年から41年にかけて、耕運機や原動機付き自転車などが運転されるようになるまでには、誠に狭い道幅の所もすくなくなかった。当時も自動車が通行できる部分も3キロ以上はあっただろうが、坂道などは極めて危険であった。また、全く車の通行不可能な場所もあった。43年9月、最初にして最後だろうといわれた自動二輪免許の島内試験(府中より試験官来島)が行われた。その後自動二輪が走りはじめ、45年夏八丈島で四輪車の免許を取得した青ヶ島の人々によって、四輪車も動き出したのである。
バイクが走り出した当時は、その便利さに驚いたものであった。自動車が通るようになってからは年々島の道路は拡張整備され、自動車が三宝港から池之沢へ出て、人家のある岡部へ通れるようになった。まさに隔世の感がある。現在(昭和59年6月)、工事進行中の青宝トンネル(三宝港から池之沢へ通ずる)が完成すると、島内の交通事情は大きく変わってくるだろう。  
『青ヶ島の生活と文化』より引用

『青ヶ島の生活と文化』は、このように明治以降の島内道路整備を総括している。
文中の「自動車が三宝港から池之沢へ出て、人家のある岡部へ通れるようになった。」という表現を見る限り、昭和59年時点では流し坂の道も自動車が通れるまでに整備され、港から村落へのメインルートはオタセ越から、今回探索した残所越および流し坂を経由する池之沢のルートへ移っていたことが伺えるのである。

だが、ここまで順調に整備されてきたかに見えた島内道路網に、未曾有の試練が迫っていた!



III 昭和50年代〜現在 都道整備と繰り返された災害復旧

ここからは少し視点を変えて、道路マニアらしく、都道青ヶ島循環線の経緯について見ていこう。この道こそ現代青ヶ島の陸上交通における不動の主役だ。この都道の名は、『青ヶ島の生活と文化』においては、「42年2月には青ヶ島循環線は、都道に認定されたが、5月軽自動車の転落事故があった。」という短い記述がある程度だが、青ヶ島を管轄する都の出先機関である八丈支庁が発行した『八丈支庁事業概要(昭和52年版)』を調べてみたところ、「都道認定調書」というページがあり、以下のデータが記載されていた。

第236号 路線名:青ヶ島循環線 起点:青ヶ島三宝港 終点:青ヶ島三宝港 延長:7500m 備考:昭42.2.28都告第203号
『八丈支庁事業概要(昭和52年版)』より引用

このように、昭和42年2月28日に三宝港を起終点とする全長7.5kmの路線として都道に認定されたことが明らかになった。だが、同書中には「青ヶ島村内においては、都道236号線7.5kmが認定されているが、現在改修工事中のため供用開始はなされていない。」の記述もあり、認定から10年を経た昭和52年当時においても未だ都道としての供用はなされていなかったことが分かるのである。

さらにこの資料の最新版である『八丈支庁事業概要(平成28年版)』を見ると、路線の延長は6347mへ変化している。
この間に青宝トンネルの開通などがあり、当初より距離が短縮されたのだと思われるが、地図上で都道の距離を測定すると約8.2kmであるから、資料上の数字が2km近くも不足している原因は謎である。
それはともかく、同書には都道認定以降今日に至る都道整備の記録が次のような文章でまとめられている。少し長いが極めて重要であるので、同掲の地図と共に転載する。


『八丈支庁事業概要(平成28年版)』より転載。
都道236号は、図表10(右図)に示すとおり、青ヶ島における唯一の都道であり、幅員が狭く、急カーブ、急坂が随所に見受けられる。また、地層は薄い溶岩流と厚い岩滓質溶岩の互層を主体として、凝灰角礫岩及び火山泥流堆積物スコリア砂層から構成されていることから、落石、土砂崩落等が多発し、しばしば通行止めを余儀なくされている。このため、安全かつ確実な通行機能を確保することが、大きな課題になっている。
三宝港から集落までの外輪山の山腹区間は、昭和43年から57年までに拡幅・コンクリート舗装等を行っており、小型四輪車の通行は確保されている。しかし、この区間は、地形・地質ともに極めて不安定であり、災害を受けやすい環境にある。
このため、昭和57年5月に起きた道路災害を契機として、道路全体系の再編が検討された。その結果、災害復旧事業として施工した青宝トンネル(L=505m)を利用し、流し坂を経由して集落に至る区間は、流し坂の急坂部を除いて緊急に大規模改良を実施する必要性がないことから、メインルートに位置づけられた。
昭和61年度から、流し坂区間(L=1,426m)の改修に着手し、約14億円の事業費と6ヶ年の歳月を経て平成4年5月19日に平成流し坂トンネルが開通するとともに流し坂区間は全線開通となった。

平成5年度から集落の村役場通りの改修工事に着手し、10年度までに1,050mを施工し、本区間の工事を完了した。
平成11年度からは、青宝トンネルから平成流し坂トンネルに至る落石・土砂崩落等の危険性の高い金土ヶ平地区280mの道路改修工事に着手し、平成20年度に工事を完了した。
また、集落部を中原2期(460m)として位置付け、平成19年度からは用地買収、平成21年度から工事に着手し、平成27年度までに315mが完成した。平成28年度は100mを実施予定である。
『八丈支庁事業概要(平成28年版)』より引用

都道青ヶ島循環線が置かれている厳しい自然環境と、それに対抗すべく都が行ってきた様々な整備について淡々と述べているのだが、内容は激アツ!!!
特に重大と思われるのが、赤字にした部分であろう。
今回探索した残所越の道が旧道化する原因となった青宝トンネルの建設が、なぜ行われたのかが書かれている。
これを読む限り、昭和57年5月に発生した道路災害の災害復旧事業であったらしい。

ここまで近代から現在に至るまでの島内道路網の整備の歴史を俯瞰してきたが、次の項では、島内において三宝港の整備に次ぐ大規模土木事業だった青宝トンネルの建設について詳しく見ていこう。



第二章 青宝トンネル建設史

I 島を襲った未曾有の難局

『八丈支庁事業概要(平成28年版)』を読み進めると、次のような記述が登場した。

昭和56年、集落と池之沢を結ぶ道路、57年には集落と三宝港を結ぶ唯一の道路が災害に見舞われ、青ヶ島村は未曾有の難局を迎えた。東京都は路線の抜本的な見直しを図り、永久策として隧道を計画、60年4月に三宝港と池之沢間に青宝トンネルが開通した。さらに、流し坂道路は急坂・急カーブ等から車の通行が困難であるため、集落と池之沢を結ぶ道路として平成4年5月に平成流し坂トンネルが開通した。また、大千代港へ続く村道18号線の一部が、平成6年9月土砂崩落のため崩壊し、現在通行止となっている。大千代港への取付道路の整備は課題であるが、崩落の改修は技術的にも相当困難な状況である。
『八丈支庁事業概要(平成28年版)』より引用

未曾有の難局キター!!  …という盛り上がりは不謹慎かも知れないが、昭和57年当時人口195人の島を襲ったこの難局を、人々は克服したからこそ今がある。そう考えると、やはり興奮を抑えきれないものがある!
この難局を地図上に示せば、右図のような状況になったということである。集落から三宝港へ行く道と、池之沢へ行く道が、2年の間に相次いで被災したのである。まさに絶望的じゃないか!

しかし、最終的に克服されたこの難局とは別に、未だ克服できない別の問題の存在も発覚した……。島の第二港として整備が進められていた大千代港は、平成6年の災害以来現在も辿り着く道がないまま放置されているという…。ひでぇよ……。(→道路レポ「大千代港攻略作戦」)

ともかく、上記引用文の冒頭に書かれている、昭和56年に災害に見舞われたという「集落と池之沢を結ぶ道路」こそが、今回探索した残所越の旧道である。
その考えを裏付けるものの一つとして、『青ヶ島の生活と文化』に記載された、島内の地名を解説した次の記述を挙げることができる。

七 曲 (ナナマガリ)
 三宝方面から池之沢に抜けるクネクネと曲がった道路部分の名称。休戸郷、西郷から池之沢へ車で行くときには、この道をかならず通る。青ヶ島の“いろは坂”という人もいる。戦後の地名である。昭和56年に大規模な崖崩れがあり、通行できなくなってしまった。  
『青ヶ島の生活と文化』より引用


ここはかつて、“七曲”と呼ばれていた!!

現在は巨大な地割れのような崩壊地の両側に、微かに道路の断片が散らばっているだけの地獄のような現場であるが、

昭和56年の被災時点では、三宝港と池之沢、あるいは集落と池之沢を結ぶ、唯一の自動車が通れる道であったという。

そんな島にとっての“命の道”の、余りにも無残な末路…。




『青ヶ島村総合開発計画基本構想』所収「青ヶ島村地形図」の一部。

右の地図は、平成4(1992)年に青ヶ島村が作成した『青ヶ島村総合開発計画基本構想』に掲載されていた「青ヶ島村地形図」の一部である。地図の測量年や縮尺は未確認だが、私の知る限り最も詳細な島内の地図であり、地形図には出てこない数々の小地名が記載されている。そして、“七曲”の姿を正確に描き出した唯一の地図でもある。

この地図には既に青宝トンネルが存在しており、明らかに“七曲”被災後の風景である。その証拠に、ちゃんと七回曲がっている“七曲”の一番下のカーブ付近が、海岸から伸びる巨大な崖の記号に寸断されてしまっている。地図上でここまで生々しく崩壊の現状が描き出されることは、滅多にない!

地図ではこの崩壊地(赤く着色)に「シヨカキ」という謎の名前が付けられているが、現在はこの地図中の状況よりも明らかに崩壊が進んでいると思う。
当時は“七曲”の一番下辺りだけが巻き込まれていたのに、今は上から数えて3番目のカーブの先から下(桃色に着色)が全部崩れているのだから。それは私は自身の“命”でもって確かめたことだ。

また、この詳細な地図には、いくつかの索道らしき記号が描かれている(黄色の破線)。
そのうちの一つは“七曲”の被災部分を迂回するように設置されており、【現地で見た索道跡】と位置も一致する。この索道については他に記録がないが、おそらく道が寸断された際に応急的に設置・利用されたものだったのだろう。



『黒潮に生きる東京・伊豆諸島』より転載。

さて、“七曲”(= 残所越旧道)の現役時代の姿を写した写真は、残念ながら未発見だ。
右の写真は、一時期それを強く疑わせたものなのだが…。

この写真には、「三宝港真上のつづら折の道路(昭52)」というキャプションが付されているだけで、ほかに説明がなく、正確に場所を特定することができない。
だが、三宝港真上の九十九折りとして真っ先に思いつく【このカーブ】とは形も周囲の地形も明らかに違う。となると消去法的に“七曲”の写真ではないかと考えたのである。そのうえで、私が今回探索できた“七曲”の上から三つ目までのカーブとも形が違うように思われるので、ここに写っているのは……、“シヨカキ”に呑み込まれ永久に消滅した“七曲”の四つめ以降のカーブなのだろう……と思ったのだが!

……よくよく見ると、この写真に写ってるのは明らかに「流れ坂農道」じゃん……。さっき掲載した【写真】と全く同じカーブだよ…。
というわけで、“七曲”の現役時代の写真は、残念ながら未発見!


今のところ、写真という形で“七曲”を見られるのは、航空写真くらいなものである。
右図は、昭和50(1975)年と昭和60(1985)年に撮影された航空写真の比較であるが、前者にはくっきりと7度の曲がりを折り重ねた“七曲”の姿が写っている。
外輪山の急斜面を力業で乗り越えようとした、人類の英知とも驕りともとれそうな凄まじい存在感を示す道路だったが……

次の昭和60年の写真を見ると、もう無事ではない。
下の方のカーブから、次々に瓦礫の斜面に呑み込まれている。道が連れ去られた先は、島を取り囲む無尽の海。
人類の力を持ってしても、この崩壊を完全に抑え付けるのは難しいか。仮に不可能ではないとしても、短期間のうちに同じ道を復旧させることは自殺行為に等しかろう。

「残所越は、もう駄目だ。手の施しようがない。」

そんな結論の先に建設されたのが、世界でもほとんど前例がなかった、活火山カルデラ底から外輪山外の海面付近へ掘り抜ける、青宝トンネルであった。



II 「青宝トンネル工事史」を読む


『季刊防災vol.79』
この青ヶ島で村道の災害復旧事業として、延長505mのトンネルを新設した計画と工事について紹介するものである。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

ここに青宝トンネル工事誌と呼ぶべきような資料が存在する。
全国防災協会が昭和30年から平成8年まで発行していた『季刊防災』の第79号(昭和61年5月号)に所収された「青ケ島トンネル」という9ページの記事(論文)がそれだ。工事に深く関わった東京都建設局道路管理部保全課道路維持係主査 加藤基雄氏が著者である。
これを読むことで、青宝トンネル建設の詳細な経緯や、工事中の様々な技術的困難・工夫があったことを知ることができた。

                                                            

記事はまず、青ヶ島の立地や自然環境といった一般情報の紹介から始まっている。その中に青ヶ島への交通という項があり、当時の渡航事情を知ることが出来る。

青ヶ島へは、その八丈島から定期交通機関として、週2便の村営船(49t 片道3時間)と、週2便の貨物船(300t)が就航しているが、この船便は厳しい海象と青ヶ島港の波浪状況に支配され、欠航、延航が日常茶飯事となっており、特に冬期は極めて不確実である。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

続いて島内の道路状況についての解説がある。重要なので全文を転載する。


『季刊防災vol.79』より転載。
島には、都道7.2km、村道31.7km、計38.9kmがあり、他に農道や林道がある。道路の役割は多面的であるが、最も重要なものは集落と青ヶ島港、ならびに島内最大の営農地カルデラの池ノ沢を接続する都道及び村道8号線である。
都道は、集落から外輪山の中腹を通って青ヶ島港上で村道8号線と分岐し港へ通じている。この分岐から港間は狭隘、急カーブ、急勾配のため小型車のみが通行可能である。
急峻な外輪山を越えて、都道と池ノ沢を接続する唯一の道路が、村道8号線であった。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

これを読んだことで初めて知ったが、今回私が探索した池之沢〜残所越〜七曲〜三宝港上の分岐に至る道は、都道として供用されたことがなかったのだ。
あの道の正体は、被災して廃止される最後まで、村道8号線という路線だったのである。
正確に表現すると、都道は昭和42年の認定当初から島を循環するような路線であったのだろうが、昭和57年までに供用開始の手続きが行われたのは村落から上手を経て三宝港までの区間だけで、残る流し坂〜池之沢〜残所越〜三宝港の区間は、村道や農道のままだったのだろう。

それにしても、村道8号線を紹介する文章の最後が、「あった」というのが、寂しい。
記事は続いて、この村道や都道を相次いで襲った災害についての説明に入っていく。いよいよ、本題である。


『季刊防災vol.79』より転載。
昭和57年の道路災害は、都において過去最高の被害をもたらした。(中略)
5月11〜12日に、幅50m、厚20〜30mの地すべりによって、村道8号線の残所ヶ浦の標高130m付近で欠壊した。
さらに、10月8日には台風29号の直撃を受け、都道が村道8号線との分岐地点ほか6箇所で被災した。
 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

この記事を読む限り、昭和57年の5月と11月に相次いで被災したことになっている。前掲した『八丈支庁事業概要』では昭和56年と57年に相次いで被災したことになっていたし、『青ヶ島の生活と文化』でも、昭和56年に“七曲”が通れなくなったと書かれていたが、どこかに記述の誤りがあるのか、実際は3度以上被災していたのか、不明である。
しかしいずれにしても、三宝港付近の村道と都道が相次いで被災したのである。
台風29号によって都道が村道との分岐地点で被災したとも書いてあるから、【あの大岩】が道を塞いだのも、この時だった可能性が大。中身が大崩れし、トドメとばかりに入口も塞がれた村道は、本当に踏んだり蹴ったりだった。



『季刊防災vol.79』より転載。

続いて、都がこの“未曾有の難局”に対して、どのように立ち向かったのかが書かれている。

これらの被災箇所のうち、村道8号線の被災箇所は、海食崖と外輪山の急斜面が接する付近に位置しているため、橋梁案、擁壁案等を検討したものの、原形復旧は極めて困難と考えられた。
このため、被災緊急調査で、延長1440m、幅員4mの代替道路新設復旧の指導を受け、決定でも同一工法で採択された。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

あれ? 災害復旧は青宝トンネルの建設をするんじゃなかったの?!

決定工法は、三ッ石越の標高240m付近の都道から、外輪山を越えて池ノ沢に至る延長1440m、幅員4mの道路新設であるが、急峻な外輪山外側斜面は、地質的に互層の流れ盤となっているため、道路完成後、落石及び崩壊等の頻発が予想される(同条件の都道が維持管理面で苦慮している←ええ、平成19年にも大崩壊して、今も直してますわ…)ことから、村の財政力、技術力では維持管理が困難であると考えられること。
 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

おっ?! これは――

青ヶ島港への車の通行できる道路建設(トンネル)が、島民の長年の悲願であること、工事中の池ノ沢へ通じる村道流し坂線が、58年中に車の通行が可能になること等から、村の強い要望を受けて、村道8号線の災害復旧事業を、池ノ沢と青ヶ島港を結ぶトンネル工法変更及び合併施工の承認を得たものである。工法変更に伴って、都の受託施工とすることも決定した。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

関係者、神! これは、ファインプレーだったと思うぞ!!
もしここで当初の決定工法通りに復旧していたら、平成19年に発生した【都道の大崩壊】で、再び未曾有の難局に陥っていたに違いないから、ここでの計画変更は値千金だったはず。失敗談と共に、こういう成功談もまた、人類の知恵の素晴らしさとして語り継いでいきたいものである。関係者、神ってる! そして、交渉に当たった村側もよく粘ったものと思う!


こうして村道と都道の復旧事業が合併し、東京都が施工したのが青宝トンネルであった。
以後の記述は、青宝トンネル建設に関わる技術的情報である。気になった点をいくつか拾ってみよう。

村の計画定住人口は、300人であることから、計画交通量を100台/日として検討した結果、下記条件を決定した。
 道路規格 第3種第5級
 設計速度 20km/h
 幅員構成 車線3.0m×1=3.0m(特例値) 路肩0.5m×2=1.0m
 待避所  2.75m×2=5.5m(トンネル中央部、両坑口の計3箇所)
 線形 平明線形 直線+単円
     縦断勾配 トンネル9%以下 取付道路12%以下(特例値)
 建築限界 高さ3.5m(特例値)
 (最大通行車両は4tトラックであり、大型車は通行しない)
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

『季刊防災vol.79』より転載。

いろいろなところに「特例値」の注記が入っている設計。道路構造令で定められているもので、特例値はその名の通り、何か特別な事情があるときだけに許される数字である。昭和60年完成の新しいトンネルにしては「いろいろやばい!」と現場でも思ったが、それは数々の特例値を練り込んだ末の姿であったということだ。


前例の少ない活火山の外輪山を貫くトンネル工事は、慎重なボーリング調査から始まった。
幸い、心配されたほどの大きな障害はなく、トンネルは実現可能の見通しとなった。

坑口位置の選定と線形は、航測地形図、実測地形図及び現場踏査によって決定したが、一般的なコントロールポイントのほかに、噴気・地熱等の火山性現象がないこと、港側坑口は荒天時の波浪の影響を避けるため、標高25m以上とすることが条件であった。また、西風のトンネル内への吹込みを避けるためと、港側取付道路への接続を考慮して、トンネルに曲線を設置した。この結果、港側坑口位置は、港直上の尾根端部の標高32.7m地点を選定した。火口原坑口は、港側坑口と最短距離で結び、縦断勾配9%以下となるように、最大11m盤下げした位置を選定した。両坑口位置が決定したことにより、トンネルは延長505m、縦断勾配8.9%となった。(以下略) 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

現在あるトンネルは、このようないろいろな検討の末に生まれていたのである。それはあまりにも当然のことなのであるが、しかしその内容を我々利用者が知る機会は多くない。


『青ヶ島の生活と文化』より転載。
青ヶ島港は発展途上であり、計画段階における港湾施設は30mの突堤のみで、貨物船の接岸が出来ないため、物資の搬出入は艀作業となる。また、荷役設備も村営の2t吊索道以外はない。特に、冬期は季節風と波浪のために艀・荷役作業の可能な日が非常に少ないうえ、多量の工事用資材の搬入は極めて困難である。(以下略) 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

離島での大規模土木事業でしばしば大きな問題になるのが、大量の工事資材の確保と搬入である。
(右の写真は、昭和58年の冬に撮影された「村営船あおがしま丸」の荷役作業風景。油断してたら港で死ねそう…)
青ヶ島などはその最たる悪条件地であったから、可能な限り資材を節約可能で、現地調達可能な資材を活用できる工法(ロックボルトと吹き付けコンクリートを併用するセミNATM工法)が選ばれたのだという。昭和60年完成のトンネルにしてはいかにもみすぼらしく見えた【素掘吹き付けの内壁】も、知恵の結晶だったのだ。

また、珍しいのが、標高の高い池之沢側の坑口から低い港側の坑口へ向けて一方向に掘り進める「片押し逆掘り施工」となった点だ。
通常このような掘り方をすると、坑口から入り込んだ雨水や坑内の湧き水で工事中の洞内が水没するリスクがあり、排水が非常に大変なのであるが、ボーリング調査の結果地下水が皆無だったことと、作業ヤードが港側に確保できないということで、このような特殊な施工が行われたという。

工事に伴う大量の消費電力と水も問題になった。
島の発電能力を越えてしまうため全て内燃式自家発電で供給し、1000tもの燃料を消費したそうだ。
水も圧倒的に足りないので、村道8号線の路面を利用した雨水集水施設(150t)を設置したとあるが、これは現地で心当たりがある。 まさか、あの土嚢にそんな意味があったなんて…。
あらゆるアイデアを動員して、困難な工事を成功させたのである。

昭和60年3月、13億円余りを投じた青宝トンネルは見事完成し、島内交通に革新をもたらした。

そして記事は、次のように結ばれている。

活火山の外輪山にトンネルを施工するという未経験の不安と、資材搬入を初めとする通常の工事では考えられない大きな制約の下で、幸いにも、地熱帯、ガス噴出、断層等の障害に遭遇せず、無事故で、島民の永い間の夢を実現出来たことを喜びとして、今回の工事を今後の糧としたい。 
『季刊防災vol.79』所収「青ケ島トンネル」より引用

出来上がったトンネルだけ残して、プロフェッショナルたちは新たな現場へと島を離れていったのだろう。 かっこいいのぜ! 



終章 土木事業に生きる島


『青ヶ島の生活と文化』には、島の産業構造の変化を述べた項がある。
それを見ると、昭和57年8月1日時点の就業人口は総人口202人のちょうど半分にあたる101人で、その内訳は、公務員45人、土木建設業者27人、民宿業者9人などと続き、農林漁業就業者はわずか6人であるという。昭和30年には総人口406人に対して農林漁業就業者は157人であったから、この27年の間で激減しており、かつこの間に島から流出した人口の大半が農林漁業就業者とその家族であったとしている。

島で働いている人の半分弱が公共サービスを行う公務員で、4分の1は土木建設業者であるという事実には、普段余りこうしたことに興味を持って調べていない私でも驚いた。
海に囲まれた豊かな自然のある島で、これほどまでに第一次産業が廃れきっているとは。著者もこの状況を指して、「農林漁業は正に崩壊寸前に状況にある」と述べている。

上記は昭和57年までの状況だ。現在はどうなっているのかを平成22年国勢調査で見てみると、青ヶ島村の総人口201人に対する就業人口は139人で、内訳としては農林漁業が7人、建設業は42人であった。比率としては大きくは変わっていないことが分かる。また、近年では観光に舵を切っている印象があるが、実はそれも余り上手くいっていないようだ。ヘリコミューターの運行が開始した直後の平成8年には島を訪れた観光客数は過去最大の2600人であったが、平成22年には237人まで減少しており、もはや観光の島とも言えなくなっている。

島の産業構造がこれほど短期間で大きく変化した最大の要因は何であったのか。
同書は、振興開発事業(公共事業)による土木建設工事の拡大を挙げている。
昭和28年に離島振興法が誕生し、3〜40年代には全国的な高度経済成長の流れの中で、青ヶ島を含む日本中の離島に膨大な公共投資が行われるようになった。道路建設、通信施設、発電事業、村営船事業、公共施設建設などなど、全方位にわたった。
これらは離島ゆえに押しつけられてきた過去の遅れを取り戻し、内地の生活水準へ追いつくために必要な施策であったが、その一方で、いくつかの影を落としたのだという。

公共事業の拡大は必然的に労働力の増大を必要とし、多くの農業従事者は容易に現金の得られる土木建設業へ吸収されていった。加えて都市型消費生活の流入による現金需要の増大は、それに拍車をかけた。  
『青ヶ島の生活と文化』より引用

幸か不幸か、島には新たな土木事業を必要とする場所が多くあり、また一度生み出した道や港もしばしば破壊されるため、維持しようとすれば工事が尽きることはないのだろう。それは私が現地で強く感じたことだ。言葉は悪いが、賽の河原の積み石のような印象さえ持った。

こんな状況は異常なのかも知れないが、かといって、やらないという選択肢があったのかどうか。旧態依然の暮らしを続けるという選択肢が?
「島以外との交通は月1回東京からの船便だけ」「港がないので艀で連絡」「冬期3、4ヶ月は欠航」「主食はサツマイモとサトイモ」「電気、水道はなく、ランプと天水に頼る」「住居は畳がない」「ラジオ数台を持つのみ」「木炭と牛の移出でわずかに現金収入を得る」「港がないため漁業は自給自足程度」「青年層の島外流出が著しく、耕地は十分に利用されず、放置される」「1956年まで選挙権を行使し得ない唯一の地区であった」……これらの記述は全て、昭和34年に出た“ある百科事典”の青ヶ島の解説文にある事柄だという。
これは酷だ。この先には、全村離島し無人島となった八丈小島のような未来しかない気がする。

「島から建設工事の機械音が消えたとき、果たして」 と呟いても呟きの中からは何も生まれては来ない。  
『青ヶ島の生活と文化』より引用

島民は悩みながらも、着実に近代化への道を歩んできた。その結果が、土木事業を最大の産業とする島だったということである。

やはりこの島は、私のような土木愛好者にとっての楽園なのかも知れない。