2015/10/26 15:55 《現在地》
これから向かう巨大木橋の左岸側橋頭は、右岸側に較べて少なからずハードルが高い。
橋が問題無く渡れた当時なら、主に精神的な意味でのハードル(高所渡橋)さえ克服出来たならば自然な流れで辿り着けた左岸橋頭であるわけだが、現在では、この巨大な木橋が巨大でなければならなかった理由である大きくて深い谷を、谷の上下行および渡渉という野性的な手段によって克服しなければならないからだ。
まだ今日のように水量が少なければ両足の膝から下を濡らすだけで済むが、最低でもその程度の犠牲が必要になるし、時期によってはほとんどこれ以上進む事の出来ない、定義林鉄探索における難所の1つになっている。
また、渓流釣りなどの目的で、単に谷の上流へ進む事だけが目的であれば、徒渉した後にわざわざもう一度路盤の高さまで上る理由が無い。
ましてや、路盤に上った後で、さらに踵を返して左岸橋頭へ赴くというのは、完全に同業者ならではの行動と思えなくもない。
ようは、寄り道なのである。
そんな事情から、右岸橋頭や谷底から眺める本橋に較べて、左岸橋頭からの眺めは、さほど人目に触れていない印象がある。
しかしもちろん、今回の私は、少しばかり面倒な左岸橋頭へも赴くつもりであった。
既に日没後の山林内特有の薄暗さになってしまった崖錐斜面(斜面は緑に覆われていて、随所に立木もあるが、所々から崖錐の中を伏流していた水が湧き出している)にこれといった踏み跡はないが、さほど急ではない部分を目ざとく見つけて、テキパキとよじ登る。
そして、下った分と同じだけ登れば、そこに待望の平場が待ち受けていた。
私がこの平場に立ったのは、2004年11月以来で人生2度目のことである。
前回はあの橋を渡って来たのだから、渡らずにここへ来たのははじめてという事になる。
そのせいなのか、色々と記憶の濃密だったここまでのアプローチに較べて、この踏み跡の乏しい平場は、随分新鮮な、初見に近いような印象を持った。
2004年の記録によれば、ここから上流方向へ15分ばかり進んだところに純木橋の矢尽沢橋梁(仮称)があって、当時は半壊の状態で残っていたのだが、今はどうだろうか。
時間があれば見に行きたかったが、今回はスタートから遅すぎた。生憎のタイムアウトである。
上の写真と同じ地点で、橋の方向に振り返って撮影したのが、この写真。
早くも木々の幹を透かして、白骨じみた色をした木橋の姿が見え隠れしている。
橋の袂まで、ここからあと50mほどである。
対岸に較べて途端に薄くなった踏み跡に、オブローダー特有の興奮を感じながら、下半身を隠す笹藪を掻き分け歩き出す。
この先は、路盤周囲の地形が急速に凶悪な絶壁へと変貌し、三方を完全に封じられた袋小路へ突き進むことになる。
2004年には辛うじて“狭路”と呼べたこの場所も、今では完全なる“袋小路”なのである。
そのことに想いを馳せながら、少しの距離を前進する。
大きな橋であれば、その両端の景色に明と暗の強烈な対比が見られる事は珍しくない。
本橋にもそのような性格があり、西向き斜面の断崖絶壁にある左岸橋頭部は、(いまが夕刻であることを差し引いても)如何にも陰鬱な碧がかった世界である。
しかし、そのような薄暗い世界が全く唐突に途切れる場所がある。
高い石垣によって保持された鮮明な道形は、唐突に空中へ投げ出されるかのようだった。
間もなく、ある、から、あった、に変わろうとしている、あるべきものが、鎮座する場所。
そういえば、2004年の当時には無かったと思われる木の残骸が、橋が自然に崩れ落ちた結果とは思えない位置に一塊以上散乱していた。
明らかに、橋の上に乗っていた枕木よりも太い部材が含まれている。
わざわざ崩れた橋の残骸を移動させた理由は分からないが、これが人為的であるならば、切断された主桁の一部かも知れない。
さあ、いよいよご対面…。
こちらの橋頭からは前座としての副径間が存在せず、文字通りにほぼ垂直に水面へ落ちる絶壁に対して、
即座に主径間の高い桁が始まるのであった。そこを歩行する事の怖さは、2004年に私自ら語っている。
見馴れないトラロープを見たが、これも主桁の切断に伴って、管理者が設けたものであろう。
既にそれなりの時間を経過していることを、色褪せたロープの表面が物語っていた。
ここからあと数歩進めば、本当の橋端だ。
なんたる執念かッ…!
私は、震えた。
ちなみに、この場所にはauの電波が微かに入る。
私は携帯電話で撮影した画像を即座に秋田のミリンダ細田氏に送信した。
2004年にこの橋を共に見た仲間の一人だ。
細田氏は数分後に急に電話をしてきて、こう言った。
「画像を見て、嘔吐しそうになった」 …と。
2015年10月26日 | 2004年11月3日 |
2015年10月26日 | 2004年11月3日 |
15:58 《現在地》
11年という月日と、主桁の切断。
特に後者が与えた影響は、既に見た副径間の場合以上に、
この主径間において、顕著であったことが伺えた。
当然である。
あまりにも当然な帰結。切断は落橋を目的としていたと言っても良いだろう。
この切断が行われた時点から、数ヶ月、あるいは数日で落橋していたとしても、
決して不思議はない切断箇所だった。方杖橋の主桁を切断するなどとは……。
ん、……いささか非難めいた書きぶりになってしまったとしたら、それは誤解である。
国有林内での事業者が、事業の用に供し終えた橋を撤去し、その旧状である林野に復するのは、
国有林事業の決まりごとである。いささかそれが遅くなったたため、私が勝手に名残惜しく感じているだけだ。
保存されれば文化財だったかもしれないが、そのために何ら益ある行動をしたわけでもない私が、とやかく言うことではない。
理解している。
致命的な主桁遊動に至った病理は、おそらく(切断により)主桁が橋台と接触しなくなったことに始まる。
左右に動く自由度を得てしまった主桁は、後に受けた強風や地震動や元来有していたバランスの劣化に対して歯止めが利かなくなり、方杖桁が岩盤に接続している箇所を支点として上流側に傾斜せんとした。
即座に橋の各部材を接続している釘や鎹(かすがい)が抵抗したはずだが、その限界を越えて力がかかり続け、遂に変形を開始した。
この時には、本橋の強度を木橋としては異常と思える程に高める役に立っていた太い主桁が、良くない錘(おもり)として働いたことだろう。
主桁切断から少なくとも6年以上を経過した現在、左岸側の方杖桁の上部、主桁に接する辺りは、本来の位置よりも目測で1m程度、上流側に移動(転倒)している。
その分だけ橋の上面も低くなり、やや見下ろす位置に下降してしまった。
(左図に示した赤線は方杖桁の本来の位置、青線は現在位置)
現在の主径間の左岸側半分を支えているのは、3本の方杖桁の根元部分である。
既に本来の角度から上流側に15°程度傾斜しているが、傾けば傾くほど偏圧が加わり、莫大(幾ら痩せ細った部材であっても数トンはあるだろう)な重量に負けて根元から折れてしまうか、部材同士の接着が壊れて瓦解するか、いずれにしても、この傾斜をクレーンか何かで主桁を引き上げて本来の位置に戻さない限り未来はないと思われる。
もちろん、方杖桁の宿命として、左岸側の方杖桁が転落した時点で、主径間は完全に落橋する。
また、副径間とは形式的には独立した構造になっているが、主桁同士が鎹で接続しているから、巨大な主径間に引きずられて主副完全落橋となる公算が強い。
強烈な変貌を遂げた主径間。
そこには、11年前に私が一応は起立の姿勢で渡りきった面影は、まるでない。
今のこの橋を渡りきろうという人がいるとしたら、挑発でも何でもなく、自殺志願者だと思う。
今のこの橋は、支えている数トンという死荷重のうえに、数十キログラム足らずの活荷重と、普段とは違うベクトルの震動を帯びただけで、予想のできない動きをするのではないかと思わせる怖さがある。
最後に1本の短い動画を撮影してから、この場所を後にする。
戦慄すべき主径間の近景を目にした今、いよいよもって本橋の架かった姿を眺める機会は今日が最後であると確信した。
ますます今日の行動には悔いを残すべきではないと感じ、時間の使い方に無駄を省くよう、再び集中した。
そして続いては本橋の代表的な展望地点のひとつである、上流の砂防ダムへと向かうことにした。
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16:05 《現在地》
橋の前に来てから20分が経過した。
皆さまが見ている写真の色は、カメラの持つ調製の能力によって、さほど夕暮れに差し迫った印象を与えないかも知れないが、現実の私の目が感じる紅葉その他の色は着実に鮮やかさを失っていた。
完全に夜の闇の帳が降りるまでここにいるのは、帰路を考えたときに危険であるし、そろそろこの橋との逢瀬も終わりの準備をしなければならないだろう。
左岸の路盤跡を少しの間上流方向に辿り、橋から100mほど離れた所にある2段の砂防ダムの上手に入る。
この砂防ダムの上は、巨大木橋を最も遠いアングルから眺める事が出来る地点である。
近景の後は遠景。
堪能しよう。
ざあざあと騒ぐ水音と冷たい谷風を全身に浴びながら、山峡にらしからぬ小地平を画する灰色の堤体の縁に立つ。
そして橋を見る。
…いささか遅きに失したか。
橋の纏う頽廃の色は、自然の景色に馴染みすぎていて、
日射しのないこの時間、少々目立ちが悪かった。
あんなに大きい橋なのに、もう消え入りそうでみてられない。
砂防ダムを横に回り込んで下り、橋の直下へ連なる広い河原へ移る。
後は橋の下をもう一度潜って、降りてきた通路から来た道へと戻るつもり。
2015年10月26日 | 2009年11月1日 | 2004年11月3日 |
この場所も撮影の定位置だから、今回で3度目の撮影である。
そして、ここからの眺める橋は、思いのほかに整然とした構造美を保っているように見えた。
遠望であり細やかな綻びが目立ちにくいことや、数多くの部材が重なり合う角度であるため、こういう眺めになる。
とはいえ、良く見れば前2回と今回とでは、明らかに異なる点もある。
副径間に較べて、主径間が微妙に降下していることを、見逃す事は出来ない…。
近付けば、色々な綻びが再び目立ってきて、やっぱり目を覆いたくなる。
しかし、端正な形が歪むほどに失われていく構造の美は、
直線と曲線のアンバランスな融合が見せる頽廃の美へと、常時変換されているようにも思われた。
墜落の直前には、恐らく後者が極大の値を取るのだろうが、その異常な姿はきっと胸を締め付けるだろう。
私には、この現状でも少々ショッキングすぎるくらいだ。
2004年には、これくらいはしっかりとしていた。
あのときはこれでも怖ろしくて仕方がなかったけれど、今から思えば、
まだ何ら不安を感じるような状況では無かったのだと分かる。
それが…
↓↓
ここまで、歪んだ。
かつては確かに左右対称で、現実世界に現れた数学世界の存在のようであった方杖桁が、
もはや空中にバランスを保ち続けていることが信じられないほどに、歪みを帯びていた。
総重量数十トンの運材列車が機関車ごと通行できた木橋の頑丈さは、斯くばかりであった。
とはいえ、他の同様の規模の木橋が早々と落橋してしまった事実との整合性を解決しがたいほど、
この橋ばかりが異常なほど長生きをした理由は、やはり未解決である。
奇蹟か、幸運か、何か特別な施工技術の力によるかは、解明されていない。
このアングルが好き。
この眺めには、コンクリートに頼らない古き純木橋の気配がある。
それに、木材が直接の支えの無い形で、これほどまで長く張り出している風景は、ここでしか見られそうにない。
また、純粋な木造桁がこれほど頭上の高い所を渡っている風景も、私は他に知らない。
いろいろと破天荒だ。
谷底から撮影した動画風景。
この日、この橋で撮影した動画は、残すところあと1本だ。
遂に水から上がる決断をして、初めの場所、右岸橋頭への斜面通路へ進む。
頭上には、“棒きれ”のようになった副径間が、影も作らずに架かっている。
今は振り返る景色の全てが、今生の別れのように思われて辛かった。
しかし、これはあまりに感傷的過ぎると、即座に自嘲もしていた。
基本的に、探索で過ぎる景色のほとんどは生涯一度のものだ。
今に限らない。
16:16 《現在地》
約30分をかけ、今までになく、じっくりと橋の景色を眺めてきた。
今回のレポートに使わなかった写真を含め、100以上の立ち位置から撮影した。
そしていよいよ目に見えて薄暗くなってきたところで、今回の〆の撮影を試みる。
橋の上に、立ってみたい。
懲りていないと言われそうだが、私だって、もうこの橋が渡られないことは理解している。
ただ、いまいちど、橋の上に立つだけでいい。それで満足できる。
1径間だって、渡って怪我する/落橋させる、つもりはない。
しかし、橋の上に立とうにも正攻法は封じられている。
なので、この一番低い「P1」をよじ登ることにする。
16:20 《現在地》
登った。
普通に手と足だけでよじ登ることは難しいし結構危険なので、周辺に点在していた廃材(いうまでも無く、橋の残骸…)を上手く立て掛け、片足を支える臨時の足場とした。
登ったP1の上面は狭く、立つか座るかしか出来ない。
座る場合は、45°の角度で転倒している2本の主桁を股の下に挟んで座ることになる。
ちなみに、3本の主桁が健在だった当時は、橋脚の上面は全て桁の下に隠されていて、直接立つことは出来ない場所だった。
だが、6年前の再訪時も既に主桁は切断されていたから、今回と同じように廃材を利用してよじ登ったのだったことを、今回同じことをしている最中に思い出した。
また、11年前はもちろん、こんな手間を掛けていない。
そのままスタスタと、あるいはヨタヨタと、橋を歩いてP1を通り越している。
P1から臨む、P2P3および主径間への連なり。
転倒してしまった2本の主桁に、試みに手を掛けてみる。
……なんということだろうか。
それは、発泡スチロールを組み立てた積み木(?)を触ったかのように、容易く動いてしまった。
もちろん、何センチも一気にずれたわけではなく、単に一定の小さな範囲内で震動しただけのことだが、
手の力を少し込める度に、大黒柱よりも太そうな角材が、グラグラと容易く“ぐら”ついたのは、衝撃的だった。
とてもじゃあないが、体重を預ける気にはなれない。
45°の傾斜が90°に転倒すれば、上にいる人間はたちまち振り落とされるだろうし、
それを待たずに、桁の中ほどからポッキリと行く可能性さえある。
まあ、初めから渡るつもりはなかったが。
2015年10月26日 & 2009年11月1日 | 2004年11月3日 (撮影:くじ氏) | 1977年 夏 (撮影:TENさま) |
最後のこの場面では、私が知る11年ではなく、38年間の変化を遡ってみたい。
たまたま私の生まれた年、1977(昭和52)年の夏の姿が記録されている。
これは、「補完レポ 定義の大木橋 私の生まれた年の姿」で紹介した、TENさま撮影のものだ。
同氏が “大倉川 涼しい橋” と呼んだこの橋は、当時既に林鉄の廃止からは17年を経過しており、早くも心胆を寒からしめる程度の迫力と貴重さを持っていたが、まだ山の仕事道として利用されていたようである。
同氏は、私が知る限りにおいて、この橋を“道”として純粋に渡った最後の人物である。
それから27年も経った2004(平成16)年に、私ははじめてここを訪れる。
定義林鉄探索のため。
そして、この橋を征服するために。
同行の細田氏とくじ氏に見守られながら、小雨の中、行きの片道だけ、たったいちど、橋を渡ったのだった。
2009(平成21)年に再訪したときには、完全に橋の現状を確認する事が目的であったが、どこからか仕入れていた情報に違わず、橋は無念にも両側が切断されていた。
もともと暗澹としていたはずの未来だが、本当に真っ黒になったことを理解した。
そして、これが最後になるかもしれないと思いつつ、今回と同じようにしてP1によじ登り、まだ切断の余波を受けていないように見えたP2まで足を伸ばした。
しかし、P3や主径間には、あまりに気持ち悪くて、もう立てなかった。私が弱くなったのかもしれない。
2015(平成27年)の今回は、遂にP2にも行けなかった。
私も弱くなったが、橋も弱くなっていたからだ。
この日最後の動画を撮影した。
何の面白みも無い、渡橋でさえない、ただ橋の上に佇んだだけの動画になってしまった。
もう人を渡す事のない2本の主桁に跨がって、柔らかな肌触りを感じながら、のんびりと寛いだ。
やりたいことはすべてやったから、あとは帰るだけである。
私は二言、三言、いや、それ以上に多くの言葉をかけていた。
よく頑張ったな。そんな意味の様々な言葉。
いかにもお涙頂戴で厭になる。
でも、愛用した自動車なり長年住んだ住居なり、思い入れのある無生物との別れには、誰にも聞かれないことを前提に、何かの言葉をかけた記憶が、皆さまにもあるのではないか。
…これはきっと自己満足というヤツであり、とても都合が良いものだ。
それをして、自分で区切りをつけなければ、いつまで経っても(は大袈裟だが暗くなってしまうまでは)、離れがたかったであろうから。
その程度には、私にとってこの橋は思い出深く、仲間との思い出の詰まった、林鉄を愛する一つのマイルストーンともなった、偉大な、充実した、愛すべき、かけがえのない、二度とないかも知れない、そういう木橋、「である」。
2015年10月26日時点において、橋は全径間架かっていることを確認した。
また、来ます。