道路レポート 栃木県道62号 今市氏家線 風見不通区 後編

所在地 栃木県日光市〜塩谷町
探索日 2015.5.09
公開日 2017.3.11

風見地区で唐突に復活する県道


2015/5/9 8:07 《現在地》

ゲートを越えると、行く手には視界いっぱいに堤防が横たわっており、県道はそこを乗り越えていく。
川の支配領域から人間の支配領域へと、県道はこの堤防を越えることで復活する。

堤防の高さは、目測だが10mくらいもありそうだ。これから踏み込む風見集落の全てを守る要なのだろう。
この高い堤防の頂上に達したところで、約2km続いたが特に県道を証明するもののなかった“河川敷県道”は、最後まで静かに終焉を迎えた。

なお、堤防上の“矢印”の方向には、“河川敷県道”へ入る前に探索した【未成道の終点】がある。




堤防上から、【未成道の終点】の方向(西)を遠望。

地理院地図には、堤防の向かって左側の法下に細い車道が描かれているが、実際には見あたらないし、堤防上も100mほど先からは背丈を超える深い藪になっていて、おおよそ400m先の堤防左側にあるはずの【未成道の終点】は、ここからは全く見通せない。(藪が深く行ってみる気にもならなかった)

なお、堤防右下に広がっている帯状の空き地は、風見側に計画されている新道の予定地であるようだ。
既に土地が用意されているが、道としての工事はまだ行われていない。
最終的には、未成道と新道は400m先で堤防を乗り越えて繋がり、一連の“新たな県道”になるはずだ。




こちらは同じ堤防上の位置から、東側を撮影。
堤防を乗り越えるために県道が描いているヘアピンカーブが愛おしい。
通行量が絶望的に少ないからいいものの、もし“主要地方道”並みに多かったら、忽ちパンクしてしまうだろう。

そして、これから風見(かざみ)の集落に県道は入っていくが、かっこいい地名である。「角川日本地名大辞典」を検索しても、全国で「風見」はここしかヒットしない。収録しているのは大字レベル以上の地名や著名な山や川などだから、小地名としては各地にあるのかも知れないが、平易な文字の組合せとしては稀な粋地名だと思う。

…話しが脱線したが、ここから先の県道は、今までとは少し違った意味で、複雑な経路を辿る。先に地図を見てもらおう。



地理院地図を見ると、「現在地」の少し先で、県道として黄色く着色された道は跡絶えている。
そこから200mほど水田を挟んだ先で、再び県道色の道が始まり、風見集落の手前で屈折しながら新しい県道へ合流する経路になっている。

この県道が途切れている区間だが、本編後段で紹介する古い地形図などを見ると、私が赤線で示したような経路が県道になっていた。

おそらく、新県道の建設と、土地改良事業(農地の区画整理)が同時進行しているのだろう。
現状は、水田を斜めに横切る昔ながらの県道が、堤防沿いの現代的な県道へ移り変わろうとしている、その過渡期だ。
そのため、部分的に現道がなくなってしまっているのだと考えられる。



上の地図を念頭に、堤防上からこの先のルートを俯瞰する。

短冊状に大きく区切られた水田には、かつてあった県道の面影は全く残っていない。

次は、“★印”の地点へ。


河川敷に入り込んでも生き延びてきた県道だが、ここで遂に途切れてしまう。
私もやむを得ず、水田の外を回り込む道を“桃線”のように迂回して進むことに。
なお、現在地の左右に広がっている広い空き地は、将来の新道予定地である。




迂回して進行中、風見側の新県道がぶっつりと途切れている光景を遠望した。

どうやら、風見側の県道にも未成道状態の末端部があるようだ。
後ほど、回り込んで行ってみよう。




8:14 《現在地》

この角のところから、鋪装と共に県道が復活する。
写真は振り返って撮影した。

もし私が反対方向からこの探索を進めていたとしたら、河川敷区間へ入る前に、ここを通っていたことになる。
何か、“この先”の県道の通行不能を告知するような看板や標識がないか、ちょくちょく振り返って探しながら走行したのだが、そうしたオブローダーを喜ばせてしまうアイテムは最後まで見あたらなかった。
地理院地図さえなかったら、この道を県道と考える人はおそらくないだろう。(県道追求者には不親切なこの道に立っていると、あの“ナビクマちゃん”の優しさが、とても懐かしく思えるよ…)



復活した県道は、すぐに短い橋を渡る。
橋に親柱はあるが、銘板がなく、橋の名前も不明である。

橋の下を流れるのは川ではなく、逆木幹線用水という用水路だった。
深い函渠の中を整然と大量の水が流れており、恐ろしい。

下流側に平行して、新県道の橋が架かっているのが見えた。
だが、橋の右に道はない。唐突に途切れている。先ほど別アングルで見た新県道の末端だった。


橋を渡ると今度は十字路。

県道は、ここを右折するように認定されている。
以前の県道はこのまま直進し、すぐ先の風見集落へ進んでいたようだ。
県道をなぞるのが私の目的なので、右折する


8:16 《現在地》

新道へ合流!

小林橋を渡った地点からここまで約3kmは2車線未満の道。うち2kmは、河川敷内を通行する明らかな「自動車交通不能区間」だった。
そんなしょぼくれた現県道に引導を渡すべく、建設の進められている新県道へ到達した。主要地方道今市氏家線は、これより常識的な道となって再び終点を目指し始める。

県道としての順路は左折であるが、右折は行き止まりの未成道区間だ。ちょっと行ってみよう。




奥に見える橋までの短い未成道だが、なかなかに “らしい” 良い風景だ。

ここは、建設されてから何年くらい経っているのだろう。鋪装の様子を見る限り、10年は経っていそうだ。



「矢板土木事務所」の文字が入ったヘロヘロの木製バリケードに行く手を阻まれたが、脇をすり抜けてその先へ。

分岐から150mほどで、緩やかな登り坂の上に新しい橋が架かっていた。
橋の上には、果たしてこれは正しい使い方なのかとアタマを傾げたくなる“矢印付き反射板”(デリニエータ(視線誘導装置)の一種である)が通せんぼ。

これは、先ほど渡った逆木幹線用水を渡る橋である。
高欄の四隅に銘板が取り付けられていたが、「新清水橋」「しんしみずはし」「逆木幹線用水」「さかきかんせんようすい」の4枚。
小林橋もそうだったが、銘板に竣工年を入れないとか、無能 残念な風潮だ。




橋の先に、道はない。

綺麗にスパッと終わっている。
(少し前に、“矢印”の地点からこちらを眺めている)

この先へ工事が進展し、堤防の向こう側で淋しく待ちぼうけている伴侶を、この風見の風景の中へ迎え入れるのは、いつになるのか。
近くで農作業をしていた古老に開通の見通しを質問してみたが、「まだだいぶかかるのでは」と、突き放したような渋い答えが返ってきた。



8:19 《現在地》

未成道入口の交差点へ戻って来た。

心機一転。
ここから県道62号の“新しい旅”が始まる。
そんな気持ちでここにいるのは、不通区間を突破してきたからに他ならない。
普通の感覚であれば、ここは行き止まりの袋小路であり、経由地にはなりえない。

さて、レポートもそろそろ終わりだが、最後にもう少し足を伸ばして、この県道が他の県道と合流する地点まで行ってみよう。
いま乗り越えてきた不通に対して、こちら側にどんな案内があるのかを見たい。




“他の県道”は、上の写真の交差点から1.6km先にある。
そこまでの区間は、淡々と進む田中の直線道路だ。
かつての県道は風見集落の中を通っていたが、人家連担を回避する典型的なバイパスになっている。

退屈に走っていると、何かの視線を感じた。

視線の出所へ目を向けると、そこに“かお”が。

立派な口ひげを蓄えたユーモラスな“かお”が、植え込みの裏からこっそりこちらを覗いていたのだった。



8:25 《現在地》

道は主要地方道として申し分のないものになったが、県道の標識(ヘキサ)はなかなか現れない。

そのまま1kmほど進んだところにある市道(実は県道63号の旧道である)との交差点に、私の進行方向の逆を向いた(つまり不通区間に向かっている)青看があった。
左の写真がその青看で、直進が県道62号の不通区間方向であるが、矢印のない「行き止まり」を示す表示になっていた。

…不通の根(歴史)は深そうだ。




8:27 《現在地》

“他の県道”との出会いの地までやってきた。
この塩谷町上平(うわたいら)にある丁字路で、県道62号は県道63号と出会う。
そしてここでようやく、「ヘキサ」と「62」の数字を、青看の中に発見した。
県道62号の行き先に「さくら」の案内を見るのも久々だ。
この交差点への到達をもって、県道62号は名実とも主要地方道らしい広域交通網に組み込まれた。

なお、交差点の右折側や左折側から、県道62号の不通区間がどう案内されているかもチェックしたが、右折(宇都宮)側からは「風見」、そして左折(さくら)側からは「大宮」と行き先が案内されていた。
未来のこの青看には、私がかっこいいと言った「風見」を隠して、「今市」や「日光」といった著名な地名が躍るのだろうか。

因みに最後まで、県道の不通を告知するような表示物は見つけられなかった。




机上調査編  


栃木県道62号今市氏家線のいまいちピリッとしない現状を見ていただいた。

本件について、個人的に最も謎と感じたのは、小林橋という申し分のない橋が、昭和58(1983)年に完成していているにも拘わらず、橋よりは遙かに建設が容易そうな陸上区間が、未だ完成していないことだった。現状のほとんど使い物になっていない“河川敷県道”を放逐する新たな県道は、途中まで大々的に建設された形跡があるものの、開通に至っていない。

どのような過去の積層のうえに、現状の光景があるのか。
そして、将来の見通しはどうなっているのか。
こうしたことを解き明かしたく思い、簡単に調べてみた。

まずは、私が探索後に矢板土木事務所へ直接問い合わせて判明した事実には、以下のようなものがある。

  • 昭和59(1984)年に、現在の(地理院地図が描いている通りの)河川敷を通るルートで、県道の区域の決定と供用の告示が行われた。
  • 河川敷の区間は、自動車交通不能区間に指定されている。(指定時期は不明)
  • 新道の工事は、土地改良事業の進捗と一緒に進めているために、完成には時間を要している。
  • 担当者が当サイトを知っていた(汗)。

さっそく、地形的に難しくなさそうな新道が長期間完成していない理由が、語られた。

土地改良事業と一緒に進めているためになかなか完成しないというのは、端的に言えば、道路予定地上にある農地の地権者からの同意が得られていないということだろう。
私はついつい道の開鑿で難しいのは、橋を架けることやトンネルを掘ること、或いは崖を埋めたり削ったりであるという、“自然 vs 土木技術”という視点で見てしまいがちだが、これはいささか前時代的な考え方で、古くから人の住んでいる土地に道を通そうとすれば、もっと複雑な問題が大きな障害になる。土地の問題である。
これを部外者である私が追求して解明しようとしても、おそらくは個々の人間の想いという部分に行き着かざるをえないだろうから、本稿ではこれ以上の思索はしない。

この県道の改良工事については、栃木県議会の議事録にも次のような内容があった。

平成28年5月県土整備委員会―05月17日―01号における県土整備部次長の発言より
“今市氏家線の風見地区でございますが、この間につきましては、通行不能区間となってございます区間の道路の新設工事でございます。昭和54年度から事業着手をしましたが、残念ながら一部区間が地権者の同意が得られずに事業を一時休止してございましたが、平成25年度から事業再開をしてございまして、現在工事を推進中でございます。”

以上の発言により、今市氏家線の風見地区の改築事業は、昭和54(1979)年度に始まったことが分かった。
おそらく、小林橋はこの事業の初期の成果として、昭和58年に完成したのであろう。
その後、土地問題で(相当長い間)事業の休止を余儀なくされていたようだが、平成25(2013)年に問題は解決し、事業再開したとのこと。つまり、現在事業中である。

ゆえに、“将来”については十分明るいと言えそうだ。
全線開通したら、“河川敷県道”のあったことなど、黒歴史にさえならず、あっという間に忘れ去られそうだ。




続いて、この道の歴史を紐解いていきたい。
まず、追加の基礎情報として、wikipedia:栃木県道62号今市氏家線には、次のような情報が掲載されていた。

  • 昭和36(1961)年4月1日に、主要地方道氏家今市線(現在と起点と終点の順序が逆)が認定された。
  • 昭和58(1983)年1月17日に、路線名が現在のもの(主要地方道今市氏家線)へと改称された。

← 新しい          (歴代空中写真)          → 古い
F平成18
(2006)年
E平成12
(2000)年
D平成7
(1995)年
C平成2
(1990)年
B昭和61
(1986)年
A昭和57
(1982)年
@昭和23
(1948)年

まずは目で見える変化を追ってみよう。歴代空中写真の比較である。

この地域はマメに空中写真が撮影されているようで、昭和50年代以降はおおむね5年毎の変化を追い掛けることが出来て、面白かった。
右図をずらずらと見較べてみてもらいたい。大体、次のようなことが分かる。

河川敷の道が県道として供用開始された時期は、昭和59(1984)年であることが分かっている。
それ以前は、どこか別の道が県道として供用されていたのか、或いは未供用であったのかは分からない。
しかし、現在の今にも消えてしまいそうな“河川敷県道”の道が、昭和57年や61年の空中写真では、だいぶ鮮明に見えている(近年ほど薄れている)。
県道として認定された当時は、もう少し通行しやすく、利用者もいたの……かも、知れない。



← 新しい          (歴代地形図)          → 古い
D地理院地図
(現在)
C平成4
(1992)年
B昭和52
(1977)年
A昭和4
(1929)年
@明治42
(1909)年

さらに古い時代の状況を探るべく、明治から現代までの5枚の地形図を比較してみた。

過去へ遡っていくと、C平成4年の図に描かれている小林橋は、B昭和52年には存在せず、当時は今市市小林と塩谷町上沢の間にいかなる道も存在しなかったようだ。
だが、さらに半世紀も昔のB昭和4年まで遡ると、なんと!太い二重線で描き出された“県道”が、川を渡っていた。

残念ながら調査の手が及ばず、旧道路法時代の県道であるこの路線の素性は明らかに出来なかった。
当時の地図を見ると、この古い県道は今日の県道今市氏家線とほぼ同じ経路で、今市と氏家を結んでいた。
おそらく当時の路線名も「今市氏家線」か「氏家今市線」であったと思う。

現代は“しがない”不通県道であっても、その経歴を探っていくと、近代や近世には主要道路であったというのは、本当に良く見る展開だ。

ちなみに、この昭和4年当時の県道は、鬼怒川を現代の小林橋のように一挙に渡っていたわけではなく、大きな中洲を上手く利用しながら慎ましく越えていたようだ。

分流する鬼怒川を2回に分け渡っていた片割れは、“人渡”という記号で表された渡船場である。“人馬渡”とは違い、人しか渡れない小規模な渡船場を示している。
もう一箇所には橋が架かっていたようだが、これも“徒橋”という、人が渡れるだけの簡易な橋の記号だ。
総じて、県道の太い記号で描かれていても、車両が通るような満足な道ではなかったように想像する。

また地味に興味深いのは、中洲を通っていた旧県道の位置が、部分的に現代の“河川敷県道”とも重なっていそうなことだ。
洪水の度に洗われるような河川敷内に何かの旧跡を求めることは不毛そうだが、“河川敷県道”の何気ないルーティングの中にこそ、洗い残された“昔”がしぶとく残っているのかも知れない。こうした想像にはロマンがある気がする。

なお、明治期の地形図まで遡ると、県道ではないが、里道の中では一番上等な“達路”の記号で描かれた道が、やはり同じ辺りで渡河していた。


このように小林と風見の間で鬼怒川を横断していた古い道について、「角川日本地名大辞典 栃木県」の「風見村(近世)」の解説文に、次の記述を見つけた。

風見村(近世)
(略)助郷は奥州街道氏家宿の加助郷を勤め、日光御成の節は助郷は免除されたが、鬼怒川に架橋する義務が課せられていた。
当村には奥州街道喜連川宿から今市に至る横道が通り、那須方面の幕府領から多量の今市宿御蔵詰御用米が駄送され、これを継立てた。

上記解説文によれば、近世の風見村には、奥州道中(街道)の喜連川(きつれがわ)宿と日光街道の今市宿を結ぶ“横道”が通じ、この道を運ばれる荷物の継ぎ立てを村人が行っていたという。
「鬼怒川に架橋する義務を課せられていた」というのも、この“横道”に架かっていた橋のことだろう。

明治42年の地形図には里道として描かれている喜連川と今市を結ぶ道を、現在の道路網に当てはめると、さくら市側では県道180号や220号が一致する。残りの大部分は現在の県道62号と重なっている。




この写真は、本編では通らなかった、風見集落内の旧県道の風景である。
集落の家並みが道に沿って連なる典型的な街村で、道には水路が付属している。
まさしく絵に描いたような宿場風景だとは思ったが、街道好きなら知らない人のない五街道のうちの二つの街道(奥州道中と日光街道)を繋ぐ重要な道がここを通っていたとは、アピールが地味すぎて気付かなかった。

近代以降、どういうワケかこの道の整備は後手に回り、それと共に歴史を語ろうとする口数まで減ってしまったようだが、底力はあると思うので、今後の挽回に期待したい。